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Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

3冊で広げる世界:細部こそすべて

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 大好評(?)のうちに幕を開けた「3冊で広げる世界」シリーズ、ずっと更新していなかったのはネタが尽きたからではなく、旧ブログからの記事の移転や、新しく記事にしたい本が多すぎて、書く時間をぜんぜん持てていないからである。これはまとめてみたいな、という「3冊」が頭のなかにはすでにたくさんあるのだけれど、とっくに機を逸してしまっているそれらはひとまずうっちゃっておき、いまさっき新しく思いついた取り合わせについて書いておきたい。


 ここではもう何度も繰り返していることであるが、文学というのは、細部こそがすべてである。これはもう、ひとつの意見として述べているつもりもなく、断定としてとらえてもらっていい。あらすじだけで満足できるのであれば、だれもわざわざシェイクスピアを手に取りはしないのだ。あらすじというのはわたしが言うところの「細部」を根こそぎ削りとった、端的に言って死骸であり、そこにはもともとの作品が持っていた芸術としての要素などひとつもありはしない。

 また、あらすじというのは往々にして、本のなかで展開される筋書きについて語っているものであるが、文学を楽しむのと筋書きを追うことというのは、ぜんぜん一致しない。たとえばシェイクスピア『ロミオとジュリエット』は、筋書きだけを見たら単なる恋の悲劇でしかないが、ロミオとその友人マキューシオの口論、物語にはなんの関係もないあの応酬を見たら、ここに文学を読むことの楽しみがあるのは明白なはずだ。あらすじを知って読んだ気になろう、というような現代の風潮ほど無意味なこともなければ、そもそもあらすじを知ろうとする努力にさえ意味がない。読書体験というのは履歴書に書くためのものではないのだ。

 芸術というのは、無駄なものである。実生活に役に立たなければ立たないほど、芸術としての純度は高いとさえ言える。無駄であればあるほど美しい。無駄なものほど美しいものはない。フェルナンド・ペソアも言っていたではないか。「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」(『不穏の書、断章』13ページ)。

 わたしがこんなふうに考えるようになるまでには、書かれたテーマも内容もばらばらな複数冊の本が決定的な役割を果たしたのだった。今回紹介したいのは、そのうちの3冊なのである。

江國香織『とるにたらないものもの』
穂村弘『短歌の友人』
ロラン・バルト『明るい部屋』

とるにたらないものもの (集英社文庫)

とるにたらないものもの (集英社文庫)

 
短歌の友人 (河出文庫)

短歌の友人 (河出文庫)

 
明るい部屋―写真についての覚書

明るい部屋―写真についての覚書

 


 じつを言うと3冊とも、短歌・俳句を愛するわたしの親しい友人との会話を経て、不動の地位を得たものである。これらの本のなかで江國香織は「ものもの」、穂村弘は短歌、そしてロラン・バルトは写真について語っているのだが、彼らの言葉は驚くほど似かよっている。いちばんわかりやすいのは穂村弘の言葉だと思うので、最初に紹介しよう。彼は短歌に強烈な印象をもたらす要素、短歌的リアリティの正体として、細部をあげているのである。彼は以下の東直子の歌を紹介しつつ、わたしには一生忘れられそうもない決定的な一文を書いている。

  はじめからこわれていたの木製の月の輪ぐまの左のつめは   東直子

「短歌的リアリティの補強要素として、もっとも有効なのは「左のつめ」がこわれていたというような〈なるべく具体的で小さな違和感〉なのだ。〈現実的社会的には役に立たない情報〉だとさらに望ましい」(『短歌の友人』96ページ)

