Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

短歌ください その二

 とっくに読み終えていたのにいつまでも感想を書かずにいた、穂村弘の『ダ・ヴィンチ』誌上での連載、『短歌ください』の書籍化第二弾。テーマにもとづく歌の読者投稿をほむほむが選び、コメントを付ける、という、とても幸福な本。

穂村弘『短歌ください その二』メディアファクトリー、2014年。


 この連載シリーズの楽しいところは、掲載されている歌の作者たちがいわゆる歌人ではなく、いまはまだ一般読者だけれど、やがては歌人と呼ばれるようになるであろう人たち、ということ。もちろん、自身の歌集を編む、という、その道のりは、わたしなどには想像もつかないほどに険しいのだろうし、多くのひとたちは出版にこぎつける栄誉を受けないまま、ひょっとしたらこの本の片隅にしか登場しない名前として、消えていってしまうのかもしれないけれど、先日『つむじ風、ここにあります』を紹介した木下龍也のように、すでにその価値を周囲に認められて、著作を本屋の棚に並べている作者もいる。それってすごくすてきなことだと思うし、そういうひとたちの第一歌集で書店の本棚が溢れていたら、とてもいい、と信じて疑わない。刊行までに一か月もかかっていなさそうな紙クズばかりが本棚に収まっていても、書店員たちだって、ほんとうは何年もかけた推敲を経て編まれた歌集のほうを売りたいに決まっているのだから。

 著作業が収入の手段として考えられるような時代では残念ながらなくなってしまったけれど、芸術の作り手というのはみんな孤独なものであると信じているので、わたしは微力もいいところだが、ここで数名の作者たちに対して愛を告白し、あなたたちの歌集は刊行されたらぜったいに買いますよー、と伝えておきたい気分なのだ。だって、こんな時代に短歌を詠むだなんて、それ自体、詩的としか言いようがない行為ではないか。そもそも小説とはちがって、短歌やそれに関する本を読むひとなんて、ごくごく限られている。野心的な歌人なんて、ちょっとどこにも行けない。いまや存在自体が詩だ。それでも歌人であろうとするひとたちを、好きにならないわけがない。

「いまの時代にいちばん欠けているのは、野心をまったく持たない書き手と、本当に素晴らしい、埋もれたままの詩だと思うんだ。もちろん、どうやって暮らしていくかという問題もあるけどさ」

 ヘミングウェイのパリ滞在の思い出、『移動祝祭日』に登場する一節である。これは現代の短歌のことを言っているように思えてならない。いや、短歌にかぎらず、現代にあってはあらゆる詩が生まれた瞬間に「埋もれる」ように宿命づけられているようにさえ思えるけれど。

 わざわざこんなことを書かずにいられない気分なのは、じつは、『短歌ください』の「その一」のほうで、わたしの関心をかっさらっていった作者、ちゃいろさんの名が、この本にはまったく登場してこなかったのだ。あんなにすばらしい歌を詠むひとが、このまま消えていってしまうとしたら、現代にとっては恥辱、未来にとっては犯罪である。書いて投稿していたのに、穂村弘の目にかなわなかった可能性だってもちろんあるのだが、そうだとしたらただ詠むことをやめてしまうよりも、さらに残念だ。だって、「褒めのプロ」である穂村弘の琴線に触れない歌が、わたしにとって魅力的かどうかなんて自信が持てない。名前を変えて投稿を続けていて、しかもわたしが鈍いものだからそれに気づいていない、ということであってほしい。

 以下、「その一」のほうの『短歌ください』でも印象的だったひとたちの歌。

  エスカルゴ用の食器があるのだし私のための法で裁いて
  (麻倉遥、7ページ)

  ジャージ来た七三分けの先生に服装検査される屈辱
  (麻倉遥、22ページ)

  岐阜羽島出たころ食べた梅グミの味をのこして目覚める品川
  (こゆり、48ページ)

  戦争はもうなかったよ 飴を噛む六歳にとって私はおとな
  (こゆり、95ページ)

  電話では一緒に歌はうたえない発見だけが思い出の旅
  (こゆり、231ページ)

  サウナ室鯉の入れ墨兄さんに痛かったかと聞いたこの口
  (ヒポユキ、111ページ)

