Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

自分だけの部屋

 アディーチェの新刊『We Should All Be Feminists』を読んだことで、ずいぶん前に、友人から薦められたのを思い出した一冊。薦めてくれたのはアディーチェのときと同じ、マレーシア人の女の子である。彼女は「フェミニズム批評」というものに大変な関心を持っていて、同時に何冊か薦められた気がするのだが、ヴァージニア・ウルフ以外は忘れてしまった。読み終えた感想を伝えるのと同時に、それらのタイトルを尋ねなくては、と思っている。

自分だけの部屋 (新装版)

自分だけの部屋 (新装版)

 

ヴァージニア・ウルフ(川本静子訳)『自分だけの部屋』みすず書房、1988年初版、2013年新装版。


 フェミニズムという言葉ばかりがこの本を覆っているが、それにまるで興味がなかったとしても、自分で文章を書こうと思ったことのあるひとには、大変おもしろい本であろう。この本のテーマは「女性と小説」なのだが、読み進めていくとわかるとおり、ウルフはべつに女性作家のみを対象とした事柄を書いているわけではないのである。物書きを志す男性こそこの本を開いてみるべきだ、とさえ思う。

「論議をよぶ題目を取り上げる場合――ちなみに、性に関する問題は、何であれ、そうなのですが――真実を語ることは望み得ないことなのです」(5ページ)

「どうして男性は葡萄酒を飲み、女性は水を飲むのでしょうか? どうして男性はあんなにも裕福で、女性はあんなにも貧しいのでしょうか? 貧しさは小説にどんな影響をもたらしているのでしょう? 芸術作品の想像にはどんな状況が必要なのでしょうか?――おびただしい数の疑問が同時に浮かび上がってきました。しかし、必要なのは答であって、問いではないのです」(38ページ)

 ウルフは最初、こんな風に語りはじめるのだが、その論旨は明確だ。すなわち、「女性が小説なり詩なりを書こうとするなら、年に500ポンドの収入とドアに鍵のかかる部屋を持つ必要がある」。もちろん、すぐにわかるとおり、男性作家(もしくはそれを志す者)だってそれを必要としているのだ。経済的自立と精神的独立が創作に不可欠なものであることは、だれにでも容易に想像がつく。プルーストに何度も言及しているだけあって、ウルフの一文はときどき驚くほど長いのだが、言わんとすることが大変はっきりしているので、読んでいて妙な袋小路に迷いこむようなことはけっしてない。

シートン夫人が自分自身のお金を一ペニイでも所有できるようになったのは、ほんのここ四十八年の間のことです。それ以前の何百年間は、そのお金は彼女の夫の所有物になったでしょう――この考えが、きっと、シートン夫人やそのお母さんたちを証券取引所から遠ざけることにあずかっていたのでしょう。私の得るお金は残らず、と彼女たちは言ったでしょう、私から取り上げられ、夫の分別によって――多分、ベイリオルとかキングズとかの学寮に奨学金や特別研究員奨学金を創設するために――処分されるのです。だから、お金もうけをすることは、たとえ私ができたとしても、私にとってたいして興味ある事柄ではありません。それは夫に任せておいた方がいいのです、と」(34ページ)

「本当に、と私は銀貨を財布の中に入れながら思いました――あの頃の苦々しさを思い出すと、一定の収入がどんなに大きな気持の変化をもたらすかは驚くべきほどだわ、と」(57ページ)

 お金というのはほんとうに、嫌になるくらいわれわれの人生において重要なものである。経済的に自立している、つまり金に困らないということは、「鍵のかかる部屋」がもたらす沈思黙考と同程度に、精神的安定のためにも必要なものなのだ。これは男女の別を超えたところにある問題であり、生存や教育のためのお金と、精神的安定のないところに文学は生まれてこない。

