アントニーとクレオパトラ
ちょっと暴走気味のユマニスム熱・戯曲熱が手もとに運んできた一冊。日本の実家には全集が全巻揃っていて、首を長くしてわたしの帰国を待っているというのに、あんまり読みたかったので新しく買ってしまった。本はこんなふうにして無限に増えていく。
シェイクスピア全集 (〔30〕) (白水Uブックス (30))
- 作者: ウィリアム・シェイクスピア,小田島雄志
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 1983/01
- メディア: 新書
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ウィリアム・シェイクスピア(小田島雄志訳)『アントニーとクレオパトラ』白水uブックス、1983年。
さあ、「問題劇」である。シェイクスピアの問題劇というと個人的にはまず『ハムレット』が思いつくが、ほかにもわたしが不当ほど罵倒しつづけている『トロイラスとクレシダ』を含め、シェイクスピアにはこういう、読み手に複雑きわまりない読後感を与える作品が多々存在する。この『アントニーとクレオパトラ』も同様で、「この感情をいったいどうすればいいんだよ……」と思わずひとりごちたくなるような幕切れから、問題劇のひとつとして数えられることがあるようだ。
わたしは以前にも「3冊で広げる世界:細部こそすべて」などで、シェイクスピアを読むときには語り口そのものが輝きまくっているので、ストーリーなんてどうだっていい、という趣旨のことを書いてきたが、『アントニーとクレオパトラ』に関しては例外的に断言するのがためらわれてしまう。なにせ、他作品と比べても筋書きがぶっちぎりで起伏に富んでいて、先が気になってページを繰る手が止まらなくなるのだ。しかも、登場人物に気まぐれな連中が多いため(それはいつものことだが)、話自体はだれもがよく知っているはずだというのに、読みながらどんなところに連れていかれるのか、想像もつかない。ものすごいスピード感である。
また、登場人物の数にも特筆すべきものがある。名前のある人物だけで、なんと30人を超えるのだ。「まさかこれ全員舞台にあげるんですか?」とだれかにおどおど尋ねたくなるほどで、じっさい舞台の台本としてこの本を脚色なしに使おうとすると、大変な困難が伴うらしい。舞台も幕ごとにひっきりなしに変わるため、上演の難しさは他作品の比ではない、と思う。
とはいえ、物語の中心的な人物はかぎられている。彼らの名前を世界史の教科書に載っているとおりに翻訳すると、アントニーはマルクス・アントニウス、クレオパトラはそのままクレオパトラ、シーザーというのはユリウス・カエサルではなく、のちにローマ初代皇帝アウグストゥスと呼ばれるようになる人物、オクタヴィアヌス・カエサルのことである。時代は紀元前30年前後、共和政のローマが統一された帝国となるすこし前のことだ。高校の世界史の授業をすこしでも覚えていれば、ページを開く前からだれが勝者であるのかを知った状態で物語がはじまることになる。しかも、それがすこしも読書の楽しみを奪わないのだから驚きだ。
「クレオパトラ それが愛なら、どのくらいの大きさか知りたいわ。
アントニー どのくらいと言えるような愛は卑しい愛にすぎぬ。
クレオパトラ でもあなたの愛の世界をその涯まで見きわめたい。
アントニー それを見きわめれば新しい天地を見ることになろう」(10ページ)
「アントニー この静かな一時を、耳ざわりな口論で乱すのはよそう。二人が生きる時間は一瞬たりともむだにはできぬ、楽しくすごさねば」(13ページ)
なかでも楽しいのはクレオパトラの人物造形で、彼女の言動は本当に予想がつかない。ジロドゥの『オンディーヌ』に出てくるオンディーヌ並みに気まぐれで、しかもそれがとても魅力的に映るのだ。
「アントニー あの女の芝居のうまさはわれわれの想像を絶しているのだ。
イノバーバス いや、とんでもない、あの人の情熱はまじりけなしの純粋な愛そのものです。あの人の起こす風や雨を、溜息とか涙とか呼ぶわけにはいかない、あれはこの世はじまって以来最高の大嵐、大暴風雨です。あれが芝居なんかであるはずはない、そうだとしたらあの人には、雷神ジュピター同様、雨を降らせる力があるわけだ。
アントニー あの女に会わなければよかった!
