短歌の友人
なんだか無性に短歌のことが知りたくなって、初めて手に取ってみた穂村弘。
短歌、という詩が好きだ。どういうわけか昔から、短歌に対しては無関心でいられない。『百人一首』を中学や高校で暗記させられた覚えもないし、なじみがあるとは口が裂けても言えないのだが、あのリズム感が好きなのだ。英語やフランス語を読むことができても、リズム感まではなかなか再現できない。フランス人の友人がプレヴェールの詩を朗読しているのを聞いて、とてもとても悔しくなった記憶がある。短歌のリズム感は、外国の友人たちを悔しがらせるのに十分な魅力を持っているだろう。
ここで話題になっているのは、基本的に現代の短歌である。詩のほうには「現代詩」と呼ばれる流れ(?)があり、わたしにしてみればそれはじつに厄介な代物なのだが、「現代の短歌」にはそのような敷居の高さなど、まるでなかった。むしろ、敷居が低すぎて驚いたほどである。短歌ってこんなにすなおに読んでいいのでしょうか? とだれか詳しい人に尋ねてみたくなるほど。まあ、「詳しい人」である穂村弘が言っているのだから信用に足るのだけれど、それでも不安になる。
ひも状のものが剝けたりするでせうバナナのあれも食べてゐる祖母 廣西昌也(17ページ)
形容詞過去教へむとルーシーに「さびしかつた」と二度言はせたり 大口玲子(20ページ)
たはむれに釦をはづす妹よ悪意はひとをうつくしくする 荻原裕幸(27ページ)
覚めてより耳に離れぬ唄のありそがまた実に下らぬ唄にて 西中真二郎(37ページ)
音もなくポストに落ちし文一通あと数時間ここにありなむ 香川ヒサ(42ページ)
フセインを知らざるわれはフセインと呼ばるる画像をフセインと思ふ 香川ヒサ(42ページ)
すこしづつわが食べてしまふものとして口唇の朱をおもひゐるなり 葛原妙子(47ページ)
海とパンがモーニングサーヴィスのそのうすみどりの真夏の喫茶店 正岡豊(52ページ)
うめぼしのたねおかれたるみずいろのベンチがあれば しずかなる夏 村木道彦(81ページ、原文では「たね」に傍点)
したあとの朝日はだるい 自転車に撤去予告の赤紙は揺れ 岡崎裕美子(83ページ)
3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって 中澤系(138ページ)
牛乳のパックの口を開けたもう死んでもいいというくらい完璧に 中澤系(138ページ)
これなにかこれサラダ巻面妖なりサラダ巻パス河童巻来よ 小池光(142ページ)
ああ闇はここにしかないコンビニのペットボトルの棚の隙間に 松木秀(165ページ)
平日の住宅地にて男ひとり散歩をするはそれだけで罪 松木秀(165ページ)
かの人も現実に在りて暑き空気押し分けてくる葉書一枚 花山多佳子(181ページ、「現実」には「うつつ」のルビ)
わざわざ色気を出して、不案内な分野のことをしたり顔で書くこともないだろう。ご覧のとおり、じつにたくさんの歌人の作品が紹介されていて、たいへんうきうきする本である。これいいな、好きだな、と思った短歌を挙げてみた。
じつに驚きなのが、それぞれの短歌が紹介される文脈、そのなかで語られている穂村弘の読みである。この歌人は、ものすごく論理的に他者の歌を評価しているのだ。いったい、詩人と呼ばれる人たちに、論理性を求めることはできるのだろうか? 理論がここまで整ってしまっていたら、もう読者の感性に訴えうるどんな歌も詠むことはできないのではないか、と不安になってしまう。いや、つぼをおさえているからこそ逆に秀歌を連発しているのかも、とも思ったのだが、じっさいに穂村弘の作品を見てみると、ぜんぜんぴんとこないのだ。なんなんだ。このひと、いったいなんなんだ。
たとえば、東直子という、穂村が頻繁に言及する歌人がいる。じつはこの歌人の名前だけは、前々から知っていた。短歌・俳句に尋常じゃないほど詳しい友人がいて、以前薦めてくれたことがあったのだ。そのときにも感じたことだが、この人の歌の残像呪縛はすさまじい。
電話口でおっ、て言って前みたいにおっ、て言って言って言ってよ 東直子(32ページ)
怒りつつ洗うお茶わんことごとく割れてさびしい ごめんさびしい 東直子(86ページ)
はじめからこわれていたの木製の月の輪ぐまの左のつめは 東直子(95ページ)
好きだった世界をみんな連れてゆくあなたのカヌー燃えるみずうみ 東直子(107ページ)
所在なき訪問客と海を見るもろもろペンキはがれる手すり 東直子(117ページ)
穂村弘は、このうちの一首「はじめからこわれていたの木製の月の輪ぐまの左のつめは」を挙げながら、「短歌的リアリティ」について説いている。
