すみれの花の砂糖づけ
中東に住んでいるひとならだれでも知っているとおり、イスラム教国では先日より断食月(ラマダン)に入っている。お日さまが出ているあいだは飲食禁止、という、あれである。日中はレストランなども閉まってしまうので、わたしのような非イスラム教徒にとっても、まったく無関係というわけにはいかない。わたしはもともと食が細い人間なので(一日一食で足りる)、日中に飲み食いできないというのは、べつに大した問題ではないのだが、ここに、「日中は公共の場で煙草を吸ってはいけない」という条項が付け加えられるために、事情が変わってくる。なにせ、煙草が吸えないと、息をしている気がしないのだ。というわけで、断食月中は、いつも以上に引きこもることになる。今日も、お休みだったので詩集を漁りに本屋へ行こうと考えていたのだが、煙草が吸えないことを考えた末、外出を諦めてしまった。無理、無理。でも、小池昌代に目を開かされてからというもの、日本語で書かれた詩が読みたくて仕方ない。どこかに詩が隠れていないものか、と、自宅の本の山をひっくり返してみたところ、最初に出てきたのはこの一冊だった。
これ、感想を書いたことがなかったんだなあ、と、ちょっと驚いている。すでに何度も読んでいる詩集なのだ。一篇が短くって、水を飲むみたいにすんなり入ってくるため、一冊をあっという間に、もったいないほどの速さで読み終えてしまえる。今回にしたって、発掘から読み終えるまでに、たぶん一時間もかかっていない。すでにいろいろなページの端が折られていて、かつての自分がどの詩を良いと思ったのかも合わせて、楽しく懐かしく読み返した。いま読んでも、これは、と思うのは、やはり以下の「父に」である。これはもう、掛け値なしにすばらしい。
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父に
病院という
白い四角いとうふみたいな場所で
あなたのいのちがすこしずつ削られていくあいだ
私はおとこの腕の中にいました
たとえばあなたの湯呑みはここにあるのに
あなたはどこにもいないのですね
むかし
母がうっかり茶碗を割ると
あなたはきびしい顔で私に
かなしんではいけない
と 言いましたね
かたちあるものはいつか壊れるのだからと
かなしめば ママを責めることになるからと
あなたの唐突な
――そして永遠の――
不在を
かなしめば それはあなたを責めることになるのでしょうか
あの日
病院のベッドで
もう疲れたよ
と言ったあなたに
ほんとうは
じゃあもう死んでもいいよ
と
言ってあげたかった
言えなかったけど。
そのすこしまえ
煙草をすいたいと言ったあなたにも
ほんとうは
じゃあもうすっちゃいなよ
と
言ってあげたかった
きっともうじき死んじゃうんだから
と。
言えなかったけど。
ごめんね。
さよなら、
私も じきにいきます。
いまじゃないけど。
(「父に」、82~85ページ)
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もともと、『とるにたらないものもの』や阿部和重との対談(『和子の部屋』)を読むとはっきりわかるとおり、江國香織というのは、日本語の感覚にとびきり敏感なひとなのだ。小説家というのはだれしも、彼女のように、言葉に対して意識的でなければならない、とさえ思う。詩情を大切にするというのは、なにも詩人に対してのみ要求されていることではなく、物書きを自称するすべてのひとに必要なことなのだ。
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うしなう
私をうしないたくない
と
あなたはいうけれど
私をうしなえるのは
あなただけだよ
遠くにいかないでほしい
と
あなたはいうけれど
私を遠くにやれるのは
あなただけだよ
びっくりしちゃうな
もしかしてあなた
私をうしないかけているの?
