Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

遊女の対話

 エラスムス『痴愚神礼讃』に幾度となく引用され、ラブレーも愛したと伝えられるローマ時代の諷刺家、ルキアノスの作品集。

遊女の対話―他三篇 (岩波文庫 赤 111-2)

遊女の対話―他三篇 (岩波文庫 赤 111-2)

 

ルーキアーノス(高津春繁訳)『遊女の対話 他三篇』岩波文庫、1961年。


 初めてルキアノスを読みたいと思ったのは、じつはエラスムスを読むよりも少しばかり前のことだ。ロンドンの大英図書館にて行われていた「Out of This World: Science Fiction but not as you know it」という展覧会で、SFの古典としてこの作家の『本当の話』が紹介されていたのがきっかけである。その文脈は「月世界旅行(英題はなんとFly me to the moon!)」で、ジュール・ヴェルヌシラノ・ド・ベルジュラックと並べられていたのだ。この展覧会は従来の「文学」と「SF」の垣根を取り払った、ジャンルで文芸作品を語ることの無意味さを突きつけるような、とても攻撃的で、わくわくするものだった。Mike Ashleyによる同名の図録は、日本からでも購入できるようなので、興味のある方には是非とも探してみてほしい。図版も大変豊富な、一家に一冊の出来映えである。

 ほんとうは先にちくま文庫から出ている『本当の話』を読みたかったのだが、一昔前に刊行されたちくま文庫の例に漏れず、絶版かつ古本屋でもかなり高値がつく代物となってしまっていて、なかなか手が出せなかった。と言いつつも、これを読み終えたのと同じ日に、ようやく吉祥寺の古本屋「百年」にて発見・購入したので、こちらも機を見て紹介したい。それにしても、「百年」はいつだって期待を裏切らない。

 岩波文庫版のこちらに収められているのは、以下の四篇。

★☆☆「遊女の対話」
★★☆「嘘好き、または懐疑者」
★★☆「偽予言者アレクサンドロス
★★☆「ペレグリーノスの昇天」

 正直、なんの予備知識もなしに「遊女の対話」を読みはじめたときには、この本を読み通すことができるとも思えなかった。この「遊女の対話」にはぜんぶで十五の章、というか幕、が用意されていて、その一つひとつで、名前も素性も異なる遊女たちが対話をしているのだ。最初の三章を読んでいるあいだは、すでに登場した遊女たちの名を逐一記憶し、混同することのないように気を配っていたのだが、やがてそれがなんの意味もないことが察せられ、しまいには証明された。章ごとに明確な繋がりなど一つもなく、これはそれこそ遊女同士の井戸端会議や密会を、部分的に切り取ったものの集成なのである。

「よかったら、二三年前にわたしの経験したことを教えたげるわ。ポイキレーの廊(ストア)の後に住んでいる金貸のデーモパントスがわたしを好きだった。この人は一度だって五ドラクマ以上くれたことがないのに、旦那になろうというのよ。ねえ、クリューシス、この人の恋はまあ大したものじゃなかったのさ、溜息をついたり、涙を流したり、とんでもない時刻に戸口に立ったりはしないで、時々、それも長い間をおいてわたしと寝るだけなの。ある時やって来たのに門前払いをくわせたらね――絵かきのカリデースが十ドラクマ払って家にいたからよ――初めはわたしの悪口を言って、行っちゃったんだけれど、大分日がたって、妾の方は呼び出しもしないし、カリデースがまた家にいた時に、デーモパントスがその時もう昂奮しちゃって、自分ですっかりのぼせ上って、戸が開いている時をねらって来て、泣くやら、打つやら、殺すと嚇すやら、わたしの着物を引き裂くやら、ありったけのことをやった後で、とうとう一タラントン出して、まる八ヵ月というものわたしを一人占めにしたのよ。あの人の奥さんは、みんなにわたしがほれ薬であの人を迷わせたんだなんて言ってたわね。ところがそのお薬というのは、やきもちなのさ。だからね、クリューシス、あんたもゴルギアースに同じ薬をお使いなさいな」(「遊女の対話」より、29ページ)

 遊女が少なくとも二人は登場し、加えて彼女らの召使いや相手役となる男どもがいるので、挙げられる名前の数はかなり多い。それが十五回にわたって繰り返されるのだから、わざわざ数える気も起こらないほどだ。これからこの作品を読もうとする人には断言したい、登場人物の名を覚える必要はまったくない、と。ルキアノスはほかにも「神々の対話」、さらには「死者の対話」という作品も書いているが、これらの「対話」が意味するところはすでに明らかだろう。いつか手に取る日がくれば証明されることと思うが、それがやはり断片の集積であることには、疑いの余地がない。