「短歌的リアリティの補強要素として、もっとも有効なのは「左のつめ」がこわれていたというような<なるべく具体的で小さな違和感>なのだ。<現実的社会的には役に立たない情報>だとさらに望ましい」(96ページ)
これは、なにも短歌に限ったことではない。むしろ、小説そのものだ、とさえ思った。細かなものを書くことで、全体がはっきりとしてくるのだ。エミール・ゾラはどれだけ執拗に、細部を描こうとしたことだろう。つきつめればニコルソン・ベイカーのような作家にまで到達するのだろうが、わたしがまず思い浮かべたのは、フォースターによる以下の描写だった。
「ちょうどそのとき、馬車は小さな森に入っていった。オリーブの林がつづく丘の真ん中に、茶色く陰欝に横たわった小さな森だ。木々は小さく、葉もみんな落ちているが、注目すべきことがある。木々の根もとにびっしりと菫が咲いて、まるで夏の海に木々が生えているようなのだ。イギリスにもこういう菫はあるけれど、こんなにたくさんは咲いていない。絵のなかでも、こんなにたくさんは咲いていない。こんなにたくさんの菫を咲かせる勇気のある画家はいないからだ」(E・M・フォースター(中野康司訳)『天使も踏むを恐れるところ』白水社、1993年、29ページ)
それから、同じ文脈でヴィクトル・ユーゴーも引くことができるだろう。
「どういうわけだろう、係りの看守が私の監房のなかにはいってきて、帽子をぬぎ、会釈をし、邪魔するいいわけをして、荒々しい声をできるだけやわらげながらたずねた、朝食になにか食べたいものはないかと……。
私は戦慄を覚えた。――今日なんだろうか?」(ヴィクトル・ユーゴー(豊島与志雄訳)『死刑囚最後の日』岩波文庫、1950年、59ページ)
こんな調子で、いくらでも例を挙げることができる。現実味は細部に宿る、というのは、短歌だけの専門分野ではないのだ。とはいえ短歌のような、限られた字数のなかでなにかを表現する、という目的がなければ、なかなか気づくこともできない点だろう。紋切り型の描写だけでは、映画を撮るためのセットのような風景しか浮かんでこない。生身のわれわれが生きている現実とは、そんなものではないだろう。
同じように、ちょっとしたオノマトペの工夫もリアリティを生み出す。紋切り型の表現を離れる、という意味で、これほど顕著な効果をあげる例も少ないのではないか。
謝りに行った私を責めるよにダシャンと閉まる団地の扉 小椋庵月(91ページ)
ポイントはもちろん「ダシャン」である。「ガシャン」ではなく「ダシャン」であるということが、じっさいに作者が「謝りに行った」ことを彷彿させる。たった一字の違いがこれほどの違いを生むなんて、日本語はなんて面白い言語なんだろう。
細部を描くうまさを感じさせる歌人はたくさんいた。なかでも吉川宏志は、それがもたらす効果をかなり意識している。浮かぶ景色が、とてもあざやかだ。
門灯は白くながれて焼香を終えたる指の粉をぬぐえり 吉川宏志(102ページ)
この春のあらすじだけが美しい 海草サラダを灯の下に置く 吉川宏志(102ページ)
くだもの屋の台はかすかにかたむけり旅のゆうべの懶きときを 吉川宏志(115ページ)
歌人の庶民性ということも論じられていて、とても興味深い。
「歌人の頭は庶民、ハートは庶民の十倍も庶民なのである。特に後者の「ハートは庶民の十倍も庶民」は、大歌人の条件と云ってもいいくらいだ」(193ページ)
たとえば向田邦子が『父の詫び状』のなかで愛を語った「海苔巻の端っこ」のような、じつに細かなものへの愛着や執着が、万人に共感される秀歌を生み出していることは間違いない。庶民的感性、というか敷居の低さで、まず思い出されるのは俵万智だ。
逢うたびに抱かれなくてもいいように一緒に暮らしてみたい七月 俵万智(45ページ)
「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ 俵万智(196ページ)
風景より風景としてバス停のそばにひねもす栗売る男 俵万智(224ページ)
星よりも星のかたちに咲く桔梗 花もめしべも五つに裂けて 俵万智(224ページ)
寄せ返す波のしぐさの優しさにいつ言われてもいいさようなら 俵万智(226ページ)
俵万智には漠然と、短歌をずいぶん親しみやすいものにした人、という印象があったのだが、この本を読んでそのイメージががらりと変わった。いや、親しみやすいことは間違いないのだが、この人の短歌は、もっと後の世代による作品と比べてみると、よっぽどまともなかたちをしているのだ。「句またがり」や「口語と文語の混合」など、きっと詳しい人が見たら、いろいろなことが言えるのだろうが、この本のなかで紹介されていた最新の短歌に比べて、とても完成度が高いと思う。それはすごく意識的なわかりやすさで、伝えるために採られた親しみやすさだったのだ。