  演奏会終わるまで寝る最後列グランドピアノ運び屋の夢
  (ヒポユキ、127ページ)

  ホームと車体とを他者にした闇によだれを垂らす聖者は8歳
  (冬野きりん、24ページ)

  神無月老人ホーム窓の中過半数が挙手をしており
  (モ花、32ページ)

  ほんとうの事を言っておののかせ靴も履かずに自転車を漕ぐ
  (モ花、209ページ)

  ブラジャーのエリコが泣いた放課後のチャイムはいつもより悲しくて
  (森響子、15ページ)

  寄せ鍋の湯気で湿った前髪を気にして触る君世界一
  (森響子、120ページ)

 このひとたちの歌の無駄のなさ、構成の巧みさ・美しさは、もう歌人と呼んだっていいでしょ、と思えてしまうほどだ。ヒポユキさん、好きだ。森響子さんも、「その一」よりも響いてくる歌が多かった。かつて怖い歌が多かったシラソさんも健在である。

  きみに貰ったのがガムでよかったな私永遠に噛んでられる
  (シラソ、27ページ)

  もしもしを繰り返してたらもしもしの意味を忘れて動物みたい
  (シラソ、50ページ)

 ただ、こと怖さに関して言えば、このひとを上回るような作者が『その二』では登場してきている。その作者の名は、九螺ささら。

  煮え切らぬきみに別れを告げている細胞たちの多数決として
  (九螺ささら、30ページ)

  鉄分が不足しているその期間車舐めたい特に銀色
  (九螺ささら、47ページ)

  全身の鍵が一つずつ開けられてみずたまりとなり夜に落ちてる
  (九螺ささら、54ページ)

  中指を食虫植物に噛ませる脳内に蠅が逃げ込んでくる
  (九螺ささら、102ページ)

  室外機に鳩が絡まる血まみれの夢から覚めて布団から羽
  (九螺ささら、221ページ)

 なんだろう、この密度! 怖いのだけれど、無性にわくわくしてしまう。このひとの歌集はとんでもなく重たい本になりそうだなあ、なんて考えてしまう。いや、物理的には軽いのだろうけれど。怖さに関しては、もうひとり、気になるひとがいた。掲載歌はけっして多くないのだけれど、とても良い。

  しじみさん湯加減いかがと聞く母に葱を持つ手が震えたあの日
  (蜂谷ダダ、175ページ)

  悲鳴が聞こえた気がして掃除機を切るまたつける悲鳴があがる
  (蜂谷駄々、219ページ)

 ダダが駄々になってる、というマイナーチェンジぶりも見逃せない。木下龍也の名前もあって、『つむじ風、ここにあります』には載っていなかった歌もあった。

  透明になれる薬をゴキブリに食べさせたからもう大丈夫
  (木下龍也、136ページ)

  動物は何も言わずに死んでゆく人間だけがとてもうるさい
  (木下龍也、207ページ)

 このひとはぜんぜんブレないな、と思う。ところで、『短歌ください』で木下といえば、もうひとりいるのだ。かつては「ルーキーセンセーション!」なんて言葉が名前に挟まっていたひとで、『その二』では木下ルミナ侑介と名乗っている木下。

  どこにでも行ける気がした真夜中のサービスエリアの空気を吸えば
  (木下ルミナ侑介、11ページ)

  ニャアニャアと鳴いてる猫にそっくりな生き物をみな猫と呼んでる
  (木下ルミナ侑介、34ページ)

  水筒を覗きこんでる 黒くってきらきら光る真夏の命
  (木下ルミナ侑介、51ページ)

  君の手のひらをほっぺに押しあてる 昔の日曜みたいな匂い
  (木下ルミナ侑介、225ページ)

 このひとの歌は、やたらに夏である。まるで夏以外には季節が存在しないかのように、夏を詠いつづける作者なのだ。友人がコーヒーを飲みながら、ぼそっと言ったのがいまでも忘れられないのだけれど、「このひと〈夏〉と〈永遠〉を同じ意味で使ってるよね」と、ものすごく的確な指摘をしていた。それを聞いて、そんなことをさらっと思いついて、ぼそっと言ってしまうくらい、短歌と親しくなりたい、と強く思ったのを覚えている。

