消えた印刷職人
ルネサンス期のヨーロッパにおいて、印刷技術の発展がユマニスム運動の普及にもたらした影響を知りたいと思って手を伸ばした、16世紀の印刷職人物語。
ジャン=ジル・モンフロワ(宮下志朗訳)『消えた印刷職人 活字文化の揺籃期を生きた男の生涯』晶文社、1995年。
翻訳者が宮下志朗でなければ、おそらく関心が向くこともなかっただろう。なにせ、モンフロワってだれ? という状態で手に取ったのだ。先に種明かしをしてしまうと、これはジャン=フランソワ・ジルモンという歴史学者が、この小説を発表するときに使用したペンネームだった。つまり、歴史学者による歴史小説だったのである。基本的に、歴史学者は歴史小説を書かない。歴史学というのは想像力を働かせる学問ではあるが、それは史実から虚構を生むというのではなく、むしろ逆に、虚構と思われる部分から史実を取りだすという方向に働くものなのだ。そのため、物語を面白くするための創作的な工夫を加えるという行為は、歴史学からはもっとも離れた位置にある。そんな学問を志す人に、いったいどんな小説が書けるというのか。
タイトルのとおり、これは活字文化の揺籃期を生きた、ある印刷職人の生涯を追った物語である。いや、はたして物語と呼べるのだろうか。職人を生涯を追っていることは間違いないのだが、著者の関心は、歴史背景のなかで彼を動かすというより、背景そのものを描くことに向かっているような気がしてならない。そのため、工房内部の様子や当時の町の姿などは、まるでゾラの小説のようにどこまでも細かく書かれているのだが、ゾラとは違って、その執拗さは登場人物たちにまでは向かっていない。研究の成果を総動員しようとしているような描写も多く、小説を読んでいるのか研究書を読んでいるのか、よくわからなくなってしまうのだ。
「広場の明るさとは対照的に、工房はあまりに暗くて、ジャン・ランスロは目をしばたかせた。そこには木製の印刷機が三台置かれ、それらは添え木で床と天上にしっかりと固定されていた。窓ぎわには、傾いた六つの大きな活字ケースが、二つずつ置いてあった。夕方近いこの時刻なのに、工房にはふだんの活気は見られない。わずか一台の印刷機が動きつづけているかたわらでは、二人の職人がせっせと活字を拾っている。他の活字ケースは、鉛の小さな文字がつまった仕切りを、むなしくさらしていた。片隅では二人の植字工がビールを手に静かに語らい、そのわきで徒弟がだらだらと箒を動かしている」(23~24ページ)
「印刷台と大理石を両手でなでまわしてから、フィリップは静かにすわった。そして左手をクランクに、右手を印刷機の縦材に当てた。右足をまえに出して、踏み台の上でぐっとふんばる。クランクを回して、版台がプラテン(圧盤)の下に来るようにし、ハンドルをぐっと引いて紙とインクが塗られた組版とを密着させた。この動作が彼の両腕に、自分がなれ親しんできた、あのえも言われぬ疲労感を呼びさました。彼は版台を元の位置にもどした。チンパン(圧紙枠)を、それからフリスケット(狭紙枠)を、そっと持ちあげてチェックをつづけた。要するに道具類に活を入れたのである。「これならば思ったより早く軌道に乗せられるかもしれないな」、彼はそう思った」(30ページ)
印刷職人たちの生涯がどのようなものであったかは、とても面白い。彼らはその職能を片手に、さまざまな町の印刷所を回っているのだ。「職人の遍歴」と書いてしまうとフランス全土を時計回りに一周するほうの「遍歴」を思い浮かべてしまうが、コースが決まったものではないとはいえ、彼らもまちがいなく「遍歴」している。
「この稼業では、確かなことなど何もない。だれもが新しい契約を求めて、工房から工房へと渡り歩くのだ。そして仕事のたびごとに、すべてが駆け引きで決まる。フィリップは、アベル親方を経験豊富で冷静な人間として高く評価していた。それにしても何か月もの仕事が保証されていた工房をやめたのは、はたして正解だったのか? 俺の気を引くため、活字ケースのまえにすわらせてやる、植字の手ほどきをしてやるからとアベルが約束してくれたのは確かだけれど」(17ページ)
「ユスターシュが組みつけを終えて、表面を平らにするための槌と板を使って組版をならしている脇で、ピエールはほっと一息ついていた。若い親方の心配そうな顔つきは、ろくなことがないことを物語っていた。親方は印刷にまわす原稿を見つけてきたのだろうか? その成否は何よりもまず自分たちにかかわってくる。見つからないというのなら、自分たち職人は別のところで仕事をさがさなくてはいけない。秋には大市が控えているから、九月は親方にとっても職人にとってもなかなか厄介な月なのである。また雇われたら、原稿のむずかしさを口実に昇給を願い出よう、ピエールはこう考えていた」(43ページ)
