若きウェルテルの悩み
アナトール・フランスの『神々は渇く』のなかで効果的に使われているのを見てから、読みたい読みたいと思っていた一冊。古典作品は関心が向いたら手に取れ、むしろ関心が向くまで手に取るな、を信条としているわたしとしては、今がそのタイミングだった。
ヨーハン・ヴォルフガング・ゲーテ(高橋義孝訳)『若きウェルテルの悩み』新潮文庫、1951年。
だれもがタイトルを知っている本ではあるが、じつは初めて読んだ。わたしのような人はたくさんいると信じて告白すると、内容をあまりにも詳しく知っていたために、すでに読んだことがあるような気になってしまっていて、なかなか手を出せずにいたのだ。でも、今回この本を読んでみて、強く感じた。そういう本こそ、じっさいに読んでみなければならないのだ。
ゲーテの著作は『ファウスト』しか読んだことがなかった。それがそもそもおかしいのだが、生半可な『ファウスト』体験(特に「第二部」!)が、わたしを徹底的にゲーテという作家から遠ざけていたのだ。今になって思えば、その反応はごく当たり前のものなのだけれど。ところが最近になって、好きな作曲家であるフェーリクス・メンデルスゾーンがこの作家を敬愛していたことを知ったし、書簡体小説という形式そのものにも興味が湧いてきた。条件はいつのまにか整っていたのである。
「現在を現在として味わおう。過去は過去さ。たしかに君のいうとおりなんだ、もし人間が――しかし人間というやつはどうしてこういう仕掛けになっているんだろうね――こうまでしつこく想像力をはたらかせて過去の不幸を反芻せずに、虚心に現在を生きて行けたら、今より苦痛がすくなくてすむんだがね」(6ページ)
「ぼくの蔵書を届けてやろうかとのお問合せ。――冗談じゃない、勘弁してくれたまえよ。指導されたり励まされたり焚きつけられたりするのはもうまっぴらなんだ」(10ページ)
読みはじめてすぐに、シェイクスピアを思い出した。語られている言葉があんまり美しすぎて、ストーリーがどうでもよくなってしまうのだ。記憶に留めておきたい一文があると、わたしはその都度ページの端を折って、あとからノートに書きこんだりしているのだが、この本でそれをやろうとしたら、ほとんどすべてのページが折れ曲がってしまった。しかも、あとからそういうページを読み返してみると、胸に響く一文が多すぎて、自分がどれを残すためにページを折ったのかもわからなくなってしまうのだ。
「学問のある学校先生や家庭教師の方々は、口をそろえて、子供というものは自己の欲求の拠ってきたる所以を知らぬとおっしゃるのだが、大人だってそうじゃないか。子供たちと同じにこの地上をよちよち歩きまわってさ、どこからやって来てどこへ往くのかを知りはしないし、本当の目的に従って行動しもしないし、ビスケットやお菓子や鞭であやつられているわけなんだが、不思議だね、誰もそういう実情を信じたがらない。ところが、こんなにはっきりしていることはないじゃないか」(15~16ページ)
「天上の神の眼をもってすれば、大きい子供と小さい子供とがいるだけだ。そのほかにはなんにもありはしない。そのどっちのほうが余計に神の御心にかなっているかは、とうの昔にはっきりしているじゃないか。おかしなことにみんなは神を信じていながら、その言葉をきこうとしないんだ」(41ページ)
完璧な小説だ。ストーリーの牽引力といい、それを描き出す際の言葉の美しさといい、もう完璧としか言いようがない。おまけに、この短さだ。これほど短くて、しかも長篇小説であって、ここまでの満足感を与えてくれる小説はそうそうない。思いつくのはサン=テグジュペリの『夜間飛行』くらいだ。
「人間なんてものは何の変哲もないものさ。大概の人は生きんがために一生の大部分を使ってしまう。それでもいくらか手によどんだ自由な時間が少しばかりあると、さあ心配でたまらなくなって、なんとかしてこいつを埋めようとして大騒ぎだ。まったく奇妙なものさ、人間というやつは」(12ページ)
「世の中のことは、どんなこともよくよく考えてみればくだらないのだ。だから自分の情熱や自分の欲求からでもないのに、他人のため、金のため、あるいは名誉とか何とかのためにあくせくする人間はいつだって阿呆なのだ」(57~58ページ)
それから翻訳もすばらしい。ずっと昔から版を重ねている新潮文庫には、おそろしく古い翻訳のものも数多くあるのだが、この高橋義孝訳は最高級の一品だ。なにせ「やるせない」なんていう日本語が当然のように出てくる。「やるせない」という形容詞を、英語やフランス語に訳せと言われても、わたしにはできない。1951年の訳文のままだというのに、古さをまったく感じさせないのだ。
「無限に豊富なのは自然だけだ。自然だけが大芸術家を作り上げるんだ」(18ページ)
