Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

絵本を抱えて部屋のすみへ

 思うところがあって、ずっと更新をしていなかった。本を読んでいなかったわけではないのだが、読み終えた一冊と向き合い、その印象を書き留めるという作業に、意味を見出せなくなっていたのだ。しかし、半年ほど書くのをやめていたおかげで、気のせいなのかもしれないが、わたしはついに意味を取り戻したように思える。今日から、すこしずつ再開していきます。

絵本を抱えて部屋のすみへ (新潮文庫)

絵本を抱えて部屋のすみへ (新潮文庫)

 

江國香織『絵本を抱えて部屋のすみへ』新潮文庫、1997年。


 再開第一弾がこれほどすてきな本であることを、嬉しく思う。というより、この本だったから再開する気になれたのかもしれない。これは、本を読む喜びに満ちあふれた本なのだ。ページを開くだけで笑顔になれる。にやにやしてしまう。いや、「にやにや」はちょっとちがう。「にこにこ」の方が近い。陰湿な共犯者めいた笑い、というより、思わず笑みがこぼれてしまう、という感覚なのだ。もちろん、傍目には「にやにや」なのだろうけれど。

 手に取った理由はいくつもある。まず、仕事の関係で(おそらく生まれてはじめて)、わたしに対して絵本の知識が求められたこと。それから、阿部和重『和子の部屋』に収められた、江國香織の対談(「言葉しか信じられません」)が忘れられなかったこと。彼女の言葉に対する姿勢をもっとよく知りたいと思っていたこと。そんな江國香織の言語感覚が大好きだということ。

 仕事の関係で、と書いたけれど、わたしはなにも絵本のベストセラー・リストを求めていたわけではなかった。そんなものは出版社に尋ねるだけで、うんざりするほどの量を手に入れられるものなのだから。わたしが求めていたのは、体系ではなく愛着を伴った言葉、これから自分が絵本の世界という沃野に踏みこんでいくうえでの、穴のあいた地図だった。つまり、これ以上にうってつけの本もなかったのだ。

「無論こういうのはきわめて個人的なことだ。でも、読書というのはもともとおそろしく個人的な行為であり、だからこそ隠微な愉しみなのだと思う。
 そう考えてみると、良い本とか上質な本とかいう概念は、改めてばかばかしくナンセンスだ」(「童謡絵本によせて」より、35ページ)

「そのキャッチコピーどおり、私にとってブルーナは、正真正銘「はじめてであう絵本」だった。はじめて出会ってくり返し読み、ぼろぼろにした本。かどは例外なくつぶれ、背表紙の布はすり切れ、ものによっては綴じてある糸が切れて、表紙から中身がはずれてしまっている。奥付を見ると、どれも1965年の5刷(あるいは6刷)版である。中扉の反対側の「なまえ」の欄には、クレヨンでかかれたたどたどしい記号のような文字がおどっている。そんなふうなので、どうも私はブルーナの絵本について客観的に語ることができないのだけれど、しかし考えてみれば、私はいまだかつて一度も、客観的に物を言ったことなどなかったのだった」(「ディック・ブルーナの絵本によせて」より、90ページ)

 子どものために書かれた本、という考え方にも興味があった。フィリップ・アリエスという歴史学者が『〈子供〉の誕生』という本であきらかにしたとおり、概念としての〈子ども〉は、歴史的に見ればまだまだ新しいものなのだ。そして、巖谷國士『シュルレアリスムとは何か』に書かれていたように、突如歴史の舞台に現れた彼らのために、「おとぎばなし」でも「昔話」でもない「童話」という、新しい文学形式(もしくは、単に呼称)が誕生した。「絵本」とは、この「童話」よりも、もっとずっと先にあるものだ。「児童文学」という言葉も、おそらく同時期の産物だろう。だが、安易なジャンル分けに紙幅を費やすよりは、本書に収められた五味太郎の言葉を引用しておきたい。

五味:児童文学という言葉はあまりにも貧しいなって俺は思う。基本的に、人間の作業は、ジャンルとか年齢とか目的意識だとかいうところとは違うんだろうと思う」(「絵本をつくるということ」より、234ページ)

 江國香織もこの五味太郎の考えに与していることはまちがいない。彼女はいくつかの箇所で、「子ども」という言葉をあえて使わずに、彼らのことを「小さいひと」と呼んでいるのだ。彼女の基本的な姿勢は、以下の一節にも表れている。

「動物たちはまりーちゃんにですます調の丁寧な言葉を使って話す。私はその距離感が好きだ。みんなとても仲がいいけれど、それぞれ独立していてお互いを無論尊重している。絵本と子供を結びつける必要はべつにないけれど、私はまりーちゃんの本を読むたびに、この本が子供たちに愛されているのは当然だ、という気がする」(「まりーちゃんの絵本によせて」より、89ページ)