 この言葉を念頭に置いたうえで以下の村木道彦の歌を見てみてほしい。

  うめぼしのたねおかれたるみずいろのベンチがあれば しずかなる夏   村木道彦

 穂村弘は、この歌の「みずいろのベンチ」に置かれているのが「うめぼしのたね」ではなく、たとえば「図書館の本」や「コカコーラの缶」だったなら、これほど強烈な印象を与えることはできなかっただろうと書いている。「コカコーラの缶」などという真っ赤なものが「みずいろのベンチ」に置かれているというのは、そのあまりに見事な色彩のコントラストから、もはや作為的に映ってしまうのだ。作為的に見えるもの、それはロラン・バルトが「ストゥディウム(一般的関心)」と呼ぶものである。そしてこれを破壊するのが、「うめぼしのたね」が抱える詩情、その圧倒的な偶然性、すなわち「プンクトゥム」だ。

「ごく普通には単一のものである写真の空間のなかで、ときおり(といっても、残念ながら、めったにないが)、ある≪細部≫が、私を引きつける。その細部が存在するだけで、私の読み取りは一変し、現に眺めている写真が、新しい写真となって、私の目にはより高い価値をおびて見えるような気がする。そうした≪細部≫が、プンクトゥム(私を突き刺すもの)なのである」(『明るい部屋』56ページ)

「ある種の細部は、私を≪突き刺す≫ことができるらしい。もしそれが私を突き刺さないとしたら、それはおそらく、写真家によって意図的にそこに置かれたからである。ウィリアム・クラインの写真「戦う画家シノヒエラ」(1961年)の場合、この人物の怪物的な顔は少しも私に語りかけない。それが撮影上のトリックであることは、よくわかっているからである」(『明るい部屋』61ページ)

 さきほどのシェイクスピアの例をもう一度あげるなら、ロミオとマキューシオとの口論は、悲劇的なストーリーという一般的関心を破壊した、プンクトゥムなのである。一般的関心から、この場合はたとえば物語から断絶していればいるほど、その印象は強烈なものになる。レイモンド・チャンドラーが生んだ探偵、フィリップ・マーロウが発する美しい言葉の数々は、たいてい彼が調べている事件とはあまり関係がないことを思い出してもらいたい。

 江國香織『とるにたらないものもの』は、この話の結論のひとつとして紹介できる。というのも、文学とはなんであれ、言葉によって構築されているからである。文学の最小構成要素としての言葉に対して敏感でなければ、だれかを「突き刺す」ことなどできないはずなのだ。ひとつひとつの言葉がそれ自体抱えている語感、詩情こそ、文学におけるもっとも小さな細部なのである。

「ケーキ、という言葉には、実物のケーキ以上の何かがある。私はその何かが好きだ。
 ケーキ、という言葉に人がみるもの。それはたぶん実物のケーキよりずっと特別だ。ケーキがあるわよ、とか、一緒にケーキでも食べない、とか言われたときの、あの湧きあがる喜びは、そうでなきゃ説明がつかない。だって、どんなケーキかもわからないのに嬉しいなんて変だもの」(「ケーキ」より、『とるにたらないものもの』66ページ)

「オーバー、という言葉をあまり聞かなくなった。ウールやカシミアの、丈の長い厚手のコートを、私が子供のころにはみんなオーバーと呼んでいた。オーバーコートの略なのだろうから、厚手だろうと薄手だろうと外套ならばコートで正しいわけだけれど、オーバーという言葉が消えつつあるのはなんとなく淋しい」(「オーバー」より、『とるにたらないものもの』153ページ)

 細部の価値について触れた本は数多くあり、今回紹介したのはわたしにとって印象深い3冊というだけのことである。なんだか抽象的な話になってしまったが、芸術について語るというのはいつだって容易いことではない。わたしの言わんとするところがすこしでも伝わっていれば嬉しい。

「もしもぼくが君の半身像を作るとすれば、何でもない細部に無闇とこだわるだろう。細部こそぼくにとってはかけがえのないものだ。なぜなら君を宿しているのは細部なんだから」(アナトール・フランス『赤い百合』311ページ)

 無駄なものほど美しいものはない。