「確かなことは――イギリス国民にとっていかに不名誉なことであろうと――我が国にどこか欠陥があって、貧しい詩人には、今日、ほんの僅かな見込みもないし、過去二百年間もなかった、ということだ。全く事実だが――私はほぼ十年かけて、三百二十校ほどの小学校を調べたのだが――私たちは民主主義を喋々と口にするものの、現実には、イギリスの貧しい子供には、アテネの奴隷の子供同様、優れた文学が生まれ出る、あの知的自由の中に解き放たれる望みは、殆どないのだ」(アーサー・クウィラー=クーチ卿『文章技法』の引用、163ページ)

 しかし、たしかに、歴史を振り返ってみると、女性作家の名は男性作家と比べて驚くほど少ない。貴族社会で裕福な女性、つまりは精神的安定を持った女性だっていたはずなのに、どうしてこんな歴史になっているのだろうか。わたしは現代とは呼ばれ得ないような時代の本を読むことが多いので、普段は必然的に男性作家の本ばかり手にとっている。かといってべつに、女性作家が嫌い、などというわけではないのだ(『嵐が丘』は駄作だ、と、いまでも考えているが)。わたしが興味を掻き立てられるような時代の、いわゆる古典的作家たちは、そのほとんどが男性なのである。これは、なぜなのか。

「嘆かわしいのは、十八世紀以前の女性について、何も分かっていないということなのです、と私は書棚を再び見まわしながら考えつづけました。あちこち向きを変えて考察するようなモデルが心に浮かばないのです。エリザベス朝時代にはどうして女性が詩を書かなかったのかを疑問に思っていますし、その頃の女性がどのように教育されたのかも、しかと分かりません。字を書くことを教えられたのか、自分だけの居間を持っていたのか、二十一才にならぬうちに子供を持った女が何人くらいいたのか、要するに、彼女たちが朝八時から夜八時まで何をしていたのかが分からないのです」(68~69ページ)

 この問題の答えとして与えられているのが、「男性による女性の貞節重視及びそれが女性の教育に及ぼした影響」である(97ページ)。つまり、詩や小説を書くということは、淫らなことだという考えだ。たしかに、べつに官能小説を書いているわけではないにしても、著作というのは内面の吐露を伴うことなので、貞淑がこのうえなく大切なものであった時代に女性が身動きを取れなかったのは不思議ではない。例外は、手紙である。

「分別のある慎ましい女性は本を書いたりはしない筈なのですから、公爵夫人と正反対の気質で、感じ易く気が滅入りがちなドロシイは、何も書きませんでした。手紙はかまわないのです。女性は、父親の病床の傍らに坐りながら、手紙を書いてよいのです。男の人たちが話し合っている間、炉辺で手紙を書いても男の人たちの邪魔にはなりませんでした。不思議なことには――と私はドロシイの書簡集をめくりながら思ったのです――この教育のない孤独な娘は、文章を組み立て光景を描き出す、なんとも素晴らしい才能を持っていました」(94ページ)

 書簡集というかたちでみずからの文才を後世にとどめた女性は、たしかに少なくない。プルーストが愛読したセヴィニェ夫人などは、その端的な例だろう。とはいえ書簡集が本のかたちでまとめられるようになったのは18世紀、紀元前8世紀のホメロスからつづく文学の歴史を思えば、ごく最近のことである。

「芸術家自身が己れの精神状態について語ることは、十八世紀までなされませんでした。己れを語ったのは、おそらくルソーが最初でした。とにかく、十九世紀までに自意識は大いに発展したので、文学者は告白や自伝の形で己れの心を語る習わしになりました。彼らの伝記も書かれ、彼らの書いた手紙も死後出版されるようになりました。こうしたわけで、私たちは、シェイクスピアが『リア王』を書いた時どういうことを経験していたかは分からないのですが、カーライルが『フランス革命』を執筆した時の経験、フロベールが『ボヴァリー夫人』を書いた時の経験、キーツが近づく死と世間の無関心に立ち向かって詩を書こうとした時に嘗めた経験は分かっているのです」(77ページ)

