マヤコフスキー事件
あまりのおもしろさに息つく暇もなく読み終えてしまった。300ページを超える本だとは到底信じられないような速さで、終いにはもったいないとさえ思いはじめるほどの速さで読み終えた。これほどのひとは歴史上もう絶対に出てこない。わたしにとっての永遠の憧れ、小笠原豊樹によるマヤコフスキー事件。
チャトウィンの『どうして僕はこんなところに』を読んでからロシア・アヴァンギャルドに興味を持ち、まずは美術のほう、ヴィーリ・ミリマノフの『ロシア・アヴァンギャルドと20世紀の美的革命』に手を伸ばしたが、同時に、チャトウィンはこのマヤコフスキーという詩人について強烈な印象を残してくれていた。調べているうちに、2013年に刊行されたこの本に行き当たった。著者の名を見て目を疑う。小笠原豊樹! まさかこんな本がほんの一年前に刊行されていただなんて、予想だにしなかった。これこそまさしく天啓である。注文をしてから届くまでの時間を、これほど長く思ったこともなかった。
この名前にぴんとくる人には不要な説明だが、小笠原豊樹は詩人岩田宏の本名で、英語・フランス語・ロシア語を自在に操る、まさしく稀代の翻訳家である。日本を出て、たとえばヨーロッパであたりを見回してみると、3ヶ国語を操るひとというのはべつにさして珍しいものでもないが、この人が抜きん出ている点は、その圧倒的な日本語力にある。米原万里が『不実な美女か貞淑な醜女か』で書いていた気がするが、母語を満足に扱えない人間には、どんな言語だって翻訳することはできないのだ。逆に言うと、母語の力がすさまじい小笠原豊樹のようなひとが、3ヶ国語以上の言語の翻訳を試みなかったことが不思議なくらいである。われながら無茶苦茶なことを書いているが、このひとはそれほどまでにすばらしい翻訳家なのだ。そのことを証明するのには、いくつかの書名をあげるだけでいい。チェーホフの『かわいい女・犬を連れた奥さん』、ブラッドベリの『火星年代記』、そして『プレヴェール詩集』。まったくなんという強力なラインナップだろう。わたしのブログではすべて五つ星、打率100%の恐るべきホームラン王である。すべて異なる言語で書かれているこれらの三作が、すこしの古めかしさも感じさせずにわれわれを恍惚に導いてくれるのは、ひとえにこの知識人のおかげである。
小笠原豊樹は、べつにどこかの大学で教授をしているわけでもない、言わば「在野の」翻訳家である。「在野の」という言葉にわざわざ括弧をつけたのは、この言葉の持つ嫌な響きを彼にまで付着させないためだ。在野の思想家だのなんだのと自称する人びとは、機会さえあればすぐにでも大学教授になって、もっと保障された生活を送りたいと告白しているようなものだ。そういう意識を撥ねつけたいがために、わざわざ「在野である」などと言ってしまうのだ。小笠原豊樹はそんな愚かな真似はしない。彼は周辺に身を置く一介の知識人として、その圧倒的な言語力の生みだすものをわれわれに与えつづけてくれているのだ。ほんとうに、憧れを禁じえない。この本でもそのすばらしさは遺憾なく発揮されている。
「なあ! ズドンとやったってえじゃねえか、え? 税務署に払う金を二千両残したってえじゃねえか、え? 俺にその二千両がありゃよ、いっちょう派手に騒げたのによ。なあ? ばかやろうめが! 税務署に二千両たあ何事だい!」(23ページ)
さて、読売文学賞を受賞したこの本、『マヤコフスキー事件』は、自殺と発表された詩人の変死を解明していこうというルポルタージュ、ミステリーである。ロシア・アヴァンギャルドの旗手のひとりとして知られる詩人に興味津々だったわたしにとって、これほどうってつけの本はなかった。もともとは、詩人の晩年の恋人であったポロンスカヤの回想記を翻訳するつもりではじめたことだったという。ところが幸か不幸か、彼女の三度目の証言を収めた肝心の原稿は行方不明になってしまっていたのだ。
「ここで、ポロンスカヤの三つの文章の翻訳書を出そうという企画は頓挫し、それでも1938年の回想記は基本文献だから、それ一つだけでも纏めておいて無駄にはなるまいと、ちょびちょび翻訳しながら、他の文献なども参照するうちに、妙なことに気づいた。生前のマヤコフスキーを回想している文章は数多いが、それらはすべてジグソーパズルのピースのように、それ自体としては大した意味を持たず、隣近所のピースとくっついて初めて、まったく予想外の新たな存在となる場合が多いということだ。これは、時間的にも空間的にも小さくて無責任な回想にはつきものの、しごく当り前の現象かもしれないが、予想外の新しさが生み出されるという点では、驚くべきことと言わなければならない」(254ページ)