イノバーバス そうなると、大自然の生んだ驚嘆すべき傑作を見ないですませたことになる、そのしあわせに恵まれずにご帰国になれば、なんのための旅であったのかともの笑いにされますぞ」(24ページ)
「クレオパトラ あの人はどこ?
チャーミアン しばらくお見かけしていませんが。
クレオパトラ どこで、だれと、なにをしておいでか見てきて、私の言いつけではないことにして。沈んでおいでなら私がダンスをしているとお言い、楽しんでおいでなら私が急病だと言うんだよ」(27ページ)
クレオパトラの美貌についても、多くの紙幅が費やされている。クレオパトラが本当に絶世の美女だったかは怪しいものだ、といった内容の研究(?)が最近世間を賑やかにしているようだが、シェイクスピアの描くクレオパトラは紛れもなく「永遠のヘレネ」、つまり『舞姫タイス』や『トロイ戦争は起こらない』にも描かれていた「femme fatale」である。クレオパトラが絶世の美女、というイメージは、ともするとシェイクスピアによって現代に伝えられたのかもしれない。
「ポンペー 淫蕩なクレオパトラよ、恋の魔力でそのしなびた唇にうるおいを与えてくれ! 美貌に魔術をかけ、さらに情欲を加えるのだ! あの放蕩者を饗宴の庭に閉じこめ、脳味噌まで酒びたしにさせるがいい、一流の腕をもつ料理人は、食い飽きぬ味つけでやつの食欲をそそり立ててくれ、眠っては食い、食っては眠るうちに、おのれの名誉を忘却の川に流してしまうように」(49~50ページ)
「イノバーバス 侍女たちは一人一人が人魚だ、それがニンフのように女王の前にかしずき、腰をかがめ、女王をいっそう美しく見せる飾りとなっていた。舳にはその人魚の一人が舵をとる、たおやかな花の手があざやかな綱さばきを見せると、それにつれて絹の帆が誇らしげにふくらんでいく。舟からはえもいわれぬ香りがただよい出て、近くの岸に立ち見物しているものの鼻をうつ。みんな見にきたので町はからっぽとなったのだ。アントニーはただ一人広場にとり残され、空にむかって口笛を吹いていた、だがその空気にしても、真空を作っていいものなら、やはりクレオパトラを見に出かけ、自然界に大きな穴をあけたろう」(68ページ)
「イノバーバス ほかの女は男を満足させれば飽きられる、ところが女王は満足させたとたんにさらにほしがられる、というのは、どんな卑しいものも女王にあっては美しく見えるのだ。聖職者も女王のふしだらには祝福せずにはいられまい」(70ページ)
そのくせ、タイスやエレーヌのような掴みどころのない美女たちと比して、クレオパトラにはかわいらしさが伴う。その美貌のあまり、気づけば男たちがまわりに群がっている、というのではなく、結構必死になって意中の男を魅了しようとしているのだ。かわいいじゃん、クレオパトラ! やはりその点では人間味に溢れたオンディーヌを思い出さずにはいられない。
「クレオパトラ 釣り竿をもってきて。川へ行こう。そして遠くで音楽を奏でさせながら、褐色の鰭をつけた魚をうまく釣りあげてやろう。そのぬらぬらした顎に先の曲がった針を引っかけて、釣りあげるたびに一匹一匹をアントニーに見立てて言ってやろう、「ほうら、つかまえた」って」(76~77ページ)
「クレオパトラ アレクサス、あの男のあとを追い、伝えてちょうだい、オクテーヴィアの顔立ち、年齢、気質などについて報告するようにと、そう、それから忘れずに髪の色のことも」(85ページ)
上でイノバーバスによって「人魚」と讃えられていたクレオパトラの侍女たちもまたおもしろい。チャーミアンとアイアラスの二人が何度も登場してくるのだが、こいつら、もう端的に言ってクソ女なのだ。その徹底ぶりはクレオパトラの比ではない。以下は占い師の予言のくだり。ちなみに最後まで読んでからこの箇所をもう一度読むと、戦慄するようなことがたくさん書かれている。
「チャーミアン ねえ、なにかすばらしい運勢を聞かせて! 一朝に三人の王様と結婚してみんな先に死んでもらうとか、五十になって子供を産み、それが赤ん坊殺しのユダヤ王ヘロデさえ経緯を表するような子であるとか」(16ページ)
