Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

雑記:マングェルの理想の読者

 わたしが好んで引用する言葉に、アルベルト・マングェルの理想の読者像がある。「理想の読者は、すべての文学作品を匿名作家のものとして読む」、というのがそれで、じつはこれはインターネットをうろちょろしていたときに、英語でもスペイン語でもなく、フランス語で見かけたものだった。フランスではBabel(バベル、いい名前だ)という出版社がマングェルの翻訳にとても積極的で、もとが英語の作品もスペイン語の作品も訳出されているのだが、このボルヘスの友人の知名度は、日本ではちょっと不遇の感が拭えない。とはいえ、かつてここで紹介したことのある『図書館』以外にも、『読書礼讃』や『奇想の美術館』といった書物が、近年やはり野中邦子氏によって翻訳刊行されているので、遠からぬうちにこれらの訳書も読んでみたいな、と思っている。

 さて、そんな出典のわからないままに愛用していた引用句なのだが、今日、書店をふらふらしていた折に、ついにこの文章が記載された書物を見つけたのだ。というわけで、以下にその章の全文を訳出してみた。野中邦子氏の2014年の仕事である『読書礼讃』は、読書にまつわるエッセイ集とのことで、原著が存在するのか独自編纂されたものなのかちょっとわからず、この文章がすでに丸々翻訳されている可能性もあるのだが、まあすでに訳出されていたとしてもべつに邪魔にはならないだろう。ちなみにイェール大学出版の『A Reader on Reading』(2010)という本からの訳出である(pp.151-154)。

A Reader on Reading

A Reader on Reading

 


Notes Towards a Definition of the Ideal Reader
理想の読者、その定義のための覚書

“Let’s hear it,” said Humpty Dumpty. “I can explain all the poems that ever were invented – and a good many that haven’t been invented just yet.” Through the Looking-Glass, Chapter 6
「さあ、はじめてごらん」と、ハンプティ・ダンプティは言った。「ぼくにはどんな詩だって説明することができる。かつて詠まれたすべての詩、はたまた、これまでぜんぜん詠まれたことのないものだって」『鏡の国のアリス』第六章より。


The ideal reader is the writer just before the words come together on the page.
理想の読者は、ページを言葉で埋める直前の作家だ。

The ideal reader exists in the moment that precedes the moment of creation.
理想の読者は、創造の瞬間に先立って存在する。

Ideal readers do not reconstruct a story: they re-create it.
理想の読者たちは、物語を再構築しない。彼らは再創造するのだ。

Ideal readers do not follow a story: they partake of it.
理想の読者たちは、物語を追いかけたりしない。彼らは参加するのだ。

A famous children’s book program on the BBC always started with the host asking: “Are you sitting comfortably? Then we shall begin.” The ideal reader is also the ideal sitter.
BBCの著名な読み聞かせ番組の司会は、いつもこう尋ねてからはじめる。「ちゃんとくつろいでる? それじゃあはじめましょうか」。理想の読者は、理想のくつろぎ屋でもある。

Depictions of Saint Jerome show him poised over his translation of the Bible, listening to the word of God. The ideal reader must learn how to listen.
肖像画のなかでのヒエロニムスは、彼自身の翻訳作品である聖書と向き合っていて、神の言葉を聞き逃すまいとしている。理想の読者は聞く術を持たねばならない。

The ideal reader is the translator, able to dissect the text, peel back the skin, slice down to the marrow, follow each artery and each vein and then set on its feet a whole new sentient being. The ideal reader is not a taxidermist.
理想の読者は翻訳者であり、文章を解剖することができ、皮を剝ぎとり、骨の髄までたどり着き、それぞれの動脈も静脈もたどったのちに、それをまったく新たな知覚者として回復させることができる。理想の読者は剝製師ではない。

For the ideal reader all devices are familiar.
理想の読者にとっては、どんな趣向も馴染み深い。

For the ideal reader all jokes are new.
理想の読者にとっては、どんな冗句も新奇なものとして映る。

“One must be an inventor to read well.” Ralph Waldo Emerson.
「よく読むためには、発案の精神が必要だ」。ラルフ・ワルド・エマーソン。

The ideal reader has an unlimited capacity for oblivion and can dismiss from memory the knowledge that Dr. Jekyll and Mr. Hyde are one and the same person, that Julien Sorel will have his head cut off, that the name of the murderer of Roger Ackroyd is So-and-so.
理想の読者は、際限なく忘れることができる。彼はその記憶からジキル博士とハイド氏が同一人物であるという知識を放逐することができるのだ。同様に、ジュリヤン・ソレルの首がやがてギロチンにかけられることや、ロジャー・アクロイド殺しの犯人の名、などなども。

The ideal reader has no interest in the writings of Brett Easton Ellis.
理想の読者は、ブレット・イーストン・エリスの書くものなどに興味は示さない。

The ideal reader knows what the writer only intuits.
理想の読者は、作家が直感しかしなかったことさえ理解する。

The ideal reader subverts the text. The ideal reader does not take the writer’s word for granted.
理想の読者は、文章を覆す。理想の読者は、作家の言葉を字義どおりには受け取らない。