「もちろん、筆者はスコリャーチンを翻訳していたから、マヤコフスキーの死が単なる自殺などではないこと、それが「強いられた死」であることを、肝に銘じていた。しかし、ジグソーパズルを始めたとき、結果としてどのような光景が現れるのかは、全くわからなかった。事件のあと、七、八十年のあいだに散らばったピースを、どんなに丹念に拾い集めたところで、こちらに都合のいい光景が現れるとは限らない。そのことは覚悟していたのだが、パズル遊びをつづけていると、あれよあれよと叫びたくなるほど、くっきりと、詩人の最期が見えてきたのだ」(256ページ)
じっさい、ポロンスカヤの回想記は生前の詩人がどんなひとであったかを大いに語ってくれていて、伝記としての読みごたえも十分なすばらしい文章で、翻訳を刊行する価値に溢れている。詩人としてのマヤコフスキーのイメージはもっと粗暴なのに、ここに描かれている生の人間としてのマヤコフスキーは、なんと愛情に溢れた善人であることか。
「マヤコフスキーは実に瑣末な事柄に恐ろしいほど熱中するひとだった。
例えば、記憶に残っているのは、ワインの壜のラベルを剝がすのが妙に好きだったこと。ラベルが剝がしづらいと苛々したが、やがて、水で濡らすと跡を残さず楽に剝がせることを発見し、まるで少年のように喜ぶのだった。
たいへんな潔癖症で、細菌感染をこわがっていた。手摺には決して摑まらず、ドアをあけるときは、ハンカチでノブをくるんだ。コップは、いつも永いこと丁寧に磨いた。ビールを飲むときは、ジョッキの把手を左手で持つ飲み方を考え出した。そうすれば、他人がくちをつけた所から飲まずにすむというわけだ。そういう点では、とても疑い深くて、風邪をひくことを何よりも恐れていた。ほんのちょっとでも熱が出ると、すぐベッドで寝てしまう」(「ポロンスカヤの回想記」より、46ページ)
「記憶に残っているのは、体具合が悪いとき、私に電話をかけてきて、せっかく女優と知り合ったのだから、そもそも俳優とは何なのか、今までにどんな俳優がいたのかを知りたい。そこで『俳優メドヴェジェフの回想』を読んでいるのだと言った。彼はこの本に夢中で、何度も電話してきては、気に入った部分を電話口で読み上げ、げらげら笑っていた」(「ポロンスカヤの回想記」より、47ページ)
彼がどのような詩を書くひとであるか知りもしないままに、どんどんこの大男に惹きつけられていく。ポロンスカヤの目に映る詩人は子どものようで、未来派だのアヴァンギャルドだのといった芸術運動に与した人間とはとても思えない。
「マヤコフスキーは赤い薔薇の花を買ってきて、こう言った。
「この花、安心して香りを嗅いでいいんですよ、ノーラさん、時間をかけて慎重に選んで、健康そうな売り子から買った花だから大丈夫」
駅では、チョコレートを買いに走ったりして、マヤコフスキーはなんだか落ち着かず、こんなことを言って、またどこかへ走って行ったりした。
「ちょっと機関車の様子を見てきます。ノーラさんをぶじに運んでくれるかどうか、確かめなくっちゃね。すぐ戻りますから」」(「ポロンスカヤの回想記」より、49ページ)
「マヤコフスキーの腕時計のガラスは強化ガラスで、絶対に割れないというのが、自慢のたねだった。ところが、ソチで見たその時計のガラスは、割れていた。どうしたのと訊くと、マヤコフスキーが言うには、一人の女性と言い争ったのだそうな。その女性も、私の時計のガラスは絶対に割れないと言い張った。それではというわけで、二人はお互いの時計のガラスを、がつんとぶつけてみた。結果として、その女性の時計は無事だったが、マヤコフスキーの時計のガラスにはみごとに罅(ひび)が入り、彼はすっかりしょげてしまった」(「ポロンスカヤの回想記」より、53ページ)
ポロンスカヤの回想以外にもおかしなエピソードが数多くあり、これほど伝記に向いた人物はいないと思ってしまうほどだ。
「バリシンは典型的な小市民で、マヤコフスキーの何たるかを全然知らなかったが、住宅不足の折から、このままだと見知らぬ居住者をどんどん当局に入れられてしまうことは目に見えていたので、それよりは、下の階の乾物屋の息子、何だか知らないが学者の卵みたいな若者の友達を、さっさと住まわせるほうが利口かもしれない。