ケリドニオン:その先生ってのはだあれ? 体操の先生のディオティーモスじゃないでしょう。あの人は友だちだもの。
 ドロシス:そうじゃなくて、胸くその悪い哲学者のアリスタイネトスよ。
 ケリドニオン:あのしかめっ面の先生? 毛むくじゃらで長い髯の、ポイキレーの廊で少年たちといつも歩いてるあの人?
 ドロシス:あの法螺吹よ、あんな奴、首切役人に髯を摑んで引きずられて、くたばってしまうがいい」(「遊女の対話」より、34ページ)

 なお、ここで言う「遊女」とは「芸者」、すなわち職業婦人たちを指している。ルキアノスは彼女たちの対話を覗かせることで、その手練手管をつまびらかにしつつ、男たちの、こと恋愛における(じつは現代とほとんど変わらぬ)頭の悪さを、嘲弄しているのだ。オウィディウスの『恋愛指南』が、女の立場からは男に読んでもらいたくない本の頂点に位置するものだとしたら、これはその反対だろう。どちらに関しても、現代においても古びていないという点が面白い。

「ほんとのことを言うと、イオエッサさん、あんたはこの人にあまりのぼせ上りすぎて、それを見せたから、この人をスポイルしちゃったのよ。あまり大事にしちゃいけなかったのさ。男ってそう気がつくと、思い上るもんですからね。ねえ、可哀想に、泣くのはおやめなさい。さあ、わたしの言うことを聞いて、一二度来た時に締め出しをくらわしてご覧なさい。また燃え上って、むこうの方で反対に気違いみたいになることうけ合いだから」(「遊女の対話」より、43ページ)

 その次の「嘘好き、または懐疑者」より後も、やはり対話篇であることには変わりないのだが、人物であったり事象であったり、なにがしかに焦点が当てられているので、「遊女の対話」よりはよほどすんなり入っていける類の対話篇だ。そしてこのあたりから、ルキアノスという作者の人柄がはっきりと浮かんでくる。

「私は他の点ではちゃんとしていて、その理性は驚くべき多くの人々が、どういうわけだか、この病にとりつかれ、嘘好きであるのを君に示すことが出来る。その結果、あらゆる点で最も立派なこういう人たちが自分自身や彼らと交わる人々をだまして喜んでいるのを私は情なく感じるのだ。かの昔の人々のことは私より先に君が知っているはずだ。ヘーロドトス、クニドスのクテーシアース、それから彼ら以前にかのホメーロスをも含めて詩人たち、彼ら有名な人々、文字の形で嘘をついて、そのために彼らと同時代の聴衆を欺いたのみならず、最も美しい言葉と韻律の中に保存され、代々継承されて、その嘘はわれわれの時代にまで伝えられている。彼らがウーラノスの局部切断、プロメーテウスの縛め、巨人達(ギガンテス)の反乱、地獄におけるあらゆる悲惨なお芝居、またゼウスが恋のために牡牛や白鳥になった話、誰かが女から鳥や熊に変った話、さらにペーガソス、キマイラ、ゴルゴーン、キュクロープス等々、全く妙な驚異にみちた、未だモルモーやラミアをこわがっている子供が面白がるだけの下らぬお話を彼らがやっている時、私はしばしば彼らのためにはずかしくなることがある」(「嘘好き、または懐疑者」より、66~67ページ)

 この「嘘好き、または懐疑者」では、迷信的な事柄全般に対して、批判が加えられている。そうそう、ルキアノスは紀元後二世紀の人である。当時は「哲学者は次第に宗教家の相を帯びるに至り、この傾向は逆に新プラトーン派に至ってその極に達し、名は同じでもプラトーン自身では考えもしなかったろう形となった」時代であり(「解説」より、199ページ)、エピクロス的な物質主義者であったルキアノスは、迷信を信奉する「賢者」たちをあざ笑い、その作品のなかで散々に皮肉っていた。つまり、やっていることはエラスムスも同じなのである。『本当の話』も、その皮肉の文脈から書かれたものだそうだ。この作品に収められたエピソードのいくつか、例えば船がつむじ風に巻きあげられ、気がついたら月に着いていた、といったエピソードが、後に『ほらふき男爵の冒険』のなかで再び語られているのは興味深い。「ほら」を『ほらふき男爵の冒険』として紹介するのと『本当の話』として紹介するのは、ほとんど同じことのような気がしてならない。