「この間、絵について書いたことは、たしかに文学にもあてはまる。問題はつまり、すぐれたものをはっきりつかんで、それを思い切って表現するということにあるんだ。言葉はすくなくったって、むろんいろいろのことが含まれるわけだ。今日見た一情景なんぞは、そのまま写せば、飛び切りの牧歌詩だったろうが、文学だ情景だ牧歌詩だなんて、そんなものはどうだっていいじゃないか。自然の現象に親しんでいればいいんだ。技巧なんか何の役にも立つものか」(22ページ)
ウェルテルとロッテ、というのは、ロミオとジュリエット、もっと遡ればダンテとベアトリーチェといった、文学史上に燦然と輝く恋人たちの記念碑だ。彼らの恋がどのような結末を迎えたかは、だれもが知っている。だが、あらすじというのはいつだって、なにひとつ語ってはいないのだ。恋を描くゲーテの言葉は、きっとその恋よりも美しい。
「ウィルヘルム、はっきりいうよ、ぼくは誓ったんだ、ぼくが愛し求めているひとにはぼく以外の誰ともワルツは踊らせない、たといそのためにぼくの身が破滅しようとも」(32~33ページ)
「そのときから太陽も月も星もぼくにはどうでもよくなってしまったんだ。昼も夜もあったもんじゃない。全世界がぼくのまわりから消えうせて行く」(37ページ)
ゲーテがこの作品を発表したのは1774年、彼が25歳のときのことだった。現在のわたしと同い年だ。このことを知って、20歳を越えてからラディゲを読んでしまったときのと同じ、あの失望感を味わった。10年後の1784年に刊行された第二稿が、翻訳のうえでの原本となっているらしいが、そんな情報もすこしも慰めてはくれない。自分は今までなにをやっていたのかと、考えない人がいるだろうか。
「ウィルヘルム、愛のない世界なんて、ぼくらの心にとって何の値打ちがあろう。あかりのつかない幻燈なんて何の意味があるんだ。小さなランプを中に入れて初めて白い壁に色とりどりの絵が映るのさ。なるほどそれもはかないまぼろしかもしれない、それにしてもさ、元気な少年のようにその前に立って、その珍しい影絵にうっとりとしていれば、それもやっぱり幸福といっていいじゃないか」(56ページ)
「情熱、陶酔、狂気。しかし君たちは悠然と無感動に澄ましかえっていられるんだね、君たち道徳家は。酔っぱらいを叱りたまえ、狂人をきらいたまえ、坊さんみたいに素知らぬ顔で通りすぎたまえ、そうしてパリサイ人みたいに、そういう連中の一人にならなかったことを神に謝したまえな。ぼくは一度ならず酔いもした、ぼくの情熱は決して狂気に遠いものじゃなかった、しかしその両方を悔いてはいないんだ。何か大きなことや、何か不可能に見えるようなことをやってのけた非凡人は、みんな昔から酔っぱらいだ、狂人だといいふらされざるをえなかったことが、ぼくはぼくなりにわかってきたように思う」(68~69ページ)
この小説を読んだ感想を一言で表せ、と言われたら、「やりきれない」と答える。自分の絶望もやりきれないし、ウェルテルの絶望はもっとやりきれない。核心を突きすぎているのだ。刊行当時のドイツでこの本がベストセラーになって、若者の自殺が横行したこともすんなり頷ける。死なない連中のほうが、どうかしている。
「おい、君、人間に変りがあるものか。人間が持ってる少しばかりの知恵分別なんか、情熱が荒れ狂って人間性の限界がつい鼻のさきに見えてくると、屁の役にも立ちはしないんだ」(74ページ)
「幸福というものが同時に不幸の源にならなくてはいけなかっただろうか。はつらつたる自然を見てぼくは心にあたたかいあふれるばかりの感情をいだいた。ぼくは歓喜に燃えてこの感情の中に身を浸し、周囲の世界を天国のように思いなしたのだが、現在ではこの感情がどこまでもぼくにつきまとう悪霊となり、堪えがたい拷問者となる」(75ページ)
ウェルテルの絶望が、恋のみに起因するものだと考えることのできる人は幸福だ。この本を好きにならずにいられる人は、もっと幸福だ。これは一般に思われているような恋の悲劇の枠を大きく越えた、セリーヌの『夜の果てへの旅』やバルビュスの『地獄』に何百年も先駆けた、絶望文学であると思う。
「正直な話、ぼくはよく日雇い労働者になりたいと思う。そうすればせめて朝眼をさませばその日一日を過す目当てがあり、一つの欲求、一つの希望が持てるからね」(79ページ)
「われわれは万事をわれわれ自身に比較し、われわれを万事に比較するようにできているから、幸不幸はわれわれが自分と比較する対象いかんによって定まるわけだ。だから孤独が一番危険なのだ。ぼくらの想像力は、自分を高めようとする本性に迫られ、また文学の空想的な映像に養われて、存在の一系列を作り上げ、われわれはその系列中の一番下ぐらいにいて、われわれ以外のものは全部われわれよりすばらしく見え、誰もわれわれよりは完全なのだというふうに考えがちだが、それもさもあるべきことと思う。ぼくたちはよくこう思う、ぼくらにはいろいろなものが欠けている。そうしてまさにぼくらに欠けているものは他人が持っているように見える。そればかりかぼくらは他人にぼくらの持っているものまで与えて、もう一つおまけに一種の理想的な気楽さまで与える。こうして幸福な人というものが完成するわけだが、実はそれはぼくら自身の創作なんだ」(90~91ページ)