 つまり、われわれが18世紀より以前の女性を探すのであれば、彼女らはほとんど、男性の書いたもののなかにしか見出だせないのである。しかし文学作品のなかの女性たちは、シェイクスピアの描いたロザリンド『お気に召すまま』)やマクベス夫人(『マクベス』)を考えるだけでも、われわれに伝えられている当時の女性像とはずいぶん異なる。

「もし女性が男性によって書かれた文学作品の中にしか存在しないものなら、女性とはこの上ない重要人物であると思われましょう。とても多様な存在なのです。雄々しいかと思えば卑劣で、立派かと思えばさもしく、この上なく美しいかと思えばぞっとするほど醜いのです。男性に劣らず偉大ですが、中には男性以上に立派だと考える人もいます。でも、これは文学作品の中に現われた女性のことです。現実では、トレヴェリアン教授の指摘するように、女性は監禁され、殴られ、部屋中を引きずり廻されていたのでした」(65ページ)

「文学作品の中では、王や征服者たちの生涯を支配しているのに、現実では、相手の親から無理やり指に指輪をはめられてしまえば、どんな青二才であっても、その奴隷になってしまうのです。文学において、最も霊感をふくんだ言葉の幾つか、最も深遠な思想の幾つかは、女性の口から語られました。だが、実人生では、殆ど読み書きができず、夫の所有物なのです」(65~66ページ) 

 男性が書いていたから、女性的な観点から見たときの彼女らの姿は、十全に認められないのだ。彼女はページが進んだのちも、同じことをべつの言葉で繰り返している。

「小説の中の優れた女性はどれもこれも、ジェイン・オースティンの時代になるまでは、男性の側から見られていたばかりでなく、男性との関係においてのみ見られていたとは、奇妙なことに思われました。しかも、それは女性の生活の中でなんと小さな部分でしょうか。かつ、男性はそれについてすら、性というものが彼の鼻にかけさせる黒かピンクの眼鏡を通して見るからには、なんと少ししか知り得ないことでしょうか。小説に描かれる女性の特異性は、多分こういうところに原因があるのでしょう」(125ページ)

「カウンターのうしろにいるあの娘――私だったら、Z教授やそのお仲間が現在執筆中の、百五十番目のナポレオン伝や、キーツ及び彼のミルトン風倒置法に関する七十番目の研究などより、この娘の偽りのない身の上話をむしろ読みたいと思います」(136~137ページ)

 ところで、さきほどの告白文学の歴史を語った箇所の直後に、こんな一節がある。かなり長いが、この本のなかでももっとも美しい箇所のひとつなので、引用してみよう。

「この膨大な近代の告白文学及び自己分析文学から、天才の作品を書くことは殆ど常にとてつもなく困難な偉業だということが分かります。そうした作品が作家の精神からどこ一つ欠けるところなく生み出されるということは、あらゆる点でありそうもないのです。大抵の場合、物質的状況がそれを阻んでいます。犬が吠え、人が邪魔をします。金は工面せねばなりませんし、健康にも支障が起こりましょう。さらには、こうしたすべての困難を強め、それらをより耐え難くするものに、世間のあの悪名高い無関心があります。世間は人々に詩や小説や歴史を書いてくれとは頼みません。そうしたものを必要としないのです。フロベールが適切な言葉を見つけているかどうか、カーライルがあれこれの事実を念入りに検証しているかどうかを、世間は気にかけてなどおりません。当然ながら、世間は欲していないものに対して金を払ったりしないでしょう。したがって作家は、キーツもフロベールもカーライルも、想像力の盛んな若い頃はとりわけ、あらゆる種類の狂気と失意に苦しんだのです。これらの分析と告白の本からは、呪いが、苦悩の叫びが、迸り出ています。「偉大なる詩人は悲惨のうちに死す」――これが彼らの詩の折り返し句でした。こうしたことにもかかわらず、何かが生まれ出るならば、それは奇跡でありましょう。おそらく、胚胎されたまま、そっくり、何も損なわれずに生み出された作品はありますまい」(77~78ページ)

