惑亂
書肆侃侃房が刊行している「新鋭短歌シリーズ」のうち、今年の九月に刊行されたばかりの最新刊。じつは著者の堀田季何さんには、この第一歌集が刊行されるよりもずっと前、わたしが短歌の魅力に気づくよりも前に、直接お目にかかって話をする機会があった。しかも、先日久しぶりに日本に帰った折り、たまたま友人を訪ねていった書店にて、偶然にもこの本を上梓したばかりの歌人と再会することまでできたのだ。初めて会ったのはわたしがいま住んでいる中東の砂漠でのことだったので、それはまさしく奇跡としか言いようのない再会だったのである。わたしが大喜びで書店に並んだばかりのこの歌集を購入したのは、言うまでもない。
堀田季何『惑亂』書肆侃侃房、2015年。
だが、直接会ったことのあるひとの本については、正直ちょっと書きにくいものだ。ここで書き綴ったことが歌人本人の目に触れるなどとは思ってもいないし、そもそも他人の評価を気にするようなひととも思えないのだが、それでも万が一気に入らなかった場合でも批判めいたことは書きたくないし、なにより、この歌人の歌は文語短歌、それも旧漢字・旧仮名遣いで書かれているのだ。そんなの、古い岩波文庫や泉鏡花でしか読んだことないよ! 日本文学をひたすら避けてきた自分としては、びびってしまうのである。おれ、ちゃんと読めるのかよ、と不安になりつつ、ずいぶん時間をおいてから読み始めたのだが、取り越し苦労だったと気づくのに時間はかからなかった。漢字の画数が多いとはいえ、このひとはべつに難解なことを書いているわけではないのだ。
鷄卵をはじめて割りし年齡を忘れたること今朝の嘆きは(11ページ)
一日を過しし夢の醒めてのち記憶どほりの一日過す(14ページ)
うしろ頸の膚に手枕の痕がつくさういふ髪の長さと寢相(15ページ)
六本の腕土圭(うでどけい)みな別別の時を刻みぬいづれが正氣(19ページ)
繪の中の桃うまさうに見ゆるなり繪の前の桃くさりはじめて(21ページ)
萬年筆のあをきインキの底をつく刹那のかすれいやうつくしき(31ページ)
根こそぎと猫そぎと音通ずればねこの癖毛をネコソギに削ぐ(36ページ)
鼻腔より氣管通りて肺腔を充しゆくああ仔猫の香氣(37ページ)
スタンドに球入らむか入らざるときテレビより視線逸れたり(61ページ)
靈體と幽體のしたに肉體はあるといふ その肉が眠くて(78ページ)
なんか、日記みたいだ。このひとは三十一文字の定型を、不意に思いついたことの受け皿として使っているように思える。まさに、つれづれなるままに、と、肩肘張らない感じ。つまり、歌集に載せるための「作品」としての短歌、という気負いを感じさせないのだ。これは、いま書いている自分にとっても意外な印象である。だって、旧漢字・旧仮名遣いの文語短歌だなんて、現代にあっては「気負い」以外のなにものでもないように映るのに、断じてそうではないというのだから。気負いでないとしたら、じゃあこのやけに画数の多い漢字たちはなんなのよ、と考える。美学、という言葉が浮かぶ。たしかに、姿勢としての美学というのはもちろんそうだろうけれど、だが、それだけというのも、また間違っているだろう。