 すでに何度も書いたことかもしれないが、わたしは「児童文学」と名づけられたケストナーやエンデらの著作を、大人たちが読もうとしないことに悲しみをおぼえる類の人間だ。絵本だって、同じことである。子どもだけに読ませておくなんて、もったいない。この一点に尽きる。もう、ただ単純に、もったいないことなのだ。そもそも〈子ども〉という概念自体がここ数百年に生まれたあやふやなものなのだし、彼らを対象にしているとされる作品には、とてもたいせつなことが、可能なかぎりシンプルな言葉で書かれているのだから。

「少し前にどこかの雑誌のアンケートで、「子供の頃に読んで好きだった本」(子供の本に限らなくてよい)と、「あなたの好きな子供の本」(子供の頃に読んだものに限らなくてよい)をそれぞれ数冊あげてコメントして下さい、というのがきて、私は後者に、マリー・ハムズンの『小さい牛追い』をあげた。コメントの欄に、「人生が幸福なものに思えるから」と書き、書いた途端に気がついた。それが子供の本の基本なのだ」(「『絵本 グレイ・ラビットのおはなし』によせて」より、163ページ)

 この本のなかで江國香織が紹介しているほとんどの絵本には、幸福があふれている。ページをめくるたびに笑みがこぼれてしまうのは、そのためだ。

里見八犬伝忠犬ハチ公に代表されるように、この国で犬といえば賢くて忠実で義理がたく、なんとなく自己犠牲的な動物として描かれることが多い。善良で役に立つ動物。花さかじいさんの犬も桃太郎の犬も、南極に行ったタロとジロも。
 そういう日本の物語にでてくる犬を、私はあまり好きではなかった。かなしい気持ちになるからだ。犬たちは大抵ひどいめにあうし、最後には往々にして死んでしまう。彼らは不幸の匂いがした。
 私の考えでは、状況の如何にかかわらず、不幸より幸福の方がいいに決まっている。アンガスやプレッツェル、それにハリーの活躍する絵本のように」(「アンガスとプレッツェル、ハリーの絵本によせて」より、97~98ページ)

 とはいえ、すべての絵本に幸福が横溢しているわけではない。「ほとんど」、とわざわざ断ったのは、どういうわけかこの本のなかに、ギュスターヴ・ドレが紛れこんでいるからだ。

「光と闇、喧噪と静寂、そこに流れている時間。そんなものまでドレは紙に封じ込めてしまう。どの本のどの頁をとっても、ものすごく広くて遠い、特別な空間だ。どれほど突飛な怪物も天使も、そこでならちっとも窮屈そうじゃない。それは臨場感などというものではない。真実さだと思う。物語の持つ揺るぎない真実さ。だからこそ、どの本をひらいても、まちがえてのぞいてしまったとでもいうような気にさせられる。こちら側とは全然別の、もう一つの壮大な流れ」(「グスタフ・ドレの絵本によせて」より、75ページ)

「無論どれも文学史上きわめて重要な物語なのだし、内容を知っていればそれにこしたことはないのだろうけれど、あいにく私は全然知らない。それはそれでぞくぞくする、と思っている。ガイドなしで、その場所にいくようなものだからだ。第一、唯一きちんと物語の形式をとっている『THE RIME OF THE ANCIENT MARINER』だって、詩である上に言葉が古めかしくて、どの程度わかったのだか我ながら怪しかったりする。
 正直なところ、ストーリーはそんなに問題じゃないのだ。骨までしゃぶるお肉料理と一緒。丹念に眺めているうちに、実に豊かに満腹になる」(「グスタフ・ドレの絵本によせて」より、76ページ)

 この本にとりあげられている絵本作家たちのなかで、ドレはおそらく唯一、〈子ども〉や〈絵本〉という概念が誕生する以前の人物だろう。本書でドレが異様に浮いて見えるのは、想定されていた読者が、現在の〈絵本〉のそれとはまるでちがっていたからなのだ。文章がない、という点も、ほかの絵本とはまったく異なる。

 絵本の文章というのは、とてもおもしろいものだ。ディック・ブルーナについて語る江國香織の言葉を追っていると、絵本の言葉が持つ詩情、そのおそるべき純度の高さに、無関心ではいられなくなってしまう。

「徹底して感情を排したテキストもすごい。簡潔で、リズミカルで、それでいて日本語のふくよかさや豊かさのある文章。その、なんともいえないおかしみ。単純というのはある種神々しいことなのだ」(「ディック・ブルーナの絵本によせて」より、94ページ)

「美しさとかたのしさとかいうものは、本来わかりやすいものなのだ、ということを、ブルーナを読むと思いだす」(「ディック・ブルーナの絵本によせて」より、95ページ)

