風立ちぬ・美しい村
静かに流れる美しい文章。堀辰雄の代表的中篇、二編。
精読を要求するわけではないけれど、精読しなければ勿体ないような小説。静かな場所で、堀辰雄の描く美しい世界の中にひっそりと沈んでいきたい。
例えば片山恭一の『世界の中心で愛を叫ぶ』などに代表される現代の日本の小説のことを、「サナトリウム文学」と呼ぶらしい。きまって恋人が死ぬからだ。サナトリウム文学。冗談じゃない、と思う。文学という言葉が付けられているのにすら腹が立つ。「風立ちぬ」読めよ、と言いたくなる。「美しい村」とセットで読めよ。二度と「サナトリウム」なんて言葉を使う気がなくなるはずだ。
「それは一本の花を失った野薔薇だった。私はやっとのことで、その鋭い棘から私のジャケツをはずしながら、私はあらためてその花のない野薔薇を眺めだした。それが白い小さな花を一ぱいつけていた頃には、あんなにも私がそれで楽しんでいた癖に、それらの花がひとつ残らず何処かに立ち去ってしまった今は、そんな灌木のあることにすら全然気づこうとしなかった私に対して、それが精一杯の復讐をしようとして、そんな風に私のジャケツを噛み破ったかのようにさえ私には思えた」(「美しい村」より、52~53ページ)
誰もが予想する結末を、堀辰雄は避ける。それは文学的野心なんかでは全然なくて、ただそんな結末を彼が書きたくなかったからだ。書けなかったからだ。「風立ちぬ」はそうして美しくなっていく小説だ。それは恋人の亡骸を抱いて慟哭する絵よりも、ずっと静かで美しく、圧倒的に悲しい。
「私の身辺にあるこの微温い、好い匂いのする存在、その少し早い呼吸、私の手をとっているそのしなやかな手、その微笑、それからまたときどき取り交わす平凡な会話、――そう云ったものを若し取り除いてしまうとしたら、あとには何も残らないような単一な日々だけれども、――我々の人生なんぞというものは要素的には実はこれだけなのだ、そして、こんなささやかなものだけで私達がこれほどまで満足していられるのは、ただ私がそれをこの女と共にしているからなのだ、と云うことを私は確信していられた」(「風立ちぬ」より、103~104ページ)
「おれはお前のことを小説に書こうと思うのだよ。それより他のことは今のおれには考えられそうもないのだ。おれ達がこうしてお互に与え合っているこの幸福、――皆がもう行き止まりだと思っているところから始っているようなこの生の愉しさ、――そう云った誰も知らないような、おれ達だけのものを、おれはもっと確実なものに、もうすこし形をなしたものに置き換えたいのだ。分るだろう?」(「風立ちぬ」より、123~124ページ)
あまりにも美しく描かれる幸福のため、あまりにも寂しい。小説の中では、話は進まない。それはただ堀辰雄の気丈な姿勢であり、彼が書き留めたかったのは女性との素晴らしい思い出だけなのだ。
「幸福の思い出ほど幸福を妨げるものはない」(「風立ちぬ」より、140ページ)
文学の外に漂う寂寥感。こんな書き方ありかよ、と思ってしまう。涙が出ない。太宰治が「右大臣実朝」の中で「アカルサトハ、ホロビノスガタデアロウカ」と書いているのが思い出された。暗くない。明るい。彼女の姿を描く時の堀辰雄は、あまりにも生き生きし過ぎている。
堀辰雄が読書を大切にする作家であったことがよくわかるほどに、海外文学の名が多く出てくる。この一冊に登場したものを以下にまとめてみた。作家名しか出ていないものは、代表作を挙げた。
時間を作って、他の著作も読みたいと思った。静かな場所で、静かに読むべき作家。
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ラファイエット夫人『クレーヴの奥方』
ラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』
コンスタン『アドルフ』
ハイネ『歌の本』
ヴァレリー『ヴァレリー詩集』
<読みたくなった本>
ラファイエット夫人『クレーヴの奥方』
コンスタン『アドルフ』
ラクロ『危険な関係』
→フランス心理小説の系譜。
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堀辰雄『燃ゆる頬・聖家族』
→「聖家族」はラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』を意識した作品らしい。