ちょっと話が逸れるが、わたしは専門用語というものが嫌いで、たとえば哲学書などを読みながら、なにかが専門用語だらけの文章で説明されているのを見ると、たいてい反吐が出る。エラスムスが『痴愚神礼讃』で痛烈に皮肉っていたとおり、専門用語というのは、理解の度合いや考えを隠すためにも使われることがままあるからだ。現代日本で哲学者や社会学者を名乗る少なからぬ人びとに対してわたしが抱いている、衒学的、という印象は、こういうところから生じている。とはいえ、もちろん専門用語というのは、頭の出来を隠すためにだけ使われるものではない。これはロラン・バルトが『明るい部屋』などで教えてくれたことだが、彼が「ストゥディウム」だの「プンクトゥム」だのとわざわざラテン語で言うときには、フランス語を用いるよりも言葉の原義に近づくことができ、より多くのニュアンスを包含することができるという狙いがあるのだ。「これは必要なペダンティスムというものである」と言い放つロラン・バルトは、ちょっと輝いている。この観点に立ってみると、日本語で旧漢字・旧仮名遣いを用いるということは、気負いや美学を遥かに超えて、言葉の本来のかたち、ひいては意味に近づくための工夫なのだろう、とわかる。旧漢字・旧仮名遣いでしか伝わらないものがある。そう考えたからこそ、歌人はこれを選択しているのだ。次のような一首を読むときには、とくに強く思う。
眩しきは玄(くら)きと似たりけさの日にわが知る街は輪郭なくす(10ページ)
さて、引きたい歌がたっくさんあるので、どんどん紹介していく。まずはこの歌集でもとくに目立つ、死について。
品川を死の川とききちがへども滿員電車は此岸はなれず(17ページ)
部屋中の時計の秒針音すなり發作に呼吸止るつかのま(18ページ)
わがむくろ土に崩れてももとせの時しめぐらば黑百合よ咲け(27ページ)
おのが身を隱して死ねぬ宿命をこの猫は負ふ吾も負ふのか(37ページ)
人類は煙に涙す山火事に燒かれし獸を味ひてより(42ページ)
空にありながら死を得るよろこびを鳥は語りき海わたる夜(71ページ)
生前と死後の境を何と呼ぶ時の長さにして0(ゼロ)の閒を(72ページ)
在らざらむとおもひし齡に慣れつつもなれぬおのれのからだ引きずり(75ページ)
歌人は登校日より通院日のほうが多い、病弱な子どもだったという。この歌集がどのような順序で編纂されたものなのか、明確なことは記されていないのだが、前半部にはとくに、死を強く意識した歌が多いように思えた。また、そのような死への意識が起因してもいるのだろう、歌人は自分の死生観、信仰を隠そうともせず、以下のような歌も詠んでいる。
絶望はゆつくり來るの。神樣が少しよそ見をしてゐるすきに(23ページ)
人閒をうまさうに喰ふ神がゐて信仰心とはむらきもの味(24ページ)
人閒をやめよと言はれあつさりと辭めたる晚はそよぐほかなく(44ページ)
潰されし蟻の隊列さかしまに辿りてゆけば智慧の樹のもと(53ページ)
宗教と物理學とのへだたりは僅か 宇宙の死をかたるとき(93ページ)
それから、歌集のはじめのほうに、こんな歌があって、おや、となった。
點滴はわが寢ねし閒も靑き血を薄めてやまずすみれの色に(16ページ)
中世のヨーロッパでは、貴族の血は青いものだとかなり真剣に信じられていた。点滴が薄める血の色が「すみれ色」というのは、精神的な意味での高貴さ、歌人の矜持のあらわれだろう。だが、そのあとにはこんな歌もある。
トランプの王侯つひぞ道化師に勝つことのなし血の掟ゆゑ(22ページ)
この二首に繋がりを見出してしまうのは、邪推だろうか。とにかく、こんなふうに、この歌人の歌には前提知識があるとなお楽しいというものがあり、読者が本好きであればあるほど楽しめる歌が多くなる気がする。
自らを噓吐きと述べしエピメニデスその言説を吾は信じつ(19ページ)
テクネチウムは人閒により創られし最初の元素 而して惡(44ページ)
ロシア語のまま「晚禱」を謡はむとまづキリル字をローマ字にせり(48ページ)
サルトルを理解するまで二十年否定するまで二十分足らず(50ページ)
ソルジェニーツィン少し知るため五日閒『イワン・デニーソヴィチの一日』を讀む(50ページ)
