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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

和子の部屋

 友人に魅力を熱弁されたのがきっかけで手に取った、阿部和重の対談集。7月末に刊行されたばかりの、『小説トリッパー』にて連載されていたコラムをまとめたもの。

和子の部屋 小説家のための人生相談

和子の部屋 小説家のための人生相談

 

阿部和重『和子の部屋 小説家のための人生相談』朝日新聞出版、2011年。


 まず、表紙がすばらしい。ビートルズのアルバム『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』のジャケットを模倣しながら、前列に阿部和重本人や対談相手たちの肖像が置かれ、後列にはなんと谷崎潤一郎太宰治宮澤賢治カフカボルヘスやジョイスやベケットプルーストまで並んでいる。あ、ジュネもいた! まったくもって、何時間眺めていても飽きない表紙なのである。この小さな写真ではとても判別できないと思うので、是非とも書店で実際に手にとってみてもらいたい。友だちと一緒に眺めて、きゃあきゃあ言いたい類の装幀だ。

 対談、という形式がとても好きだ。プラトンの対話篇をわざわざ引くまでもなく、話し手と聞き手がいることで、議論はずっとわかりやすくなる。ひとりで書いていたら絶対に出てこないような話題も登場して、話はとても多面的になる。多面的になりすぎて破綻してしまっているような対談もあるけれど、進行を阿部和重に任せておけば、まちがいない。この人のあざやかな進行ぶりは、うっとりしてしまうほどだ。

 以下は対談相手の顔ぶれと、それぞれの章題。日本文学には詳しくないのであまり勝手なことは言えないのだが、そうそうたる顔ぶれ、と言えるのではないだろうか。このわたしにとってですら、読んだことのない作家はほとんどいない。

角田光代「幸福と小説は両立するの?」
江國香織「言葉しか信じられません」
川上未映子「怖くて仕方ないのです」
金原ひとみ「毎日プレッシャーで吐きそうです」
朝吹真理子「書くことの終わりが見えません」
綿矢りさ「片想いが実らない女です」
加藤知恵&島本理生「誰と付き合えばいいですか?」
川上弘美「幻想だったのかもしれません」
桐野夏生「近頃、ビビっとこないのです」

 対談のルールとしては、ゲストが書いてきた「相談状」を阿部和重がその場で(!)読んで、それをもとに話を膨らませていく。章題だけでは内容が想像できないものも多いが、どの悩みも、ちょっとおかしくなってしまうほど切実なものばかりだ。とはいえ、対談相手の女たちから見た男の代表者としても、作家という職業の先輩としても、阿部和重はとても論理的に、そして真摯に、彼女たちの悩みと向き合っている。それがとても恰好いい。人によってはどうでもいいと感じられそうなことでも、この男は絶対に茶化したりはしない。

角田:私は、小説を書く人には、多かれ少なかれ屈託があると思っています。思春期にひとつの悩みもなく、影のない青春を謳歌し、ずっとしあわせに生きてきた人でも小説を書くことはできるでしょうが、でもそんなふうに無邪気に屈託なく暮らしてきた人は、わざわざ小説を書こうとは思わないのではないかと」(対、角田光代「幸福と小説は両立するの?」より、12ページ)

 ゲストとして招かれているのは、女性作家たちばかりだ。彼女たちの衒いのなさ、誠実さに、どきどきした。男性作家だったらなかなかこうはいかず、これほど赤裸々に自分を見せることはしなかった、いや、できなかっただろう。阿部和重の人間的な魅力、懐の広さというものも大いに寄与しているのだろうが、それにしても感心してしまう。その阿部和重も、こんなことを言っている。

阿部:どうも! この年になってまたしても、仕事絡みの人間関係にほとほとうんざりしてしまい、もううざったいだけの男どもなどすべて断ち切って、これからは女性のみで頑張って業界を盛り上げていこうと決意を新たにした超ポジティブ状態の和子こと、阿部和重です」(対、川上未映子「怖くて仕方ないのです」より、66ページ)