バリシン「その人は、おとなしいひとかね?」
ヤコブソン「ああ、もう、あんなにおとなしい奴は他にいないんじゃないかな」
おとなしいマヤコフスキー! こうして、詩人は十二号区画の一番小さな部屋に入居し、さっそく電話のことなどでバリシンさんと揉めたり、いろいろとユーモラスなエピソードが伝えられているが、それはこの際、関係がない」(126ページ)
「元気です、上機嫌です。クリミア半島を縦横に駆けめぐり、黒海に唾を吐き、詩を朗読し、講演をやっています。あと、一、二週間でモスクワに帰る予定。……」(「年譜ふうの略伝」、母と姉たちに宛てた手紙より、272ページ)
マヤコフスキーがやっていることは時として詩人よりも狂人のようであるが、その言動のすべてに詩情が潜んでいる(それを理解できないとき、ひとはだれかを狂人であると名指すのだろう)。小笠原豊樹はこう書いている。「マヤコフスキーは、言葉の狭い意味では「文学者」でもなければ「革命家」でも「社会運動家」でもなかった。自伝の冒頭で明言している通り、マヤコフスキーは単に「詩人」だったのだ」(99ページ)。
「マヤコフスキーは私の母に電話して、まことに申し訳ありませんが、私が迎えに参りますので、あなたはいらっしゃらないで下さい。と申しますのも、お嬢さんに大きな大きな薔薇の花束を贈りたいのですが、そんな大きな花束を持っていると、まるで恋する中学生みたいで恥ずかしいし、なにぶん、こんなでかい図体でそんなことをしたら滑稽でしょう。ですから、薔薇は二輪だけ持って行くことにしまして……云々と、喋ったのだそうだ」(「ポロンスカヤの回想記」より、54~55ページ)
「マヤコフスキーは、彼が言うところの「質草」を、例えば指輪とか、手袋とか、ハンカチとか、私が身に付けていたものを預からずには、決して私をヤンシンの家に帰そうとしなかった。いつだったか、四角いネッカチーフを私にくれたのはいいが、その四角の対角線の一つを鋏で切って、二つの三角形にすると、一つはきみがいつも持っていてくれと言い、もう一つは、ルビャンカの部屋の電灯に笠のようにかぶせて、一人でいるときこの電灯を眺めれば、きみの一部分がそこにあるみたいな感じで、気が休まると言うのだった」(「ポロンスカヤの回想記」より、77ページ)
彼の心根の優しさは言動の至るところに表れているが、とりわけ以下の箇所は印象的だった。こんな善人が自殺などするわけない、と思わずにはいられない。
「母親について語るとき、マヤコフスキーの言葉は優しさと愛情に溢れていた。母親は、いつも、息子が来るのを辛抱強く待っている。ときどき、そうすれば遊びに来る筈だというように、息子の好きな料理を作ったりしている。そう言って、マヤコフスキーは、滅多に訪ねて行かない自分を罵るのだった。
母親には毎月、日にちを決めて生活費を渡していて、それが一、二日でも遅れると、すごく気に病むのだった。彼の手帳のこんな書き込みを、何度も見たことがある。
《忘れるな、ママに金を渡すこと》
《必ずママに金を!》
あるいはただ、《ママ》とだけ書いてあったりした」(「ポロンスカヤの回想記」より、56~57ページ)
また、この本には「あとがき」のさらにあとに、「年譜ふうの略伝」が付されているのだが、そこには彼の詩作の一部が紹介されていて、そこにこんな詩があった。
「蹄の音。/まるで音楽。/ぐりっぷ/ぐらっぴ/ぐろっぷ/ぐるっぷ/風にからまれ、/氷を履いて、/街はつるつる。/一頭の馬が/ずってんどうと倒れると、/すぐさま/野次馬また野次馬、/クズネツキー通りを裾で掃きにやってきたズボンどもが、群がって、笑い声はきんきんがらがら。/馬ガコロンダヨ!/コロンダヨ馬ガ!/クズネツキー通り全体が笑った。/ただぼく一人その吼え声に/自分の声をまぜなかった。/近寄って/ぼくは見る、/馬の目を……/大きな涙がひとしずく、またひとしずく、/鼻面をころげおち、毛の中に隠れる……すると何かしら共通の/けものの寂しさが/ぼくのなかからピチャピチャと流れ出し、/さらさらと滲み広がった。/〈馬よ、いいんだよ。/馬よ、聴きなさい。/あんたがあいつらより劣ってるなんて、どうしてそんなこと考えるの。/いいかい、/ぼくらはみんなすこしずつ馬なんだよ、/ぼくらはだれでもそれぞれ馬なんだよ〉」(「年譜ふうの略伝」より、284~285ページ)