The ideal reader is a cumulative reader: every reading of a book adds a new layer of memory to the narrative.
理想の読者は、蓄積型の読者だ。なにかの本を読むたびに、その物語に新たな記憶を付け加える。

Every ideal reader is an associative reader and reads as if all books were the work of one ageless and prolific author.
理想の読者は、連想型の読者だ。彼はすべての書物を、さも不老不死かつ多作の一著者の作品として読む。

Ideal readers cannot put their knowledge into words.
理想の読者たちは、彼らの知識を言葉に置き換えることができない。

Upon closing his book, ideal readers feel that, had they not read it, the world would be poorer.
本を閉じるにあたって、理想の読者たちというのは、これを読まずに済ませていたら世界はもっと惨めなものだった、と感じてくれる。

The ideal reader has a wicked sense of humor.
理想の読者は、悪意あるユーモアをも解する。

Ideal readers never count their books.
理想の読者は、蔵書の数を数えたりはしない。

The ideal reader is both generous and greedy.
理想の読者は、寛大で且つ貪欲だ。

The ideal reader reads all literature as if it were anonymous.
理想の読者は、すべての文学作品を匿名作家のものとして読む。

The ideal reader enjoys using a dictionary.
理想の読者は、辞書を紐解くことを楽しむ。

The ideal reader judges a book by its cover.
理想の読者は、書物を表紙で判断する。

Reading a book from centuries ago, the ideal reader feels immortal.
数百年前の書物を紐解くとき、理想の読者は不死を感じる。

Paolo and Francesca were not ideal readers since they confess to Dante that after their first kiss they read no more. Ideal readers would have kissed and then read on. One love does not exclude the other.
パオロとフランチェスカは理想の読者ではなかった。彼らはダンテに告白したとおり、最初のキスののち、読むことをやめてしまったから。理想の読者はキスをしたって読みつづける。ある愛がほかの愛を追放するということはない。

Ideal readers do not know they are ideal readers until they have reached the end of the book.
理想の読者たちは、彼らが理想の読者であるということを読み終えるまで気づかない。

The ideal reader shares the ethics of Don Quixote, the longing of Madame Bovary, the lust of the Wife of Bath, the adventurous spirit of Ulysses, the mettle of Holden Caulfield, at least for the space of the story.
理想の読者は、ドン・キホーテの倫理、ボヴァリー夫人の憧憬、バースの女房の肉欲、オデュッセウスの冒険心、ホールデン・コールフィールドの鋭気を分かち合う。少なくとも、物語のなかでは。

The ideal reader treads the beaten path. “A good reader, major reader, an active and creative reader is a rereader.” Vladimir Nabokov.
理想の読者は、踏みならされた道をたどる。「よい読者、重要な読者、能動的で創造的な読者というのは、再読者だ」。ヴラジーミル・ナボコフ

The ideal reader is polytheistic.
理想の読者は、多神論者だ。

The ideal reader holds, for a book, the promise of resurrection.
理想の読者は、書物の復興を約束する。

Robinson Crusoe is not an ideal reader. He reads the Bible to find answers. An ideal reader reads to find questions.
ロビンソン・クルーソーは理想の読者ではなかった。彼は聖書に答えを求めていたから。理想の読者は書物に問いを求める。

Every book, good or bad, has its ideal reader.
どんな書物も、良し悪しに関わらず、自身のための理想の読者を持つ。

For the ideal reader, every book reads, to a certain degree, as an autobiography.
理想の読者にとっては、どんな本でも、ある点までは自伝として読める。

The ideal reader has no precise nationality.
理想の読者はどんな特定の国籍も持たない。

Sometimes a writer must wait several centuries to find the ideal reader. It took Blake 150 years to find Northrop Frye.
ときに作家というのは、理想の読者が現れるまでに数百年も待たねばならないことがある。ウィリアム・ブレイクノースロップ・フライを見出すのに、百五十年の歳月を要した。

Stendhal's ideal reader: “I write for barely a hundred readers, for unhappy, amiable, charming beings, never moral or hypocritical, whom I would like to please; I know barely one or two.”
スタンダールの理想の読者像。「わたしはわずか百人ほどの読者のために書きました。不幸せで、愉快で、魅力的な人たち、けっして堅物でも偽善的でもない人びと、そういう人たちこそを喜ばせたかったのです。ひとりかふたりくらいしか思い浮かびませんが」。

The ideal reader has known unhappiness.
理想の読者は、不幸せというものを理解している。

Ideal readers change with age. The fourteen-year-old ideal reader of Pablo Neruda's Twenty Love Poems is no longer its ideal reader at thirty. Experience tarnishes certain readings.
理想の読者は、年齢によって変化する。パブロ・ネルーダの『二十の愛の詩』にとって理想の読者であった十四歳は、三十歳のときには理想の読者でなくなっている。経験というものは、時として読書を損なう。