 ここから、「鍵のかかる部屋」へと向かって、ウルフの筆が走りだすのである。貞操観念を振りきった女性たちが、ついに筆を取りはじめるのだ。まず、ポープの友人であったウィンチェルシー伯爵夫人が紹介され、つづけて著作によって生計を立て、それによってありとあらゆる呪詛をその身に受けることになったアフラ・ベインである。

「十八世紀末になると、一つの変化が起こったのです。この変化については、もし私が歴史を書き直しているのでしたら、十字軍やバラ戦争以上に詳細に述べるでしょうし、より重要なものと考えるでしょう。つまり、中産階級の女性たちが書き始めたのです。というのは、もし『自負と偏見』が重要な作品であり、また『ミドルマーチ』や『ヴィレット』や『嵐が丘』が重要な作品であるならば、二折判やお追従者たちに囲まれて田舎の邸宅に閉じこもった孤独な貴婦人だけではなく、一般の女性がものを書き出したことは、私が一時間やそこいらの講演で明らかにし得ないほど重要なことだからです。こうした先駆者たちがいなかったら、ジェイン・オースティンもブロンテ姉妹もジョージ・エリオットも、作品を生み出すことはできなかったでしょう」(98~99ページ)

「傑作はそれだけが単独で生まれてくるのではないのですから。傑作とは、長い間大勢の人々がともに考えたことの成果なのです」(99ページ)

 さあ、ようやく見知った名前が出てきた。ウルフはこの四人の作家たち(ほとんど言及のないアン・ブロンテも入れれば五人)を一括りにして登場させることが多いのだが、とりわけジェイン・オースティンは激賞されている。シャーロット・ブロンテやジョージ・エリオットは彼女との比較において何度も登場するのだが、まず、なぜジェイン・オースティンが優れているのか、という点を見てみよう。それは上にも登場してきた、「何も損なわれずに生み出された」「奇跡」のような作品を、彼女が「鍵のかかる部屋」を持たないままに書いていたからなのである。

「女がものを書こうとすれば、共同の居間で書くより他なかったのです。それに、ミス・ナイチンゲールが激しい語調で不満を述べているように――「女性には……自分の時間と呼べるものが三十分だってありません」――しょっちゅう、邪魔が入っていたのです。それにしても、そういう場では、詩や劇を書くよりも、散文や小説を書く方が容易だったでしょう。より少ない集中力で済むからです。ジェイン・オースティンは、生涯を通して、こういう状況の中で書きました」(101ページ)

「男性に向かって自慢したり、苦痛を与えたりするつもりはありませんが、『自負と偏見』は優れた作品であると言ってよいでしょう。とにかく、『自負と偏見』を書いているところを見られても恥ずかしくないでしょう。それなのに、ジェイン・オースティンはドアの蝶番がきしむのが好都合だと考えました。誰かが部屋に入ってくる前に原稿を隠せるからです。ジェイン・オースティンには、『自負と偏見』を書いているのは何か恥ずかしいことのように思われたのです。それでは、と私は問いかけました――もしジェイン・オースティンが原稿を訪問者の目から隠す必要がないと思ったのでしたら、『自負と偏見』はより優れた小説になったでしょうか? 私は一、二頁読んでみました。でも、彼女のそうした状況が作品を少しでも損なったという証拠を何一つ見出せなかったのです。それは、おそらく、この作品の最大の奇跡でしょう。1800年頃、憎悪も、恨みも、恐れも、抗議も、説教もこめずに、ものを書いていた一人の女性が現に存在したのです。それこそ、シェイクスピアがものを書く態度だ、と私は『アントニイとクレオパトラ』を見ながら思いました。人がシェイクスピアジェイン・オースティンを比較するのは、両者の精神があらゆる障害物を燃焼しきっているということなのです」(102~103ページ)

 しかし、シャーロット・ブロンテやジョージ・エリオットは、ジェイン・オースティンのようにはなれなかった。ウルフによれば彼女たちこそが、まさしく「年に500ポンドの収入とドアに鍵のかかる部屋」を必要としていて、とうとうそれを得られなかった作家たちなのだ。以下は『ジェイン・エア』を引いた直後の文章である。