 そして、絵本がもたらす幸福のささやかさ。なにか特別なことが起きて幸福になるのではなく、物語がはじまる前から、わたしたちはすでに幸福なのだ。絵本は、けっしてそのことを忘れない。

「眠るとか起きるとか、お風呂に入るとか窓をあけるとかお茶をのむとか、顔を洗うとか階段に腰かけるとか散歩をするとか、日々のこまごましたことが、私は非常に好き。怠け者なのかもしれないが、あえて探しに行かなくても降ってくる喜びというのが、なんというか無性に好きだ。そういえば、シェイクスピアにこういう言葉がある。求めて得た愛はよし。求めずして得た愛はさらによし」(「プロヴェンセン夫妻の絵本によせて」より、24~26ページ)

「世の中は元来詩情に溢れているのだ、ということを、スピアーは思いださせてくれる。いつでも。
 『雨、あめ』や『クリスマスだいすき』、『サーカス!』などが端的な例で、私はスピアーほど上手に都市生活者の悦びを絵本にできる作家もいないと思っているのだけれど、その手腕も、世の中は元来詩的なものである、という確信犯的視点から生まれるものだろう」(「ピーター・スピアーの絵本によせて」より、79ページ)

 詩的である、ということと、幸福である、ということが、とてもよく似ているように思えてくる。どちらをとってみても、必然性がないのだ。ただ生きるためには詩的である必要はないし、残念ながら幸福である必要もない。これらはすべて、必然性の外側にあるものだ。だからこそ、かけがえがない。

「たいていの場合、いい映画をみたりおもしろい本を読んだりしたときの幸福は、それが「余分」であることと関係がある。「余分」だからこそ刹那的に美しいのだし、「余分」だからこそ魂にとって絶対的に幸福なのだ」(「ディック・ブルーナの絵本によせて」より、94ページ)

 ペソアの言葉を思いだす。「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」。絵本が思いださせてくれるささやかな詩情――幸福――は、わたしたちが見落としがちな細部に潜んでいる。

「ディテイルがいいのだ。まず、「とてもうつくしいこどものあひる」という言葉の響きがすでに物語を含んで美しいし、あひるたちの住む船の名前が「かしこい目」というのもなんとなく味わい深くて一度読んだら忘れられない。ヴィーゼの描く船の絵に、ほんとに目がついているのもとぼけていていい。そして、いつもうつむき加減の「ふねのご主人」の、麦わら帽子としずかなたたずまい」(「『あひるのピンのぼうけん』によせて」より、204ページ)

「たとえば『雨、あめ』の、傘をうつ雨の手ごたえ、雨どいから流れおちる水。雨の音や匂いや風景や、濡れることの快感や水の感触。そして――ここから先がスピアーの面目躍如なのだけれど――おもてでたっぷり雨を堪能して家に帰ったあと、濡れた服をぬいではいるお風呂の湯気、さっぱりと乾いた服を着る気持ち、雨の日の、部屋のなかの雰囲気とそこで遊ぶときの時間の流れ方。あたたかいダイニングでの夕食と、夜になって窓からみる道路の雨――。
 ひたすらディテイルである。ときには漫画のようにこまかく一頁を区切って、ときには見開きいっぱいに、スピアーはそのリアルで幸福なディテイルをぎっしり積み重ねる。レイモンド・カーヴァーの短編に「ささやかだけれど役に立つこと」というのがあるけれど、スピアーのかくものはまさにそれなのだと思う。そして、それらのささやかなものたちによって、読者は忽然と気づかされる。詩情というのはリアリティのなかに存在するのだ」(「ピーター・スピアーの絵本によせて」より、82~83ページ)

 ここで語られている詩情とリアリティの関係は、穂村弘『短歌の友人』に書かれていたことと、ほとんど逐語的に一致する。ロラン・バルト『明るい部屋』も、異なる言葉で同じことを語っている。詩と細部と幸福。芸術ほど無駄なものはなく、そして、無駄なものほど美しいものはないのだ。わたしが江國香織を愛してやまないのは、彼女がそれを確信しているからだと思う。

 アーノルド・ローベルによせられた章には、こんな一節もあった。

「愛しているものや美しいもの、ずっととっておきたいくらい大切なもののいちばんいい保存方法は物語にすることだ、と思っているので、友情の物語が書けたらどんなにいいだろうと思う。友情というのは厄介な代物で、言葉にするとたちまち空々しく鬱陶しくなってしまうのだが、だからこそ、正しく紙の上に写すことができたら、と憧れる。
 たぶん軽やかな物語になるだろう。軽やかで滋味のある、淡々とした物語。
 実例をあげるならアーノルド・ローベルだ。がまくんとかえるくんの四冊の絵本。
 おさえた色調といい平明な訳文といい、ほんとうにやさしい本だ。読むたびに安心する。それに一つ一つのお話が、実に上等にできているのだ。詩的でささやかでユーモラス。これは、私にとって物語の理想三要素であり、日常の理想三要素でもある」(「がまくんとかえるくんの絵本によせて」より、52ページ)

