Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

東京日記

 いまから五年くらい前のこと。ぞっこん惚れこんでいるのに、なにひとつ感想めいたことを書けない、という奇妙な作家と出会った。リチャード・ブローティガンである。『アメリカの鱒釣り』、『芝生の復讐』、『愛のゆくえ』などを読んで、もうとんでもなく好きになってしまったのだが、一冊、いや、一篇あたりの、「気に入る文章含有率」が高すぎて、もうなにも書く気にはなれなかったのだ。このままじゃあいかん、と思っていたとき、こんな詩集があったことを思い出した。薄い詩集なら、相対的に引用したい文章も減るにちがいない。これなら書けるかも、と、初めて思えた。

東京日記―リチャード・ブローティガン詩集

東京日記―リチャード・ブローティガン詩集

 

リチャード・ブローティガン福間健二訳)『東京日記』思潮社、1992年。


 ブローティガンといえば藤本和子による翻訳が圧倒的に有名だが、これは福間健二の翻訳である。われながら変なことを言っていると承知で書くが、「すばらしすぎない翻訳」というのも、原著者の姿をとらえようとするうえでは、たぶん必要なものなのだ。藤本和子の翻訳は、ちょっとすばらしすぎるのである。もともと英語で書かれたものだとは信じられないほどで、原文が輝いているのか翻訳が輝いているのか、判断できなくなるときがある。例として、以下の詩を見てみてもらいたい。まずは福間健二の翻訳から。

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  東京/1976年6月11日


  ぼくが今日早くに
  手帳に書いた
     五つの詩が
  パスポートを入れているのと
  おなじポケットにある 詩とパスポートは
  おなじものなのだ


福間健二訳「東京/1976年6月11日」、124ページ)
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 ちなみに原文は以下のとおり。

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  Tokyo/June 11, 1976


  I have the five poems
  that I wrote earlier today
     in a notebook
  in the same pocket that
  I carry my passport. They
  are the same thing.

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 英語もとても簡単で、福間健二の訳が正確なもの、ぜんぜん悪くない、ということもわかるだろう。これが藤本和子の翻訳だと、こうなるのだ。

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  東京/1976年6月11日


  きょう早くに
  ノートに書いた
     五篇の詩は
  パスポートとおなじ
  ポケットにおさめてある。詩も
  パスポートだからね。


藤本和子訳「東京/1976年6月11日」、藤本和子リチャード・ブローティガン』新潮社、2002年、268ページ)
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 最後の一節、原文では「They/are the same thing」が、福間健二の訳では「詩とパスポートは/おなじものなのだ」、藤本和子訳では「詩も/パスポートだからね」となっている。藤本和子の訳文を英語に戻そうとするなら、「Poems are the passport too」とでもなるだろう。主語さえ異なってくる。つまり、藤本和子が訳そうとしているのは、書かれた文章そのものではなく、その背後にある作家の意図のほうなのだ。だから日本語にしたときにはこのうえなく自然で、でもそのぶん、原文が見えづらい。福間健二のほうが正確である。でも、どちらがよりすばらしいか、と尋ねられたら、わたしは迷わず藤本和子のほうを推すだろう。原文が見えない、というのは、じつは良い翻訳にとっての必要条件のようなものなのだ。この詩について言えば、「だからね」という語尾がもたらす心地好さは、福間健二訳には存在しない。

 藤本和子が訳したブローティガンを読む楽しさはちょっと信じがたいほどで、すでに読んだページの再読が楽しすぎて、いつまでも先に進めなくなってしまうほどだ。でも、彼女の翻訳ばかり読んでいると、自分が好きなのがブローティガンなのか、それとも藤本和子なのか、わからなくなってしまう。いや、べつにわからないままでもいいのだ。藤本和子訳のブローティガンが好き、でも、ぜんぜん構わないのだが、それでもわたしはしつこい性格なので、ブローティガンが掛け値なしにすばらしい作家である、という確信を持ちたかったのだ。もちろん福間健二だって、悪い翻訳者というわけではぜんぜんない。藤本和子がちょっと異彩を放ちすぎている、というだけのことである。