わたしはこれを読んだとき、すぐさまフランシス・ジャムと吉野弘のことを思い浮かべた。吉野弘の『幻・方法』に、こんな詩があるのだ。
―――――――――
フランシス・ジャム先生
一日の終り。
小屋につながれた驢馬。
驢馬は気の毒な程
沢山の仕事をした。
驢馬は燕麦を食べなかった。
飼主が貧しいので。
敷藁の上に膝を折り驢馬はゆっくり
縄の手綱をしゃぶる。
通りかかって
小屋をのぞいたジャム先生が
胸をうたれて言うことには
「ああわかるんだね 縄の味が!」
ジャム先生も縄をしゃぶる。
神さまとの緊縛をしゃぶる。
古い縄で
大方かえりみられない味だが。
(吉野弘『幻・方法』より、104~105ページ)
―――――――――
マヤコフスキーの優しさは、吉野弘の優しさとも通じている。もちろん、しっかりと読んでもいないくせに断定的なことを言うつもりはないが、マヤコフスキーは少なくとも、わたしがチャトウィンの文章から漠然とイメージしていたような粗暴な人間ではぜんぜんない。彼には女の噂が絶えないが、ナターリヤというまさしく「粗暴な」女性が登場する箇所では、こんな逸話があった。ここを読んだとき、わたしはげらげら笑った。
「大柄な美女でありながら、話し声は異様に姦しく、起居動作はコムソモールふうに粗暴。待ち合せの時刻はきわめてルーズだし、約束を平気で破る。ナターリヤのほうからすれば、自分たちの時代の英雄だと思っていたマヤコフスキーが、自分たちとは全然違って、いつもレディ・ファーストで、個人的に詩を読んでくれるときは、囁くような低い声であることが、驚きであり、新たな魅力でもあった。マヤコフスキーは、この娘に贈呈した本の献辞として、「たとえ愛し合っていなくても、待ち合せ時刻はきちんと守ること」と書き、歩きながら大声で喋るナターリヤに、「もうすこしちいさな声でやさしく話しかけてくれよ、ぼくは、これでも、抒情詩人なんだから!」と言ったとか」(「年譜ふうの略伝」より、306ページ)
たしかにこの本を読んでみても、マヤコフスキーは信じがたいほどたくさんの美女に囲まれてはいるのだが、それは彼の人間としての魅力が為せる業であって、なにもドンファンを気取っていたというわけではない。女に好かれるのと同じかそれ以上に、男たちだって彼に好意を抱かずにはいられないのだから。
「きみを何時間も待ってる俺は、もうウエートレス連中の笑い者になっちゃってるよ、と彼は言うのだった。お願い、もう喫茶店で会うのはやめましょうと、私は言った。絶対遅れずに来るなんて、とても約束できないの。だが、マヤコフスキーはいつもこんなふうに答えるのだった。
「ウエートレスなんか勝手に笑ってりゃいいさ。俺は何時間でも待ってるよ。いくら遅れても、来てくれれば満足なんだから!」」(「ポロンスカヤの回想記」より、63ページ)
「かわいいエーリック!/……当分モスクワに行けないことは非常に残念。きみの憂鬱の罰として、きみを絞め殺したいというあくなき願いは、しばらく延期しなければならない。/きみの唯一の救いの道は、早くこっちへ来て、親しくぼくの許しを乞うこと。/エーリック、ほんとに、早くいらっしゃい!/ぼくは煙草を吸っています。/ぼくの現在の社会的・個人的活動のすべてはこれに尽きる……」(「年譜ふうの略伝」、エルザ・カガンへの手紙より、266ページ)
「それでもいつかは連れて行くよ、/きみひとりを、でなければ、きみとパリを」(「年譜ふうの略伝」、タチヤーナ・ヤーコヴレワへの手紙より、316ページ)
ここではあまり深くは触れられていないが、マヤコフスキーの交友関係も興味深い。パステルナークが敬愛していたという話が有名だが、この本を読んでいるとエルザ・トリオレやルイ・アラゴンといった見知った名前のほかに、作曲家のショスタコーヴィチまで登場してくる。彼の戯曲『南京虫』の音楽を担当していたのだという。
「ビザに記された滞在期限が近づき、四月三十日、パリのグランド・ショミエールというレストランで、それはグランドということばにふさわしくない小さな店だったが、そこでマヤコフスキーの送別会が開かれた。出席者は、詩人とタチヤーナのほか、エルザ・トリオレ、ルイ・アラゴン、詩人の友人のレフ・ニクーリン、そしてニクーリンが〈凄まじいレーサー〉と呼んだベルトラン・デュプレッシ子爵」(「年譜ふうの略伝」より、322ページ)