(「うしなう」、58~59ページ)
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音楽にまつわるエッセイ、『雨はコーラがのめない』のなかで大活躍するコッカスパニエル、雨が、この詩集ですでに姿を現していることに気がついた。
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雨、コッカスパニエル、3ヵ月
けさ、雨を庭にだしてみました
はじめは しりごみしていましたが
芝生の上をふしぎそうに歩いて
きもちよさそうにおしっこをしました
落ちていた白い椿の花を
やおら ぱくりと たべてしまったので
私はびっくりしました
大丈夫ですよ、犬ですから
雨は背中でそんなことを言ったようでした
それならいいけれど
私はそうこたえましたが心配でした
それ、だれですか
植込みに鼻をつっこんだ姿勢で
雨がふいに言いました
あなたが しじゅう考えている男
一緒に庭にでられない男なんていないもおなじ
さわれない男なんていないもおなじ
僕のほうがずっと役に立ちます
そう言って
すこやかなうんちを一つ しました
(「雨、コッカスパニエル、3ヵ月」、114~115ページ)
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これ以外にも、犬にただならぬ親愛の情を寄せた詩が、いくつもある。この詩集を「犬文学」に認定した理由だ。
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ふらふら
ばかだね
あたしが犬なら
飼主はあたしにそう言うだろう
いいからここでお寝み
あたしが犬なら
飼主はあたしにそう言うだろう
でもあたしは犬じゃないので
そう言ってくれるひとをさがして
ふらふら
ふらふら
してしまう
(「ふらふら」、24~25ページ)
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深夜あなたはそこにいて
深夜あなたはそこにいて
私はなぜかここにいる
犬なら遠吠えするのに
小鳥ならとんでいけるのに
猫なら家をすてるのに
(「深夜あなたはそこにいて」、34ページ)
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もちろん、恋愛が主題になっているものも、数多くある。というか、江國香織の読者たちがまず求めているのは、そういう詩なのかもしれない。
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遊園地
キャラメルの
男の子用のおまけみたいなあなたと
女の子用のおまけみたいなあたしが恋をしたから
世界は急に遊園地になった
閉園時間なんて誰が気にする?
ずっと
遊んでいられるものだと思ってたのに
(「遊園地」、28ページ)
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ばかげてあかるい日ざしのなかで
ばかげてあかるい日ざしのなかで
あたしはその教会の中庭に
一人の男と立っていた
あのガーゴイルになりたい
と、あたしが言ったら
一人で?
と、男がきいた
それで あたしたちは約束をした
いつかガーゴイルになるときは
いっしょに
ぴったりくっついたかたちで
えいえんに
はなれないガーゴイルになろうと
あのとき
どうして一人でガーゴイルになってしまわなかったんだろう
あのときなら
男は追ってきてくれたかもしれなかったのに
ばかげてあかるい日ざしのなかで
いっしょに
ガーゴイルになれたかもしれなかったのに
(「ばかげてあかるい日ざしのなかで」、48~49ページ)
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小説作品を読んだことがあるひとなら知っていると思うが、彼女の描く肉体関係には、屈折したものが多い。でも、その性愛にいやらしさは微塵もなく、あるのは、性交というのは自然なことなんだよ、と、真っ向から告げられたときの気恥ずかしさである。快楽を恥じることなんてない、と言われてしまったときの、矛盾した羞恥心だ。
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願い
いつまでも いつまでも あなたと寝たい
私の願いはそれだけです
よあけも まひるも 夕方も
ベッドであなたとひとつでいたい
雨のひも 風のひも
風邪ぎみのひも 空腹のひも
がっしりくっついて あなたといたい
私の細胞のひとつひとつが あなたを味わう
あなたの細胞のひとつひとつが 私でみちる
体中の血がいれかわるまで
体温をすべてうばうまで
もう足の指いっぽん動かせない
と
あなたが言うまで
もう寝返りもうてない
と
私が言うまで
もう首がもちあがらない
と
あなたが言うまで
いつまでも いつまでも あなたと寝たい
くっついたまま としをとりたい
何度も何度も あなたとしたい
地球があきれて
自転も 公転も
やめるまで
(「願い」、110~112ページ)
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たまに読んでみて、やっぱり江國香織っていいな、と思った。このひとの言葉に対する意識はあまりにあけすけというか、正直、目に止まりすぎるところがあるため、読んでいて疲れてしまうことがあるほどなのだけれど、そういうところも含めて、彼女はやっぱり唯一無二の存在なのだと思う。しばらくしたら、また読み返したい。この詩集は、ふだん詩を読み慣れていないひとにもおすすめできる、とても良い本だ。