「――ところで、作家が人生について語ると、結局は小説について語ることになりました。
 阿部:意図的にそう誘導したわけでもないのに、自然となりましたね。職業だから当たり前といえるのかもしれないけれど、作家にとって創作は日常生活と切り離せないものだと改めて実感した。今回ご登場くださったのは、全員が女性の作家の方たちだったわけですが、男性作家だったらどうなったでしょうね。もしかしたらこんなにさらっとは、創作とからめた話にはならなかったかもしれない。いずれにしても、度量のひろいゲストに恵まれましたね」(「あとがきにかえて」より、273ページ)

 上にもあるとおり、話題は常に人生相談から、創作そのものへと繋がっていく。つまり、普段作家たちがほとんど口にすることのない、創作理論やその悩みが開陳されているのだ。これが、とてもとても面白い。なにせ、よくよく考えれば当たり前かもしれないが、これがまた作家によって千差万別なのだ。しかもそれを語っているのは、いつか小説家になりたいと夢みているような人びとではなく、すでに何冊もの著作を刊行している人びとなのである。

阿部:さっき、「阿部和重」として書くことに不自由さを感じていると言ったけど、あらゆる作家には書き方の癖だけでなく、発想の癖がついてまわり、いま書いているものは明らかにそれまで自分が書いてきたものの延長線上に存在している。僕はそのことにすこし嫌気がさしている」(対、角田光代「幸福と小説は両立するの?」より、25ページ)

阿部:シンプルなやり方ってことで言えば、登場人物に名前と着ている服と職業を与えれば、案外そのくらいで結構、ひとりの人間の人物像が具体的に浮かんできますよね。
 金原:たしかに、書いているときにいちばん悩むのが、名前と職業です。
 阿部:名前はうざいですよね。名前なんかなきゃいいのにと、僕もしょっちゅう思います」(対、金原ひとみ「毎日プレッシャーで吐きそうです」より、112ページ)

 川上未映子の言葉にも、印象的なものが多かった。たしかに、短篇小説的な長篇小説ってあるよな、と思う。長篇小説の醍醐味たる、複雑な構成や伏線などをまるで利用していないような。それが「利用していない」のではなく、「利用できていない」可能性があることなど、微塵も感じたことがなかった。思えば、長篇小説を絶対に書けない作家という人たちは確実にいて、アンドレイ・クルコフなどは『ペンギンの憂鬱』のなかで、そういう短篇作家を主人公に長篇小説を書いているというのに。

川上:『ヘヴン』に関しては、ふたつの感想があります。ひとつは、いま持てる力を全部出し、やれることはやったぞという清々しさ。そしてもうひとつは、これは長い短篇だったなあという反省です。
 阿部:「長い短篇」の意味するところは?
 川上:長篇の書き方が自分はなにもわかっていなかった、短篇的な方法を使って乗り切ってしまったとの認識を得つつ、一方で、長篇を書く苦しさと達成感の一端にはなんとか触れられたという意味です」(対、川上未映子「怖くて仕方ないのです」より、85ページ)

川上:たとえば部屋に入って出るまでを3行で済ませることができるのも、模様や室温まで描いて100行費やすことができるのも小説における描写の特権なので、どこでやめるべきかの判断がいちいち難しかったように思います。いわば、同時多発的に起こる問題を同時にクリアしていく作業が、初めての長篇にはついてまわりました」(対、川上未映子「怖くて仕方ないのです」より、89ページ)

 でも、なによりも胸に響いたのは江國香織との回である。今までここで書いたことはないが、じつはわたしには彼女の大ファンだった時期があって、『赤い長靴』ぐらいまでの著作はすべて読んでいた。彼女の悩みというのが、またとんでもない代物なのだ。少し長いけれど、「相談状」を全文引用してしまおう。