では、これほどまでに人びとを惹きつける、だれからも愛されるような人間が、どうして「自殺」を遂げたのか。理由が見当たらないわけではない。その晩年、なかでも最期の一週間は、マヤコフスキーは異様に神経質になっていて、こんな言葉まで残している。「私はソビエト共和国連邦で一番の幸せ者だから、自殺しなきゃならないんです」(マヤコフスキーの言葉、194ページ)。だがこれは、「自殺を強制されている」と告白しているようなものではないか。
「このパーティの初め頃、私たちがまだ食卓に向かって並んで坐り、小声でお喋りをしていたとき、マヤコフスキーが思わず口を滑らせた。
「ああ、かみさま、なんてこった!」
私はすかさず言った。
「まあ、変れば変るものですこと! マヤコフスキーが『かみさま』だなんて! あなた、神を信じてらっしゃるの?」
彼は答えた。
「ああ、俺、もう、何を信じてるのか、自分でもわかんなくなってるんだ!」」(「ポロンスカヤの回想記」より、86~87ページ)
同時代人ではトロツキーでさえ、彼の自殺に疑義を呈しているように見える。そのトロツキーがどんなに悲惨な最期を遂げたかを思い出してみるだけでも、これが「仕組まれた死」であったというイメージを払拭することができなくなる。
「四月十五日のプラウダ紙の記事を、トロツキーはばっさり切り捨てる。「この自殺が詩人の社会的・文学的活動とは全く無関係の、純粋に個人的な理由から惹起されたもの……」とは、一体どういう寝言なのか。詩人の「社会的・文学的活動」とは詩人の人生そのものだから、これは人生とは全く無関係の自殺ということになる。なんという馬鹿げた非論理だろう」(150ページ)
やはり、下手人がいたにちがいない。とはいえ、決定的な証拠がない。だが、マヤコフスキーの生涯にわたる恋人の一人であり、彼女の夫も交えた三人での奇妙な同居生活を送っていたリーリャ・ブリークという女性が、夫婦揃ってOGPU(いわゆる秘密警察)の諜報員であったという事実は、殺害の直接的な証拠ではないにしても、ほとんど決定的ではないか。まったくなんという女狐だろう。小笠原豊樹は嫌悪感もあらわに、この女を切って捨てている。
「ところで、リーリャ・ブリークという人について、これ以上何かを書き連ねる必要があるだろうか。他の研究者の気持は知らず、少なくとも本書の筆者は、この女性の強欲や、自己正当化や、嘘の記述など、要するにでたらめで、いい加減な生き方には、すっかり飽きてしまった。このような人物につきものの、妙に高飛車な「ファン」や擁護者の存在にも。
詩人の死後のリーリャの生涯を簡略に辿って、この方面のことはもうお終いにしよう。次章以降も、話の都合上、名前はまた出てくるかもしれないが、筆者の人間的関心はもはやこの女性にはない。前出スコリャーチン氏は、この女性について、「真実と虚偽の狭間に生きた、実に気の毒な人」というふうに述べていたが、まあ、ヨーロッパ風に礼儀正しく語るなら、そのあたりが人物評としては妥当な線なのだろう。「真実と虚偽の狭間に生きた」には全く異議がないが、「気の毒」だとは筆者は全然思ったことがない。気の毒というなら、マヤコフスキーとポロンスカヤはその最たるものであって、ブリーク夫妻のどこが気の毒なのだろうか」(102ページ)
怒りに鼓動が高まりさえしていたところでこの文章に行き当たったため、溜飲を下げる思いだった。政治がらみの暗殺というのは、真相を暴くのになんと月日を要するものなのか。
「直前のタクシー代うんぬんのやりとりが、女優としての会話再生あるいは転写の能力を発揮して、生き生きと書けていたとするなら、この銃声の場が突如として曖昧かつ稀薄になるのはどうしたことか。銃声のショックを劇的に伝えたかったのか。
いや、ここでポロンスカヤは非常にむずかしい立場に立たされたのだと、筆者は見る。本当のことを書くのは憚られるが、かといって嘘は書きたくない、というディレンマ。そのディレンマの圧力が、文体の甚だしい揺れを引き起こした」(108~109ページ)
「この弾丸の経路ひとつを見ても、これが自殺でないことは明らかだと筆者は思う。なんなら、玩具のピストルを用いて、この場面を再現してごらんなさい。自殺者が右手で自分の左胸に拳銃を当てて、右の腰部に向かって発射することは非常に困難だし、左手でそれを行うことは、右手の場合ほど困難ではないとしても、相当に難しい作業だ。ここに右利きの加害者が現れて、あなたと正面から相対し、あなたの斜め上から拳銃を発射するなら、記録されているような結果に達することは、むしろ自然ではないだろうか」(229~230ページ)