  誰の味方でもない冬の満月のひとりひとりに等しい無慈悲
  (虫武一俊、46ページ)

  三十歳職歴なしと告げたとき面接官のはるかな吐息
  (虫武一俊、124ページ)

  Wi-Fiをうぃーふぃうぃーふぃと呼びあって幸せそうな顔の伯母たち
  (虫武一俊、149ページ)

  ルーターがこびとのいえに見えてきて午後二時すべて捨てて逃げたい
  (虫武一俊、159ページ)

 この虫武一俊さんも、「その一」からの常連。以前はあまり響かなかったのだけれど、『その二』にはすてきな歌がたくさんあった。「はるかな吐息」! ちなみにじつにどうでもいいけれど、「Wi-Fi」はフランスでは「うぃーふぃ」と発音するので、「伯母たち」はあながち間違っていない。いや、徹底的に間違っているけれど。

  友達が帰ったあとの髪の毛を拾う明るい小さな部屋で
  (小林晶、17ページ)

  子供用スニーカーを履く年寄りの輝くような淡い虹色
  (小林晶、58ページ)

  おばさんが私を心配しています頭を撫でる男はやめろ
  (小林晶、82ページ)

  すごい雨だったんだねと一滴の滴も浴びていない私に
  (小林晶、90ページ)

  自販機と話す女は狂ってるわけではないよ助けてココア
  (小林晶、152ページ)

 小林晶さんも、前から名前は見かけていたけれど、この本で初めて魅力に気づけた作者。というか、いまあらためて読んでみて、このひとのうまさ、ちょっと尋常じゃない気がする。〈すごい雨だったんだねと一滴の滴も浴びていない私に〉を読んだときには呆然となった。なにか、なにか手がかりがあるはずなんだ! と、主体である〈私〉の気分で焦ってしまう。

 もうひとり、このひとはすごいな、と思ったのは、大平千賀さん。以下の〈イルカにも発情期がある 朝焼けが苦しいくらい綺麗に滲む〉は、この本の帯にも掲載されていた歌である。

  あなたのこと見てるとキスをしたくなるキスとつねるは同じでつねる
  (大平千賀、78ページ)

  固定された椅子を何度も引いてしまう 距離感のほうを調節する
  (大平千賀、91ページ)

  イルカにも発情期がある 朝焼けが苦しいくらい綺麗に滲む
  (大平千賀、104ページ)

  傷付けたカバーに悪いと思わない そのために買ったカバーなのだから
  (大平千賀、231ページ)

 とくに印象的だったのは〈傷付けたカバーに悪いと思わない そのために買ったカバーなのだから〉。穂村弘もコメントしているけれど、本当に悪いと思っていないひとは、そんなことを考えさえしない。べつの作者だが、同じような罪悪感を歌った歌に、こんなすてきなのもあった。

  「これまずい」箸で向こうに追いやった 器の色をまだ覚えてる
  (たちばな、142ページ)

 共感を呼ぶ、というのは、良い歌として記憶に残るための条件のひとつだけれど、ただ「ああ、あるある」では、ネタとして既知、というだけで、それ以上の感動は連れてきてくれない。「器の色をまだ覚えてる」という表現があって初めて、その罪悪感の深さが伝わってくるような気がしてならない。

 もうひとり、とても気になったのが、泡凪伊良佳という女の子。シンプルな歌が多いのだけれど、そのシンプルな語彙に、とても惹かれる。頭の固い男(すなわち自分)には思いつきもしないような取捨選択の軌跡。

  今あたしエンドロールを眺めてる君の体温右に感じて
  (泡凪伊良佳、40ページ)

  俺なんかどこが良いのと聞く君はあたしのどこが駄目なんだろう
  (泡凪伊良佳、41ページ)

  聞いたことない花の名をあたしの名よりもはっきり言い切った母
  (泡凪伊良佳、101ページ)

  屋上に行きたいねって話してるどうしてなんて誰も聞かずに
  (泡凪伊良佳、113ページ)

  かくれんぼしてる時にはさしすせそ言っちゃだめって怒ってた君
  (泡凪伊良佳、118ページ)

 以下は、いいな、と思った歌が二首以上あった作者たち。山本まともさん、気になる。

  旅先の乗換駅にもNOVAがある神さま意外と丁寧ですね
  (山本まとも、81ページ)