 以下の引用文は、それだけで涙を誘う。絵本が伝える幸福は、こんなにもささやかで、シンプルで、美しい。

「「かえるくん」
 がまくんがいいました。
 「ぼく、きみがきてくれてうれしいよ」
 「いつだってきてるじゃないか」
 かえるくんがいいました。それからふたりはたっぷりあさごはんをたべました。それからながいすばらしい一日をいっしょにすごしました」
(「がまくんのゆめ」(『ふたりはいっしょ』所収)からの引用、「がまくんとかえるくんの絵本によせて」より、56ページ)

 幸福であることを確認するのに、大それたドラマは必要ないのだ。絵本ほど、それを熟知している形式もない。

「大切なのは、自分が誰かに必要とされているということだ。自分の居場所がある、というのは最終的にそういうことなのだし、がまくんとかえるくんの日々の生活は、ほとんどその一点で支えられている。単調といえば単調な彼らの生活が、ああも愉快そうなのはそのせいだと思う。誰かをおもうことの温かさ、それをこんな風にしずかに語れる作家は、ほかにちょっと思いつかない」(「がまくんとかえるくんの絵本によせて」より、55ページ)

「なにがあっても絶対に自分の味方だ、とわかっている人がいるということは、人生を素晴らしくいいものにする、と思う。無条件に自分の側に立ってくれる人。くんちゃんの家族のように」(「くんちゃんの絵本によせて」より、188ページ)

 さらに、「がまくんとかえるくんの絵本」に関してはこんな一節もあったので、忘れずに書き留めておきたい。

「これはたとえばミルンの『クマのプーさん』などにもいえることだけれど、彼らはみんな一人で住んでいる。監督者不在の物語空間なのだ。みんな自分の考えと感覚と、わずかばかりの経験と創意工夫とで、それぞれの人生を豊かに渡りあるいていく。当然様々なひずみが生じるが、がまくんやかえるくん(あるいはクマのプーさん)にとって、そんなひずみが一体どれほどのものだろう。彼らがみんな一人ぼっちで生きている、というそのことが、物語をたしかなものにしていると思う」(「がまくんとかえるくんの絵本によせて」より、54ページ)

 これを読んで、あ、『たのしい川べ』もだ、と思った。動物たちを主人公にした作品には、人間を主人公にしているかぎりでは到達することのできない、ある種のたくましさが伴っている、と思う。そういう意味では、ピーター・ラビットもそうだ。ビアトリクス・ポターの作品については、江國香織も紙幅を割いて魅力を伝えてくれている。

ビアトリクス・ポターの本は大人になってから読んだ。子供のころに読んでも好きになっていたと思う。ポターの本はとても大人っぽいし、私は大人っぽい本が好きだったから。
 どんなところが大人っぽいのかというと、作者が登場人物の口を借りて物を言ったりしないところ。大人っぽい本を書こうと思ったら、作者たるもの、登場人物とのあいだには厳然と距離をとり、常に客観的な視線を保たなくてはいけないのだ。あらゆるゲームのレフリーがそうであるように」(「ビアトリクス・ポターの絵本によせて」より、57ページ)

「まず、あの小ささがいい。手のなかにしっくりとおさまるし、すごく大事なものという気がする。
 それからあの色。ひかえめにかわいたあかるさ、晴れた日の住宅地の色。ひさしぶりに本をひらいても、すぐにすうっと入れてしまうなつかしさがあると思う」(「ビアトリクス・ポターの絵本によせて」より、58ページ)

 この「晴れた日の住宅地の色」という表現がたまらない。ピーターの着ている空色のジャケットが、すぐに思いだされるではないか。

「この小さな物語のなかに、なんとたくさんの人生が描かれていることか。この一連の絵本の最大の魅力は、その一点に尽きると思う」(「ビアトリクス・ポターの絵本によせて」より、59ページ)

「ポターの本は、本屋さんでは児童書売り場の片隅で、いかにもかわいらしくおとなしい顔をしているが、実はとんでもない本なのだと思う。その密やかな物語世界では、きょうも穏やかに晴れた空の下、様々な人生がくりひろげられている」(「ビアトリクス・ポターの絵本によせて」より、63ページ)

