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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

緑の祠

 先日の木下龍也『つむじ風、ここにあります』や陣崎草子『春戦争』につづき、またしても書肆侃侃房の「新鋭短歌シリーズ」の一冊。短歌を読むのが、いまとても楽しい。

緑の祠 (新鋭短歌シリーズ10)

緑の祠 (新鋭短歌シリーズ10)

 

五島諭『緑の祠』書肆侃侃房、2013年。


 同じシリーズに入っているとはいえ、木下龍也や陣崎草子とは、またまるで違った作風の歌人だった。そもそも木下龍也と陣崎草子にだって、共通点なんてぜんぜん見当たらないけれど、五島諭の歌はほんとうに、まるで違う。たった三十一文字のなかで、作風だの文体だのといった要素が介在してくるということには驚くばかりである。短歌はほんとうにおもしろい詩の形式だと思う。

 五島諭は、一言で言えば、地味である。それも、徹底的に。華やかなところがぜんぜんなく、笑ってしまうようなオチみたいなものもついてこない。ただ、目に映ったもの、心に浮かんだものを気取らずに書き取った、という感じ。「この歌すごいよ!」とだれかに教えたくなるような歌なんてじつはほとんどなくって、ひとりで、どこまでも静かな部屋で読んでいたいような歌ばかりなのだ。

  地声から裏声に切り換えるときこんなにも間近な地平線(4ページ)

  写真を飾るという習慣の不思議さを考えながら星空を見る(5ページ)

  夜に飛ぶ旅客機の光の色をこいびとの目の奥に見ている(7ページ)

  まだ雪がふらないせいで目も耳も鼻も両手も他人に慣れない(9ページ)

  はじめから美しいのだこの手からこぼれていったポップコーンも(13ページ)

  空までの距離に引きつる 縄梯子摑もうとして伸ばした手から(17ページ)

  シャワーでお湯を飲みつつ思うぼくの歌が女性の声で読まれるところ(17ページ)

  物干し竿長い長いと振りながら笑う すべてはいっときの恋(19ページ)

  デニーズでよい小説を読んだあと一人薄暮の橋渡りきる(19ページ)

 どうだろうか。ぜんぜん詳しくないので間違った例えなのかもしれないけれど、なんだか俳句みたいだな、と思った。これまで短歌を短篇小説のように読んできたわたしとしては、これら文字で書かれた写真のような風景・情感に、ちょっとどぎまぎしてしまう。だって『サラダ記念日』のような、情熱や意味に溢れた歌とは、まるで別物でしょう。詠み手の感情がぜんぜん汲み取れないのだ。

  もし生まれ変われるのなら透明の傘かパイプ椅子がいい(11ページ)

  必要ないことは言わない 指先がかすかに腫れた守宮に会った(62ページ)

  風景に不意に感情が降りてきて時計見て、また歩かなくては(84ページ)

  意味のない比喩を探そう でたらめに歩けばまつ毛はただしく揺れる(90ページ)

  雲が消え別に悲しくないぼくと悲しいのかもしれないいとこ(100ページ)

 この情報量の少なさは、逆に新鮮である。歌にどうしても意味を求めてしまう自分に、「そんなふうに読まないでくれ」と言わんばかりに、感情と意味が排除されている。以下の一首なんて象徴的である。

  買ったけど渡せなかった安産のお守りどこにしまおうかなあ(29ページ)

 え、なにそれ、ちょっと待ってよ! と言いたくなる。「買ったけど渡せなかった安産のお守り」、つまり「渡せなかった」相手は、女性。贈り物をするような親しい間柄ではあるけれど、もうそれほど頻繁に会っているわけではない異性、昔の恋人なのかもしれない。そんな女性が、新たな恋人を得て、きっと結婚もして、いまや子どもを産もうとしている。元カレとしては、気になるというほどではないけれどやはり気になる、というのが正直な感情だろう。そうしてなにかのきっかけに買った「安産のお守り」。ここまで書いただけでも、相聞歌における現代の女王、俵万智だったらとんでもない短歌にするか、この「安産のお守り」だけで一連を作ってしまいそうな気さえしてくる。ところが、そんな五島さんの下の句は「どこにしまおうかなあ」なのだ。すっとぼけ! まるで畳に寝そべった五島さんに、「邪推はやめてよねー」とおどけた調子で言われたような気分になってしまう。へなへなしてくる。「どこにしまおうかなあ」だなんて。