この本はポロンスカヤの回想記を土台に、さまざまな「ジグソーパズルのピース」、すなわち他の人びとの証言を繋げていった結晶である。ここから決定的な証拠が出てこないことは小笠原豊樹にだってわかりきったことだったにちがいないが、わたしたちがこの労作を閉じるときには、事件の真相は「ほとんど決定的」である。あとは政府の文書館からかどこからか、動かぬ証拠がひょっこり現れるのを待つだけだ。読者をこの境地に導くまでに、小笠原豊樹が重ねた苦労は以下の文章からも滲み出ている。
「マヤコフスキーの最後の日々に関して、さまざまな人が過去に書いた、さまざまな文書(大上段に振りかぶった論文とか、単なるメモ程度の回想とか)を読み、生誕百周年以降の新たな資料を漁るうちに、筆者は思ったのだった。人間とは、おしなべて、いい加減な、記憶力の弱い、そもそも記憶すべきことを観察する能力が乏しい、それでいて自分の哀れな記憶にあくまでも固執する、ちょっと手に負えない生き物なのか」(123ページ)
「いったい、私たちは回想記をいつ書いたらよいのか。回想すべきことがたくさんある老年には記憶は弱く不確かで、正確な記憶を誇れる青春には、回想すべきことはそう多くない。この矛盾をどうしたらいい?」(130~131ページ)
それにしても、マヤコフスキーがブルガーコフのような完全な窒息状態に追い込まれなかったのが不思議である。彼の初期の詩集『ズボンをはいた雲』は、検閲によっておびただしい量の削除を要請されていたのだ。
「序と1の部分は無疵ですんだが、2は四カ所二十七行、3は五カ所十四行、4に至っては三カ所四十七行と、ずたずたに切られている。当時の検閲の基準のようなものは、この本に現れた限りでは、最も許されないのが宗教への、神への冒瀆であり、次にはエロティシズム、そして反体制的言論という順序だったことがわかる」(「年譜ふうの略伝」より、278ページ)
人類の歴史上、検閲ほどくだらないものは存在しないとさえ思えてくる。しかしこれはどの時代でも常に存在し、人びとをうんざりさせつづけているのだった。だがとにかく、マヤコフスキーには安易な謀殺を当局にためらわせるだけの、名声と影響力があった。ブルガーコフが長生きし、発表したかもしれない作品を夢見る必要は、マヤコフスキーに関してはない。そう言えるはずだったのかもしれない。これは単に一国家の問題ではなく、未来に対する不正だとさえ思う。
「マヤコフスキーの自作朗読はすばらしかった。異様に強い表現力と、思いがけないイントネーション。そして朗読者としての技術や、陰影の付け方と、詩人のリズミカルな意識とが、完全に結びついていた。それまでに、マヤコフスキーの詩を本で読んで、詩の行が切れ切れになっていることの意味がわからなかったとすれば、マヤコフスキーの朗読のあとでは、その意味や必然性が、リズムのためにもそれは必要なのだということも、すぐわかった。
マヤコフスキーの声は非常に力強くて低く、その声を彼は完璧に操っていた。感情を昂らせ、情熱をこめて、自作を聞き手に伝達し、詩句が滑稽な対話のようになっている場合は、たいそうユーモラスに読んだ。マヤコフスキーはすばらしい詩人だが、役者としてもたいへんな才能の持ち主だと私は感じた」(「ポロンスカヤの回想記」より、44ページ)
ところでこの本を読んでいると、マヤコフスキーはいたるところで自身の詩を朗読している。講演会も開いており、彼の詩論がうかがえ、大変興味深い。
「エセーニンが読まれる、それは結構。ブロークが読まれる、それも結構。ベズィメンスキーが読まれる、それもまた結構。私にしてみれば、自分以外の詩人が読まれるのは、すべて結構なんだ。
というわけで、世間が詩人の評価に使う物差しは、一つしかありません。
今までに存在したすべての詩人、今生きているすべての詩人は、過去においても現在においても、万人が結構と言うような、みんなに気に入られるような作品を書いている。すなわち、優美な抒情詩をね。
ところが、私が生涯にわたってやってきたのは、過去においても現在においても、だれにも気に入られないような作品を書くことなんです」(マヤコフスキーの言葉、157ページ)