 また、ポターの書き方についての興味深い指摘と関連して、『レナレナ』という絵本によせられた一節も忘れられない。

「この絵本のなかで私が好きだと思うのは、全体に流れている時間の密度のうすさ、空気の希薄さといったもので、それがこの絵本を開放的にしている。説明しすぎないところがいいのだ。作者といえども登場人物のプライヴァシーは尊重した方がいい場合もある、と、私は思う。
 たとえば「小さなケモノ」が二匹、雨のお茶をのみにくる場面があるけれど、この二匹の正体は不明だ。一匹はもぐらのようにもみえるし、あしかのようにもみえる。もう一匹はさらにわからないが、しいていえば犬に似ている。もしかするといたちかもしれない。
 小箱にいれておく「ネズミのオニモツ」にしてもそうだ。中身が一体なんなのか、最後までわからない。
 あれは誰でこれは何、と、すべてわかってしまうのはいかがわしいことなのだ。『レナレナ』という絵本の不思議な健全さは、たぶんこういうところからきているのだと思う。あっさりした色鉛筆の色彩もきれい」(「『レナレナ』によせて」より、106~107ページ)

 この『レナレナ』という絵本のことはまったく知らなかったのだけれど、とてもとても読んでみたくなった。まるで映画『アメリ』のようなのだ。あまりにも有名な映画なので、大声で愛着を語る気になれないのだけれど、じつはわたしはあの映画が大好きだ。もう何度観たかわからない。細部に対する、執拗と呼びたくなるほどのこだわりがたまらないのだ。『レナレナ』からも、同じものを感じた。

「はだかで泳ぎまわるときの、体の横(や指のあいだ、足の内側)を水が直接通りすぎていく感じ、そのあとそのまま草の上にねそべる気持ち。ゆで玉子を食べるときの、「なにかとくべつ」な感じ、チョコレートを食べすぎたときのちょっとした後悔と、おなかの容積が実感できるかのような端的な不快感。
 あるいはたとえばガムの楽しみ方。手でつまんで口からひっぱりだし、長いひも状にのばしたり、まるめたガムをおなかや胸にくっつけてみたり。あげくのはてに、レナレナは味のなくなったガムをだしてコップの水にいれておく。翌日それが「まるであたらしいガムのように」、またかたくなっているように。
 私は、この徹底したガムの楽しみ方にびっくりし、しばらくその頁から目がはなせなくなってしまった。どういえばいいのだろう。やってみたいと思ったわけでは決してないのだけれど、いつかやってみてしまうかもしれない、と思う感じ。つまり、頭のなかに強烈にインプットされてしまったのだ」(「『レナレナ』によせて」より、106ページ)

 ところで、わたしは江國香織の小説作品のなかで、とくに『流しのしたの骨』が好きだ。この作品は、彼女が愛してやまない、「よそのおうちをのぞく楽しみ」にあふれているから。その愛着は、この本のなかでも至るところで言明されている。それはそのまま、細部に対する愛着と言い替えることもできるだろう。

「ほとんど、のぞきみのような興奮がある。私はそういうのが大好きだ。細部の持つ絶大な物語性。たとえばメリーのオーバーが鮮やかなブルーで、派手な――それでいて英国風な――裏地がついていること。ここにでてくるおばさんのうちへの旅行だけではなく、お母さんとお買物にいくときも、家族で食事にいくときも、冬のあいだずっと、おでかけのたびにメリーはこのオーバーを着ているはずなのだ。ちょうど、ごく小さい頃の私が、ローズピンクのオーバー――裏地はグレーのチェックだった――を着ていたように。
 メリーがどんなコートを着ているのか知っている、というのが、つまりINTIMATEなのだ。メリーの赤いくつや、ふえや、お人形のスーザンを知っている、ということの特別さ」(「『かしこいビル』によせて」より、131ページ)

「他人の暮らし。
 考えただけでも胸おどる。私にとって、本を読むことのたのしみも、たぶん90パーセントくらいはそれを垣間みることにある。たとえば推理小説を読むときでさえ、事件の展開や筋立てよりも、主人公がどんなところに住み、どんな服を着てどんなものを食べ、どんな音楽を聴くのかということの方に気をとられながら読む。日常の、その人独特のやり方や習慣や時間配分」(「『ファミリー・ポートレイト』によせて」より、154ページ)