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  ロマンス


  ぼくは十五秒間
  日本のハエをみつめていた
     はじめての日本のハエだ

  かれは三井ビル広場の
     赤いレンガの上にとまって
     日の光をたのしんでいた

  ぼくに見られているのも気にしないで
  かれは顔の汚れをとっていた おそらくそのあと
     お昼を食べるデートの約束があったのだ
     未来の花嫁、あるいはただの
     いい友だちというのかもしれないけれど
     美しいめすのハエと
     三井ビル広場で
     正午に


(「ロマンス」、42~43ページ)
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 江國香織『絵本を抱えて部屋のすみへ』のなかで、「詩的でささやかでユーモラス。これは、私にとって物語の理想三要素であり、日常の理想三要素でもある」と書いている(52ページ)。この「三要素」が並べられているのを初めて目にしたとき、即座に思い出したのがブローティガンだった。「詩的」は異論の余地がないとして、どのくらい「ささやか」かという点については、以下の一篇が象徴的だ。

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  考古学の旅の小さな船


  カミナリの音と光がかけぬける夏の嵐の
  今夜の東京 午後十時ごろには
     大量の雨と傘
  これはいまのところ小さなつまらないことだ
  でもとても重要なことになりうる
  いまから百万年後に考古学者が
  われわれの廃墟の中を通りぬけ、われわれを想像で
     描きだそうとするときには


(「考古学の旅の小さな船」、89ページ)
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 これはじつにブローティガンらしい一篇で、Canongate社が2014年に再販した『芝生の復讐』のペーパーバック版では、サラ・ホール(Sarah Hall)というひとがこんなふうに解説している。

「If you think things work a certain way, think again, Brautigan's stories encourage, and quite rapidly the reader does forget the normal arrangements.」(『Revenge of Lawn』Canongate, 2014, xページ)
「もし物事がある一定の法則とともに運ぶものだと考えているのなら、考えなおせ、と、ブローティガンの短篇は勧めてくる。そうして早々と、読者はふつうの流儀がどんなだったかを忘れてしまう」

 たしかになあ、と思う。ブローティガンを読んでいるときには、前提がおかしかったり、考え方がふつうじゃなかったりと、笑わせられることが多いが、そのおかしみをもたらす視点のズレが、じつは詩情そのものであるということを、見落としてしまいがちなのだ。ブローティガンは「ユーモラス」な作家であるが、それだけではけっしてない。以下のような笑いを誘う詩を読むときにも、そのことを忘れずにいたいと思う。

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  日本の女性


  魅力的でない
     日本の女性がいたとしても
  生まれたときに川で始末されているにちがいない


(「日本の女性」、62ページ)
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  飛行機


              ホテルに
  滞在しているいやなことのひとつは
  壁がうすいことだ この問題は
  どうにも始末できない 今日の午後
  ぼくはすこし眠ろうとしたのだが
  隣室の連中にはちょうどそれが
     徹底的にファックしまくる時間だった
  かれらのベッドは 離陸の前にエンジンをあたためる
     古い飛行機のような音をたてた
  ぼくは数フィートはなれたところによこたわり
  なんとか眠ろうと努力していた かれらのベッドが
     滑走路をすべってゆくあいだ


(「飛行機」、134~135ページ)
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  タクシーの運転手


  ぼくはこのタクシーの運転手が好きだ
  まるで生きることに意味がないみたいに
     東京の
  暗い通りをかれはとばしてゆく
  ぼくもおなじように感じているんだ


