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Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

父の詫び状

配架-日本文学 評価-★★★★☆(大満足) いわゆる-エッセイ

 手に取ったきっかけは、少しばかり前にNHK・BSでやっていた「猫を愛した芸術家たち」という特別番組だった。四夜連続で放送され、日ごとに違った芸術家が取り上げられていて、そのうちの一回が向田邦子だったのだ。ちなみにほかの三人は内田百閒、夏目漱石、それから藤田嗣治だった。毎晩この番組がはじまるのをわくわくしながら待ったことを覚えている。

父の詫び状 <新装版> (文春文庫)

父の詫び状 <新装版> (文春文庫)

 

向田邦子『父の詫び状』文春文庫、1981年。


 とはいえまぬけな話なのだが、猫の話題が豊富なのはどうやらほかのエッセイ集だったようで、この第一エッセイ集には、猫はほとんど出てこなかった。少しは調べれば良かったのだけれど、それをしなかったのには理由がある。

 漁るように本を読むようになってからというもの、特に海外文学に関しては、その作家の「代表作」と目されるものを、読む前から知ってしまっていることが多くなり、最近はそれで少なからず損をしているのではないか、という気がしてならないのだ。たとえば『ボヴァリー夫人』を読む前に『感情教育』を読んだっていいじゃないか、と、どちらも読んだ今になって思う。自分の場合は、この二作の長篇小説を読むのに、一年以上ものあいだが空いてしまったのだ。「フロベールを読んでみよう」と興味を持ったときに「だったらまずは『ボヴァリー夫人』だ」と考えてしまう、浅薄な知識が邪魔で仕方ない。アルベルト・マングェルが『図書館』のなかで、「キプリングの『少年キム』のあとに読む『ドン・キホーテ』と『ハックルベリー・フィン』のあとに読む『ドン・キホーテ』は別の本である」と書いていたではないか。『ボヴァリー夫人』を読まずに手に取る『感情教育』の印象、自分にはもう絶対に抱くことのできない感想が、今、愛おしくて仕方がない。自分が読書をするのは、なにか学術的な文章を書くためでも、だれかにそういう余計な知識を植えつけるためでもないのだから。

 初めからおそろしく脱線してしまったが、つまり、向田邦子は初めて読む作家で、これは自分には知識のない日本文学なのだ。せめて不案内なこの領域だけは、そういう小賢しい下準備などはせずに、書店で目についたものを買って、世間一般の評価などはまるきり無視して読みたいと思ったのである。それで手に入れたのが、彼女のエッセイを「代表」するらしい、この処女作だというのだから参ってしまうが、それでも「代表作」だと意識するのとしないのでは、読みかたも変わってくると思いたい。

「父は昔の人間としては体も大きく、野球やピンポンは子供たちが束になってかかってもかなわなかったが自転車だけは駄目だった。関東大震災の時、逃げる時は友人の自転車を借りて逃げたが、返す段になったらどうしても乗れない。仕方がないので一日がかりでかついで返しに行ったという人である。
 自分が不得手だったせいか、女の子が自転車に乗ることをひどく嫌った。
「あれは女が乗るものじゃない。どうしても乗りたいのなら自動車か馬に乗れ」
 三十年も前のはなしだから、自家用車も乗馬も夢物語である」(「身体髪膚」より、25ページ)

「父も母も、傷ひとつなく育てようと随分細かく気を配ってくれた。それでも、子供は思いもかけないところで、すりむいたりこぶをつくったりした。いたずら小僧に算盤で殴られて、四ツ玉の形にへこんでいた弟の頭も、母の着物に赤いしみをつけてしまった妹の目尻も、いまは思い出のほかには、何も残っていないのである」(「身体髪膚」より、29ページ)

 何篇か読んですぐに気がついたのだが、この人の文章にはとてもわかりやすい形式、というか約束事がある。たとえばポーの短篇を読むと、大体ちょっとした超常現象の説明から、個別の事件へと話題が展開していく。デュ=モーリアの短篇を読むと、最後に持ってくるべき結末がいちばん最初に書かれ、改行を挟んで、そもそもの始まりから物語が語りなおされる。そういう意味での形式だ。プロットの立てかた、と言ってもいいかもしれない。向田邦子のそれは、一見ばらばらなエピソードを改行を挟んで書き連ねながら、最後の最後になって、それらの記憶が彼女のなかでどんなふうに繋がっていたかを教えてくれる、というものだ。だから、最後の段落で、とにかく驚かされる。

