尾崎放哉句集
短歌に興味を持ったことで、俳句という文化にも関心が向きはじめている。そこで思い出した、尾崎放哉。じつは数年前にも読んでいたのだが、そのときには文章にしなかったので、良い機会だと思って再読してみた。
短歌の読み方もわからないが、俳句の読み方はもっとわからない。ましてや自由律俳句なんて、なにをかいわんや、だ。ところが、短歌・俳句に詳しい友人に自由律俳句について尋ねてみたところ、「俳句である必要がないと思う」という答えが返ってきた。「俳句である必要がある俳句」をまるで知らないわたしが言うのも説得力のないことだが、まったくそのとおりだと思う。尾崎放哉の句を読むのに、小難しい理屈なんてまったく必要ないのだ。数年前にこの俳人を紹介してくれた親しい友人は、この本を「つっこみ練習帳」と呼んでいた。ほんとうに、笑えるくらい、「だからなんなんだよ」という反応しかできない句が多いのだ。それでも、「つっこみ」のない「ボケ」のさびしさが、胸に響くこともある。ちょっとどうしようもないほどの孤独だ。もっとも有名なのは以下の二句だろう。
入れものが無い両手で受ける(90ページ)
咳をしても一人(91ページ)
尾崎放哉を語るのに、「孤独」という言葉は欠かせない。どの句を見ても、寂寥感に溢れているのだ。いや、待て待て。芸術家というのは原理的に孤独なものではないか。放哉と同じくらい孤独な芸術家は、ほかにも大勢いるに違いない。では彼らと、この俳人との決定的な違いとはなにか? それは、放哉が心底からさびしがっているということだ。その「さびしがりかた」は、ときに詩的であろうとすることさえ捨て去ってしまっているように思える。
たばこが消えて居る淋しさをなげすてる(42ページ)
こんなよい月を一人で見て寝る(50ページ)
一人分の米白々と洗ひあげたる(69ページ)
墓地からもどつて来ても一人(91ページ)
掛取も来てくれぬ大晦日も独り(96ページ)
言ふ事があまり多くてだまつて居る(110ページ)
呼び返して見たが話しも無い(111ページ)
立ち寄れば墓にわがかげうつり(123ページ)
墓にもたれて居る脊中がつめたい(131ページ)
お月さんもたつた一つよ(134ページ)
思い出されるのはフェルナンド・ペソアの言葉、「詩人であることは、私の野心ではない。それは、一人でいようとする私のあり方にすぎない」だ(フェルナンド・ペソア(澤田直訳)『不穏の書、断章』思潮社、2000年、9ページ)。放哉の立ち位置は、この対極にある。つまり、「詩人でありたいけれど、一人にはなりたくなかった」のではないか。それでも、みずからの孤独をかこちながら身のまわりの物と対峙する放哉は、だれも気に留めなかったような細部を、言葉によって生き生きと再現している。それは詩人の感性がなければ為され得ないことだろう。
位牌の影の濃さ蝋燭がもえしきる(29ページ)
銭が土の間に転りて音なし(32ページ)
風の中走り来て手の中のあつい銭(34ページ)
ハンケチがまだ落ちて居る戻り道であつた(65ページ)
壁の新聞の女はいつも泣いて居る(81ページ)
めし粒が堅くなつて襟に付いて居つた(104ページ)
線香が折れる音も立てない(115ページ)
箸が一本みぢかくてたべとる(118ページ)
襟巻を取つた女の白い首だ(122ページ)
机の足が一本短い(128ページ)
自然を描くときにも、「さびしさ」は常についてまわる。孤独でなければ自然と向き合うこともできないということを、忘れてはいけない。これらの句を作るために払った代償が、彼にとっては大きすぎたのかもしれないとしても。
うそをついたやうな昼の月がある(49ページ)
をそい月が町からしめ出されてゐる(83ページ)
障子あけて置く海も暮れ切る(87ページ)
ひどい風だどこ迄も青空(92ページ)
針の穴の青空に糸を通す(124ページ)
それから、放哉は「本来の役割を失ったもののわびしさ」を描くスペシャリストだ。古代ギリシアだったら「徳(アレテー)」が足りないとでも言われそうな、もう存在理由さえ疑われるようになったたくさんのものを眺めながら、彼はそのわびしさを自身と重ねている。
蟻が出ぬやうになつた蟻の穴(58ページ)
吸取紙が字を吸ひとらぬやうになつた(60ページ)
なんにもたべるものがない冬の茶店の客となる(62ページ)
なんにもない机の引き出しをあけて見る(66ページ)
釘箱の釘がみんな曲つて居る(72ページ)
蛍光らない堅くなつてゐる(79ページ)
ぴつたりしめた穴だらけの障子である(83ページ)
吹けど音せぬ尺八の穴が並んで居る(105ページ)