「和子様

 私は言葉にとらわれています。何ものにもとらわれず、自由なたましいで、ものを見たり聞いたり、読んだり書いたりするのが大事なことなのに。
 普通、何ものにもとらわれず、という場合の「何もの」とはたぶん世間とか利害関係とか、常識とか巷に溢れる情報とか、偏見とか物欲とか名誉欲とか、場合によっては知識や情などもさして使われるのだと思われますが、幸い私はもともとそれらの持ち合わせがとても少いので、そういったものにとらわれる心配はありません。でも、言葉にだけは、いかんともし難くとらわれの身です。
 たとえば誰かに何かを教わって、「わかった」と思った瞬間に、「わかった気になっている」という言葉が浮かび、そちらの方がより正確な表現だと感じます。でも、一般的に日本語で「わかった気になっている」と言えば、わかっていないという意味ではないでしょうか。私は混乱します。わかったと思ったのに。
 たとえば私は何かを食べて、おいしいとかまずいとか、さっぱりしているとかくどいとか、言葉にしない限りそれがどんな味なのかわかりません。
 自分の感情もそうです。悲しいことがあっても、悲しい、と言葉にして思わない限り、自分がどんな気持ちなのかわかりません。へんじゃないでしょうか、そんなの。
 つまり私は、特殊な状態のときを除くと、言葉しか信じられないのです。自分の言葉は信じられますが、自分のことは信じられません。他人の言葉も心から信じられますが、他人のことは信じられません。
 自分のそういう性質を、小説を書く上では強味だと思っているのですが、生きる上では何かが間違っている、というか、率直に言って淋しすぎると感じるのです」
江國香織の「相談状」より、37ページ)

 なんたる深刻味、なんたる切実さ。彼女が紡ぎ出す美しい言葉にいつも翻弄させられていたけれど、まさか小説の外側で、こんなことを考えているなんて想像もしなかった。この感覚がどういうものなのか、彼女は対談の最中にも、言葉を変えて説明している。

江國:たとえば『神様のボート』という小説を書いたときにはいろいろ考えました。この小説で主人公は、ある男性を気が狂うほど愛していて、しかも相手からも同様に愛されています。そのとき主人公はこう考えるんです。もう相手がいなくてもいい。今日会えなくても、明日会えなくても、これから永遠に会えなくても、私はあなたをぜったいに愛し続けるから、と。これって、相手を信じているのではなく、私はあなたを「愛している」ということを信じているのではないか、もっと言えば、その言葉だけを信じているのではないかと、そのときふと気付いたわけです」(対、江國香織「言葉しか信じられません」より、47~48ページ)

江國:私はお菓子の説明書きとか、パッケージにあるキャッチコピーを読むのが好きです。そのお菓子を食べること以上に。「とろっとしたクリームがさくさくした生地のあいだにはさまれて」とか、「香ばしいクッキーに濃厚なジャムが果樹園の香りを」などと描写されたコマーシャルを見ると、うっとりします。実際に食べても、ぜったいにその味は得られない」(対、江國香織「言葉しか信じられません」より、50~51ページ)

 阿部和重はこの感覚を自分にはまったくないものだと言い切ったうえで、二人の間にある差異、創作の性格の違いを生み出す上でも重要な要素となっている差異を、明らかにしていく。その手口がまたとてもあざやかで、惚れ惚れしてしまう。なんて論理的な人なんだ。

阿部:たとえばいまの目の前の状況を、「ここに茶碗がある」と書いたとして、僕はなにも言った気にはなれないわけです。
 江國:これを「茶碗」と呼んでいいかどうかわからない?
 阿部:いや、「ここに茶碗がある」と言っただけでは、この状況がなにも伝わらないとしか思えない。つまり僕は、自分の頭のなかにある小説の世界像を十全に伝えたいわけですが、それをいちいち正確に言葉に置き換えていっても、伝達の過程で必ずずれが生ずるとわかっていますから、どこまでやっても足りない気がしてしまう。それでもなんとか正確なものに近づけようとあがいて、言葉を費やしてしまうわけです。でも、おそらく江國さんには、同じ状況を、「ここに茶碗がある」という表現とはべつの言葉で言い表すとしても、ご自分が選んだ言葉と状況は一致しているという揺るぎない確信がある。それが、言葉に対する信頼というものかなと」(対、江國香織「言葉しか信じられません」より、40~41ページ)

 思考を明快な言葉に変換できるというのは、すごいことだ。自分もこれを考えたことがある、と、一般読者が思えるようなことを、言葉にまでできるというのが、一流の作家・思想家の条件といってもいい。村上春樹に人気が集まるのには、そういう側面も大いに寄与しているだろう。阿部和重がさくさくと言葉に変換していく様を見ていると、その簡明さにおそろしささえ覚えた。こいつ、すげえ。