「私は他の詩人たちと競争をしているわけじゃない。詩人とは、こちらの一方的な基準で測るものじゃありません。そんなことは馬鹿げている……」(マヤコフスキーの言葉、159ページ)
マヤコフスキーの詩集は、ほかならぬ小笠原豊樹の翻訳で、今年の5月から土曜社というすばらしい出版社によって刊行されはじめた。この「マヤコフスキー叢書」は洋書のペーパーバックのような装幀で、全15巻予定。現在までに3巻が刊行されているが、これについてはできるだけ刊行に遅れずに読んでいきたいと思っている。特に待ち遠しいのは13巻目の戯曲『南京虫』だ。以下の〈読みたくなった本〉に理由を示しているので、興味のある方・湧いた方は、いっしょにこの叢書を応援しましょう。
「時間は恐るべき速さで疾走しているけれども、それは空しい速さではなかった。時間という名の強風に吹き飛ばされて、無意味な言説や、単なるレトリックは消え失せてしまう。吹き飛ばされずに残る言葉こそが私たちの血肉であり、私たちは血肉化した言葉を頼りに生きていくしかないだろう。そのような環境では、詩は本来の歌や踊りを取り戻し、たいそう陽気な友人として私たちのかたわらから離れないかもしれない。かつての犯罪だらけの地球の、犯人や犯行時刻の特定と同じく、それはまだまだ先のことなのだろうが」(239~240ページ)
小笠原豊樹が日本にいるということを、どんなに喜んだって喜びすぎるということはない。80冊を超えるという訳書や、岩田宏名義で刊行されている彼自身の小説を、時間をかけてすべて読んでみたいとさえ思った。こんなに尊敬できるひとは、いない。
〈現在までに刊行中の「マヤコフスキー叢書」〉
1. 『ズボンをはいた雲』
2. 『悲劇ヴラジーミル・マヤコフスキー』
3. 『背骨のフルート』
※以下は続刊予定。
4. 『戦争と世界』
5. 『人間』
6. 『ミステリヤ・ブッフ』
〈読みたくなった本〉
マヤコフスキー『これについて』
「この長大な詩の主人公はマヤコフスキー自身で、時はクリスマス・イブ。詩人は熊に変身して、流氷に乗り、ネヴァ河を下って行って、とある橋をくぐるとき、その欄干に「詩の大綱で縛りつけられ」、流れを見つめている、七年前の自分自身を見る。その若いマヤコフスキーが七年後の現在のマヤコフスキーに呪いの言葉を投げる」(211~212ページ)
マヤコフスキー『聴いてくれ!』
「聴いてくれ!/だって、もしも星々に灯がともされるのなら/それ即ち、だれかに灯が必要だからだろう?/それ即ち、だれかが星あれと望むからだろう?/それ即ち、だれかがあれらのちっぽけな痰のかたまりを真珠と呼ぶからだろう?……」(「年譜ふうの略伝」より、270ページ)
マヤコフスキー『馬との友好関係』
上掲。
マヤコフスキー『南京虫』
「「お前、なんだ、黒いとこでだけ弾いてるじゃないか。プロレタリアには半分しか弾かねえのか。ブルジョアには全部弾くのか」「何をおっしゃるんだね、市民。白いキーも、これこの通り、特に注意して弾いてますさ」「なに、白いとこだけ丁寧に弾くってのか。全部で弾け!……」「全部で弾いてるってのに!」「この野郎、するてえと白の仲間か、協調主義者か」「同志……だってこの曲は……ハ長調だからね」「だれだ、〈立ち往生〉と言ったのは。新郎新婦の前だぞ、こいつ!(ギターで首筋を殴りつける)」『南京虫』3場」(「年譜ふうの略伝」より、319ページ)
未来派アンソロジー『社会の趣味を殴る』の冒頭マニフェスト。
「われわれの最初の美と驚異を読む人々へ。/われわれだけがわれわれの時代の顔だ。われわれは文字によって時の角笛を吹き鳴らす。/過去は狭い。アカデミーも、プーシキンも、象形文字以上に不得要領だ。/プーシキン、ドストエフスキー、トルストイ、その他もろもろを現代という名の汽船から投げ捨てるがいい。……/われわれは摩天楼の高みから、かれらの無能を見る。/われわれは命じる。以下の詩人の諸権利を尊ぶべし。/1 任意の生産的なことばにより、辞書の容積を増大させること(言葉の新機軸)。/2 それら以前に存在したことばに対する執念深い憎しみ。……/たとえわれわれの詩行に依然、諸君の〈常識〉や〈良き趣味〉の不潔な刻印が残っているとしても、そこにはすでにして初めて自己価値のことば(自己形成のことば)の新しい未来の美の稲妻がひらめくのだ。/モスクワ、1912年12月」(「年譜ふうの略伝」より、266ページ)
パトリシア・トムスン『マンハッタンのマヤコフスキー、恋の物語』
