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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

はじめての短歌

 穂村弘慶應大学でおこなった「世界と〈私〉を考える短歌ワークショップ」の講義録。とても薄いうえに字の大きな本で、出版社はなんと実用書で有名な成美堂出版。それだけでも本の性格が伝わってくるくらいだが、『短歌の友人』などで語られていた穂村弘流の歌論の、手に取りやすいダイジェスト版となっている。

はじめての短歌

はじめての短歌

 

穂村弘『はじめての短歌』成美堂出版、2014年。


 講義録というのは大抵すばらしく読みやすいものだが、ほむほむが講師とあってはその読みやすさも倍増、ものの一時間ほどで読み終えてしまった。上述のとおり、書かれていることは『短歌の友人』にも語られていたことが多いものの、それらがべつの言葉で、さらにわかりやすく伝えられている。『短歌の友人』を再読しようと思ったまま機会を得ずにいた自分にとってはうってつけの一冊だった。

  目薬は赤い目薬が効くと言ひ椅子より立ちて目薬をさす
  (河野裕子、15ページ)

「薬局の店員が白衣を脱いでうちに帰って、晩御飯を食べながら自分の奥さんとかに「今日Vロートクールくれって客が来たんだよ」という話をすることは、決してない。でも、「今日赤い目薬くれって客が来てさ。困っちゃったよ、ヘンなおばさんで」と、話題になる可能性はある」(18ページ)

 穂村弘はここで、「生きる」ための言葉と「生きのびる」ための言葉というふうに、われわれの日常にあふれる言葉を分けて考えている。教科書的な、新聞に載るような社会的に有益な言葉はすべて「生きのびる」ための言葉で、詩の言葉というのはその正反対の方向を向いた、「生」を実感させるものである、と。

  空き巣でも入ったのかと思うほどわたしの部屋はそういう状態
  (平岡あみ、8ページ)

 以下は、上の平岡あみの歌を紹介したうえで、「新聞記者で詩人」というひとがいた場合に直面するであろう選択を描いている。

「「彼女の部屋は空き巣でも入ったかのようなそういう状態」とは書かない。「散らかっていたと書けよ」とデスクに言われてしまう。「なんだよこの思わせぶりは」とか、言われてしまう。
 だけど、おそらく彼は、そこで反論はしない。詩人の誇りをかけて、「いや詩としてはこちらのほうがいいです」みたいには言わないだろう。素直に直すだろう。雨は必ず「しとしと」とか「ざあざあ」とか降って、非常にユニークな擬音語では降ったりしないだろう。新聞記事の中では」(24〜25ページ)

 ご覧のとおり、穂村弘の言葉はわかりやすい。わかりやすいのはすばらしいことだけれど、語られているのが本当にそれほど簡単なことかというと、決してそうではないと思う。ほむほむはちょっと危ういほどにわかりやすいので、書かれていることを反芻し、わかった気になったままにしないことが大切だと思う。

「雨の降り方を、唯一無二の言葉で表現する新聞記事は、あってはいけないのだ。/だけど短歌や詩は、唯一無二の言葉で表現することを目指す」(28ページ)

 それから、『短歌ください』でもしょっちゅうやっていたけれど、穂村弘は歌の「改悪例」というのを作って、一首の隣に並べることでオリジナルの良さを伝えてくれる。このだれも傷つかない秀逸な発明は、この本のなかでも大いに活躍している。

  あっ今日は老人ホームに行く日なり支度して待つ迎えの車
  (相澤キヨ、29ページ)

  火曜日は老人ホームに行く日なり支度して待つ迎えの車
  (改悪例、29ページ)

「「あっ今日は老人ホームに行く日なり」から感じられるあぶないところだったって感覚が「火曜日は老人ホームに行く日なり」にはない。ここからは死すべき運命の共有が感じられない。「火曜日」とすることで、死すべき運命を背負った個人の肉声ではなくて、社会化された情報になっている。純粋に個人的な体験である死の慄きにこそ「生きる」感覚が宿るのであって、万人が「生きのびる」ために有益な情報は短歌には不要なんだよね」(37ページ)

 このあたりは『短歌の友人』でも語られていた、社会的に役に立たない情報に宿る詩情、というもの。江國香織『とるにたらないものもの』で紹介していたいくつもの「ものもの」のように、無駄なものほど美しいものはないのだ。これについては以前、「3冊で広げる世界:細部こそすべて」という記事を書いたことがあるので、参照してもらいたい。

  鯛焼の縁のばりなど面白きもののある世を父は去りたり
  (高野公彦、40ページ)