「これだけのことを書ける女性は――と私はこの小説を『自負と偏見』の横に並べて考えつづけました――ジェイン・オースティン以上の才能を持っていた、と言えるかも知れません。ですが、読み返してみて、文章の中にある引きつり、つまり、あの激怒、に気づくと、彼女の才能はそっくり完全な形でけっして表現されないだろうことが分かります。彼女の作品は歪められ、ねじられるでしょう。平静に書くべきところで、怒りに駆られて書いてしまうでしょう。賢明な書き方をすべきところで、馬鹿な書き方をしてしまうでしょう。作中人物について書くべきところで、自分自身について書いてしまうでしょう。彼女は自分の運命と戦っているのです。これでは、痙攣を起こし、挫折して、若死するよりしかなかったではありませんか?」(105ページ)

 また、書き方そのものについても言及があり、シャーロット・ブロンテやジョージ・エリオットは、女性であるのに男性の文章を規範としすぎてしまった、という。ほかに規範となるものが何一つない状況では、それも仕方のないことだとも思えるのだが、ジェイン・オースティンだけがそれをしなかったというのだ。

「シャーロット・ブロンテは、あれほどの素晴らしい散文の才能があったにもかかわらず、このような使いこなせない武器を手にして、躓き、倒れました。ジョージ・エリオットは、こうした文章を使って、筆舌に尽くし難い数々のへまを犯しました。ジェイン・オースティンは、その文章を眺めやっ、にっこり笑い、自分が使うのにふさわしい、完全に自然な、釣り合いのとれた文章を編み出し、そこからけっして逸脱することがありませんでした。だからこそ、文才はシャーロット・ブロンテに劣るにもかかわらず、はるかに多くのことを表現し得たのです」(115~116ページ)

 これらすべてのことが、詩や戯曲ではなく、小説を舞台に展開されたという点もおもしろい。先日、『悲劇ヴラジーミル・マヤコフスキー』について書いたとき、詩と戯曲というのは本質的に同じものなのではないか、という考えを得たのだが、小説だけは明らかにちがう。穂村弘が『世界中が夕焼け』刊行後のインタビューで語っていたことの受け売りだが、それはきっと濃度の問題なのだ。彼は詩情のことを「カルピスの原液」(なんて穂村弘らしい表現だろう!)と呼んでおり、小説を小説たらしめるためには、それを水で割らなければならないと言っているのだ。私見だが、それをまったく割らずに一冊の書物としたのが、ヴァレリーの『ムッシュー・テスト』(小説「?」)なのだろう。世の中には優れた考えやすばらしい詩心を持つひとが大勢いるが、彼らのだれもが小説家でない理由は、この稀薄するための水の有無なのだと思う。シャーロット・ブロンテやジョージ・エリオットは、きっと男性の水を使おうとしたのだ。ジェイン・オースティンだけが、みずからの水を用いた。その水がやがてフォースターによって汲みあげられることになるなど、当然知る由もなく。

「小説だけが歴史が浅く、女性の手で左右できたものでした――これが、多分、女性が小説に手を染めた今一つの理由です。しかし、今日でさえ、その「小説」(私はこれが不十分な表現だと思っていますので、カギ括弧に入れます)が、あらゆる形式の中で最もしなやかなこれすらも、女性が使うのにふさわしい形であると誰が言えましょうか? きっと女性は、自由に手足を動かせるようになったら、それを自分にあった形に叩きなおすでしょう。そして、己れの内なる詩情を表現するのに、必ずしも韻文ではない、何か新しい伝達手段を講じるでしょう。いまなお、吐け口が与えられていないのは詩情ですから。ここで私は、現在の女性が、五幕の悲詩劇をどのように書くだろうか、と考えつづけました。韻文を使うでしょうか――むしろ散文を使わないでしょうか?」(116~117ページ)