そうはいっても、恋の要素ももちろん見逃すわけにはいかない。読者はだれであれ、ロッテに惚れてしまうだろう。抗いがたいロッテの魅力を語るとき、ウェルテルの筆は踊っている。
「だけどねえ、ウェルテル、あの世でまた会えるかしら、お互いにわかりますかしら。どうお思いになって、ね。どうお考え?」(84~85ページ)
「ロッテはぼくの乱暴をしかった。ああ、なんというやさしい思いがこもっていたろうか。ぼくがよく乱暴にも一杯のぶどう酒からつい一びんあけてしまうものだから。――「だめよ、そんなことをなすっては。ロッテのことを考えてちょうだい」――「考えるですって。そんなことをぼくに命令する必要があるんですか。考えていますとも。――いや、考えてなんかいない。あなたはいつだってぼくの心の中にいる。今日もぼくはあなたが先日馬車から降りた場所にいたんです」――ロッテは話題を変えて、ぼくをそういう話の方向からそらそうとした。君、もうおしまいだ、ぼくはロッテのいいなり放題、どうにでもなってしまう」(132ページ)
書簡体小説とはとても面白い形式で、一人称の自伝的な語りとはぜんぜん違った魅力を持っている。まず、物事が常にリアルタイムで起こっているのだ。つい先日に起きたことを語るときもあれば、これから起こるであろうことを語るときもある。それから、差出人は常にその手紙を宛てた人物のことを想定しているものだから、「ぼく(ウェルテル)」とともに「きみ(ウィルヘルム)」という存在が登場してくる。ウィルヘルムとは、この『若きウェルテルの悩み』の読者に他ならないのだ。こういう語り口から、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』のような文体ができあがったのだな、と思う。
「夜になると、明日は日の出をながめようと考える。朝になってみれば起きる気にならない。昼は昼で、今晩は月の光をたのしもうと思うが、夜がくれば部屋に閉じこもったなりだ。なぜ起きるのか、なぜ眠るのか、私にはよくわからないのです」(98ページ)
「今日ぼくが小学校の生徒と一緒になって、地球は丸いなんて人まねしていったところで、それがどうだというのだろう。人間は、その上で味わい楽しむためにはわずかの土くれがあれば足り、その下に眠るためにはそれよりももっとわずかで事が足りるのだ」(112ページ)
差出人が一人でなければならないはずはないのだが、この『若きウェルテルの悩み』の場合、語るのはウェルテルばかりだ。とはいえ宛先となっているのはウィルヘルムだけではなく、ときにはロッテもその対象となっている。そのときの口調の差にも、作家のとてつもない筆力を感じる。それで思い出したのだが、「語るのはウェルテルばかりだ」と書いたものの、この小説は終盤になると、三人称小説に変貌する。ウェルテルという絶対の視点を捨て去りながら、それまでの世界にかすり傷ひとつ負わせないところも、見事としか言いようがない。
「そうだ、ぼくは放浪者にすぎぬ。この世の巡礼者だ。しかし君たちもそれ以上のものなのだろうか」(114ページ)
「ぼくら教養ある人間は――実は教養によってそこなわれた人間なんだ」(120ページ)
繰り返しになるが、この本の薄さに驚きを隠せない。200ページにも満たない本のなかに、これほどの内容が詰めこまれているなんて。これなら1000ページあっても読みたかった。ナポレオンが七度も読み返したという逸話も、すんなりと理解できる。とはいえ、最初のときのことは例外としても、二度目以降の再読時には、ナポレオンは絶望していたのではないか、とも思った。
「天上の神様よ、人間は物心のつかぬ以前か、分別を再び失ってしまった以後かでなければ幸福にしていられない。あなたはこれを人間の運命ときめたのですか」(139ページ)
「世の中はどこも同じです。辛苦と労働があって初めて報酬とよろこびがあります。けれどぼくにはそういうものがどうでもよくなったのです」(141ページ)
自殺を思いたったら、この本を傍らに置いておくといい。そうすれば世の人びとはそれを見て、恋に悩んだにちがいない、と早合点してくれることだろう。ここにあるのは、もっと深遠な絶望であるということも知らずに。
「永久のものは何もありはしない。けれども、ぼくが昨日あなたの唇に味わったあの燃えるいのちは、今もしみじみと感じているあのいのちは、どんな永遠がやってきたって消すことなんかできないのだ」(181ページ)
やりきれない。この本を好きにならずにすんだら、どんなに幸せだったろう。
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