「「アメリカにいた娘」は「モスクワにいた娘」とは比較にならないほど幸せだったようだ。母親は1985年に亡くなる少し前に、マヤコフスキーとの経緯を自らの声で録音テープに収め、娘に遺した。晩年の母から直接聞いた話と、遺されたテープとを元にして、パトリシアは母のつれあいが亡くなったあと、母と詩人の恋を『マンハッタンのマヤコフスキー、恋の物語』と題する本に描き出した。これは、自分の母親とマヤコフスキーとの情事を、実の娘が面白可笑しく暴いた本ということではない。自分はロシアのマヤコフスキーという詩人の娘だと母親には聞かされたけれども、それは単なる生物学的な意味で娘ということではなく、自分という存在はあくまでも両親の熱烈な愛の結晶でなければならない、という思いに貫かれた、美しい本なのだ」(29~30ページ)
A・リペッリーノ『マヤコフスキーとロシヤ・アヴァンギャルド演劇』
「マヤコフスキーという詩人を、このように、スコマロッホふうの道化とする考え方は、ゴルプ氏が初めてではない。否定的な意味合いでは、だれよりも、あのレーニンが、あるとき側近に、あんなマヤコフスキーみたいな道化は革命には必要ない、と言ったのだそうな。逆に肯定的な意味合いでは、例えば『マヤコフスキーとロシヤ・アヴァンギャルド演劇』(1971年刊、小平武訳)の著者、A・リペッリーノは、この詩人の大道芸や人形劇への好みをはっきりと評価し、アヴァンギャルド芸術の内部の道化性をあらわにしてくれた」(22ページ)
ワレンチン・スコリャーチン『きみの出番だ、同志モーゼル』
「乏しい資料を、さまざまな手段によって搔き集め、スコリャーチンはこの二人の生涯を、そしてまた他の秘密工作員やテロ実行犯たちの経歴を、丹念に描き出す。資料が欠落している部分には、独特の洞察力を用いて、心理的な膠(にかわ)のようなものを拵え、資料と資料を繋ぎ合せる。こうして描き出された画面は、移動と冒険、野望と挫折の入り交じった、「目がまわるような」せわしない風景だ。スコリャーチンが他の研究者に先んじて纏めた。著書の中のこのような部分は、ある意味では単調な詩人の履歴よりもよほど面白く、政治的悪党や、アバンチュリストや、工作員のたぐいの実像を知りたいひとには、必読の文献となるのではないだろうか」(120ページ)
チェスタトン『ブラウン神父の無心』
「ここで突然思い出したのは、イギリス推理小説の古典として並びない、あのG・K・チェスタトンの『見えざる男』という有名な短編(『ブラウン神父の童心』の中の一編)だ。探偵役をつとめるブラウン神父は、人が見ていても見ていないのと同様の「見えざる男」について、こんなふうに語る。
「……かりに一人のご婦人が、田舎の別荘にいる友人にこう訊くとする――《どなたか、ごいっしょにご滞在ですか?》ですが相手は――《ええ、執事が一人に、馬丁が三人、それから小間使などがいっしょにおりますわ》とは答えませんでしょう。同じ部屋に小間使もおり、自分の椅子のすぐうしろに執事がいたとしても、《どなたもここにはおりません》と答えますよ。あなたがおっしゃるような人はおりません、という意味でな。だが、伝染病のことで医者が、《この家には誰がおりますかとたずねた場合はどうでしょう。その婦人は執事や小間使などをそっくり念頭に置いて答えるでしょうな。言葉というものはすべてこんなふうに使われておる……」(中村保男訳)」(142ページ)
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ブルガーコフ『プーシキン』
「いや、」燃えもせず腐りもせぬ原稿というものを、ポロンスカヤと同じようにノート何冊にもわけて書き残し、1940年に死んだミハイル・ブルガーコフは、あの大長篇『マスターとマルガリータ』や、数多くの戯曲を、すこぶる新鮮な果実のように私たちに贈ってくれた。戯曲の一つに『プーシキン』というのがあり、これは30年代半ばに書かれたものだが、作者の死後、戦争中の43年にモスクワ芸術座によって初演され、その後は『最後の日々』という外題で、さかんに方々で上演されている」(206ページ)
アレクサンドル・プーシキン/バトゥーム (群像社ライブラリー)
- 作者: ミハイル・アファナーシエヴィチブルガーコフ,石原公道
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