Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

さよならバグ・チルドレン

 先日の『サラダ記念日』につづき、数年前に一読したまま感想を書いていなかった歌集紹介シリーズ、第二回にしてたぶん最終回(ほかにも何冊か読んでいるはずなのに、なぜか本が見つからないのだ)。穂村弘の短歌、いや、短歌一般を一気に身近なものにしてくれる名著『世界中が夕焼け』の著者による第一歌集。

さよならバグ・チルドレン―山田航歌集

さよならバグ・チルドレン―山田航歌集

 

山田航『さよならバグ・チルドレン』ふらんす堂、2012年。


 彼の穂村弘との共著、『世界中が夕焼け』の興奮も冷めやらぬころ、刊行されてかなり早い時期に買った記憶があるのに、わたしの手元にあるのは2刷である。ふらんす堂の歌集が、発売されてすぐに2刷というのは、ちょっと目を疑うレベルですごい。穂村弘には新人の発掘・応援にものすごく熱心な印象があって、そういうところ、すごくかっこいいな、と思う。『短歌ください』なんてもう、そのためだけに書かれたような気がするし。ほむほむ、尊敬。

  うろこ雲いろづくまでを見届けて私服の君を改札で待つ(9ページ)

  花火の火を君と分け合ふ獣から人類になる儀式のやうに(14ページ)

  水飲み場の蛇口をすべて上向きにしたまま空が濡れるのを待つ(45ページ)

  打ち切りの漫画のやうに前向きな言葉を交はし終電に乗る(60ページ)

  夢の中で見てゐたやうな日の暮れを君と歩いてゆけるかなしみ(65ページ)

  ざわめきとして届けわがひとりごと無数の声の渦に紛れよ(69ページ)

  いまひどい嘘をきいたよ秒針のふるへのさきが未来だなんて(72ページ)

  紙飛行機すこし開けば角ばつたハートとなりて飛べずにゐたり(74ページ)

  永遠に出走しえぬ馬のごとひしめき並ぶ放置自転車(79ページ)

  自販機の取り出し口に真夜中をすべりあらはるつめたき硬貨(95ページ)

 これらは、初めて読んだときにとても気に入った歌たち。いま読んでもとてもいい。というか、覚えているという時点で、それがいい歌であることはまちがいないと思う。とくに、「夢の中で見てゐたやうな日の暮れを君と歩いてゆけるかなしみ」については、これが「かなしみ」でなく「よろこび」だったら、ここまで魅力的な歌にはならなかっただろうなー、なんて考えていたことまで思い出した。歌集の再読はとても楽しい。

 それから、「自販機の取り出し口に真夜中をすべりあらはるつめたき硬貨」。真夜中の自販機のおつりの冷たさ、そんな些細なことにここまで近づいていけるのは短歌だけ、という気がしてくる。小説のなかで「真夜中、自販機のおつりが冷たかった」と書いてあっても、付箋は貼らないと思うのだ。この場合、詠む、ということは、きっとクローズアップすることで、三十一文字にきれいに収められていると、「真夜中の自販機のおつりの冷たさ」がここまで響いてくる。これってものすごい発見だと思う。歌人が発見しなかったら、これは詩にはならなかった類のことだと思うのだ。

 以下、今回の再読で、おお、となった歌。

  地球儀をまはせば雲のなき世界あらはなるまま昏れてゆくのか(13ページ)

  角砂糖ふくめば涼しさらさらと夏の崩れてゆく喫茶店(18ページ)

  僕らには未だ見えざる五つ目の季節が窓の向うに揺れる(19ページ)

  望遠鏡を母にねだつてゐた頃の空は眠りの数だけあつた(19ページ)

  カントリーマアムが入室料となる美術部室のぬるめのひざし(28ページ)

  シャッターを舌で優しく押す甘さどんな射精も叶ひやしない(36ページ)

  紋白蝶は二つに折られた手紙だと呟いたきりの横顔がある(40ページ)

  風に夜に都市に光に怯えてる僕の背中を登りゆく蟻(57ページ)

  きのふ散つた百合の替はりに窓辺にはセサミストリートのでかい鳥(64ページ)

  舞台上いつぱいガラスの破片撒き劇中それにはいつさい触れず(86ページ)

 この「セサミストリートのでかい鳥」を見たとき、なんで最初に読んだときに付箋を貼らなかったのだろう、と訝しく思うほどに爆笑してしまった。これ、ぜったいあの黄色いやつのことだ。セサミストリート、熱心に観たことは一度もないので、キャラクターの名前はエルモとクッキー・モンスターぐらいしか知らないのだが、「セサミストリートのでかい鳥」と言われたら、もうあの黄色いやつしか思いつかない。「カントリーマアム」といい「打ち切りの漫画」といい、言葉の選択眼がすごい、と思う。

  冷蔵庫それは内側だけをただ照らし続けて立つ発光体(81ページ)

  双眼鏡のぞいたままの格好で死ぬ日もきつと朝焼けは来る(105ページ)

 この二首を読んだときには、『世界中が夕焼け』にも収められていた穂村弘の歌を思い出した。こんな歌があるのだ。

  指さしてごらん、なんでも教えるよ、それは冷ぞう庫つめたい箱   穂村弘

  超長期天気予報によれば我が一億年後の誕生日 曇り   穂村弘
  
 山田航がこれらの歌を考えついたとき、穂村弘のこれらの歌が頭にあったのかな、と思う。「冷蔵庫」あるいは「冷ぞう庫」については簡単につながりが見いだせるけれど、「死ぬ日の朝焼け」と「一億年後の誕生日」も、同じことをちがう表現で詠っているように思えるのだ。双眼鏡で朝焼けを見ることのやばさは、のぞいている本人が死んでしまっていたら意味をなさない。超長期天気予報という、ひたすらうさんくさいものの意味のなさ、しかも曇りかよ、という脱力感、なんだかちょっと似ていると思うのだ。

