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Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

とるにたらないものもの

配架-日本文学 評価-★★★★★(奇跡) いわゆる-エッセイ

 最近また、江國香織を読むのが楽しい。また、というのは、じつはこのブログをはじめる前、彼女の作品をかなり熱心に読んでいた時期があるのだ。そのころにはまだ、どうして自分がこうまでこの作家に心惹かれるのかは説明できなかった。そのうえ、彼女の作品はなんとなく女の子が読むもの、という偏見もあったので、声を大にして愛着を表明することも気恥ずかしかったのだ。もちろん、いまはちがう。いまでは、知識や教訓を求めることだけが読書ではない、という単純な事実に気づいているし、文章が持つ詩情にも遥かに敏感になっている。この変化はわたしにとっては決定的に重要で、これがなかったら江國香織のすばらしさを再発見することもできなかったと思う。一文の詩情、というものに関して、これほどの満足感を与えてくれる作家はそうそういないからだ。

とるにたらないものもの (集英社文庫)

とるにたらないものもの (集英社文庫)

 

江國香織『とるにたらないものもの』集英社文庫、2006年。


 頻繁に引用する言葉のひとつに、「無駄なものほど美しいものはない」というのがある。具体的な出典を思い出せないのがはがゆいのだけれど、これは江國香織のなにかの本に書かれていた言葉だ。この言葉と、偏愛している詩人ペソアの、「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」(こちらは出典もわかる。『不穏の書、断章』13ページ)は、たいてい同じ文脈で思い出される。個人的な印象として、これらの言葉は同じことを言っているのだ。

 無駄なものほど美しいものはない。芸術が本来無駄なものであるということを思いだせば、それはけっして突飛な考えではない。芸術とは無駄なものである。ほんとうにもう、現実生活にとっては徹底的に役に立たない。役に立たなければ立たないほど、芸術としての純度は高いのだ。そして文学における芸術性の最たるもののひとつに、詩情がある。詳しい話は『短歌の友人』『明るい部屋』に詳しいが、これは「あらすじ」や「要約」がいちばん最初に捨て去る部分、すなわち細部に宿るものなのだ。

 ここで、この本のタイトルをもう一度見てみてほしい。『とるにたらないものもの』! 以前とりあげた『絵本を抱えて部屋のすみへ』のなかで繰り返されていたとおり、江國香織は日常生活にひっそり隠れている喜びに非常に敏感な作家なのだ。いわば生活の細部、生活に宿る詩情。彼女の視線の先にあるのは、とるにたらない、無駄な、そのためじつに美しい「ものもの」なのである。たとえば、輪ゴム。

「子供のころ、輪ゴムの箱をみるのが好きだった。それは廊下の本箱に置いてあり、茶色と黄色で、中にどっさり輪ゴムが入っていた。新しい輪ゴムは表面がかすかに粉っぽく、そのくせいくつかくっついてかたまりになっていたりして、箱に手をいれてひんやりしたそれに触れると幸福な気持ちになった。必要なときにはいくらでも使える、という安心感、便利なものが潤沢にある、という贅沢。そういうとき、指先に移るゴムの匂いも快かった」(「輪ゴム」より、13ページ)

「かなしいものの一つに、だからのびたり干からびたりした輪ゴムがある。あれは実にわびしいが、それでさえも、仕事をしきって一生をまっとうした、というような、職人めいた潔さがあってちょっとほれぼれする。私はいまでも、台所でそういうゴムの屍をみると敬虔な気持ちになる」(「輪ゴム」より、14ページ)

 そして、たとえば、フレンチトースト。

「フレンチトーストを食べると思いだす恋がある。私はその恋に、それはそれは夢中だった。それはそれは日々愉しく、それはそれは羽目を外した。
 そのころ、私たちはよく朝食にフレンチトーストを食べた。ただでさえ甘いフレンチトーストを、その男は小さく切って、新たにすこしバターをのせ、蜜でびしょびしょにしてフォークでさして、差しだすのだった。幸福で殴り倒すような振舞い。私はそれを、そう呼んだ」(「フレンチトースト」より、118ページ)