「短歌においては、非常に図式化していえば、社会的に価値のあるもの、正しいもの、値段のつくもの、名前のあるもの、強いもの、大きいもの。これが全部、NGになる。社会的に価値のないもの、換金できないもの、名前のないもの、しょうもないもの、ヘンなもの、弱いもののほうがいい」(43ページ)

 以下の葛原妙子の歌も、同じ文脈ですばらしい一首だと言える。社会的な価値のなさ。

  暴王ネロ柘榴を食ひて死にたりと異説のあらば美しきかな
  (葛原妙子、73ページ)

「戦争とか暗殺とかそういうのは、結局、社会的な死でしょう。別に柘榴はネロを殺そうとしたわけじゃないし。勝手に柘榴食って死んじゃった。ま、犬死だよね。柘榴死。その美しさ、みたいな」(74ページ)

 社会的であることと、社会の文脈から離れること。「生きのびる」ことと「生きる」ことの違い、その差に潜む詩情。こんな歌もあった。

  雨だから迎えに来てって言ったのに傘も差さずに裸足で来やがって
  (盛田志保子、87ページ)

「これは怒っている? 違うよね。これは感動している」(87ページ)

「「生きる」ということへの憧れですよ。
 それは往々にして「生きのびる」ということの強制力に対する反発の形になる。その「生きのびる」という強制力から自由になっているものを見ると、心が吸い寄せられる」(91ページ)

 この歌はちょっとすごい。レベルが違うぜ、と憧れてしまう。ちなみに社会的とか反社会的ということについては、誤解を招かないよう、穂村弘は以下のようにも語っている。

「反社会的なものって、泥棒とかじゃないんです。泥棒は社会的なんです。金欲しいって、働くか盗むかの違い。価値観が同じじゃん。泥棒は全然反社会的ではない」(94ページ)

 つい先日『短歌ください その二』で気に入った歌が、ここにも引かれていてテンションが上がった。ほむほむの解説がおかしくって、げらげら笑ってしまった。

  三十歳職歴なしと告げたとき面接官のはるかな吐息
  (虫武一俊、103ページ)

「普通の社会人は、「はるかな吐息」とはなかなか書けません」(104ページ)

「この人は絶対就職できませんよ。腹をくくって短歌を磨いたほうがいいですね。「かすかな溜息」としか書けない人は、頑張れば就職できるかもしれません。「かすかな溜息」からまず相手を真顔に変えて、それから賞賛の笑顔に変えればいい。でも「はるかな吐息」は、どうやって変えるんですか。変えようがないじゃないですか。面接官は「はるかな吐息」なんて漏らしてないんですよ」(105〜106ページ)

 就職できるかどうか、という観点からの改悪例の提示が非常におかしい。「かすかな溜息」や「ひそかな苦笑」と書けるひとは、「頑張れば就職できる」らしい。ちなみにこの虫武一俊さん、書肆侃侃房から来年2016年に第一歌集を刊行するらしいので、いまから楽しみにしている。

「詩歌は、人間に対する異議申し立てをする痛烈な武器であり批評のツールなんだけど、いかんせんそのツールを駆使できる人が社会的にダメな人ばっかりなんですよ」(107ページ)

「いかに社会的な枠組みが僕らを追い詰めるかということを知っているほうが、詩歌もわかるんです」(108ページ)

 それから、これはとってもおもしろいな、と思った指摘。詠われていることが巻き起こす、詠われていないことの量的な度合いについて。短歌には、語られていないからこそ広がるストーリーがある、ということ。状況がはっきりとわからないほうがおもしろい、という、ちょっと矛盾した物語の器としての機能。

  少年の君が作りし鳥籠のほこりまみれを蔵より出だす
  (佐藤恵子、44ページ) 

「例えばそのとき、結局鳥は逃げちゃったのかもしれない。遊ぼうと思って鳥籠を開けたとき、鳥は逃げちゃって、その少年はがっかりした、というようなことがあったのかもしれない。あるいは、死んでしまったのかもしれない。そしてとても嘆く少年を、母親は慰めたのかもしれない。
 このように、ここからは世界が展開する。「それ以上の感情」があふれる余地がある」(46ページ)

 歌人と呼ばれるひとたちの言葉の選択、その結晶が短歌なのだけれど、選択をすこし変えるだけで一首がどんなに違うものとなるか、改悪例とともに提示されると、ほんとうに驚くばかりである。