  約束を果たせないまま物置の隅に眠っているシュノーケル(6ページ)

  公園のベンチのへりの鳩の糞は史上最大のチャームポイント(10ページ)

  水星をのぞむ明け方 コンビニのFAXに「故障中」のはり紙(68ページ)

  目覚めては水の止まった噴水の噴出口をじっと見ている(87ページ)

  朝焼けのジープに備え付けてあるタイヤが外したくてふるえる(101ページ)

 社会的に無価値なものが、詩にとっては格好の題材になる、というのは、穂村弘『短歌の友人』『はじめての短歌』で繰り返していたことだけれど、上にあげたいくつかの歌に顕著な「有用性を失ったものものの憂愁」というのは、『尾崎放哉句集』を思い出させてくれた。ほら、「蟻が出ぬやうになつた蟻の穴」とか。「釘箱の釘がみんな曲つて居る」とか。「蛍光らない堅くなつてゐる」とか。放哉の自由律俳句に俳句一般を代表させるのは自分でもどうかと思うけれど、五島諭はやっぱり俳句と親和性が高いように思える。以下は、「このひとなにしてんの」シリーズ。

  くもりびのすべてがここにあつまってくる 鍋つかみ両手に嵌めて待つ(6ページ)

  ラジカセの音量をMAXにしたことがない 秋風の最中に(7ページ)

  世界を創る努力を一時怠って風に乗るビニールを見ている(12ページ)

  こないだは祠があったはずなのにないやと座りこむ青葉闇(20ページ)

  手のひらにいくつ乗せても楽しいよ茄子のかたちをした醤油差し(23ページ)

  釣り道具を使ってつくるストラップ ピンクのルアー揺れてすげない(26ページ)

  下敷きと髪で起こした静電気自由を求めてもいいはずだ(36ページ)

  挽き肉のかたまりに手を押し当てて手形をとっている夜明け前(93ページ)

  シュロの葉をやさしくそよがせるために壊れたスピーカーを窓辺に(95ページ)

 俳句と短歌の違いには季語の有無以外にも、やはり短歌のほうは下の句の七七があるぶん、情報量が圧倒的に多くなるという点がある。ものすごく当たり前だが十七文字と三十一文字では、書けることの量がぜんぜんちがうのだ。俳句では難しいだろうけれど、短歌では物語が書ける。その特徴を、五島諭はまるで利用しようとせず、与えられた七七をぜんぜんべつのベクトルで活用しているように思えるのだ。

  子供用自転車とてもかわいいね、子供用自転車はよいもの(21ページ)

  夏の盛りに遊びに来てよ、今日植えたゴーヤが生っていたらチャンプルー(23ページ)

  大吉を引けばいいけど引かないと寂しさが尾を曳く、でも引くよ(28ページ)

  晴れたらばなにしようかな晴れたらばなにもかも太陽のほしいまま(28ページ)

  祈るときますます強く降る雨の撥ねっかえりでまっ白い道(51ページ)

  猫が飲みのこした水はきらきらとかすかな脂浮かべて揺れる(55ページ)

  もう夏のことはだいたい知っている水撒くときに駆け抜けた犬(57ページ)

 情報量と書いたが、単なる「発見の短歌」の場合は、たいてい書かれていることが字面どおりの意味にしか読むことができず、読んでいて立ち止まる必要がなく、そのため記憶にも残らない。五島諭の歌も情報量が少ないのだが、これらは「あるあるネタ」的な「発見」を詠ったものではなく、そういった歌と比べても、さらに情報量が少ない。情報量が多い歌のほうが好みだとは思うものの、ここまで少ないと逆に新鮮である。

  鳥の飛び去ったあとには一面にバドミントンのシャトルが残る(58ページ)

  落ち着いて話がしたい長時間露光の星の写真のように(58ページ)

  雪の日の代償としてはじめからなにも買わないデパートに行く(66ページ)