「チャーミアン アレクサス――さあ、今度はこの人の運勢を! どうか、子孫繁栄を司る女神アイシス様、この人には女として役に立たないお嫁さんがきますように! その人が死ぬと、もっとひどいのがきますように! そして次から次へとひどくなっていって、最後にはいちばんひどいのがきて、五十回も間男したあげく、この人を大喜びでお墓に送りこみますように! このお願いだけは聞きとどけてください、アイシス様、もっと大事なお願いをかなえてくださらなくてもけっこうですから。お願いします、アイシス様。
アイアラス アーメン。どうか、女神様、ただいまの私ども一同のお願いを聞きとどけてください! 美男子が女房に浮気されるのはそばで見ているだけでも胸のつぶれる思いがしますが、醜男が間男されないでいるのを見るのは死ぬほどつろうございます。ですから、アイシス様、ものごとにけじめをつけるためにも、この人にふさわしい運命をお与えください!」(18ページ)
クレオパトラは本当にアントニーのことが好きだったの? という質問があれば、高尚な学術論文のテーマにもなるし、同時に夜の女子会の話題としてもうってつけだろう。個人的には鬚面の学者よりも、女の子たちの目にクレオパトラがどんなふうに映るのか、とても気になる。
「クレオパトラ 天よ、私の冷たい心で雹を作り、それに毒を仕込み、最初の一粒を私の首にたたきつけるがいい、それが溶けると同時に私のいのちも溶けるように! その次はわが子シーザリオンの首に! そうして次々に私の肚を痛めた子供たちは倒され、わが勇敢なエジプト人すべても運命をともにし、雹の嵐にうたれ、溶け崩れ、墓も建ててもらえず死体を野ざらしにし、ナイル河の蠅や蛇の餌食となり、その腹に埋葬されるのを待つがいい!」(165~166ページ)
「クレオパトラ 夢の限界を越えていよう。不可思議なものを生む力は自然も空想にはおよばない、がアントニーのような人を想像することは、空想に挑む自然の傑作であり、夢の描く姿など圧倒しさるだろう」(234ページ)
もちろん魅力的なのはクレオパトラだけではない。わたしが特に気に入ったのはアントニー陣営のイノバーバスで、彼の言葉の数々は『お気に召すまま』の道化、憂鬱病のジェークイズを思い出させる。
「アントニー おまえは一介の武人にすぎぬ、よけいな口を出すな。
イノバーバス 真実は語るべからず、という教訓を忘れるところでした。
アントニー お歴々を前にして無礼だぞ、だからもう言うな。
イノバーバス では、この身はもの思う石となりましょう」(61ページ)
「ミーナス きみとはたしか会っているな。
イノバーバス 海の上で、だろう。
ミーナス うむ、そうだ。
イノバーバス 海ではみごとな働きぶりだったな。
ミーナス きみも陸では。
イノバーバス おれはほめてくれるものならだれでもほめてやることにしている。もっとも、陸でのおれの働きは否定しようのない事実ではあるが。
ミーナス おれも海では。
イノバーバス いや、それは否定したほうが身のためだろう、なにしろきみは海では大盗賊だったのだから。
ミーナス きみも陸では。
イノバーバス その点、おれは否定するがね。まあいい、握手だ、ミーナス。おれたちの目が役人だったら、こうして盗賊である手が仲よくしているのを見て、たちまちふんづかまえるところだろう。
ミーナス 人間、だれでも顔だけは正直者だ、手が盗っ人であろうとな。
イノバーバス だが美人となると顔まで正直者ではない。
ミーナス それも当然だろう、その顔で男の心を盗むのだから」(93~94ページ)
「イノバーバス おれはもう少しアントニーの傷だらけの運命についていってみる、おれの理性はそれに向かい風を吹きつけるがな」(144ページ)
ほんの250ページ程度の戯曲に30人以上の人物が登場するとあっては、読者の混乱も容易に予想がつくが、なにせこれは天下を分けた戦争とその前夜を舞台にしているのだから、それも仕方のないことかもしれない。のちのアウグストゥス帝、ジュリアス・シーザーの甥であるオクテーヴィアス・シーザーと、その姉にしてほかならぬアントニーの妻となるオクテーヴィアの会話にもおもしろいものが多い。
「オクテーヴィア お二人のあいだに戦争が起こればこの世界はまっぷたつに割れ、その割れ目はたちまち戦死者で埋められましょう」(122ページ)