「本というのは肉体に何とか適応せねばなりません。思いきって言ってしまえば、女性の書く本は、男性の書くものよりも、より短く、より凝縮し、かつ長時間ぶっ通しに中断されずに仕事をせずともすむよう構成されなければならないでしょう。邪魔がしょっちゅう入るでしょうから」(117ページ)

 そしてウルフはここで、性を意識しすぎる現代の傾向に異を唱える。「現代の」、とわざわざ書いたのは、いまだに「女流作家」なんていう言葉が、日本の出版界においてさえも平気な顔で使われているためである。必要なのは、精神的な融合なのだ。それだけが「鍵のかかる部屋」の内部においてさえも鳴り響く、昨今の強すぎる自意識を無価値なものにすることができ、シェイクスピアジェイン・オースティンのような「精神的独立」をもたらすことができる。

「肉体に二つの性があるのと同じように、精神にも二つの性があるのではないか、そして、その二つもまた、完全な満足と幸福を得るためには、結合される必要があるのではないか」(148ページ)

「正常な安らかな状態は、二つの力が精神的に協力し合いながら、調和を保って共存している時です。男性であっても、頭脳の女性的部分はなおも作用しているに違いありません。また、女性も彼女内部の男性的部分と交わっているに違いありません。コールリッジが、偉大な精神は両性具備である、と言った時、おそらく彼はこうしたことを意味していたのでしょう。精神が十分豊かになり、その全機能を発揮する時は、二つの部分の融合が見られる時なのです。きっと純粋に男性的な精神は、純粋に女性的な精神が創造し得ないのと同様、創造することができないだろう、と私は考えました」(148~149ページ)

 では、なぜこれほどまでの分離、排斥が推し進められてしまったのか。それは皮肉なことに、あるときからはじまった女性の権利を主張する運動の、ひとつの成果なのである。もちろん、おかしなことを是正するための運動であることにはちがいないのだが、この運動の高まりは男性たちに自身が攻撃されているような印象を与え、そこから今度は男性の側が、女性の劣等性を訴えるという、またしても醜い反撃に移っていったことに起因している(ちなみに興味深いことに、運動を加速化させた理由のひとつは、第一次大戦中に男手不足となったヨーロッパが、女性も男性と同等に働くことができる、という点を証明したことだという。これについてはウルフのべつの著書『三ギニー』で語られているそうだ)。

「多分、教授が女性の劣等性について少し声高すぎるほどに強調する時、彼は女性の劣等性ではなく、自分の優越性に関心を持っているのでしょう。自分の優越性こそ、彼が相当熱をこめて、力説しすぎるほどに保護しているものなのです。何故なら、それは彼にとってこの上なく貴重な宝なのですから」(52ページ)

「これら一切の責任は――仮に責任を問いただしたいとしてですが――男性にあるのでもなければ、女性にあるのでもありません。あらゆる誘惑者と改革者に責任があるのです。グランヴィル卿に嘘をついたベズブラー伯夫人に、グレッグ氏に真実を告げたミス・デイヴィスに、責任があるのです。性を意識する状態を惹き起こした人たち全部に責任があり、そして、私が一冊の本に全力をふり絞って取り組みたい時、ミス・デイヴィスやミス・クラフが生まれる以前の、作家がその精神の両面を均等に用いていた、あの幸せな時代にその本を求めざるを得ないのも、彼らたちのせいなのです」(156~157ページ)

 これは非常に狭量な、じつにつまらないことである。もちろん文学は、こんなことに関わっているべきではないのだ。

「誰でも、ものを書く者にとって、自分の性を意識するのは致命的だということです。純然たる男性もしくは女性であることは致命的なのです。人は女性的で男らしいか、或は男性的で女らしいか、のどちらかでなければなりません」(158ページ)

「女性が何か不平をほんの少しでも強調すること、尤もではあっても何か申し立てること、とにかく女性であることを意識して話すことは致命的なのです。そして、致命的と言ったのは、言葉の綾ではありません。というのは、いま申し上げたような意識的な偏見をもって書かれたものは、どんなものでも、滅びるのが定めですから」(158ページ)