 繰り返しになるが、日常生活の細部には詩情が宿っており、そのことが生活を豊かなものにしてくれているのだ。きっとそれだから、他人の生活をのぞくことには喜びがある。

「この絵本の、冒頭の構図と文章を、私は完璧だと思う。

 Zちゃんのへやのかべには、
 ねずみのあながひとつあいていました。
 そのあなからは、Zちゃんのともだちの
 青ねずみちゃんがあそびにきます。

 ノックアウトされてしまう。簡潔で、過不足がなく、絶対的で、疑問をはさむ余地がない。誰かの部屋、というだけでそこはすでに特別な場所だし、ねずみの穴、などというのはもとよりさらに特別な場所で、特別な場所という言葉と、物語、という言葉は、実質的に同義語なのだ。そこにもってきて、青ねずみちゃんというものが、まるで誰でもがよく知っているものであるかのような気軽さで、あたりまえに持ちだされる。
 このたった四行で、私たちは本の中に誘拐される。
 ああ、ぞくぞくする。私は誘拐されるのが大好きだ。誘拐される先が、斬新な古典ならなおさら。
 物語の醍醐味は誘拐にある、と思う。手荒に、鮮やかにやってほしい」
(「『Zちゃん――かべのあな――』によせて」より、226~227ページ)

 絵本の言葉が持つ詩情については、引用したい文章がまだいくつもある。そういえば、谷川俊太郎長田弘の名前を挙げるまでもなく、絵本の書き手や翻訳者は、詩人である頻度が異常に高い。そのことの意味を、わたしはこれまで気にも留めていなかったように思える。

「片山令子さんの言葉の媚びない美しさには、いつもほんとうにはっとする。詩というのは文章の形態ではなく、あるとき言葉が備えてしまう性質なのだ。そうして、そうなったときはじめて言葉は音符になる」(「『ブリキの音符』によせて」より、111ページ)

「ワイズ・ブラウンの文章には無駄がなく、絵本の言葉にふさわしい洗練をされていて、とても詩的だ。
 たとえば、『おやすみなさい おつきさま』は全編かろやかに韻をふんでいるし、くしやブラシやおかゆにおやすみなさいを言うのとおなじ正確さで、「よぞら」や「そこここできこえるおとたち」におやすみを言う小さなうさぎの視線を通し、読者はこの世が祝福された場所であることを思いだす。絵のなかのくまにおやすみを言うときの、子うさぎの小さな背中。
 また、彼女の文章は視覚的インパクトも十分で、あかいふうせんのあるみどりの部屋、という出だしだけでもまったく斬新だ。そうして勿論クレメント・ハードのインパクト十二分の絵!」(「マーガレット・ワイズ・ブラウンの絵本によせて」より、117~118ページ)

 絵本で語られる言葉が、小説のそれよりもシンプルに写るのは、焦点の数のちがいなのだろう。当たり前のことを書くようだが、絵本の絵とは、あってもなくてもいい挿絵などではなく、確固たる作品の一部なのだ。言葉を補うために不可欠なもの、というのですらなく、むろん絵を補うために言葉があるわけでもない。どちらが欠けても、絵本という作品は成り立たなくなってしまうのだ。

江國:文章を書くのは、私にとって子供のときの感覚に近い。まず、目に見えないし、わけがわからない。絵本のほうが大人っぽいメディアのような気がします。たとえば花や犬を描写するのでも、文章だと、「そこに花が咲いていて花びらが白くて」と書けば、花がとても大事になるわけ。読む人は、いやでも頭の中でその花を見てしまう。花をどんなにシンプルに表現しても、何か意味のあるものとして写ってしまうんです。
 五味:つまり、フォーカスしてるんだよね。そこに合ってるんだよ、焦点が。
 江國:絵本ではどんなに花を細かく描いても、ただの花にすぎないということが突きはなされていて、もしかして、読む人はその花の存在に気がつきもしないかもしれない。道端の草であっても、文章で表すと期せずして爽やかさやら何やらを象徴してしまう。
 五味:その文章の上に、「とりたてていうことではありませんが」って付け足すのはどう?
 江國:それ、いい! 絵本はまさにそれを体現していますよね」
(「絵本をつくるということ」より、238ページ)

 絵についての印象を語る江國香織の言葉は、輝いている。この本の著者が江國香織であることを、喜ばしく思う。

「フランシスの絵本の特徴の一つは、淡い色彩だと思う。ピンクや緑やクリーム色や、白やグレーやうす紫や――。そのあかるくてやさしい色ばかりの空間の中で、フランシス自身は常にモノトーンである。そのことも私には安心な気がして、なんだかとても納得がいく。ふわふわとやわらかそうな、鉛筆描きの黒い線。穏やかで控えめなその毛皮が、フランシスにはよく似合う」(「フランシスの絵本によせて」より、17ページ)

「実際、パリの街なみ特有の、あの楽天的にくすんだ一種無責任な美しさを、ベーメルマンス以上にいきいきと描ける画家はみたことがない。ユトリロのパリよりデュフィのパリより、私はベーメルマンスのパリが好きだ」(「マドレーヌ絵本の世界」より、46ページ)

 うっかり忘れるところだったが、子どもにも読むことができる、というのも、絵本の大きな魅力のひとつだ。子どものころに繰り返し読んだものは、わたしたちに「しみこみ」、そして「血や肉になる」。