「フレンチトーストが幸福なのは、それが朝食のための食べ物であり、朝食を共にするほど親しい、大切な人としか食べないものだから、なのだろう」(「フレンチトースト」より、119ページ)

 阿部和重との対談が収められた『和子の部屋』で訴えられていた、「言葉しか信じられません」という彼女の感覚は、ここでもたっぷり表明されている。というか、文章を引いていて気づいたのだけれど、「とるにたらないものもの」として江國香織がとりあげているのは、オブジェとしてのもの自体ではなく、対象となっているものの名前であることが非常に多い。

「原稿は鉛筆で書いています。
 ほんとうはシャープペンシルを使っているのに、尋ねられるとそうこたえるのは、シャープペンシルという言葉が恰好悪いからだ。シャーペン、と縮めるのはなお感じが悪く、なんだかばかみたいな響きだと思う。
 それにひきかえ、鉛筆。いい名前だ。鉛筆、と書いただけで、あるいはその言葉を発音しただけで、小学生のときの、筆箱をあけた瞬間に立ちのぼる匂い――削りたての鉛筆を使っているときに、そのあいだじゅう漂っている匂い――を思いだす。木とやわらかな芯とのつくりだす、あの静かで胸の落ち着く匂いが、私はとても好きだった」(「鉛筆とシャープペンシル」より、120~121ページ)

「オーバー、という言葉をあまり聞かなくなった。ウールやカシミアの、丈の長い厚手のコートを、私が子供のころにはみんなオーバーと呼んでいた。オーバーコートの略なのだろうから、厚手だろうと薄手だろうと外套ならばコートで正しいわけだけれど、オーバーという言葉が消えつつあるのはなんとなく淋しい」(「オーバー」より、153ページ)

 じつにわかりやすいのは、ケーキ、である。

「ケーキ、という言葉には、実物のケーキ以上の何かがある。私はその何かが好きだ。
 ケーキ、という言葉に人がみるもの。それはたぶん実物のケーキよりずっと特別だ。ケーキがあるわよ、とか、一緒にケーキでも食べない、とか言われたときの、あの湧きあがる喜びは、そうでなきゃ説明がつかない。だって、どんなケーキかもわからないのに嬉しいなんて変だもの」(「ケーキ」より、66ページ)

 また、ここでもケーキが登場しているのだが、詠歎を示す助動詞「けり」について書かれた章がとてもおもしろい。「ああ、またしてもケーキを食べにけり」といったような。江國香織はここで、この「けり」の英訳を探しているのだ。

「思いだすことがある。アメリカに留学していたころのことだ。「I ATE A CAKE」や「I HAVE EATEN A CAKE」に後悔や詠歎をつけ加えるにはどうしたらいいのか、と、ある日私は教師に尋ねた。英語にだって、詠歎を示す言葉があるはずだ、と、思ったのだ。その白人中年男性教師はしばらく考え、説明が要る、と、言った。「ダイエット中であるにもかかわらず」とか、「友人にとっておいた分なのに」とか、説明をつければ後悔の気持ちが伝わる、と。
 「違う!」
 普段に似ず、私は語気強く主張した。
 「説明しないことが大切なんです。訴えではなく詠歎なんだから」
 理解してもらうのに時間がかかったが、やがて教師は自信たっぷりにうなずいた。
 「わかった。必要なのは表情と抑揚だ。首をふりながら、ため息まじりに、悲劇的な面持ちで、A CAKE! を強調して言えばいい」
 そして、彼は手本をみせてくれた。私はあっけにとられてそれを眺めて、
 「私には、とてもそんな真似はできない」
 と、つぶやくよりなかった」(「「けり」という言葉」より、103~104ページ)

 じつに江國香織らしい質問というか、やっぱり日本語の細かなニュアンスに敏感でないひとは外国語の習得も遅いんだろうな、なんてことを考えさせられるエピソードである。江國香織は、もちろん早いほう。

「人ばかりか、私は物の愛称も苦手で、たとえば小学生のころ、シーソーを「ぎったんばっこん」だか「ぎっこんばったん」だか忘れてしまったが、ともかくみんながそんなふうに呼びならわしていて、私はシーソーのことをそんなふうにはとても呼べない、と思っていた」(「愛称」より、25ページ)