 さきにもあげたとおり、ウルフは明確に、文学的傑作というのはただ一人の著者によって書かれるものではないと断言している。だからこそ、この伝統にとっての闖入者である、排他的な意味での「性の意識」などというものとは、早々と縁を切るべきなのだ。そう告げるウルフは輝いている。

「あなたが書きたいことを書いてさえいれば、それこそが大切なことです。そしてそれが幾時代にもわたって大したものであるのか、それとも数時間しか価値を持たないものなのか、誰にも分かりません。しかし、賞杯を手にしたどこかの校長先生や物差しをこっそりと携えているどこかの教授に敬意を払って、自分の心に描く人間の頭の毛一本でも、色の濃淡のほんの少しの度合でも犠牲にするのは、最も卑しい裏切り行為です。人間の災いの中で最大のものと言われてきた富と操の犠牲も、それに比べれば些細なことにすぎません」(161ページ)

「彼女に自分だけの部屋と年五百ポンドを与え、思うところを言わせ、現在取り入れているものの半分を省かせれば、いつの日か、もっと良い作品を書くでしょう。あと百年経ったら、彼女は詩人になるでしょう」(143ページ)

 正直、読み終えたばかりのときは、これでようやくゆっくりと煙草が吸える、なんて考えでいっぱいで、気にもしていなかったのだが、こんな風にウルフの教えてくれたことを将来の自分のためにまとめているうちに、おれはじつはとんでもない本を読んでいたんじゃないか、という考えに取りつかれた。途中から私見まみれになってしまったものの、大切なことを見つけたように思う。そんなつもりで書きはじめたわけではなかったが、この本には最高評価を付すことにした。将来この決断を後悔することは、たぶんないと思う。

自分だけの部屋 (新装版)

自分だけの部屋 (新装版)

 


〈読みたくなった本〉
ウルフ『三ギニー』

三ギニー―戦争と女性 (ヴァージニア・ウルフコレクション)

三ギニー―戦争と女性 (ヴァージニア・ウルフコレクション)

 

シャーロット・ブロンテ『ジェイン・エア

ジェイン・エア(上) (光文社古典新訳文庫)

ジェイン・エア(上) (光文社古典新訳文庫)

 
ジェイン・エア(下) (光文社古典新訳文庫)

ジェイン・エア(下) (光文社古典新訳文庫)

 

トルストイ戦争と平和
「小説家の場合、誠実という意味は、これは真実だと読者に確信させる力のことです。そうか、こういうことがあるとは思ってみなかった、人間がこういう行動をするとは知らなかった、と読者は感じるのです。いま、この作品を読んで、こういうことがあるのだ、こういうことが起こるのだとよく分かった、と。読者は読みすすめながら、一つ一つの句を、一つ一つの光景を、光にかざしてみます――自然は、とても不思議なことに、小説家が誠実か不誠実かを見分ける内なる光を私たちに具えてくれていますから。いや、むしろ、こうかも知れません――自然は、きわめて気まぐれな気分の時に、心の壁に見えないインクで或る予告を描いておき、それを優れた芸術家が確認するのです。つまり、或る素描があって、天才の炎にかざされさえすれば、それは目に見えるものとなるのです。私たちはそれを光にあてて、それが生き生きと蘇ってくると、歓喜にふるえて叫ぶのです、「ああ、これこそ私がいつも感じていたことだ!」と。そして、溢れるばかりの興奮にかられ、まるで何か貴重なもの、生ある限り常に頼りになるものであるかのように、一種の尊敬の念すらこめて本を閉じ、書棚に返すのだ、と私は、『戦争と平和』を手に取り元の場所に戻しながら、言いました」(109~110ページ)

戦争と平和〈1〉 (新潮文庫)

戦争と平和〈1〉 (新潮文庫)

 
戦争と平和 (2) (新潮文庫)

戦争と平和 (2) (新潮文庫)

 
戦争と平和 (3) (新潮文庫)

戦争と平和 (3) (新潮文庫)

 
戦争と平和〈4〉 (新潮文庫)