「血や肉になった本の最大の効能は、忘れた頃に読み返しても、たちまち体が反応して勇敢な気持ちになる、ということで、私はひさしぶりに童謡絵本をひらいたりすると、それを愛読していた頃の無謀な気持ちがよみがえり、なくすものがなんにもないという気になって、二、三曲うたえば身内に灯りがともるみたいな不思議な感じでぽつぽつと元気が湧いてくる。二、三曲ぶんうたえば、もう怖いものなしだ」(「童謡絵本によせて」より、34ページ)

「物語から何かを得るという発想は好きではないけれど、何かが雨みたいに雪みたいにふってきて、いやおうなくしみてしまう、というのなら素敵だ。それがこの本の場合のように、勇気、というようなものだったりするとほんとうに嬉しい。くり返し読むうちに、どんどん力がたくわえられる。それはポパイのホウレン草のようなものではなくて、もっとしずかに、こっそり体内にしずむもの。知らないうちにそのひとの、血や肉になるもの。基礎体力をつけるもの」(「『せんろはつづくよ』によせて」より、211~212ページ)

 書き留めておきたい言葉はまだまだたくさんあるのだけれど、魅力を語るために言葉を費やしてしまうのは、わたしの悪い癖だ。「あとがき」に書かれた美しい文章を引いて、ひとまず終わりにしたい。

「この本をとおしてなつかしい絵本と再会して下さっても、新しい絵本と出会って下さっても、そういうこととは無関係にこの本のなかだけで小さな旅をして下さっても、無論どれもとても嬉しいです」(「あとがき」より、259ページ)

 むろん、そのすべてが叶えられる本である。絵本が読みたくてたまらなくなった。

絵本を抱えて部屋のすみへ (新潮文庫)

絵本を抱えて部屋のすみへ (新潮文庫)

 