「智を与えるとて若人たちと交り、多くの者に賞讃されている彼らはいったい何者なのか、彼らと赤ん坊との相違はただその白髪と髯だけで、外の点では彼らよりもだまされやすいのだろうか」(「嘘好き、または懐疑者」より、82ページ)

 これとまったく同じことを、エラスムスが『痴愚神礼讃』のなかで書いていたのが思い出される。「老人と赤ん坊はよく似ている」と、痴愚女神は再三にわたって繰り返していたではないか。さらに、迷信を信奉する人びとの口からは、こんな話も出てくる。

「ある日のこと私は暗いところに立って、そっとその呪文――きっかり三音節だった――を立ち聞きした。そして彼は擂木(すりこぎ)に必要なことを命じておいて市場へ立ち去った。私は次の日に彼が市場で何か用を足している間に、その擂木を手にとって同じように着物をきせ、例の音節をとなえて、水を汲んで来るように命じた。水甕をいっぱいにして持って来た時に、「やめよ、もう水を汲んで来ずに元の擂木にもどれ。」と言ったが、そいつは一向にわしの言うことを聞こうとしないで、どんどん水を汲んで来るので、遂にそいつは水を注ぎこんで家をいっぱいにしてしまった。私はこの事態に閉口して――パンクラテースが帰って来て怒るだろうと恐れていたし、またその通りになったのだが――斧を取って擂木を真二つに叩き割った。ところが両方が水甕を取って水を汲み始め、わしには一人の代りに二人の召使が出来てしまったんだ」(「嘘好き、または懐疑者」より、91ページ)

 この「擂木に水を汲ませる魔法」は、読む人によってはすぐに映像が浮かびあがってくるものだろう。ディズニー映画『ファンタジア』で、ミッキーマウスが演じた「魔法使いの弟子」そのものである。これはルキアノスのこの作品を読んだゲーテが、この箇所を一篇の詩として再構成し、それをウォルト・ディズニーが題材としたものだった。『ほらふき男爵の冒険』だけではなく、ルキアノスはさまざまなところで、後世の文学に大いなる影響を与えているのだ。

「だが友よ、心配することはない。われわれは真理と、あらゆる事に対する正しい道理という大した毒消しを持っているんだから。これを使用している間は空虚で無駄なこれらの嘘は一つとしてわれわれを乱すことはないだろう」(「嘘好き、または懐疑者」より、94ページ)

 つづく「偽予言者アレクサンドロス」では、実在したいんちき予言者とルキアノスとの攻防が見られる。アレクサンドロス神託と称し、人びとから金を取って予言をおこなっていたのだ。それは、神託を望むものが蝋でその内容を封印した巻物をアレクサンドロスのもとへと届け、そのなかに書かれている彼らの知りたいことを、開封することもなく言い当てるというものだった。だがアレクサンドロスは巻物を受け取ってから返答をするまでにかなりの時間を要し、ルキアノスによれば、この男は蝋の封印を解き、再び同じように封印するという術に長けていたとのことだった。やがてアレクサンドロス神託者としての名声があらゆるところにまで轟くようになり、この男が大量の助手を雇って人びとの望みをリサーチするようになると、ほころびが出はじめた。ルキアノスはこんなものを送っている。

「異る名の下に、「詩人ホメーロスは何処の出なりや。」という同一の質問を二つの異る巻物の中で尋ねたところ、その一つに対しては、私の召使にだまされて――というのは何のために来たのかと尋ねられた折に、この召使が、「脇の痛みの治療法を乞うために。」と言ったからだ――
  キュミトスと駿馬の泡を塗布すべし
 他の一つには、送った人がイタリアに行くのに海路と陸路のどちらがよかろうかと質問しているのだ、とこう聞かされたものだから、ホメーロスには何の関係もない返答をした。
  海路をとるべからず、徒歩にて道を旅せよ
 と」(「偽予言者アレクサンドロス」より、134ページ)