  さっきの鳥しらべてみたら絶滅はしそうじゃなくてがっかりしてる
  (山本まとも、185ページ)

  ほらよ今着けてるブラジャーあげるからおとなしくうちでおねんねなさい
  (雲はメタんご星人、166ページ)

  ドトールなう」つぶやく君のドトールはここじゃないのかいまじゃないのか
  (雲はメタんご星人、190ページ)

  行ったのか待てば来るのかバス停で本当のことはわからずにいる
  (高橋徹平、43ページ)

  母さんが故障したので家を出てかわいい家電と同棲します
  (高橋徹平、223ページ)

  父の小皿にたけのこの根元私のに穂先を多く母が盛りたる
  (中山雪、85ページ)

  一人閉じ それを見てまた一人閉じ 最初に傘を閉じたのは誰
  (中山雪、240ページ)

 中山雪さんの傘の歌は、木下龍也の〈呼応して閉じられてゆく雨傘の最初のそれにぼくはなりたい〉を思い出させてくれた。傘にまつわる歌って、良いものが多いな、と思う。でも、それだって、自分がいま中東の砂漠、雨なんかここ二年くらい降っていない場所に住んでいるからかもしれない。それからぜんぜんべつの作者で、変なのだけれど、以下の石鹸の歌二首がとても気に入った。

  ちぢり毛のついた石鹸泡立てたここで勇気を使っちまった
  (ノート、173ページ)

  世の中を疑いすぎて手を洗うその石鹸はきたなくないの?
  (片山登士一、212ページ)

 単発で「これは!」と思った歌は、以下、ものすごくたくさんある。

  顔文字の収録数は150どれもわたしのしない表情
  (一戸詩帆、21ページ)

  筆圧の強いあの子が今日は来たイヤホン外して「かりかり」を聴く
  (神宮一樹、33ページ)

  来ないからあたし大人になっちゃった放課後の君はノストラダムス
  (1999、57ページ)

  正しさが欲しかったから25時赤信号にひとり従う
  (都季、59ページ)

  太陽はキャンプファイアー 月はぼく 地球はあなた 星は星のまま
  (岡本雅哉、64ページ)

  ひとつだけ残った餃子しまうとき何で僕なの?と声が聞こえた
  (ゴニクロイ、72ページ)

  きみのその深爪し過ぎた薬指にトンガリコーンを嵌めていいですか
  (はるの、74ページ)

  「小物入れ」に「小物入れ」ってつけた人「小物入れ」への愛情がないわ
  (なまやけ、83ページ)

  透きとおる回転扉の三秒の個室にわたしを誘ってください
  (鈴木美紀子、89ページ)

  ハブられたイケてるやつがワンランク下の僕らと弁当食べる
  (うえたに、97ページ)

  家がもしお菓子で出来てたとしてもやっぱり床は食べないと思う
  (葛生涼香、99ページ)

  みんな違う理由で泣いている夜に正しく積まれるエリエールの箱
  (たかだま、114ページ)

 やっぱり共感に基づいた歌が多くって、これらの作者たちがほかの秀歌を詠むことがあるのかは正直わからないのだけれど、〈筆圧の強いあの子が今日は来たイヤホン外して「かりかり」を聴く〉や〈太陽はキャンプファイアー 月はぼく 地球はあなた 星は星のまま〉のように、三十一文字のなかにストーリーが描かれているものは、とくに印象深い。〈来ないからあたし大人になっちゃった放課後の君はノストラダムス〉なんて、この歌のためにしか使えないようなペンネームで名乗られていて、おまえだれだ、と言いたくなる。

  曖昧に知らないふりして笑っては少女としての仕事を果たす
  (上町葉日、128ページ)

  唐揚げの下のレタスを食べてみる駅のひだまり冷えた膝裏
  (レイミ、130ページ)

  よく見るとちっちゃい無数のペンギンがいるスカートを買うんだ私
  (森川那恵、133ページ)

  コンビニのおでん仕込まれ幾千の大根しみる列島の朝
  (西口ひろ子、140ページ)

  七色のキャンディ沈めた水筒の水はもうすぐ幻ジュース
  (後藤葉菜、143ページ)