〈紹介・言及されている絵本〉
ラッセル・ホーバン/ガース・ウイリアムズ『おやすみなさいフランシス』
ラッセル&リリアン・ホーバン『フランシスのいえで』
ラッセル&リリアン・ホーバン『ジャムつきパンとフランシス』
ラッセル&リリアン・ホーバン『フランシスとたんじょうび』
ラッセル&リリアン・ホーバン『フランシスのおともだち』
モーリス・センダック『まよなかのだいどころ』
モーリス・センダックかいじゅうたちのいるところ
モーリス・センダック『ふふふん へへへん ぽん!』
モーリス・センダック『まどのそとの そのまたむこう』
アリス&マーティン・プロベンセン『みみずくと3びきのこねこ』
アリス&マーティン・プロベンセン『かえでがおか農場のいちねん』
アリス&マーティン・プロベンセン『シェイカー通りの人びと』
バーバラ・クーニー『おおきななみ』
バーバラ・クーニー『ルピナスさん』
マイケル・ビダード/バーバラ・クーニー『エミリー』
アリス・マクレラン/バーバラ・クーニー『すてきな子どもたち』
ドナルド・ホール/バーバラ・クーニー『にぐるまひいて』
デルモア・シュワルツ/バーバラ・クーニー『ちいちゃな女の子のうた“わたしは生きてるさくらんぼ”』
ルドウィッヒ・ベーメルマンス『げんきなマドレーヌ』
ルドウィッヒ・ベーメルマンス『マドレーヌといぬ』
ルドウィッヒ・ベーメルマンス『マドレーヌのクリスマス』
アーノルド・ローベル『ふたりはともだち』
アーノルド・ローベル『ふたりはいっしょ』
アーノルド・ローベル『ふたりはいつも』
アーノルド・ローベル『ふたりはきょうも』
A・A・ミルンクマのプーさん
ビアトリクス・ポターピーターラビットのおはなし』
ビアトリクス・ポターモペットちゃんのおはなし』
ビアトリクス・ポター『パイがふたつあったおはなし』
ビアトリクス・ポター『「ジンジャーとピクルズや」のおはなし』
ロバート・マックロスキー『サリーのこけももつみ』
マージョリー・フラック『アンガスとねこ』
バージニア・リー・バートン『ちいさいおうち』
マーガレット・ワイズ・ブラウン/クレメント・ハード『ぼくにげちゃうよ』
マリー・ホール・エッツ『もりのなか』
ギュスターヴ・ドレ『DANTE'S DIVINE COMEDY』
ギュスターヴ・ドレ『ARIOSTO'S "ORLANDO FURIOSO"』
ギュスターヴ・ドレ『BIBLE』
ギュスターヴ・ドレ『RABELAIS』
ギュスターヴ・ドレ『THE RIME OF THE ANCIENT MARINER』
ピーター・スピアー『ばしん! ばん! どかん!』
ピーター・スピアー『ノアのはこ船』
ピーター・スピアー『せかいのひとびと』
ピーター・スピアー『きつねのとうさんごちそうとった』
ピーター・スピアー『雨、あめ』
ピーター・スピアー『クリスマスだいすき』
ピーター・スピアー『サーカス!』
フランソワーズ『まりーちゃんのクリスマス』
フランソワーズ『まりーちゃんとひつじ』
ディック・ブルーナ『ちいさなうさこちゃん
ディック・ブルーナうさこちゃんとうみ』
ディック・ブルーナうさこちゃんとどうぶつえん』
ディック・ブルーナ『ゆきのひのうさこちゃん
ディック・ブルーナ『ようちえん』
ディック・ブルーナ『びーんちゃんとふぃーんちゃん』
マージョリー・フラック『まいごのアンガス』
マージョリー・フラック『アンガスとあひる』
マーグレット・レイ/H・A・レイ『どうながのプレッツェル』
ジーン・ジオン/マーガレット・ブロイ・グレアム『どろんこハリー』
リエット・ヴァン・レーク『レナレナ』
片山令子/ささめやゆき『ブリキの音符』
マーガレット・ワイズ・ブラウン/ジャン・シャロー『おやすみなさいのほん』
マーガレット・ワイズ・ブラウン/クレメント・ハード『おやすみなさい おつきさま』
ガブリエル・バンサンテディ・ベアのおいしゃさん』
ガブリエル・バンサン『アンジュール ある犬の物語』
ガブリエル・バンサン『くまのアーネストおじさん あめのひのピクニック』
ウィリアム・ニコルソン『かしこいビル』
クレール・H・ビショップ/クルト・ヴィーゼ『シナの五にんきょうだい』
サマセット・モーム武井武雄九月姫とウグイス』
E・T・A・ホフマン/リスベス・ツヴェルガー『くるみわり人形とねずみの王さま』
アンデルセン/リスベス・ツヴェルガー『おやゆびひめ』
マリー・ホール・エッツ『モーモーまきばのおきゃくさま』
舟崎靖子長谷川集平『メアリー』
田中弘子/田中靖夫『ファミリー・ポートレート
アリソン・アトリー/マーガレット・テンペスト『グレイ・ラビットのおはなし』
アリソン・アトリー『チム・ラビットのおはなし』
アリソン・アトリー『時の旅人』
マリー・ハムズン『小さい牛追い』
ザルテン『バンビ』
H・A・レイ『ひとまねこざる』
H・A・レイ『ろけっとこざる』
H・A・レイ『じてんしゃにのるひとまねこざる』
H・A・レイ『ひとまねこざるときいろいぼうし』
マーガレット・レイ/H・A・レイ『たこをあげるひとまねこざる』
マーガレット・レイ/H・A・レイ『ひとまねこざるびょういんへいく』
トミー・ウンゲラー『へびのクリクター』
ロバート・マックロスキー『すばらしいとき』
ロバート・マックロスキー『かもさんおとおり』
斎藤隆介滝平二郎『八郎』
斎藤隆介滝平二郎『花さき山』
斎藤隆介滝平二郎『モチモチの木』
斎藤隆介滝平二郎『ベロ出しチョンマ』
斎藤隆介滝平二郎『ちょうちん屋のままッ子』
ドロシー・マリノ『くんちゃんのだいりょこう』
ドロシー・マリノ『くんちゃんとにじ』
ドロシー・マリノ『くんちゃんはおおいそがし』
ドロシー・マリノ『くんちゃんのもりのキャンプ』
ドロシー・マリノ『くんちゃんのはたけしごと』
ドロシー・マリノ『くんちゃんのはじめてのがっこう』
ドロシー・マリノ『くんちゃんとふゆのパーティー』
山本容子『おこちゃん』
マリー・ホール・エッツ『海のおばけオーリー』
ロジャンコフスキー『川はながれる』
ジュリエット・キープス『ゆかいなかえる』
マックロスキー『海べのあさ』
マージョリー・フラック/クルト・ヴィーゼ『あひるのピンのぼうけん』
マーガレット・ワイズ・ブラウン/ジャン・シャロー『せんろはつづくよ』
トミー・デ・パオラ『まほうつかいのノナおばさん』
トミー・デ・パオラ『ヘルガの持参金』
トミー・デ・パオラ『神の道化師』
トミー・デ・パオラ『ドロミテの王子』
トミー・デ・パオラ『あすはたのしいクリスマス』
トミー・デ・パオラ『クリスマスキャロル』
イングリ&エドガー・ドーレア『トロールのばけものどり』
井口真吾『Zちゃん かべのあな』
カレル・チャペックダーシェンカ