「私は、バッグの中に小型カメラを入れていた。鹿児島時代をなつかしむ母に、K先生の写真を見せたいと思ったからである。
 だが先生は、忘れておいでなのかどうか、三十数年前に私と写した写真のことは到頭ひとこともおっしゃらなかった。おすしをご馳走になり、お孫さんの遊び相手をして夕方おいとまをした。写さなかったカメラのせいか、バッグが行きよりも重いように思えた」(「記念写真」より、51ページ)

「一日に平均一回乗るとして年に三百回以上である。十年で三千人を上廻る運転手さんのお世話になっている勘定になる。距離が近かったりすると、ブスッとして口をお利きにならない方もありで、全部の方と親しく話をしたわけでもないが、それでも、車中の皆様とのやりとりはかなり面白い。このセリフを覚えて置こう、この人の名前を覚えて置こうかなと思うことも時々あるのだが、タクシーというのは不思議なもので、降りたとたんに、ふっと別の世界のことのように思えて忘れてしまう。タクシーが走り去るのと同じように記憶も遠ざかってしまうものだ。向いあって顔を見、目をのぞき込んで話さないということもあるのではないか。話の中身やその人となりに感銘を受けても、それは、後姿の、肩や首筋の語る印象なのだ。あとで思い出そうとしても、どうも摑みどころがない。今、ここに書いたのは、そんな中で心に残る何人かの車中の紳士方のエピソードである」(「車中の皆様」より、124~125ページ)

 じつは最後の一段落を読むまで、そのエッセイに付されたタイトルの意味さえわからないことが多い。そんなちょっとしたむずむず感を抱きながら、とにかく読みやすい彼女の日本語を、目で追い続けるのだ。最後の一段落に注意をしなければならない、そうわかってはいても、それはいつでも不意打ちでやってくる。文章に少しでも読みづらい部分でもあれば、こうはいかないはずだ。今ではあまり見かけない日本語も紛れているはずなのに、それをぜんぜん感じさせない。

「いつもの通り座敷に上って父はビールを飲み、私達は「じゃんぼ」の焼き上るのを待っていた。おとなにとって景色は目の保養だが、子供にとっては退屈でしかない。小学校四年生だった私は一人で靴をはき、おもてへ遊びに出た。貸席と貸席の間はおとな一人がやっと通れるほどの間で建っている。私はそこを通ってタクシーの通る道路の方を見物にゆき、格別面白いものもないので、また狭いすき間を通って家族のいる座敷へもどっていった。
 その時、海の方から、一人の漁師が上ってきた。下帯一本の裸で、すき間いっぱいになって歩いてきた。よけようとして板にはりついた時、ふっとお正月のお飾りにつかう「ほんだわら」と同じ匂いだなと思った。そして、次の瞬間、洋服の上から体をさぐられていた。漁師は私に軽いいたずらをしたのである。
 声も出ないで立ちすくんだ時、父の大きな声が聞えた。漁師はそのまま行ってしまった。
 私はしばらくの間、板に寄りかかって立っていた。建物と建物の間にはさまれた細長い海がみえた。
 私はすぐには座敷にもどらず、いったん表へ出て井戸で手を洗った。さびついたポンプが、
「ジャッキン・ジャッキン」
 と音を立てた。ごしごし手を洗ってポケットからハンカチを出して拭いた。
 ハンカチの端に、母の字で、
向田邦子
 と書かれた墨の字が、水をくぐって薄くなっていた。初めて自分の名前を知らされたような、不思議な気持があった。
 ゆっくりとハンカチをたたみ、今度はぐるりと廻って座敷へもどった。さっきのことは誰にもいわなかった。
 漁師は若かったのか年かさだったのかも覚えていない。なぜ声を立てなかったのか、手が汚れたわけでもないのになぜ手を洗ったのか。どういう気持だったのか、判るような気もするが、言葉にしてならべると、こしらえごとになりそうなのでやめておいたほうが無難だろう」(「細長い海」より、80~82ページ)

 どの文脈から切り取ってもすばらしい一文、というのではなく、そこまでに描かれたたくさんのことが、一文を輝かせることがある。そういうときは、部分を切り取ってもなんの意味もない。向田邦子の文章を引いていると、そんなことばかり考えてしまう。じつは引用文には最後の一段落からとったものもあるのだが、構わず載せてしまった。この文章を読んだ人がほんとうに向田邦子を手に取ったとしても、それはやはり不意打ちとして現れるだろう、という確信があるからだ。