 迷信を排するという立場から、ルキアノスは色々なことをやっていたのだ。その堅固な姿勢は、サイードの言葉を思い出させる。すなわち「迎合するまえに批判せよ」(サイード『知識人とは何か』平凡社ライブラリー、68ページ)。エラスムスと同様、という言い方はルキアノスのほうが古い人なのでおかしいかもしれないが、彼もまた知識人として権威と闘っていたのである。

 最後の一篇「ペレグリーノスの昇天」は、非キリスト教者がキリスト教をとらえた、最古の例の一つとして数えられているそうだ。話題の中心となるペレグリーノス(プローテウス)は、キリスト教徒を追放されてのち犬儒派キュニコス)へと移行し、ルキアノスによればただ名声を得るためだけに、自らの火葬を実行した人物であった。批判の対象となっているのは犬儒派なのだが、キリスト教徒たちも無傷ではいない。

「あたかもその当時であったが、彼はパレスティナキリスト教徒の僧侶や書記たちと交って、彼らの驚くべき智をすっかり学びとった。どうしてって? わずかの間に彼らを子供あつかいにしてしまったのさ。たった一人で予言者、祭祀長、シナゴーグ長、それからあらゆるものを兼ね、彼らの本をば或いは解釈し或いは説明し、自分でもたくさんの本を書いた。そこで彼らはプローテウスを神のごとくに尊崇し、律法者として用い、保護者であるとした。もちろん、キリスト教徒がいまだに崇拝しているあの男、新しい宗教を世に導入したというのでパレスティナで十字架にかかったあの男の次にではあるが」(「ペレグリーノスの昇天」より、156~157ページ)

「彼らはあらゆるものを一様に軽んじ、共同のものと考えている。確かな証拠なしにこのような信条を伝承しているのだ。だから、誰かいかさま師とかぺてん師で、うまく利用する智慧のある者が彼らの間に来ると、愚かな大衆を詐ってたちまちの間に金持になる」(「ペレグリーノスの昇天」より、158ページ)

 これはまさしくエラスムスが、中世キリスト教会を指して言ったのと同じことではないだろうか。エラスムスキリスト教徒の立場から発言していた、という違いはあったとしても、ここにも『痴愚神礼讃』を生んだ要素の一つが現れている気がしてならない。

「彼はまず第一に死を待つべきであって、生より逃れるべきではなかった」(「ペレグリーノスの昇天」より、161ページ)

 ペレグリーノスは自分を生きながら火に焼くと、わざわざオリュムピア祭の最中に日付を設定し、方々に宣伝していた。ペレグリーノスの弟子筋に当たる連中の演説を聞き、ルキアノスは自分でもその場に立ち会うことにする。

「私はというと、君のご推量のごとくに、いかに笑ったことだろう、同じ復讐の女神に追われているあらゆる者どもにもまして、このような名誉欲の権化は憐憫にも価しないからだ」(「ペレグリーノスの昇天」より、168ページ)

犬儒どもは火葬の薪の廻りに立って、涙は流さなかったが、火を見つめつつ、黙って、ある程度の悲しみを示していた。ついに私は彼らに対してむかむかとなって言った。「さあ立ち去ろう、ばか者どもめ、たまらぬ煙の臭いでむせかえりながら、老人の焼かれているのを見ているのは愉快な見物じゃない。それとも誰か絵かきがやって来て、牢獄におけるソークラテースの仲間が哲人の側に描かれているようい、お前たちをかくのを待っているのか。」そこで彼らは憤って私を罵り、二三の者は杖に飛びつきさえした。そこで私が、先生のお伴をするように、二三人を束にして火の中に投げ込んでやるぞ、とおどすと、やめて平和を守った」(「ペレグリーノスの昇天」より、170ページ)

 名を残すことに対するペレグリーノスの切なる願いは、皮肉にもルキアノスによって達成されることとなった。犬儒派のように、紀元前四世紀頃には哲学を目指していた一派が、紀元後二世紀においては単に「変人を売物にする宗教的な似而非哲人」となっていることが珍しくなかったそうだ(「解説」より、222ページ)。

「だが友よ、君も自分で笑ってくれ、特に外の者どもが彼に感心しているのを聞いた時にね」(「ペレグリーノスの昇天」より、173ページ)

