Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

ナジャ

アンドレ・ブルトン1928年に発表した自伝的作品『ナジャ』。現在書店で手に入る『ナジャ』は白水uブックス版とこの岩波文庫版の二種類あり、訳者はどちらも巖谷國士だが、後者のこちらは1963年にブルトン自身によって全面改訂が施された版である。

ナジャ (岩波文庫)

ナジャ (岩波文庫)

 

アンドレ・ブルトン巖谷國士訳)『ナジャ』岩波文庫、2003年。


「溶ける魚」を紹介した時にも書いたことだが、ブルトンの作品は安易な分類を許さない。『ナジャ』に登場する名前は全て実名だし、語られる出来事も実際に起きたことばかりである。フィクションとしての小説ではないのだ。「シュルレアリスム宣言」に見られたドストエフスキーへの批判が、どのようなかたちで現れているのかも面白い。ブルトンは景色を細かく描写することなく、ただ一枚の写真を図版として挿入させているのだ。

「彼女は名前をいう。自分でえらんだ名前である。「ナジャ。なぜって、ロシア語で希望という言葉のはじまりだから、はじまりだけだから。」」(76ページ)

この作品は彼女との交歓の記録である。この神秘的な女性との関係は、ブルトンにとっては書かずに済ませられることではなかったのだ。その強制力は他ならぬナジャによってもたらされている。

「アンドレ? アンドレ?……あなたはあたしのことを小説に書くわ。きっとよ。いやといってはだめ。気をつけるのよ、なにもかも弱まっていくし、なにもかも消えさっていくんだから。あたしたちのなかの何かがのこらなければいけないの……」(118ページ)

先述した通りこれはフィクションではないが、まるきりのノンフィクションと呼ぶのも難しいだろう。ナジャといる時に起こるのは思いがけないことばかりだ。現実と地続きで現れる、しかしありそうもないことの数々を、ブルトンは書き留めている。

「どんなに小さな事実でも、本当に思いがけないものとしておこった場合、計算や熟考はむなしく風に運びさられてしまうのである」(69ページ)

「私が接吻しようとしたとき、ふいに彼女は叫び声をあげる。「ほらあそこに(と昇降口のガラス窓の上のほうを指さしながら)、だれかいるわ。さかさまになった頭が、いまはっきり見えたのよ。」私はどうにか彼女を落ちつかせる。五分後にまたおなじゲームだ。「あそこに人がいるっていうのに。庇つきの帽子をかぶった人よ。いいえ、幻覚なんかじゃないわ。幻覚だったら自分でわかるもの。」私は外へ身をのりだしてみる。下にのびる昇降用ステップのどこにも、となりの車輛の階段にも、なにひとつ見えない。それでもナジャは、まちがえたはずはないといいはる。執拗にガラス窓の上のほうをにらみつづけ、神経をたかぶらせたままでいる。念のために、私はもういちど外へ身をのりだしてみる。するとこんどは、私たちの上で、車輛の屋根に腹ばいになったひとりの男が頭をひっこめるところを、はっきり目にとめるだけの間がある」(126~127ページ)

シュルレアリスムがどのようなものかを理解するのに、これほどわかりやすい例はなかなかないだろう。

「溶ける魚」が詩集のように読めるものであったのと同じように、『ナジャ』にも詩的な表現が数多く現れる。ナジャに関して言えば、彼女は存在自体が詩である。彼女の言葉が持つ詩情はブルトンを魅了させるが、社会的には彼女は狂人として映る。まさに「狂人の打ち明け話」をブルトンは耳にしているのだ。

「その件から彼女は、自分の小さな娘のことを思いだす。子どもがひとりいることは、以前にことさら用心ぶかく話してくれた。自分の熱愛している娘で、それはなによりも、ほかの女の子たちとはちがい、「人形の眼のうしろに何があるのか見ようとして、いつも眼をくりぬきたがっている」からだという」(103ページ)

「ちなみに、最近マルセイユの旧港の埠頭でなにもせずにいたときのことだが、日没のすこし前、ひとりの異様なほど細心な画家がカンヴァスにむかい、器用にそして迅速に太陽と闘っているのを見たことがある。太陽に対応する色斑は、日の傾くにつれてすこしずつ下にさがっていった。結局なにものこらなかった。画家は不意に、すっかり後れをとっていることに気がついた。彼は壁にのこる赤い影を消しさり、水面にのこる一、二の光もとりのぞいてしまった。彼にとっては完成され、私にとってはまったく未完成な作品となったその絵は、とても悲しい、とても美しいものに思われた」(175ページ)

ナジャが精神病院に入れられると、ブルトンの攻撃が始まる。フーコーの言葉が思い出されるくだりである。

「いちどでもその内部に立ちいったことのある人なら、精神病院こそは狂人をつくるところだということを知らないはずはない。それは感化院がならず者をつくっているのとそっくりだ」(163ページ)

「周知のように、非‐狂気と狂気とのあいだに境界などない以上、私はそのどちらに属する観念に対しても、それぞれ他方とちがう価値を認める気にはなれない。どんなに議論の余地のない真実よりも、はるかに意味ぶかく、はるかに射程の大きい詭弁というものがある。それを詭弁としてとりさげてしまえば、大きさも重要さも失われる」(170ページ)

結局のところ、ブルトンは途方もないロマンティストだったのではないか、と思ってしまう。彼が愛しているのは常に一人の精霊であり、それはこの作品の中ではナジャの姿をとって現れてはいるが、実のところ彼女は仲介人に過ぎないのだ。

「私はいつも、夜、どこかの森で、ひとりの美しい裸の女と出くわすことを、信じがたいほどに願ってきた。あるいはむしろ、そういう願望はいちど口にしてしまうともうなんの意味もなくなるので、私はそんな女と出くわさなかったことを信じがたいほどに悔やんでいる、というべきか。いずれにしろ、そんな偶然の出会いを予想するのは、さほど常軌を逸したことではない。ありうるだろうからだ。もしもそうなったら、すべてはぴたりと停止してしまったことだろう、ああ! 私はいま書いているものを書くまでにいたらなかっただろう」(45~46ページ)

「精霊……このしるしのもとにあらわれた幾人かのそれらしい仲介者たち、君のかたわらではもう私のものでなくなってしまった仲介者たちから、私はいまさら何を期待できるというのだろう!」(186ページ)

訳注だけで100ページ以上もあるが、読みやすい。訳注は初版からの異同と、語られていないことを補うという役割を果たしているだけで、興味がなければ読まなくても済むような作りになっている。本の半分が注になっているので、実際には大変短い作品だ。

「ある人の生によって生き、しかもその人の与えてくれる以上のものを得ようとはけっして思わずに生きること、その人が動いていたりじっとしていたり、話をしたり黙ったり、目ざめていたり眠っていたりするのを見るだけで十二分に満足していられること、そんなことを可能にする一切が私にはもう存在しなくなっていた、いやいちどだって存在したためしがなかった」(158ページ)

ところどころ難解に思われるのは、語られていることが多すぎるからかもしれない。なかなか腰を据えて読む時間がとれなかったため、是非とももう一度、ゆっくりと精読したいと思った。美しくも悲しい記録である。

ナジャ (岩波文庫)

ナジャ (岩波文庫)