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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

不穏の書、断章

ポルトガル文学を求めて辿り着いた、フェルナンド・ペソアの世界。初ペソアながらも、この詩人に今まで出会えなかったことを後悔するほどの内容だった。ペソアの書くものには、ただならぬ吸引力がある。電車の中と就寝前の数時間が素晴らしく豊かなものになった。

不穏の書、断章

不穏の書、断章

 

フェルナンド・ペソア(澤田直訳)『不穏の書、断章』思潮社、2000年。


タイトルは『不穏の書、断章』であるが、ページを開くとまず初めに「断章」があって「不穏の書」はその後に続く。「断章」はゲーテの『格言集』やラ・ロシュフコーの『箴言集』を彷彿とさせるような、大変短い言葉が散りばめられた断片集である。続く「不穏の書」にも同じことが言えるが、これほど速読に向かない本も珍しいだろう。むしろ可能な限りゆっくりと読んでいたい気持ちになり、詩人の力を痛感させられることとなる。ちょうど詩集を読むときのように、一つ一つの言葉を何度も読み返す楽しみがここにはある。

「詩人であることは、私の野心ではない。それは、一人でいようとする私のあり方にすぎない」(9ページ)

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」(13ページ)

「私は読書がきらいだ。見知らぬページは読む前から私を退屈させる。私は自分がすでに知っているものしか読むことができない」(37ページ)

ペソアの着眼点は恐ろしいものだ。どんなに些細な事柄でも、それがペソアの目に映ると新たな意味を帯びてしまうのではないか、とすら思える。言葉で胸をえぐられたような気持ちになり、奇抜な発想の数々は自分がものを見るときの視座を再考させるに十分なものだ。

「幼いころからすでに私は自分の周りに虚構の世界を作る傾向がありました。実際には存在したことのない友人や知人に囲まれていたのです――(もちろん、存在したことがないのが彼らのほうなのか、私のほうなのかはわかりません。この件に関しても、他の場合と同様、教条的であってはなりません)」(27ページ)

「神の不在。それもまた、ひとつの神である」(29ページ)

「神は、彼よりも偉大な別の神にとっては一個の人間である」(31ページ)

この「断章」に含まれる99個の断片は、短いが故に唐突で、短いのになかなか先に進むことを許さない。一つ一つの文章を読む度に、立ち止まらざるを得ない強い力に圧迫される。話題が変わったことを意識している内に、とんでもないことが目に飛び込んでくるのだ。続けて読もうとすると休む暇がない。

「あらゆるラブレターは滑稽だ。滑稽でなければ、それはラブレターではない」(43ページ)

ポルトガル民族は本質的にコスモポリタンである。真のポルトガル人がポルトガル人だったためしはない。なぜなら、彼はつねにすべてであったから」(46ページ)

「私に哲学はない あるのは感覚だけだ
 私が自然のことを語るのは 私がそれを知っているからではなく
 自然を愛するからだ それで自然が好きなのだ
 愛する者が愛しているもののことを知っているためしはない
 なぜ愛するのかも 愛がなになのかも」(52ページ)

「断章」の内、特に気に入ったのが以下の二つ。心のメモ帳に書き留めて、毎日そのページを見つめていたい気分になる。

「人生は意図せずに始められてしまった実験旅行である」(49ページ)

「世界は一本の指にからめられた糸かリボンで、窓辺で夢想している女性がそれで戯れている」(54ページ)

この「断章」だけでも恐ろしい濃密さがあるのに、「不穏の書」は「断章」に収められた一節よりも遙かに長い文章を集めたものである。僕の場合「断章」を読み終えて一度本を閉じた。それからサラマーゴやらアデアやらを読みながら、この本を常に鞄の中に隠し、一日一片ずつかのような速度でのろのろと読んでいたのである。ペソアの力についていくためには膨大な時間が必要だった。そしてそれは、至福の時でもあったのだ。

「私たちはそのつもりはなくても時間や、時間の形や色の奴隷であり、空や大地の下僕なのだ。周囲の人間を軽蔑し、自分のなかに閉じこもる者がいるが、そんな連中でも、雨の時と天気の時では、同じ道を行きはしない。抽象的な感情のもっとも奥深いところでのみ感じられる微妙な変化が、雨が降ったり止んだりするだけで、起こる。私たちはほんとうに感じることなく、それを感じる。というのも、時間を感じることなく、私たちはそれを感じるのだから」(72ページ)