最新の短歌とわたしが言っているのは、穂村弘が言うところの「棒立ちの歌」である。
たくさんのおんなのひとがいるなかで
わたしをみつけてくれてありがとう 今橋愛(23ページ)
もちろん、穂村弘はこれを否定的に紹介しているのではなく、近年に顕著な傾向として捉えているのだが、三十一文字の言葉たちがすべて短歌と呼ばれうるのなら、俵万智のそれは、やはりとても完成度の高い短歌だろう。
「90年代の後半から時代や社会状況の変化に合わせるように世界観の素朴化や自己意識のフラット化が起こり、それに基づく修辞レベルでの武装解除、すなわち「うた」の棒立ち化が顕著になったのではないか」(64ページ)
「我々の言葉が<リアル>であるための第一義的な条件としては、「生き延びる」ことを忘れて「生きる」、という絶対的な矛盾を引き受けることが要求されるはずである。詩を為すことは必ず死への接近を伴うという、しばしば語られるテーゼの本質がこれであろう」(90ページ)
この本を読んだおかげで、ものすごくざっくりと、ではあるが、短歌の歴史的な流れも少しはわかった。古典的な和歌は別として、斎藤茂吉に代表される近代、それから塚本邦雄に代表される戦後、それから「戦後後」とも呼べそうな、現代のわれわれの世代である。もちろん、こういった時代的区分はいつだって恣意的なものでしかないし、たとえばフランス文学でこんな分類をやろうとしている人を見つけたら黙ってはいられなくなるのだろうが、どの歌人がいつの時代の人かもわからない自分のような人間にとっては、とても役に立つ。なにも知らない状態では、批判もできない。
幼稚園靑葉祭の園兒百 なぜみな遺兒に見えるのだらう 塚本邦雄(173ページ)
神がゐるならばその神見せよなどと言はず私は生きてゐればよし 高野公彦(203ページ)
神はゐてもゐなくても良しみちのくのかやの実せんべい食ひつつ思ふ 高野公彦(203ページ)
ある日ふと手より枯れゆくわれを見る麦秋の香に覚めしひかりに 馬場あき子(235ページ)
乗りちがへたり眼ざむれば大枯野帰ることなきごとく広がる 馬場あき子(235ページ)
掃除機をかけつつわれは背後なる冬青空へ吸はれんとせり 小島ゆかり(241ページ)
火に炙る魚うらがへしじぷじぷと西日があたる背中が暑し 小島ゆかり(243ページ)
それでも、短歌の技法的・内容的変遷を時代の変化と照らし合わせようとする試みは、なんだか高橋源一郎を思い出させた。と思ったら、この文庫本の解説を高橋源一郎が書いていた。うん、この人がこの本を高く評価しているのは、とてもわかりやすい。
「価値の反転による批評的な幻想が現実に吸収された結果、それは今を生きる生身の我々にとっての日常感覚になった」(170ページ)
一概に言えることなどなにもない。歌人論を読んでも、あまり身が入らない。詩の解釈というものには、つくづく関心が向かない性分なんだな、と思った。それでも穂村弘に嫌悪感を抱かないのは、この人の書き方に押しつけがましいところなど微塵もないからに違いない。彼が教えてくれる、短歌を読む喜びに比べれば、ほかはなんだって些事である。
「多くの歌人は、少なくとも近代以降の歌の<読み>に際して、その作者がどんな体感に基づいて何をやろうとしていたのか、ということを或る程度自分の中で復元できるはずである。作品がどの程度成功しているか、という判断は、その復元感覚の上に成立しているのだ」(177ページ)
読むのにとても時間がかかる本だった。いや、速く読もうとすればできないことはないのだが、それをすることがとてつもなくもったいなく感じられたのだ。いくつもの雑誌に掲載された文章をまとめたものなので、内容が重複している章もいくつかあるのだが、この作家の意見の一貫性がわかって、むしろ好感が持てる。同じことが違う言葉で語られているのを見るのは、面白いものだ。紹介されていた人たちの歌集を、手当たり次第に読みたくなった。
<読みたくなった本>
香川ヒサ『PAN・パン』
サラダ記念日 (河出文庫―BUNGEI Collection)
- 作者: 俵万智
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 1989/10
- メディア: 文庫
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正岡豊『四月の魚』
『吉川宏志集』
『東直子集』
『塚本邦雄歌集』
『葛原妙子歌集』
『村木道彦歌集』
『若山牧水歌集』
『正岡子規歌集』
『斎藤茂吉歌集』