カルヴァン派の牙城となったジュネーヴが、地獄のような様相を呈しているのも興味深い。「教皇第一主義(パピスム、カトリックに対する蔑称)」に異を唱えた宗教改革の直後で、長老派教会はおそるべき禁欲主義を、人びとに要求しているのだ。
「歩きはじめると、彼は一瞬錯覚を覚えた。リヨンにいるような気がしたのだ。しかし客たちのいかめしい顔つきが、そんな思い違いを許してはおかなかった。リヨンの通りをいろどる色彩の輝きは、ここには見られない。衣服にしても、ビロードやサテンや、羽飾り、毛皮、レースといったものを見せびらかしたりはしない。グレー、褐色、栗色、黒といった地味な色調を楽しんでいるだけだ。くすんだ色の絹のかぶりもので顔を隠した女たちは、宝石や金の刺繍とは無縁だ。男の気をそそることなど一切しないのである。頬の色を生き生きとさせるための白粉の気配さえ感じられない。ドレスもまじめそのもので、いかなる好奇の眼ざしをも拒んだまま、襟の上にまでいたるのであった」(57~58ページ)
「このちょっとした出動などなんの驚きも呼びおこしはしない。ジュネーヴ市民は、警備兵が自分たちのうちのだれかを司教館の牢獄に連行していくのを見るのになれっこなのだ。それはたいていは冒瀆的言行や泥酔やダンスなどの軽犯罪で、ふつう三日間の禁固が命じられる。ジュネーヴのよき市民や、上流階級の者だって、かなりの人数が一度ぐらいは独房に数時間ぶちこまれた経験をもっているのだ」(74~75ページ)
主人公の印刷職人アベルもプロテスタントなので、このジュネーヴの町が大きな役割を果たすことになる。
「けさアベルが長老議会からもどってきたとき、彼女はこれ以上長くジュネーヴにとどまってはいられないと悟ったのである。あの爺さん連中ときたら、妻と「ねんごろになったな」と言って、アベルをまた非難しようというのだから。彼らは「ねんごろ」とか「いちゃつき」とか言ったらしいわ。彼らはどうやっても宗教というかせをはずせないのよ。口を開けば信仰心の話ばかりして、だれかが楽しんだりすると、そのせいでおかしくなってしまうのだわ」(107ページ)
著者が書いた「史料・参考文献について」に依ると、このアベル・リヴリという人物は「その存在が完全に確認されている印刷業者」だそうだ(155ページ)。著者は研究の最中にこの人物の奇妙な遍歴の行跡を発見し、そこから想像力を働かせたに違いない。つまり、創作的な要素のほとんどは、三人称で書かれた史料からはまったく判別できない、人びとの内面的な部分、性格や個性なのだ。正直、それを満足に描いているとは思えない。主人公が遍歴していることもあって、この本ではその薄さにそぐわない膨大な数の人びとが登場してくるが、個性的な人はほんの一握りしかいないのだ。もっと生き生きと描くことはできなかったものだろうか、と思ってしまう。
「本書『消えた印刷職人』は、本の世界に身を投じた一人の人間の生きざまを、彼が通りすぎる都市を舞台として描きだした歴史物語なのである。アベルという男の浮き沈みによって、400年まえの本造りの世界を現前させること、これがこの物語のテーマといえる。類書はまず存在しない。その一つの理由は、ルネサンスの印刷工房の実態を語る史料といっても、その数や、また対象となる地域も限定されているからだ。つまり歴史のせまい枠組みにとらわれていては、初期活字本の世界をリアルに再現することはむずかしい注文なのである。これは虚構という枠組みをえて、はじめて再現できた世界だと言えよう」(「訳者あとがき」より、168ページ)
今になって思えば、著者がこの本を「物語(récit)」と呼んでいるのは、これが「小説(roman)」ではないということの、告白なのかもしれない。小説として手に取ることはまったく薦められないが、読みやすく工夫された研究書だと思えば、これほど面白い読み物はないだろう。読みたい本がたくさん増えた。
<読みたくなった本>
宮下志朗『本の都市リヨン』
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ジャック・プルースト『フランス百科全書絵引』
ナタリー・ゼーモン・デーヴィス『愚者の王国 異端の都市』
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Karine Crousaz et Jean-François Gilmont, Erasme et le pouvoir de l'imprimerie
Jean-François Gilmont, Le livre réformé au XVIe siècle