「私は実在しない都市の新興住宅地であり、けっして書かれたことのない書物の冗漫な注釈だ。私は誰でも、誰でもない。私は感じることも、考えることも、愛することもできない。私は書かれるべき小説の登場人物であり、風にのって漂い、かつて存在したこともなく、私を完成することができなかった者が見るさまざまな夢のなかで四散している」(74ページ)

「可能なもの、近いもの、正当なものを夢みるひとのほうが、遠くのものや奇妙なものを夢みて身を滅ぼすひとよりも哀れだ、と私は思う。大いなる夢をみたり、気が狂っていたりするならば、自分の夢を信じることができて倖せだし、ただの夢想家にとっては、夢想は無言で彼を揺する魂の音楽だ。ところが、可能なものを夢みる場合は、本当の失望を味わうおそれがある。自分がローマ皇帝でなかったことを私はそんなに深く残念がることはできないが、いつも九時ごろ右の通りへと入ってゆく可愛いお針子に一度も声をかけなかったことは痛恨することができる」(86~87ページ)

この「不穏の書」の著者はベルナルド・ソアレスであって、フェルナンド・ペソアではない。これには説明が必要だろう。ペソアは偽名や筆名ではなく「異名」を持つ詩人なのである。ペソアの言葉としての「異名」は気味が悪いほど特異で、奇妙なものだ。ペソアの分身たる「異名」の数々は単なる偽名や筆名とは完全に異なり、それぞれの人格とエクリチュール、さらには生没年や職業まで持っているのである。その一つ一つの細かさたるや、文字の上でしか出会うことのできない存在とは思えないほどだ。言わば文学的な多重人格なのである。しかも、ペソアが案出した「異名」はなんと70を数えるというのだ。

「すべての幻想と、幻影のなかのすべてにたいする疲れ。つまり、幻想を失うこと。それをもつことの無用さ。失うためにはまず幻想をもたねばならないということにあらかじめ感じる倦怠。幻想をもってしまった悲しみ。幻想には終わりがあることを知りながらもそれをもってしまったことを頭では恥かしく思うこと」(98ページ)

「ドウラドーレス街にある会社が私にとって人生の体現であるとすれば、この同じドウラドーレス街の三階、私の住んでいる場所は、芸術を体現している。そうだ。芸術と人生が同じ通りに住んでいるのだ。けれども違う番地に。生きることを慰めはしないが、人生を慰める芸術、人生と同じくらい単調な芸術――それは単に場所の違いなのだ。そう。私にとってこのドウラドーレス街は、物事のあらゆる意味を、あらゆる謎の解決を含んでいる。だが、謎の存在そのものの解決だけは別だ。なぜなら、それこそが解決のない謎そのものなのだから」(120ページ)

「倦怠とは、なにもすることがないという不満からくる病ではない。むしろ、もっと重症なものであって、なにをしてもしかたがないと確心しているひとの病なのだ。そうであってみれば、するべきことが多ければ多いほど、直面せざるをえない倦怠もより深いものとなる」(128ページ)

この「異名」の一つであるベルナルド・ソアレスは、リスボンのドウラド―レス街にある繊維輸入会社ヴァスケス商会の会計助手であり、「不穏の書」は彼が余暇を用いて埋めたノートなのである。冒頭にはある小さなレストランでソアレスペソアが出会うという印象的な描写がある。詩人と狂人の類似性を語ったチェスタトンやコッパードの言葉が思い出されるというものだ。彼が19世紀末の生まれでなく現代の人物であったら、まず間違いなく精神病院に入れられていただろう。フーコーの理論を立証する好例となっていたかもしれない、とすら思う。

「私はなにかを完成してしまうと、いつも呆然としたものだ。呆然とし、がっかりする。私がものを完成することができないのは、完璧癖のせいにちがいない。じつは、そのせいで始めることすらできないのだ。ところが、ついうっかりして、行動を起こしてしまうことがある。私の仕事は意志の結果ではなく、意志の弱さの結果なのだ。私が始めるのは、考える力がないためだし、私が終えるのは中断する勇気がないからだ。つまり、この本は私の怯懦の結果なのだ」(136~137ページ)