火の無い火鉢に手をかざし(127ページ)
人が周囲にいないためか、この俳人の句のなかには、虫、鳥、犬といった、たくさんの動物が出てくる。その登場の仕方がさびしく、その退散の仕方もさびしい。繰り返しになるが、この俳人の手によるかぎり、「さびしさ」を閉め出すことなど、できやしないのだ。
墓より墓へ鴉が黙つて飛びうつれり(25ページ)
朝早い道のいぬころ(76ページ)
とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた(80ページ)
落葉ふんで来る音が犬であつた(109ページ)
血を吸ひ足つた蚊がころりと死んでしまつた(112ページ)
涼しうなつた蠅取紙に蠅が身を投げに来る(118ページ)
すぐ死ぬくせにうるさい蠅だ(120ページ)
だまりこんで居る朝から蚊がさしに来る(121ページ)
禿げあたまを蠅に好かれて居る(126ページ)
用事の有りそうな犬が歩いてゐる(128ページ)
先述したとおり、「つっこみ」を待っているとしか思えない句もたくさんある。読んでみて「は?」と思い、二度目に読んで首を傾げ、三度目に読んで笑いだすような句だ。一度目から笑いだすものもあるが、そういうのは泣き笑いに近い。
考へ事をしてゐる田にしが歩いて居る(70ページ)
すばらしい乳房だ蚊が居る(78ページ)
爪切つたゆびが十本ある(89ページ)
よい処へ乞食が来た(93ページ)
墓のうらに廻る(95ページ)
そうめん煮すぎて団子にしても喰へる(112ページ)
妻の下駄に足を入れて見る(129ページ)
蛙蛙にとび乗る(129ページ)
今朝は俺が早かつたぞ雀(131ページ)
どうしても動かぬ牛が小便した(133ページ)
個人的には以下の五句が、放哉らしさに溢れた秀作だと思った。さびしさ、細部、本来の役割を失ったもののわびしさ、動物、泣き笑いなどなど、これまで見てきたいくつもの要素が凝縮されているように思える。作者を知らずに読んでも良いと思えるかどうかは怪しい句もいくつかあるが。
障子しめきつて淋しさをみたす(45ページ)
節分の豆をだまつてたべて居る(67ページ)
働きに行く人ばかりの電車(95ページ)
障子の穴をさがして煙草の煙りが出て行つた(113ページ)
拭くあとから猫が泥足つけてくれる(125ページ)
そのほか、この本には自由律以前の放哉の句も少しだけ収められていて、以下の二句が好きだった。書かれていることは基本的に自由律以後の性格にも通ずるものが多く、自由律であることも自由律でないことも、放哉にとってはさして重要ではなかったのではないか、と思う。先に挙げた友人の言葉のとおり、俳句である必要があったのかどうかもわからない。
君去つて椅子のさびしき暖炉哉(13ページ)
炬燵ありと障子に書きし茶店哉(14ページ)
では、散文であるべきだったのか、と問われれば、答えはノーだ。というのも、この本の巻末には「入庵雑記」という随想が収められているのだが、これがちょっとひどい代物なのだ。脱線がすさまじいのである。いや、もちろん、本筋から離れていく文章が必ずしも悪いとはかぎらないし、むしろ脱線が読みたくて読んでいるような作家もたくさんいるのだが、問題はそのやりかただ。放哉の場合、話が面白くなってきたところで、「ああ、また脱線してしまいました」と打ち切ってしまうのである。このもやもやをどうしてくれるんだ! と叫びたくなるようなタイミングで。泣けてくる。それでも、自然を描く筆致は流麗で、愛着がこもっていて、とても美しい。
「私は勿論、賢者でもなく、智者でもありませんが、ただ、わけなしに海が好きなのです。つまり私は、人の慈愛……というものに飢え、渇している人間なのでありましょう。ところがです、この、個人主義の、この戦闘の世の中に於て、どこに人の慈愛が求められましょうか、中々それは出来にくい事であります。そこで、勢これを自然に求める事になって来ます」(「入庵雑記」より、148ページ)
「雑草の中にもホチホチ小さな空色の花が無数に咲いております、島の人はこれを、かまぐさ、とか、とりぐさ、とか呼んでおります。丁度小鳥の頭のような恰好をしているからだそうです、紺碧の空色の小さい花びらをたった二まいずつ開いたまんま、数知れず、黙りこくって咲いています。私だちも草花であります、よく見て下さい――といった風に」(「入庵雑記」より、155ページ)
尾崎放哉という作家について書きたいことは、これでぜんぶ書いた。これからも、ときどき読み返したい。
<読みたくなった本>
吉村昭『海も暮れきる』
種田山頭火『山頭火句集』