「シーザー なぜこのようにお忍びでおいでです? これではシーザーの姉たるにふさわしいきかたではない、アントニーの妻なら、堂々たる一隊を先導役にし、お姿を見せる前に馬のいななきをもってご到着を知らしめるのが当然だ。沿道の木々には見物人が鈴なりになり、いまかいまかと待ちくたびれて卒倒するものが出てもいいはずだ。それどころか、つき従う大軍のまきあげる砂塵が天日を暗くしてしかるべきだ。それなのに姉上は市場へ通う小娘のようにローマへおいでになる。おかげで私としては愛の見せ場を失いました、愛というものは見せないでおくと愛されぬままになるのがつねなのに。姉上のご帰国には、海に陸に人を配し、近づくにつれその人数をふやして歓迎したかった」(128~129ページ)
「シーザー いや、オクテーヴィア、便りは欠かしませぬ、時がいかに早くとも、姉上を思う私の心を追い越すことはありませぬ」(114ページ)
手紙についてはクレオパトラもすばらしい言葉を発している。なんにだって使いが必要だった当時の連絡手段が偲ばれておもしろい。
「クレオパトラ 紙とインクをもってきてね。あの人には毎日必ず手紙を送り届けるわ、たとえエジプトじゅうの人間を使いに出すことになっても」(47ページ)
クレオパトラの愛人でありながらやがてはシーザーの姉を娶ることになる主人公アントニーも、直情的な人間、根っからの武人でありながらも複雑な環境に身を置いたがために、その言動さえ複雑になっている。ていうかこいつの状況、複雑すぎるだろ。
「アントニー ああ、おれはバシャンの丘へのぼり、けだものの声でわめきたい、愛を裏切られた以上、畜生のまねをする理由はある、それを上品な人間の声で言えというのは、絞首台で首絞め役人に、早く絞めてくれてありがとうと言え、というようなものだ」(163ページ)
「アントニー おお、この世の光、鎧をつけたこの首を抱きしめてくれ、そのままの姿で剣も通さぬ鋼を貫いておれの心臓まで飛びこんでこい、そこで高鳴る胸を乗りこなすのだ!」(189ページ)
この小田島雄志訳の白水社のシリーズは訳文が最強にこなれていて、シェイクスピアを読むのなら個人的にはいちばんおすすめなのだが、唯一、解説が学術論文めいていてつまらない、という弱点を持っている。ところが、この『アントニーとクレオパトラ』については、作品が例外的に書くべきことの多いものだったのか、それとも単純に書いている方が優秀だったのか、どういうわけか解説まで大変おもしろかった。なかでも特筆すべきは以下の一文。
「『アントニーとクレオパトラ』を執筆するにあたって、シェイクスピアは「言葉」にすべてを賭けていたのではないだろうか。ローマ史という枠組の中で、プルタークにほぼ忠実に従っているプロットは、創造の入りこむ余地があまり大きくはなかったことと思われる」(「解説」より、261~262ページ)
史劇という性格上、そこにはすでに動かしがたい歴史の流れが存在し、結末は書かれる以前からとっくに決まっている。その運命・末路を広く知られた登場人物たちを扱うにあたって、シェイクスピアは言葉を与えることで、彼らに新たな生命を吹き込んだのだった。
「ミーナス ほしいくせにやると言われて手を引っこめる男には二度と機会はつかめまい」(102ページ)
「クレオパトラ ごらん、女たち、咲ききったバラの前では人も鼻をつまむ、蕾のときはひざまずいたものなのに」(156ページ)
「アイアラス そのようなものを私が見ることはありません、この爪がこの目より硬いからには」(244ページ)
最初の一冊には薦めないが、シェイクスピアを読む愉しみを確認するにはうってつけの一冊である。クレオパトラがかわいい。この時期のローマ史に興味がある方にはぜひとも手に取ってもらいたい。サラリーマンに人気の塩野七生なんかを読むより、ずっと有意義な時間を過ごせるのは確実である。
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バーナード・ショー『シーザーとクレオパトラ』
「この劇をもっとも手厳しく弾劾したのは、シェイクスピアに対抗して戯曲『シーザーとクレオパトラ』(1898)をみずから著わした毒舌家、G・B・ショーであった。主人公たちは「ブタのような人物が英雄に」仕立てられたにすぎず、「どんなパブにでもいる」連中なのだという」(「解説」より、263ページ)