「同業の先輩方に初めて見た芝居のことを伺うと、皆さんイプセンであり、シェークスピアでありブレヒトである。私のような、猿芝居の「忠臣蔵」という方は一人もおいでにならない。
 どうもこのあたりから、人間の格というか書くものの位が決ったような気がしてならないのである。
「人間はその個性に合った事件に出逢うものだ」
 という意味のことをおっしゃったのは、たしか小林秀雄という方と思う。
 さすがにうまいことをおっしゃるものだと感心をした。私は出逢った事件が、個性というかその人間をつくり上げてゆくものだと思っていたが、そうではないのである。事件の方が、人間を選ぶのである」(「お軽勘平」より、102~103ページ)

「カステラの端の少し固くなったところ、特に下の焦茶色になって紙にくっついている部分をおいしいと思う。雑なはがし方をして、この部分を残す人がいると、権利を分けて貰って、丁寧にはがして食べた。
 かまぼこや伊達巻の両端。
 木綿ごしの豆腐の端の、布目のついた固いところ。
 ハムやソーセージの尻っぽのところ。
 パンでいえば耳。
 今でも、スナックのカウンターに坐っていて、目の前でサンドイッチに庖丁を入れているバーテンさんが、ハムやレタスのチラリとのぞく耳を惜しげもなく断ち落すのを見ると、ああ勿体ないと思ってしまう。
 寿司屋のつけ台でも同じで、海苔巻や太巻を巻いている板前さんが、両端をスパッと切ると、そこは捨てるの? それとも誰かが食べるんですかと聞きたくなる。
 これは端っこではないが、南部煎餅のまわりにはみ出した薄いパリパリの部分。
 鮭カンの骨。
 こういうところが好きで仕方がない。
 何だか貧乏たらしくて、しんみりして、うしろめたくていい」(「海苔巻の端っこ」より、152~153ページ)

 文章の背後から死の匂いが漂ってくるあたり、須賀敦子の書くものとも少しだけ似ているような気がするのだが、向田邦子はもっとずっと庶民的というか、読者の立ち位置に近い場所から声を上げている。この人はとにかく自分を飾ろうとはしないのだ。「貧乏たらしくて、しんみりして、うしろめたくていい」なんて、作家が「先生」などと呼ばれていた時代にはありえなかった一文だろう。気取らず、飾らず、知らないものは知らないと言う。とてもいい。

「落したものは、現金を筆頭に、ハンドバッグ二個、懐中時計、あとは傘、手袋といったところである。ところが拾ったほうは、犬猫にはじまって、せいぜい定期券、赤んぼうの毛糸の靴下ぐらいで、計算するまでもなく、かなりの持ち出しになっている」(「わが拾遺集」より、213ページ)

「つい先だって、私は下町の縁日にゆき、久しぶりで達磨落しをたのしんだ。昔なつかしい射的である。念を入れて狙ったつもりだが、達磨も怪獣も一向に落ちず、代りにスカーフを落してしまった。この分ではまだこれからも落すことだろう。考えてみると、財布や手袋以外の目には見えない、それでいてもっと大事なものも、落したり拾ったりしているに違いない。こちらの方は、落したら戻ってこない。その代り拾ったものは、人の情けにしろ知識にしろ、猫ババしても誰も何ともおっしゃらないのである」(「わが拾遺集」より、220ページ)

 高尚なところなどどこにもない。向田邦子の距離の近さは、人びとの描写にもそのまま当てはまる。人びとというのが個人から成り立っていることを、われわれはたまに忘れてしまうが、彼女はけっしてそのことを忘れない。

「ウェイトレスや看護婦さんや、ユニフォームを着て働く人を見るたびに、この下には、一人一人、どんなドラマを抱えているかも知れないのだ、十把ひとからげに見てはいけない、と自分にいいきかせている」(「ねずみ花火」より、135ページ)