(「タクシーの運転手」、149ページ)
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 ところで、いまさらながら、この詩はブローティガンの東京滞在中に書かれたものである。まあ、タイトルを見ればわかるか。1976年のこと、初来日だったらしい。日本という国の特異な面が前面に出ている詩もあるが、語られていることの大半は、舞台が日本である必要性さえ感じさせないものだ。

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  話すこと


  ぼくはこのバーにいるただひとりのアメリカ人
  ほかの人はすべて日本人
     (もっともである/東京だ)

  ぼくは英語を話す
  かれらは日本語を話す
     (あたりまえだ)

  かれらは英語を話そうと努力する むずかしいことだ
  ぼくはまったく日本語が話せない どうしようもない
  ぼくたちはしばらくのあいだ話す 努力しながら

  それからかれらは十分間のあいだ完全に日本語に
     きりかえる
  かれらは笑う かれらは本気になる
  かれらは言葉と言葉のあいだに間をとる

  ぼくはまたひとりぼっち ぼくは前にもここにいた
  日本でも、アメリカでも、すべての場所で
  人が何について話しているのか
     理解できないときはいつも


(「話すこと」、72~73ページ)
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  おりてゆくエレベーターで


  ひとりの白人が十七階から
     乗ってくる
  かれは年寄りで、太っていて、高価な
     服を着ている

  ぼくはハローと言う/ぼくは友好的なのだ
     かれも「ハーイ」と言う

  それからかれはとても注意深く
     ぼくの服装を見る

  ぼくは高価な服は着ていない
  かれの靴の片方だけでも
  ぼくの身につけているどれよりも高価だと思う

  かれはもうそれ以上
     ぼくとは話したくなくなる

  かれはちゃんと気づいてはいないのだと思う
  ぼくたちがほんとうに下へおりているのであり
  死者となって数千年もしたら
  服なんか存在していないということに

  ぼくたちが黙って下へ移動し
  いちばん下の階で
     おりるときまで
  ぼくたちは別々の道を行くのだ
     とかれは考えている

(「おりてゆくエレベーターで」、84~86ページ)
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  レジ係


  若い日本の女性のレジ係、
     彼女はぼくがきらいだ
     なぜだかはわからない
     ぼくは存在するというほかには彼女に何もしていない
  彼女は光にせまるような速度で
     計算機を使って伝票の数字を足してゆく

  カチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャ
     彼女はぼくに対するその嫌悪を
        足してゆく


(「レジ係」、122~123ページ)
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 この詩集の原題は『June 30th, June 30th』である。繰り返される日付の意味は、この本の最後に収められた以下の詩を読むと、理解できるようになる。とてもいいタイトルで、この原題の詩情に比べると、『東京日記』という邦題はいかにも見劣りしてしまう。

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  朝日ののぼる国
   ――サヨナラ

  ぼくたちは日本の夜から飛んできた
  東京の羽田空港
  四時間前、六月三十日午後九時三十分に
     飛びたち
  そしていま太平洋の上
  日本へとむかう途中の朝日の中に
     飛びこんでゆく
  日本ではまだ暗やみがよこたわり
  太陽がやってくるまでに数時間かかる
  ぼくは日本の友人たちのために
  七月一日の朝日にあいさつする
  かれらが愉快な日を迎えるように
  太陽は日本へと
     むかっている途中だ


(「朝日ののぼる国」、174~175ページ)
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 気に入った詩はほかにもたくさんあったけれど、いつか原文でもう一度読みたいと考えているので、気楽にいくつか引用してみた。すでに書いたとおり、福間健二の訳が悪いというわけではぜんぜんないのだが、やはり藤本和子による全訳もぜひ出して欲しいなあ、と思う。ブローティガンは掛け値なしにすばらしい作家なのであり、そういう作家の翻訳は、何種類あったって困ることはないのだ。詩の体裁をとったブローティガンの詩に触れるのは初めてのことだったので、今後もっともっと読んでいきたい。

東京日記―リチャード・ブローティガン詩集

東京日記―リチャード・ブローティガン詩集