 巻末に付された「解説」は五十ページ近い堂々たるもので、一つひとつの作品が大変丁寧に紹介されていた。著者ルキアノスについての考察がとてもいい。

「ルーキアーノスは、しかし、彼自ら称するごとく、単なる弁辞家でもなければ哲学者でもない。彼の目的は気のきいた愉快な作品によって読者を喜ばせ、自らもその仲間に入って笑おうというのであって、彼が或いは哲学を、或いは弁辞学を、或いは宗教を攻撃する時、あまりまじめにとることは禁物である。彼はいかなるものもまじめには信じていないが、しかし常に良識の持主である。捕われざる精神をもち、迷信を排し、一定の宗教をも一定の哲学をも信じない。むしろ疑いそのものの中に自由を喜ぶ傾向にあるとさえ言い得る。悪く言えば何事にもまじめでない。教養ある、静かに、しかし愉快に生活を楽しもうというヒュマニストである」(「解説」より、185ページ)

 これ以上なにを付け足す必要があるだろうか。先だって引いた「ペレグリーノスの昇天」の一文、「だが友よ、君も自分で笑ってくれ、特に外の者どもが彼に感心しているのを聞いた時にね」は、「彼」を「だれか」と置き換えるだけで、そのままルキアノスの生きかたとして通用する。「何事にもまじめでない」というのは、すばらしいことだ。

 ところどころ読みづらい箇所もあり、辟易するような量の訳注に、必要とは思えないものもいくつかあったが、それでもこの翻訳の刊行が1961年だったことを思えば、満足するべきだろう。次は『本当の話』を読みたい。

遊女の対話―他三篇 (岩波文庫 赤 111-2)

遊女の対話―他三篇 (岩波文庫 赤 111-2)

 


<読みたくなった本>
エウリピデスの戯曲
「そこへピュータゴラース派のアリグノートスが入って来た。ほら、髪を長くのばして、立派な顔の、その智をたたえられている、尊いお方と名のついている男さ。私はというと彼を見てほっとした。ここに嘘偽に打ち下ろされる斧のご入来だと考えてね。「この賢者はこんな大ほらふきどもに猿轡をはませるだろう。」そして文句にもあるように機械の上の神様(デウス・エクス・マキナー)としてこの男が運命の女神によって舞台にせり出されたのだと思った」(「嘘好き、または懐疑者」より、86ページ)
 文中の「機械の上の神様」というのは、エウリピデスが好んで用いた手法らしく、「大団円に宙づりになって現われ、解き難くもつれた劇の発展を神慮によって一気に解決するをつねとする神」だそうだ。

ギリシア悲劇〈3〉エウリピデス〈上〉 (ちくま文庫)

ギリシア悲劇〈3〉エウリピデス〈上〉 (ちくま文庫)

 
ギリシア悲劇〈4〉/エウリピデス〈下〉 (ちくま文庫)

ギリシア悲劇〈4〉/エウリピデス〈下〉 (ちくま文庫)

 

エピクロス『教説と手紙』
「純粋に物質主義的なエピクーロスは、迷信を排し、神々の存在は否定しないが、人間とはあまり関係なきものとし、魂は死後ふたたびそれを形成するアトムに戻って、死後には何物もなしと教える。エピクーロスによれば、かかる完全な消滅こそ真に永遠の安息と平和とを与えるものであるというが、死後に全き空虚を信ずることは、これまた俗人にはあまりにも冷く堪えがたい考えである」(「解説」より、194ページ)

エピクロス 教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1)

エピクロス 教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1)

 

ルクレティウス『物の本質について』

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)

 

アナトール・フランスエピクロスの園

エピクロスの園 (岩波文庫)

エピクロスの園 (岩波文庫)

 

澁澤龍彦『快楽主義の哲学』

快楽主義の哲学 (文春文庫)

快楽主義の哲学 (文春文庫)

 

アポロニオス『アルゴナウティカ』

アルゴナウティカ―アルゴ船物語 (講談社文芸文庫)

アルゴナウティカ―アルゴ船物語 (講談社文芸文庫)

 

ルキアノス『本当の話』

本当の話―ルキアノス短篇集 (ちくま文庫)

本当の話―ルキアノス短篇集 (ちくま文庫)

 

シェイクスピア『アントニーとクレオパトラ』

ゲーテ魔法使いの弟子

ゲーテ詩集 2 (岩波文庫 赤 406-5)

ゲーテ詩集 2 (岩波文庫 赤 406-5)

 

カミュカリギュラ

アルベール・カミュ (1) カリギュラ (ハヤカワ演劇文庫 18)

アルベール・カミュ (1) カリギュラ (ハヤカワ演劇文庫 18)

 

ユルスナール『黒の過程』

黒の過程

黒の過程