戦争と平和〈4〉 (新潮文庫)

 

チャールズ・ラム『エリア随筆』
「すべての故人の中でも(私は頭に浮かんだままのことをお話ししているのですが)、ラムこそ最も気の合う一人なのです。では、どのようにしてあの幾つものエッセイをお書きになったのか教えて下さいませんか、と訪ねたいような人なのです。というのは、私が思いますに、彼のエッセイは、あの奔放な想像力のひらめき――作品の半ばで稲妻の如く迸り出て、それを傷つけ不完全なものにしてしまうものの、全編を詩情できらめかせる天賦の才の閃光――の故に、完璧というべきマックス・ビアボウムのエッセイをも凌ぐ出来映えなのですから」(9ページ)

完訳・エリア随筆 I

完訳・エリア随筆 I

 

ゴールズワージーやキップリングの著作
ゴールズワージー氏もキップリング氏も、女性的要素などこれっぽっちも持っていません。したがって、彼らのあらゆる特質は女性にとって、概括して良ければ、幼稚で、未熟に思えるのです。彼らには暗示力がありません。そして、本に暗示力が欠ける場合、それは、精神の表面をいかに強く打とうと、内部に滲み通っていかないのです」(155ページ)
→ご覧のとおり否定的に扱われているのだが、逆に興味を惹く。

りんごの木・人生の小春日和 (岩波文庫)

りんごの木・人生の小春日和 (岩波文庫)

 
少年キム (ちくま文庫)

少年キム (ちくま文庫)

 

F・L・ルーカス『悲劇』
「現実の生活では、育ちの良い女性は独りで外出することはできないのに、舞台の上では女性は男性に劣らず、時には男性を凌ぐという逆説は、満足のいくように説明されたことはないのである。現代悲劇にも、同様の女性優勢が見られる。とにかく、シェイクスピアの作品をざっと目を通すだけでも(ウェブスターの場合も同様だが、マーロウやジョンソンの場合は異なる)、いかにこの優勢、女性の主導権が、ロザリンドからマクベス夫人に至るまで続いているかが分かるだろう。ラシーヌにおいても、また然りである。彼の悲劇のうち、六つの作品はヒロインの名をタイトルとしている。一体、エルミオーヌとアンドロマック、ベレニスとロクサーヌ、フェードルとアタリーに匹敵するどんな男性の登場人物を、彼の作品中からあげることができようか? イプセンの場合も同様である。ソルウェークとノラ、ヘッダとヒルダ・ヴァンゲルとレベッカ・ウェストに、どんな男性人物を対抗させたらよいだろうか?」(F・L・ルーカス『悲劇』の引用、「原注」より、176ページ)

Tragedy: Serious Drama in Relation to Aristotle's

Tragedy: Serious Drama in Relation to Aristotle's "Poetics" (A Chatto & Windus paperback)

 

アーサー・クウィラー=クーチ卿『文章技法』(引用は上掲)

On the Art of Writing

On the Art of Writing

 

E・M・フォースター『ウルフ論』
「ウルフがその批評眼に最も信頼をおいた身近な友人の一人E・M・フォースターは、後年の『ウルフ論』(1941)で『自分だけの部屋』を「フェミニズムに霊感を得た彼女の最も才気溢れる作品の一つ」と呼んでいる」(「訳者あとがき」より、215ページ)

フォースター評論集 (岩波文庫)

フォースター評論集 (岩波文庫)

 

ドリス・レッシング『黄金のノートブック』
「『自分だけの部屋』でウルフが確信を持って披瀝するこの信念は、1960年代の大作の一つ、ドリス・レッシングの『黄金のノートブック』(1962)の一節にまさしく復唱されており、ウルフが女性に、生きるための強烈なエネルギーの一つを確実に遺していったことを証明している」(「訳者あとがき」より、218ページ)

黄金のノート

黄金のノート

  • 作者: ドリス・レッシング,石村崇史,市川博彬
  • 出版社/メーカー: エディ・フォア
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