シュルレアリスムとは何か
「シュルレアリスム」という言葉をどうも理解していないと感じていた時に、書店の棚から抜き出した一冊。講演形式になっているから、読みやすそうだと思って手に取り、買ったそのままの足で喫茶店に入って読み耽った。
巖谷國士『シュルレアリスムとは何か』ちくま学芸文庫、2002年。
「これは名著だ」とはっきりと断言できる一冊である。腰を据えて目次を開いた時には、本当に驚いた。自分の興味のあることしか書かれていない本だったのだ。この本は三部構成になっていて、第一部が「シュルレアリスムとは何か」、そして第二部が「メルヘンとは何か」、さらに第三部は、何と「ユートピアとは何か」だったのである。
元々バタイユやクノーが好きで、何より生田耕作の翻訳書が大好きだったので、シュルレアリスムも全く馴染みのない言葉ではなかったが、その思想を具体的に説明することはできなかった。そのためこの本に手を伸ばしたのである。メルヘンに関して言えば、僕は児童文学が大好きである。しかしそれ以前に、物語の最も単純化された形式としての「おとぎばなし」に興味があった。いくらでも再話の材料となるような文学形式である。トルストイの『イワンのばか』や太宰治の『お伽草紙』、オウィディウスの『変身物語』や蒲松齢の『聊斎志異』あたりである。さらにユートピアに関して言えば、今は僕の中で空前のディストピア文学ブームが巻き起こっている。面白くないわけがない。しかも恐ろしく読みやすいのだ。これだけの内容を語った本が、寝る前の読書時間三日分だけで読み終えてしまえる、というのは奇跡である。読みたくなる本も大変豊富で、この本に出会えたことが単純に嬉しい。
<シュルレアリスムとは何か>
まずは、第一部のシュルレアリスムである。「超現実主義」とも訳される言葉で、特にこの「超」の扱いが、実は大変判りづらい。「超越」の「超」なのか、それとも女子高生が頻繁に唱えるような、程度を表す語彙としての「超」なのか。著者によれば、これは後者の「超」である。シュルレアリスムとは決して現実の外にあるワンダーランドを描いたものではなく、あくまでも現実に立脚している。そして、元々が主観的なものであるはずの現実の中に現れる、客体化された文字通りの「オブジェ」をこそ捉えようとする試みが、シュルレアリスムなのだ。
「「現実」という言葉をわれわれは日常的に使うことはできるけれども、その「現実」は決定的なもの、自明のものではないはずです。もともとは謎をはらむ、つかみどころのない時間空間のなかに、現実と称するものを惰性的に見つけ、それでなんとか「現実生活」をやりくりしているのが現代人でしょう。ところがそれは主観的な約束事であって、客観的な、オブジェクティフな、つまりオブジェの現実ではない。そんな日常の約束事とつきあっているうちに、なにかフワッと、見たことのない、未知の驚きをよびおこす現実があらわれたというようなときに、それを「超現実」と呼ぶべきではないのか」(22ページ)
それを実践するための方法論の一つが、ブルトンが『シュルレアリスム宣言』の中で唱えた「自動記述」。あらかじめ書くことを決めないまま、思うままにペンを走らせる。そしてそのスピードをどんどん速めていく。
「物を書くということは、ある程度オートマティックな、自動的なことなんですね。スピードがだんだんあがってくると、もう何を書こうかということを考えずに書く状態がたいていの人におとずれるもので、けっして特殊なことでも不思議なことでもない。ところが、書くスピードをどんどんアップしていったとき、ブルトンやスーポーはどういうことを経験したかというと、なんだかわけのわからない狂気に近いところへ行ってしまった」(40ページ)
するとどういうことが起きるか。超スピードで何も考えずに文章を書くことを徹底すると、文体が過去形ではなくなっていく。動詞が活用しなくなる。そして主語が消え失せる。
「通常、文章は過去に起因します。過去に体験したことが文章になるというのが普通でしょうし、そう思われてもいますね。ところが、かならずしもそうではない事態がおこるんです。実際に「自動記述」をやってみて感じるのは、いま考えていること自体が文章になってゆくということ。現在形になるということは、事実、過去の何かを書いているということじゃない場合があります。ひょっとすると、そこに書いている内容は、いま自分がやっていること自体であるのかもしれない、いや、そうとしか思えないといったような文章も出てくるんですね」(48~49ページ)
シュルレアリスムの文学というのは、この「自動記述」からスタートしている。一見わけのわからない、連なる言葉の脈絡が全く汲み取れない文章は、こんな風にして書かれた故のものだったのである。そんな風にして並べられた言葉は、まさにオブジェ。
「「自動記述」には、物を書く行為そのものがもともと多かれ少なかれ自動的であるということを、あらためて再発見させた実験だという一面があります」(63ページ)
ここでは文学を取り沙汰したけれども、実際はエルンストやマグリット、ジョアン・ミロらによるシュルレアリスム絵画についても幅広く語られている。クノーやバタイユが共鳴し、やがて離れていったアンドレ・ブルトンという人がどのような思想をもって著作を行っていたのか、本人の文章を読んでもいまいち判らない分、ここまで判りやすく解説してくれているのは本当にありがたい。