「つくづく思うのだけれど、私は名前にまどわされるたちだ。本でもCDでも、タイトルだけでどうしても欲しくなることがしばしばあるし、たまに買う馬券も半分は馬の名前で買う。
 最たるものがカクテルだ。私はカクテルが好きでよくのみにいくのだけれど、カクテルの何が好きかというと、名前が好きなの。味はあんまり好きじゃない」(「カクテルの名前」より、33ページ)

 また、電話が苦手だという告白も書かれていて、これがたいへん微笑ましい。江國香織は小説家以外の職業すべてに向いていないという稀有な小説家だ。彼女が小説家であったことを嬉しく思う。

「電話口で、私の会話はもう徹底的に弾まない。おまけに切り方がいつもよくわからない。「それでは、さようなら」は口語として不自然な気がするし、「失礼します」は私には馴染まない。「またかけるね」と時々言ってしまうのだが、それはかかってきた電話だし、またかけたためしなどない。「またかけてね」が正しいと思いはするのだが、「そんなら自分からかけろよ」と相手が思うだろうと推察されるし、それが道理だ、とも思うので、言えない」(「電話」より、160ページ)

「たとえば混んだ電車に乗っているときなどに、ときどき思う。みんなあたり前の顔で大人みたいに振舞っているけれど、例外なく全員子供だったのだ。嘘つきだったり乱暴だったり泣き虫だったりお風呂が嫌いだったり、おねしょをしたり歯を磨かなかったりしたのだ、きっと。そう思うと可笑しくておそろしい。言葉の通じる大人みたいな顔をしているが、言葉の通じない子供が大きくなった者たちなのだ。信用ならない。
 子供にとって、世の中は理不尽だらけだ。そのころの記憶が、私には思いきりしみついている」(「いいのだ、ということ」より、187~188ページ)

 推理小説を耽読している理由が、自分が望まない場所にいたくないから、というのも、共感できる。読書が生活にとって不可欠、というのは、ほんとうはこういう状態のことを言うのだと思う。じつはそれはぜんぜん、胸を張って言えるような恰好の良いことではないのだ。

「このことはもう何年も認めるのが恐かったのだけれど、仕事をしたり、食事をしたり、掃除をしたり、人に会ったり、という自分が決めたこと、望んだこと、をしている時以外、私は常に本を読んでおり、心は別の場所にいて、そこにいない。
 たとえば自分の身に大変な不幸が起きたとしても、おもしろい推理小説があれば、それを読みおわるまでは泣いたり騒いだりしないと思う。そこにいないんだもの。
 望まない場所にいたくないのだ。
 推理小説を好きになった時期と、テレビに我慢ならなくなった時期が一致するのもそれで辻褄が合う。望まない情報にさらされることが苦痛である、という臆病かつ我儘な精神。好奇心のない子供みたいだ。
 でもたぶんそのせいで、私は日々健やかに機嫌よく暮らしている。これは大事なことだと思う」(「推理小説」より、175~176ページ)

 江國香織の選ぶ一語一語が、言葉づかいがとても好きだ。言葉にとりつかれた作家の言葉。彼女が日常生活を言語化することに必死になればなるほど、いざ書かれたときの言葉は揺るぎないものとなっていくのだろう。書いている最中の、これしかない、という確信が伝わってくるようで、とても安心して読んでいられる。

「仮にも言葉で仕事をしているくせに、言葉にまどわされるなんて、とたまには自嘲してもみるのだが、言葉にまどわされなくなったら小説家なんておしまいだ、という気もなんだかやっぱりするわけなのだった」(「カクテルの名前」より、35ページ)

 じつに薄い本で、一時間程度で読み終えてしまった。でも、なんだろう、この心躍る感じ。同じテーマで何冊も書いてほしい、と思う。江國香織になら、これはいくらでも書けるにちがいないから。また読み返したい。

とるにたらないものもの (集英社文庫)

とるにたらないものもの (集英社文庫)