  積もるのはたとえば雑誌のページを繰る、異なる人の似ている動作(66ページ)

  送りかえされる、幼い一瞬へ 伊予柑の皮むく手ごたえは(67ページ)

  最高の被写体という観念にこの写真機は壊れてしまう(75ページ)

  梅の木に立てかけておくスコップは冬の終わりのいかれた花火(75ページ)

  履歴書の学歴欄を埋めていく春の出来事ばかり重ねて(78ページ)

 どの歌をとってみても、書かれていることの意味を求めようとすると、べつにわかりにくいようなことが語られているわけではないことに気づく。様々な解釈ができる歌、というのではぜんぜんなく、意味よりも語感、言葉の配列の美しさが際立っているような歌たち。ここまで書いてようやく気づいたけれど、このひとの歌がおもしろいのは、このひと自身の視線がおもしろいからだ。

  紺色の横須賀線のシートから手紙のようなメールを送る(79ページ)

  猫に逢う時間に散歩していたら不思議な猫に遇ってしまった(80ページ)

  昔見たすばらしい猫、草むらで古いグラブをなめていた猫(81ページ)

  ファミレスで水ばかり飲んでいたころに山村暮鳥もはじめて読んだ(88ページ)

  ぼくの旅は他人のものではない旅で帰ろう光る唾吐きながら(89ページ)

  遠巻きに雲は流れるひとびとの爪を不思議な色に光らせ(90ページ)

  書き終わらないレポートはそれだけで空についての考察である(99ページ)

  海に来れば海の向こうに恋人がいるようにみな海をみている(103ページ)

 ぶっちぎりに気に入った歌、というのは、じつはほとんどない。そのくせ、ぜんぜん響いてこないな、という歌もほとんどないのだ。視線そのものがおもしろいので、平均点が高いというか、一冊の歌集が文字どおり作者の世界の縮図のよう。わたしは歌集を読むとき、気に入った歌に惜しみなく付箋を貼っていくのだが、自分でも意外なことに、この歌集ではほかの歌集よりもよほど多くの付箋を消費することになった。気に入ったというのとは違うのだけれど、どうにも無視できない歌だらけなのだ。プンクトゥムだらけ。よく刺さる。

  「空耳」にすこし長めのルビをふる「しろじにしろのみずたまもよう」(104ページ)

  部屋の隅に転がっているダンベルもよく見なければ蝶のかたちだ(111ページ)

  立秋モンキアゲハよ うたかたの宇宙の粉をばら撒きながら(115ページ)

  海水浴客のとなりで目を瞑る白猫 大らかに大らかに憂愁(116ページ)

  雨の日にジンジャーエールを飲んでいるきみは雨そのもののようだね(124ページ)

  春雨の雨滴だらけの蜘蛛の巣を見てから約束が守れない(125ページ)

  明け方の静かな月が好きだったきみをよく知る窓辺と思う(125ページ)

  昨日から具合の悪いパソコンを休ませてあげたいだけなのに(127ページ)

 巻末にある東直子の「解説」も的確である。このひとの解説が的確でなかったことなんて、一度もないけれど。

「自分の眼の前で、一瞬の輝きを見せたものを、誇張せず、意味をつけすぎず、時間を追わせず、感傷を塗らず、今ここにある言葉で掬いとること。それ以上の装飾に値するものは恥ずかしくて堪え難いのだろう」(東直子「解説」より、139ページ)

 さて、今回いちばん気に入った歌。困る。この歌人だけは困る。どれにしようかな。心底どれでもいい。というわけで、出会いのきっかけになった歌を選んだ。友人がこの歌集を薦めてくれたとき、この歌を教えてくれたのだ。

  海に来れば海の向こうに恋人がいるようにみな海をみている(103ページ)

 いまあらためて見てみて、ああ、なんていい歌、と思った。ちょっと、どきっとする。上に大量に引いた歌たちも、もっとリラックスして肩肘張らずに読めば、もっともっといい歌なのでは、という気がしてくるのだ。これはちょっと読み返さないわけにはいかないな、と思っている。

緑の祠 (新鋭短歌シリーズ10)

緑の祠 (新鋭短歌シリーズ10)