<メルヘンとは何か>
第二部はメルヘン。ここのテーマは、そもそも日本語にした時に大変曖昧な概念になってしまう「幻想」という言葉を解説することにある。日本においてはマジックリアリズムとシュルレアリスムすら混同されてしまうのは、一体どういうわけなのか。そこでそもそもワンダーランドとはどういうものなのかを、現代日本において「メルヘン」という言葉が背負わされている様々な概念を、一つ一つ細かく噛み砕くことで解説してくれている。
そもそも「メルヘン」に対応する日本語は「おとぎばなし」であって、「童話」や「昔話」ではないという。「民話」「神話」「伝説」「寓話」といった言葉もそれぞれ異なる意味を持っているのに、日本ではみんな「メルヘン」と呼ばれてしまっている現状があるのだ。日本語の「幻想」という言葉が恐ろしく広範な意味を含有していることも、このあたりに原因があるのではないか、と著者は示唆する。
「おとぎばなし」とはペローやグリム兄弟らが編纂した話の数々であって、近代的な概念としての「子ども」を最初から読者に想定にしたアンデルセンやボーモン夫人の作品は「童話」と呼ばれる。「民話」「神話」「伝説」にはそれぞれ固有の登場人物や土地が現れ、これは「おとぎばなし」の持つ普遍性とは異なったものだ。この普遍性というのが「おとぎばなし」の根幹である。近代的な自我について書かれたものは全て「おとぎばなし」ではないのだ。アンデルセンや宮沢賢治がどれだけ「メルヘンチック」な作品を書いていても、そこに作家の自我が投影されていれば、それは「メルヘン」、即ち「おとぎばなし」とは言えないのだ。
「おとぎばなしとはそういうものですね。たとえ悲しんだり悦んだりする場面があったとしても、それは「かつてないほど悲しみました」とか、「たいそうな悦びようでした」とか、紋切型の形容たったひとことですませてあって、どういう個別的な悲しみや悦びだったかは何もいわない、つまり、人間の心理の細部が反映しないように語られているのがおとぎばなしです。そのことは個人というものから発していない、集合的な、人間の集団のなかから生まれた自然発生的な文学だという性質に由来するように思えるんです」(126ページ)
「おとぎばなしの世界には固有名詞があらわれない。おとぎばなしは語りだしからして時代も場所もかぎっていない。「昔々あるところに」と非限定の時間空間をつくったうえではじまるんですから、なんとも不思議な文学形式だと思いますね。「昔々」はどんな時代でもいい。「あるところに」はどんな場所でもいい。たとえば、十五世紀のブルゴーニュのディジョンの町でという書きだしだったら、それはまずおとぎばなしではない。おとぎばなしは時間も空間も非限定であるというところに大きな特徴と魅力があります」(133~134ページ)
非限定の時間と空間、そして何より自我の不在という、「おとぎばなし」の持つ普遍性を生み出すこの客観性こそが、シュルレアリスムと繋がっているのだ。他にも「おとぎばなし」の特徴を備えた文学として稲垣足穂の『一千一秒物語』や澁澤龍彦の『高丘親王航海記』が挙げられている。
しかし、「メルヘン」という言葉は英語に訳すと「フェアリー・テイルズ」となる。このフェアリー、妖精的な要素をフランス語では「フェーリック」という。日本語の「幻想」が根本的に間違っているのは、この「フェーリック」と「ファンタスティック」を混同してしまっているからなのだ。
「近代は、じつは科学の発展とともに「ファンタスティック」を生んだのだともいえます。事実、ヨーロッパで一般に幻想文学といわれているものは、十八世紀以後の産物ですね。
ただしそれ以前にも、日本語でいうと幻想的なものはいくらでもあった。おとぎばなしも幻想的だし、アラビアン・ナイトも幻想的だし、ギリシア神話など、神話もみんな幻想的です。でも、それらはかならずしも「ファンタスティック」じゃない。むしろ「フェーリック」なんです。
「ファンタスティック」は、この部屋のような日常の現実に裂け目ができて、説明のつかないものが侵入してくることをいうけれども、「フェーリック」のほうは、はじめからこの部屋とはちがう法則にもとづいたワンダーランドがあるということですね」(170~171ページ)
つまり、マジックリアリズムの「幻想」とは「フェーリック」な世界を日常に引き込んだもので、シュルレアリスムの「幻想」とは「ファンタスティック」なものを現実の延長線上に捉えたものなのだろう。日本語の「メルヘン」という言葉に含まれている間違いを徹底的に分析することによって「幻想」という言葉の分類まで成功している。痛快である。
<ユートピアとは何か>
そして、ユートピアだ。僕が最近多用している「ディストピア」という言葉は「アンチ・ユートピア」の意味ではあるが、実は元々の「ユートピア」自体がトマス・モアが自ら描いたディストピア世界を表したものなので、言葉の発生からして「アンチ・ユートピア」という意味を含んでいる。いや、そもそも「アンチ・ユートピア」という言葉自体が間違っているのだ。「アンチ・ユートピア」という言葉の中の「ユートピア」は、一般的に日本で流布している広告イメージとしてのユートピアを表したもので、原義的な意味でのユートピアではない。