 江國香織の言葉には、記憶に留めておきたいものが多かった。やっぱり、自分はこの作家が好きだ、と再確認する。それは、共感できる点が多いから、というのとは正反対で、自分に持っていないものをたくさん持っているように思えるからだ。『つめたいよるに』とか『流しのしたの骨』とか、いくつもの小説を読み返したくなった。

江國:誤解を恐れずに言うと、私は読者のために本を書いているのではなくて、本のために本を書いています。充分に力を持った、すばらしい「言葉」というものがあり、それを使って私が本を書いたとしたら、そこからなにを感じ取ってもらえるか、どういう印象を持ってもらえるかは、もう読者側の領域の問題だと思っています。そこは私には関与できないので」(対、江國香織「言葉しか信じられません」より、41ページ)

江國:たとえば小説を書くときに、もちろん私は自分の言葉に忠実ではいようと思うけれど、自分の文体に忠実でいようとは思いません。文体というのは、先ほど「傷ついている」や「悩んでいる」が他人の目によるジャッジで初めて表れる「状態」だと言ったのと同じように、読む人が発見してくれるものだからです。私にとっては「コンセプト」とか「テーマ」も、事後的です。書き上がったものを見て、人からテーマを指摘されたり、あるいは自分でも認識したりする。しかし書いている最中は、物語のほうが大事。いわば、そこに茶碗があるかどうかが。先のことを見通したり、テーマに合うように登場人物を動かしたりということはしないわけです」(対、江國香織「言葉しか信じられません」より、59ページ)

 朝吹真理子の相談内容は、先日『きことわ』を読んだばかりだったこともあって、なんだかわかりやすかった。章題は「書くことの終わりが見えません」。彼女の小説になにかしらの完結性を求める読者はそもそも間違っている、と言いたくもなるのだが、意外にも本人は悩んでいる。ここでも阿部和重は明快で、自分の創作理論を開陳しながら、彼女との違いを指摘している。こういうところでも、朝吹真理子の「終わりの見えなさ」を個性と言い切っているあたり、好感が持てる。

朝吹:ただ、多くの書き手の方が、実際に書き出してみると登場人物が自由に動き出し、思わぬ方向に物語が進行したりする、と言いますが……。
 阿部:まるで神秘体験のようにそういうことを言う作家は多いし、実際にそういうことはよくあると認めますが、僕自身はたいていは強引にねじ伏せちゃいますね。
 朝吹:物語の進行とともに表れた想定外の動きは全部抑圧する?
 阿部:ときどき泳がせることはありますよ。人物や細部がいい具合にふくらみそうだと判断したときは。それが先ほど言った、あらかじめ考えない一、二割の部分。でもそこも、最終的には必ず全体像に従わせます。僕の場合、創作の前提となるコンセプトを実現することが最優先事項なので、それはもうとことんスターリン主義で行きます。もしかすると僕の作品に不満を抱く人は、この作者の専制的な抑圧状態を嗅ぎあて、つまらないと思うのかもしれません。
 朝吹:その抑圧状態が解かれることはないんですか?
 阿部:案外と簡単な話で、「つぎの作品はすべてフリーハンドで書こう」というコンセプトを持てばいいわけです。そうしたらその方法を採用すると思います。
 朝吹:ははあ。そこまで構造主義とは! 阿部さんの「フリーハンド」コンセプトも読みたいです。しかし、合点がゆきました。泳がせた一、二割の部分も、建築物の建て増しとまではいかないんですね。すべて設計図通りだと。
 阿部:内装レイアウトが変わったり、素材を変更したりする程度かな。僕はやっぱり「構造」から小説を考えるのが好きなんですね。あるいは朝吹さんが直面している、小説が終わらないことへの恐怖心を僕自身も持っているからこそ、毎度終わりまでの見通しが立つ「構造」を先に用意しているのかもしれません」(対、朝吹真理子「書くことの終わりが見えません」より、136~137ページ)