「言葉っていうのは、その背後にある「ひとつの世界」を背負っている。
 そうでしょ。だって自分の奥さんのことをさ、妻って言う人もいれば、奥さんって言う人もいるし、パートナーって言う人もいるし、女房って言う人もいるし、嫁も連れ合いも相方もワイフも、そのほかいっぱいある。そのどれを選ぶかで「ははーん」みたいな。
 「家内が」って言うと、ちょっと大人。「パートナー」って言うと、あっ、この人パートナーって言う人なんだ、みたいな。「相方」って言うと、ちょっとテレがあるのかな、とか。ぴったりしたものがないから、僕は「妻」って言ってますが、それは妻が一番ニュートラルだと思うから。でも「配偶者」がニュートラルって思う人もいるからね」(115ページ)

 以下はもうすこしテクニカルな面での語の選択。これは経験豊富な歌人にしか書けない類の一首だと思う。

  銀杏が傘にぼとぼと降ってきて夜道なり夜道なりどこまでも夜道
  (小池光、131ページ)

「これを短歌の形に戻すのは簡単で、「夜道なりけり」にすれば定型になる。だけど、じゃあそのほうがいい歌なのかというと、どうもそういう気がしない。五七五七七は守るためにあるんじゃなくて、意識するためにある。作るときも読むときも」(132ページ)

「小説や現代詩では「夜道なり」って50回繰り返しても、何も起きない。全体の量が決まってないから、50回書いても5000回書いても、原稿用紙が増えるだけで何も起きない。ただ量的に増えるだけ。だけどここで2回、繰り返した意味は大きい。それは、短歌には五七五七七であるという定型意識があるから。
 つまり散文や詩で50回繰り返すことは罪じゃないけど、短歌で2回繰り返すことは罪なの。定型の禁忌を破っている。罪を犯してまで2回繰り返したことによって、無限に繰り返されちゃうような感覚が呼び起こされる。まさにこの歌の中で伝えたい感覚は、「夜道なり」が無限に続く状況だと思うの」(132〜133ページ)

 小池光、友人が好きだというのを聞いてから、とても気になっている歌人なのだけれど、これを読んでなおさら興味を持った。こんな歌も紹介されていて、これも定型意識を揺さぶってくる。

  草つぱらに宮殿のごときが出現しそれがなにかといへばトイレ
  (小池光、134ページ)

  草はらに城のごときが出現しそれがなにかとおもへばトイレ
  (改悪例、134ページ)

 また、短歌における共感については、これまでも『短歌ください』の記事などでも書いているけれど、ただの「あるあるネタ」では詩としては響いてこない。この不思議な現象を、穂村弘は以下のように説明している。

「いきなり共感を目指すと上手くいかない。驚異って僕は呼んでいるんだけど、1回ワンダーの感覚に触れてそこから戻ってこないと。ワンダーからシンパシーですね、驚異から共感。砂時計の「くびれ」みたいな驚異のゾーンをくぐらないと共感をゲットできないという、普遍的な法則があるみたいですね」(138ページ)

「お笑いのあるあるネタっていうのは、驚異の領域に1回触れているからね。これは又吉直樹さんの自由律俳句だけど「起きているのに寝息」なら「あるある!」って感じになりますね」(144ページ)
 
 この共感というのは、すごく説明しづらいことだと思う。だから世の中にはお笑いにも使えない「あるあるネタ」が溢れているのにちがいないけれど、ほむほむですら、ここではすこし形而上的な言葉を使わざるを得ない。共感というのは個人の体験に基づいているはずなので、万人の共感を得る、というのは、たしかに驚異と呼んだほうが的確であることは間違いない。

「いい短歌はいつも社会の網の目の外にあって、お金では買えないものを与えてくれるんです」(155ページ)

 いい歌は上にあげた以外にもたくさん引かれていて、それぞれの歌人のことをもっと知りたいと思った。この本は歌集ではないので、とくに気に入った一首を決めることはしないけれど、以下の歌たちは忘れたくない。

  「煤」「スイス」「スターバックス」「すりガラス」「すぐむきになるきみがすきです」
  (やすたけまり、50ページ)

  録音でない駅員のこゑがする駅はなにかが起きてゐる駅
  (本多真弓、56ページ)

  たはやすく宇宙よりかえる人のあり夕焼に家見失ふ人あり
  (潮田清、59ページ)

  三年ぶりに家にかへれば父親はおののののろとうがひしてをり
  (本多真弓、149ページ)

 かなり前に読んだ『短歌の友人』と同じ感動を得たけれど、ただ、穂村弘以外の短歌論を読んだことのない自分は、ひたすらに間違っている、と感じた。わかりやすいのでついつい手を伸ばしてしまうのだけれど、ほかの歌人たちが短歌という定型詩をどんなふうに語っているのか、いま、とても気になっている。

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