  電気屋のマッサージ機で友達としりとりしてるプール日和に
  (うえもと、148ページ)

  ひとりでは買わないもので満たされたビニール袋をひそかに愛でる
  (谷川ゆうす、150ページ)

  手を振って別れた人のつぶやきを盗み見るのがデートの続き
  (南口哲士、156ページ)

  その咳はパパの咳とは違うから大丈夫だよゆっくりおやすみ
  (ゆいこ、164ページ)

  カーテンを開けたら道路と目があった そうですここにも春が来ました
  (はつにか、169ページ)

  同い年の香川真司が決めるたびテレビの前で少しつば飲む
  (ながや宏高、181ページ)

  一〇三になって太宰が書く本が読んでみたかったつまんなくても
  (山田水玉、182ページ)

 このなかの〈唐揚げの下のレタスを食べてみる駅のひだまり冷えた膝裏〉などは、ただ感覚的に詠むだけではなく、短歌としての完成度を高めようとした工夫が見られる。穂村弘のコメント通りだけれど、「ひ」が三連続している、という点。ただ、この言葉ありきの選択には偶然性を感じられなくって、個人的には作為的に、つまり歌が作りものめいて見えてしまう。こういう工夫は、読んだときにだれも気づかないくらい、さりげなくやってもらいたい。そんなことを言いつつも、「唐揚げの下のレタス」が、どうしようもなく気に入ってしまったのだけれど。

  胆石と高血圧の既往あり健診太郎三十二歳
  (岡野大嗣、183ページ)

  きっともう神様だって忘れてるわたしを電子レンジが呼んでる
  (まち、195ページ)

  黒スーツヒールパンプス黒い髪 御社はわたしの何を知りたい
  (佐々木里菜、200ページ)

  文字で見る方言たちは不器用で片言のよう「ちゃうねん、好きや」
  (こころも、205ページ)

  明日からも生きようとする者だけが集う夕べのスーパーマーケット
  (ななみーぬ、208ページ)

  軟球が飛んできたとき転がして小学生に返した弱さ
  (ななはる、212ページ)

  足跡のいくつもついた手袋は左手だった 拾わず過ぎる
  (原彩子、214ページ)

  旅行だしちょっといいメシ食べようとコンビニでいくらのおにぎり買った
  (美那子、227ページ)

  戦場に行くバスに乗る ポケットに酔い止めの薬だけを入れて
  (山城秀之、235ページ)

  きみの手の甲にほくろがあるでしょうそれは私が飛び込んだ痕
  (鈴木晴香、240ページ)

 このなかには岡野大嗣のように、すでに歌集を刊行しているひともいる。でも、ほかにもいくつか掲載歌はあったけれど、個人的に引きたいと思ったのは、これだけだった。一首がだれかの気に入るか気に入らないか、というのは、ほんとうに選べないことなんだなあ、と感慨深くなる。わたしは最近ようやく歌集について書くための、自分なりのルールを作ったのだけれど、それはまずページの端を折りながら一読し、次に気に入った歌に最初から付箋を貼っていき、さらにもう一度、付箋の貼ってある歌のなかでもとくに気に入った歌に、今度は赤い付箋を貼っていく、というものだ。この選抜作業、やっている最中はとても楽しいのだけれど、時間をかければかけるほど難しくなっていって、ちょっとでも油断すると、それまでなにも貼っていなかったような歌にいきなり赤い付箋を貼ったりしてしまう。読むタイミングによってどの歌が響くかというのはぜんぜん変わってくるので、こと歌集、いや、詩を収めたすべての書物に関しては、期間をおいての再読を忘れないようにしたい。

 と、散々言いわけめいたことを書いたので、いまや心置きなく恒例の「いま、いちばん好きな歌」を選べる。とか言いつつもすごく迷ったけれど、今回はこれにしました。

  すごい雨だったんだねと一滴の滴も浴びていない私に
  (小林晶、90ページ)

 なんで、と尋ねられると答えに窮するのだけれど、これ、とても気になるし、ぜんぜん頭から離れないのだ。このひとの歌集が読んでみたい。いや、このひとだけじゃなく、ここに引いた八割以上のひとの歌集が読んでみたい。『その三』、はやく出ないかなー、と、いまから期待してしまう。