Pinochet, who banned Don Quixote because he thought it advocated civil disobedience, was that book’s ideal reader.
民衆の反抗心を代弁しているとして『ドン・キホーテ』を禁書にしたピノチェトは、この本にとっては理想の読者であった。

The ideal reader never exhausts the book’s geography.
理想の読者は、ある本の構成に辟易するということがない。

The ideal reader must be willing, not only to suspend disbelief, but to embrace a new faith.
理想の読者は、ただ不信を留保するというだけでなく、新たな信仰を受け容れることさえも望んでいるべきだ。

The ideal reader never thinksm “If only…”
理想の読者は、「これがああだったら……」などとは考えない。

Writing on the margins is a sign of the ideal reader.
余白への書き込みは理想の読者の徴候である。

The ideal reader proselytizes.
理想の読者は、布教する。

The ideal reader is guiltlessly whimsical.
理想の読者は、無垢で気まぐれだ。

The ideal reader is capable of falling in live with one of the book’s characters.
理想の読者は、書物の登場人物と恋に落ちることができる。

The ideal reader is not concerned with anachronism, documentary truth, historical accuracy, topographical exactness. The ideal reader is not an archaeologist.
理想の読者は、歴史的前後関係の倒錯や、史料の確かさ、史実性、地誌学的正確さなどには拘泥しない。理想の読者は、考古学者ではない。

The ideal reader is a ruthless enforcer of the rules and regulations that each book creates for itself.
理想の読者は、すべての本が自身のために作り出したルールや規則の、無慈悲な執行者である。

“There are three kinds of readers: one, who enjoys without judging; a third, who judges without enjoying; another in the middle, who judges while enjoying and enjoys while judging. The last class truly reproduces a work of art anew; its members are not numerous.” Goethe, in a letter to Johann Friedrich Rochlitz.
「読者には三種類ある。まず、評価することなく楽しむ者。三種類目は、楽しむことなく評価する者。それらの中間にいるのが、楽しみながら評価し、評価しながら楽しむ者で、この連中こそが芸術作品を新たなものとして再生する。だが、その人数はけっして多くはない」。ゲーテ、ヨーハン・フリードリヒ・ロッホリッツに宛てた手紙より。

The readers who committed suicide after reading Werther were not ideal but merely sentimental readers.
『若きウェルテルの悩み』を読んだ後に自殺したのは、理想のではなく、単に感傷的な読者である。

Ideal readers are seldom sentimental.
理想の読者たちは、めったに感傷的にならない。

The ideal reader wishes both to get to the end of the book and to know that the book will never end.
理想の読者は、本の終わりに辿り着くのを願いつつも、同時にその本がけっして終わらないと知らされることをも望む。

The ideal reader is never impatient.
理想の読者は、けっして性急でない。

The ideal reader is not concerned with genres.
理想の読者は、分類など気にも留めない。

The ideal reader is (or appears to be) more intelligent than the writer; the ideal reader does not hold this against the writer.
理想の読者は、作家よりも賢い(あるいは賢く映る)。理想の読者は、けっしてそのことを理由に作家を非難したりはしない。

There comes a time when every reader considers himself to be the ideal reader.
すべての読者が、自身を理想の読者であると自認する瞬間があるだろう。

Good intentions are not enough to produce an ideal reader.
善良さだけでは、理想の読者には十分ではない。

The marquis de Sade: “I only write for those capable of understanding me, and these will read me with no danger.”
マルキ・ド・サド。「わたしはわたしのことを理解できるひとたち、なんの危険もなく読めるであろうひとたちに向けてのみ書いた」。

The marquis de Sade is wrong: the ideal reader is always in danger.
マルキ・ド・サドは間違っている。理想の読者は、常に危険のなかにいる。

The ideal reader is a novel’s main character.
理想の読者は、小説の主役である。

Paul Valéry: “A literary ideal: finally to know not to fill the page with anything except ‘the reader.’”
ポール・ヴァレリー。「文学的理想。『読者』以外のなにも取り沙汰すことなく、ページを埋め尽くすという結論に至ること」。

The ideal reader is someone the writer would not mind spending an evening with, over a glass of wine.
理想の読者は、作家がワイングラスを片手に、ひと晩を共に過ごすことにやぶさかでない相手である。

An ideal reader should not be confused with a virtual reader.
理想の読者というのは、仮想読者と混同されてはならない。

Writers are never their own ideal reader.
作家たちはけっして自身の理想の読者にはなれない。

Literature depends, not on ideal readers, but merely on good enough readers.
文学は理想の読者にではなく、単に、十分に良い読者に依存している。

A Reader on Reading

A Reader on Reading

 


 以上。以前「雑記:ペレックが死ぬまでにしたい50のこと」を訳出したときと同様、もっといい翻訳が思いついた方にはぜひ知らせてもらいたい(いま思うと、あのペレックのときの訳文は結構ひどい)。わたしにとってマングェルは、ヴァレリーやボルヘスカルヴィーノと同じくらい明晰な評論を書く、つまりは最高級の作家なので、もっとまわりにファンが増えて、翻訳が増えるようになったらいいな、と思っている。

〈日本語で読めるマングェル〉

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