「ユートピアとはこの世に存在しない、ある理想的な場所あるいは国という意味であって、楽園とか、桃源郷の概念とはだいぶちがう」(187ページ)
一般には「ユートピア=楽園」といった解釈がされてしまっている。しかしユートピアと楽園は全く違うものだというのだ。
「楽園をすばらしい自然の世界だというふうに考えるならば、それは明らかにアジア産です。ユートピアはすばらしい理想の都市だというふうに考えるならば、こっちは明らかにヨーロッパ産で、この二つはむしろ対立しているんです。比喩的・象徴的にいえば男女の対立だと見てもいい。楽園は自然のただなかの自然な世界ですが、ユートピアは法によってしばられている共同体的な世界です」(197~198ページ)
つまり、オーウェルやハックスリーが描いているのも一つのユートピアなのである。そもそものユートピアが、僕が今まで使っていたディストピアという言葉の意味を含んでいるのだ。
「ユートピア文学はやはり読んでいておもしろい。それはむしろ、二十世紀においてはユートピアが一種の地獄にも感じられるからです」(240ページ)
「というわけで、サドの作品の世界はどう見たってすばらしい国とは思えないし、だれもそんなところへ行きたいとは思わないでしょう(笑)。ある種の人はそれに快楽をおぼえるかもしれないけれども、あまりにも極端であり抽象的であるために、「人間」がなくなってしまい、機械、あるいは自動人形の世界が現出する。にもかかわらず、いや、だからこそじつは、サドの作品ほどユートピア的なものはないんです。サドにもいろいろな側面があるけれども、重要な一点だけをいうと、ユートピアというものを完璧に構築した場合、そこは地獄に近くなるということを立証した人ですね」(264~265ページ)
ユートピアは完全に管理・整備された世界として描かれていることが多い。ユートピアの対義語がディストピアでないのなら、その反対の概念は何だろう。
「この場合、「ユートピア」の反対の概念が「迷路」であるといってもいいでしょう。「迷路」、つまりラビリントスですね。ユートピアは完全に幾何学的に整理された美しい町ですが、「迷路」は自然のまま、いくらでも無自覚にひろがってしまった状態の、ときにはスラム化している町のことです」(245ページ)
幾何学的に整理されたものがユートピア的なものであるのなら、歴史もまた、その正反対のものだという。そういえばオーウェルの『一九八四年』やブラッドベリの『華氏451度』、ボフミル・フラバルの『あまりにも騒がしい孤独』など、歴史を改変する風景を描いたユートピア文学の何と多いことか。
「歴史はユートピアとは正反対のもので、歴史の側に立つ人間はつねにユートピアを否定するでしょう。なぜなら歴史とは生成であり変化であり腐敗であって、規則性や反復、清潔さや合理性、定住や閉鎖性のなかに逃避しようとするユートピアなるものを認めませんから。シュルレアリスムははじめからこの歴史の視点に立っていて、たとえばパリならパリという町の空間を、たえざる変化、変貌の過程でとらえます。前にふれたブルトンの『ナジャ』やアラゴンの『パリの農夫』が典型的ですが、それらをベンヤミンが評価し、フーリエとボードレールのパリ、パッサージュのパリの延長上に見たこともご存じのとおりです。もともと「自動記述」なるものが生成・変化・流動の体験で、『溶ける魚』の「溶ける」という形容詞にしても、じつはその点を形容しているかもしれないんですね」(273~274ページ)
そしてその歴史の改変というのはユートピア文学の中の話だけではなく、日本でもどこでも、実際に行われていることなのだ。ホブズボームの『創られた伝統』を取り沙汰すまでもなく、現代という時代はユートピアに向かっている。日本の人々が「ユートピア」という言葉を肯定的な要素のみを意図して広告等に用いるのは、相当危ない証拠なのである。そしてそんな風潮に警鐘を鳴らしたのが、シュルレアリスムだったのだ。
以上、長々とそれぞれのテーマについて見てきた。繰り返すようだけれどもこれだけ豊潤な内容が、講演形式でこれ以上ないほど判りやすく語られているのだ。三つのうち一つのテーマにでも関心のある方には是非とも手に取ってみて貰いたい。そしてこれらのテーマが互いにどれだけ連関したものであるのか、是非とも体感して欲しい。
紹介されていた本を全部読みたいほどだ。この先何度も何度も読み返すことになる気がする。巖谷國士の他のシュルレアリスム論も読みたくなった。読みたい本だらけである。こんなに嬉しいことはない。
<登場する本>
ジャリ『超男性』
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- 作者: Raymond Roussel
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ブルトン『通底器』
エルンスト『絵画の彼岸』
エルンスト『百頭女』
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エルンスト『慈善週間』
ユイスマンス『さかしま』
フィリップ・アリエス『〈子供〉の誕生』
フーコー『監獄の誕生』
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