阿部:先ほどから伺っている朝吹さんの執筆方法は、いわば極限まで肥大させちゃうか、徹底して圧縮・切り詰めるという両極の運動ですが、それは創作の無軌道・無方向状態とも言いうる。ならば書き出す前に表現上の重力となるものを用意して、無方向に飛び出そうとするエネルギーをいつでも引き戻して誘導できる余地を確保しておくといい。その重力場が、構成だと捉えてください。往々にして野心のある新人作家は――朝吹さんは野心満々タイプには見えませんが――作中にすべてのアイディアを盛り込みたいと張り切りすぎるあまりコントロール不可能になるという罠に陥りがちです。肝心なのは、この作品でそもそも自分はなにがしたいのかと、創作上の最優先事項を見極めることです。構成のよってそれが明確にわかっていれば、たとえ無方向な運動に身を任せそうになっても、少なくとも目的地だけは見失わずに済むのではないでしょうか」(対、朝吹真理子「書くことの終わりが見えません」より、142ページ)

 小説家を目指している人が読んだら、目から鱗、という内容が目白押しなのではないだろうか。これほど広範な、盛り沢山の内容で、小説の裏側・内部構造について語った本もそうそうない。

綿矢:小説を書くようになってまず最初に驚いたのは、“物語に関係のない文を一行でも書くと、すごく浮く”ということです。ほかの人が書いた小説を読んでいるときには気付かなかったのですが、自分が書くようになってからは、小説のなかに本当に意味のない文章なんて存在しないとわかりました。風景描写や人物動作なんかは、ただ描写しているのではなく、“描写することでなにかを伝えよう”としています。ある種類の推理小説みたいにすべての文章がトリックのうちというほどではないにしても、意図がある。小中高と国語のテストで“主人公のおびえた気持ちを表している一文を抜き出しなさい”という問題があって、解答は“外では風がわんわんとうなっている”だったりするんですけど、学生のときは疑ってました。“作者の人が風景を描写しただけかもしれない、無理やりテストの問題つくりたいからって、勘ぐりすぎやろ”と。でもいまは正しい問題やったとわかります。書いている側はただ描写してるわけじゃない、登場人物の咳ひとつにしても、選び取って書いています。もしかしたら私はその考え方を、実際の生活でもしてしまうのかもしれません。和子さんとお話しするまでは気付きませんでしたが」(対、綿矢りさ「片想いが実らない女です」より、164~165ページ)

阿部:もし登場人物の心理が、作者とは違う性別なのに「リアリティ」があると感じられるとしたら、そのキャラクターの言動に一貫性や強い具体性が認められるからじゃないかという気がします。それをひとつの論理性と言い換えることもできるかもしれない。その論理性とはつまり、作品を読んでいてずっと「そいつ」だとわかる指標が与えられているということです」(対、綿矢りさ「片想いが実らない女です」より、173~174ページ)

 とはいえ、川上弘美の言葉も忘れずに引用しておこう。「作家」という言葉に付随する重みを、忘れてはいけない。

川上:どこかの企業に入社できたのと、小説が商業誌に初めて載ったこととはまったく別物で、会社員にはなれても「作家」になるのは難しい。私も本音のところでは、もうちょっといいものを書いてから「作家」と名乗りたいなあとずっと思っています。それは谷崎や漱石のような先人に対する敬意が「作家」という言葉のイメージに含まれているから」(対、川上弘美「幻想だったのかもしれません」より、230ページ)

 類書はまずない。とても刺激的な一冊で、忘れがたい言葉がたくさん散りばめられている一冊だった。『インディヴィジュアル・プロジェクション』と『ABC戦争』、それから『ニッポニアニッポン』しか読んだことがなかったので、阿部和重の最近の著作も手に取ってみたいと思った。

和子の部屋 小説家のための人生相談

和子の部屋 小説家のための人生相談

 


<読みたくなった本>
阿部和重や対談相手の著作以外のものを挙げる。
ミルン『クマのプーさん

クマのプーさん (岩波少年文庫 (008))

クマのプーさん (岩波少年文庫 (008))

 

後藤明生『挟み撃ち』

挾み撃ち (講談社文芸文庫)

挾み撃ち (講談社文芸文庫)