  くれなゐをいまだ知らざる脱脂綿ねむれる薬箱をかかへて(88ページ)

  月暈のかすかに揺らぐその下を氷湖は小さき渦を抱きて(101ページ)

  粉と化す硝子ぼくらを傷つけるものが光を持つといふこと(105ページ)

  はまらないジグソーパズルを歩道橋より撒き散らす夜明けのサイン(111ページ)

  連れ去りたい想ひを今朝も置き去りに君が膝抱く部屋を出てゆく(114ページ)

 脱脂綿が薬箱にあるのは「くれなゐ」を知るため。普通、そういうふうには考えない。「粉と化す硝子ぼくらを傷つけるものが光を持つといふこと」も、そう。視点をちょっと変えるだけで、見慣れたものがまったくべつの意味を持つ。そういう視点、べつの意味を見つけるひとのことを、詩人というのだろうな、と思う。

 現代社会を批判しているような歌もあるのだけれど、とげとげしいところはひとつもなく、なにか明るい。言ってやったぜ、という感じ。あまりに批評的すぎる歌からは詩心が感じられないので、これくらいの距離感はとても好ましい。

  溜め息を我慢してゐる人たちで溢れて街は呼吸困難(36ページ)

  僕たちは鳥に自由を見るほどに堕落してゐてときをり笑ふ(38ページ)

  鉄道で自殺するにも改札を通る切符の代金は要る(53ページ)

  モグラの目が地中で退化したやうに心は都市で退化するのさ(80ページ)

 そうそう、鳥がたくさん出てきた。それから、虫も。上にもすこし引用したけれど、星もこのひとの歌にはたくさん登場する。物理的な意味で、いつも上を見ているひとなのかもしれない。

  鳥を放つ。ぼくらは星を知らざりし犬として見るだらう夜空を(97ページ)

  振り向けばもう海鳥は一滴の紺として空に滲んでゐたり(98ページ)

  きやんどるの位置をなほして窓ごとにかがよふ夢を鳥に見せたし(99ページ)

  誘蛾灯、はるかな港。指させばそこに痛みのなき死はあふれ(107ページ)

  虫のやうな暮らしとおもふアパートの一室灯し身を寄せあへば(108ページ)

 また、個人的にいちばん惹かれたのは、音楽が語られているときだ。このひと、自身で音楽をやっているか、クラシック音楽が好きなのだと思う。そうでなかったら出てこないような単語がいくつもある。

  放課後の窓の茜の中にゐてとろいめらいとまどろむきみは(30ページ)

  遊歩道に終はりの見えしとき君の口笛はふいに転調をせり(33ページ)

  全休符おかれたやうなしづけさを乱して訪れるバスと犬(45ページ)

  鍵穴は休符のかたちこのドアを開くにふさはしき無音あれ(92ページ)

 それから、この歌集は大きな章分けのなかに、いくつかの一連があって構成されているのだけれど、その一連の文脈を味わいながら読むと楽しいものがたくさんあった。CDアルバムから一曲だけ抜き出して聴いてもよくないけれど、アルバムの一部として聴くと猛烈に輝いている楽曲のような歌たち。以下は、「珈琲牛乳綺譚」より。

  カフェオレぢやなくてコーヒー牛乳といふんだきみのそのやり方は(43ページ)

  古書店の奥で見つけたカフェオレのレシピ「コーヒーにミルクを混ぜる」(44ページ)

  でもぼくはきみが好きだよ焼け焦げたミルク鍋の底撫でてゐるけど(44ページ)

  酔つ払へるカフェオレ「カルアミルク」なるものの噂で街はもちきり(50ページ)

 また、こちらは「NIJNTJE(ナインチェ)」より。ナインチェというのは、知っているひとも多いと思うけれど、ミッフィーの本名(?)である。福音館書店石井桃子訳だと、「うさこちゃん」。

  インチェ・プラウス 横顔は無く本当にかなしいときは後ろを向くの(110ページ)

  笑ふより泣くより怒るより前を見つめ続けるといふ感情(110ページ)

  霧雨のアムステルダムふたりして歩くゆめすら原色のまま(111ページ)

  割れさうにないマグカップ割れることなき風船をミッフィーは持つ(112ページ)

 なんだか予想していた以上に楽しい再読で、こころが躍った。今後、短歌関連の本について書くときは、いちばん気に入った一首をあげることにした。ぜったいに選べないようなものをあえて選ぶ楽しさ。そしてそれをあとになって後悔する楽しさ。というわけで、この歌集では、いま、これがいちばん好きです。

  鍵穴は休符のかたちこのドアを開くにふさはしき無音あれ

 また三年ぐらい経ったら、ぜひ読み返したい。

さよならバグ・チルドレン―山田航歌集

さよならバグ・チルドレン―山田航歌集

 


〈読みたくなった本〉
『寺山修司青春歌集』
「作者の歌風は先人から多くを学んだことを感じさせるものだが、印象として最も近いのは寺山修司だと思う。本書に鏤められた「荒野」「祖国」「望郷」「生命線」「地下道」「映写技師」「父の書斎」「麦揺れて」「舞台」「カヌー」「揚羽」「帆」「嘘」といった語彙にもその影響は明らかだが、何よりも作り物の形で真実を叫んでしまう詩性の質が似ている」(穂村弘「「五つ目の季節」の歌」より、119ページ)

寺山修司青春歌集 (角川文庫)

寺山修司青春歌集 (角川文庫)