「ときどき――それはいつもほとんど突然なのだが――感覚のまっただなかで、人生の恐ろしい疲労感が私を襲う。それはあまりにも強烈で、それに打ち克つ方法など思いつかないほどだ。自殺したからといって確実に快癒するという保証はないし、たとえ意識がないにしても、死などなにほどのものだろう。この疲労感は、存在することをやめたいという願いではなくて――それならたんなる可能性の問題だが――それよりもおぞましく、遥かに深刻なこと、つまり、かつて存在したということさえも止めてしまいたいという願いであり、それはいかなる方法によっても不可能なことなのだ」(142~143ページ)

「われわれの誰もが、意識しているとしていないとにかかわらず、一つの形而上学をもっている。同様に、望むと望むまいと、誰もが一つの道徳をもっている。私の道徳は非常に単純だ。――それは誰にたいしても悪も善もなさないこと」(151ページ)

これほどの詩人が日本においてほとんど知られていないということは、犯罪に等しいのではないか。とはいえペソアは著作のほとんどを「異名」で発表したため、「この恐るべき<作者>の全貌が我々の前に現れたのは、この二十年ほどのことにすぎない」と訳者は語っている(「訳者あとがき」より、232ページ)。つまりペソアはこれからどんどん再発見されていく詩人なのである。サラマーゴがペソアの「異名」の一つを題材にして書いた『リカルド・レイスの死の年』やアントニオ・タブッキによる研究など、彼の名を広めることになるであろう要素は無限にある。今は詩人が狂人と呼ばれてしまう時代だが、狂人が詩人と呼ばれていた時代が眼前に立ちはだかっているのである。今後どのように紹介されていくのか、楽しみでならない。

「われわれは誰でもみな野心を抱いている。その野心を実現せずに貧しいままでいるか、それとも実現したと思い込み、金持ちの狂人になるかのどちらかなのだ」(159ページ)

「この本を読む者はだれでも、私が夢想家だと想像するにちがいない。だが、それはまったくの見当外れだ。夢想家であるためには、私には経済的余裕がない」(183ページ)

「人生を生きよ。人生によって生きられるな」(206ページ)

以下は「不穏の書」の中でとびきり印象に残った二つ。こんなに美しい言葉が、ずっと隠れていたなんて。

「散歩の途中で、私は完璧な文をいくつも作った。だが、帰宅すると、まるで想い出せない。これらのフレーズが名状しがたい詩情をもっていたのは、ほんの一瞬しか存在しなかったからなのか、それとも、それらがけっして書きとめられなかったからなのか」(121~122ページ)

「倦怠とは、疲労だが、それは昨日の疲労とか今日の疲労ではなく、明日の疲労、そして、もし永遠が存在するのなら、永遠の疲労、あるいは、永遠が虚無のことだとすれば、虚無の疲労である」(166~167ページ)

枕元はしばらくこの本に占領されることになるだろう。一読した直後でも、もう一度読みたいと思わせる強烈な本である。何度でも読み返したい。

不穏の書、断章

不穏の書、断章

 

追記(2014年10月20日):文庫化されてさらに持ち運びやすくなりました。

新編 不穏の書、断章 (平凡社ライブラリー)

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<読みたくなった本>
オットー・ランク『分身』

分身 ドッペルゲンガー

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バルト『恋愛のディスクール・断章』

恋愛のディスクール・断章

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リルケ『マルテの手記』

マルテの手記 (光文社古典新訳文庫)

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サルトル『嘔吐』

嘔吐 新訳

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ボードレール『巴里の憂鬱』

巴里の憂鬱 (新潮文庫)

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タブッキ『フェルナンド・ペソア最後の三日間』

フェルナンド・ペソア最後の三日間

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→ランクを除いて「不穏の書」の解題と「訳者あとがき」より。この解説文もペソアの深みが感じられる素晴らしい文章だった。解説が良い本で内容の悪い本はない。内容が良くても解説の悪い本はいくらでもあるが、これはどちらも第一級の素晴らしい本だった。嬉しい。