「今から思うと、魚の切身やケーキの大小に、どれほどの差があったとも思えないのだが、大きいのが当ると心が弾んだし、小さいと気持がふさいだ。小さいと文句をいい、母や祖母のと取り替えてもらう。さて自分の前へ置いてみると、前の方が大きく見える。あれはどういう心理なのだろう。
 父の生いたちの影響もあるかも知れない。
 幼い時から肩身をせばめ、他人の家を転々として育った父は、大きいものが好きだった。
 大きい家、大きい家具、大きい松の木、大きい飼犬……。
 私がまだ五つ六つの年の暮に、私には背丈に余る娘道成寺のみごとな押し絵の羽子板、弟には床の間に飾り切れぬほど大きな絵凧を買ってきて、母や祖母をあきれさせたこともあった」(「チーコとグランデ」141ページ)

 私だけなのかもしれないが、たとえば出世に対する野心を隠そうとしない人たち、仕事ばかりしていて趣味と呼べる趣味も持っていなさそうな人たちを見ると、心の隅で「この人とは仲良くなれそうもないな」と考えてしまうことがある。けれど、どうして彼らが出世を強く求めているのか、そこにどんな思いが秘められているのかは、わかった試しなどないのだ。なんでも小難しく考えて、なにかに必死になっている人たちを軽蔑してしまうのでは、エラスムスが語る「賢人」たちと同じだ。人から認めてもらいたい、という欲求は自分だって持っているはずなのに、それを声高に宣言する人たちを見ると、身がすくんでしまう。ただ、自分とはやりかたがちがう、というだけのことなのかもしれないのに。それこそ「どんなドラマを抱えているかも知れないのだ」。

「記憶というのは、糸口がみつかると次から次へと自然にほどけてくる」(「学生アイス」より、169ページ)

「かの有名な「失われた時を求めて」の主人公は、マドレーヌを紅茶に浸した途端、過ぎ去った過去が生き生きとよみがえった。私のマドレーヌは薩摩揚である。何とも下世話でお恥ずかしいが、事実なのだから、飾ったところで仕方がない」(「薩摩揚」より、252ページ)

 薩摩揚から広がる記憶。いかにも向田邦子らしい。そして、そこから呼び起こされた記憶は、プルーストのそれと同様、とても生き生きとしている。「解説」によると、彼女のエッセイは「生活人の昭和史」と評されているそうだ。今さらながら、向田邦子が生まれたのは1929年のことで、この本の初版は1978年。うっかりすると忘れてしまう。それでも、東京大空襲のことを含んだ「ごはん」は、おそろしさとともにそのことをはっきりと思い出させてくれた。今読み返してみても、涙が止まらなくなってしまう。

「「空襲」
 この日本語は一体誰がつけたのか知らないが、まさに空から襲うのだ。真赤な空に黒いB29。その頃はまだ怪獣ということばはなかったが、繰り返し執拗に襲う飛行機は、巨大な鳥に見えた」(「ごはん」より、86ページ)

 最後に、向田邦子本人による「あとがき」を読んで知り、衝撃を受けたことについて。『父の詫び状』の成立には、彼女が患った乳癌が深く関係していた。もともとテレビの脚本を書くのに大忙しだった彼女がまとまった文章を書く時間を割けたのも、病気が原因だったのだ。手術の後遺症で右手が動かず、この本は左手で書かれた。

「テレビの仕事を休んでいたので閑はある。ゆっくり書けば左手で書けないことはない。こういう時にどんなものが書けるか、自分をためしてみたかった」(「あとがき」より、266ページ)

「文章という形でまとまったものを書いたのは初めての経験である。一冊にまとめるに当って、三年前の未熟も目についたが、左手で書いたものを右手で書き直すのは可哀そうである。敢えてそのままお目にかけることにした」(「あとがき」より、267ページ)

 どことなく死の匂いが漂っていたのは、描かれた対象が死者たちだったから、というだけではなく、作家自身も死と隣り合わせだったからなのか、と思った。

父の詫び状 <新装版> (文春文庫)

父の詫び状 <新装版> (文春文庫)

 


<読みたくなった本>
バルビュス『地獄』
直木三十五の「南国太平記」は、面白くて面白くて、夜眠るのが勿体なくて仕方なかった。漱石の中では「倫敦塔」を何度も繰り返して読んだし、バルビュスの「地獄」の中の、壁の穴から隣室のベッドシーンを盗み見る場面に衝撃を受けた記憶も残っている」(「薩摩揚」より、246ページ)

地獄 (岩波文庫 赤 561-1)

地獄 (岩波文庫 赤 561-1)

 

それから、このなかで紹介されていた、

 明日ありと思ふ心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは
(「あだ桜」より、108ページ)

親鸞の作らしいが、これはなんの和歌集に収められているのだろう。