からうじてラスコーリニコフより早く起き上りたり土曜日の朝(51ページ)
『右大臣實朝』ひそと讀みをへしコノゴロ和歌ガズレテ來マシタ(65ページ)
禿鷹がプロメテウスの内臓を啄むごとく西日來りぬ(85ページ)
ピカソ、いやシャガールの靑か冬空は一片の雲だにゆるさざる(88ページ)
毒人蔘の茎の深紅を斑點を「ソクラテスの血」と呼ぶ文明よ(114ページ)
太宰治の『右大臣実朝』については、かなり前に『金槐和歌集』に心を奪われた折、わたしも読んだことがある。「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」。さきほどの貴族と道化師の関係もそうだが、まるで実朝のこの言葉に呼応するかのように、堀田季何の歌集には滅びを予見しているかのような明るさが目立つ。
春の野に陽ざしと雨とそそぐ日や少女らの白ソックスかなし(80ページ)
陽ざしてふ語感うつくし吸血鬼瞬刻にして灰と化すごと(80ページ)
ゆつくりと蕾をひらく花のごと少女の噓はひつそりとして(81ページ)
みんなみの南瓜つまりはカンボジア・アボボラが夏の季語になるまで(84ページ)
ぬかるみに空の模樣の映りこみ雲泥の差のなき雲と泥(89ページ)
閑庭の池面におつる雨粒(あめつぶ)のふたたび同じ座標を打たず(89ページ)
園丁の一人はいまだ乙女だが木々と結婚してゐるといふ(90ページ)
沈沈(しんしん)と雪ふる歩行者天國を行き交ふ市民死靈のごとし(95ページ)
とはいえ、もっと単純に、大笑いしてしまうような歌も多い。このひとのユーモアの感覚、とても好きだ。死を詠んだ歌でしんみりさせられたり、かと思ったら笑わせられるので、この歌集を読んでいるときは感情が大忙しである。
大腦を十の議題と六十の詭辯で充し會議に臨む(33ページ)
髙齡者仕樣雙六遊戲とは「上がり」の桝目いづくにもなき(77ページ)
ショパンよりフォーレがそぐふ場のひとつ特別養護老人ホーム(77ページ)
ケータイは携帶式の電話より進化せり異種交配のはて(80ページ)
書き損じ原稿用紙折りたたみケナガマンモス復活させつ(82ページ)
種なしの筈の葡萄を一粒づつ檢(あらた)めむとす厚き舌もて(90ページ)
「天國への階段」飮みつつナプキンに製圖ペンもて歌を記せり(95ページ)
大河ドラマ何年みても鐵漿(おはぐろ)に出あはず然ればであふまで觀る(104ページ)
メカゴジラ毀れしのちの鐵屑を熔かしては售(う)る環境業者(105ページ)
UFOを圓盤として投げをりき特撮映畫のボス怪獣は(105ページ)
け、「ケナガマンモス」だと……! となる。ちなみにこれは「折折」と名付けられた一連のもの。ちなみに同じ一連には、こんな歌もある。なんという暗さ。でもなにか明るい。すてき。
折りづるのくちばしの先ゆるやかに歪めりかくも鬱なる曲線(82ページ)
こういった、日常生活におけるささやかな発見といったものを詠むとき、この歌人の輝きかたは尋常じゃない。そしてそれら「発見」のささやかさが、また尋常でない。なにせ初めにも書いたとおり、もともと日記のように気負いがないのだ。ほんとうに発表する気あったんですか、ひょっとしてだれかに騙されたんじゃあ、と尋ねたくなるほどの、肩肘の張っていない感じの歌たち。
鈴蟲のなきごゑに天つ神がみもふるへしといふ古説うるはし(24ページ)
透明にほどとほき吾が涙かなハンカチの色濃くなりまさる(43ページ)
「かなしみ」といふ語彙もたぬ民あれば太平洋はあかときの空(58ページ)
いささかの余情をもちて珈琲の黎(くろ)きは碗の緣をよごせり(67ページ)
さいころの一の目が天睨むときほかの目はみな視線そらして(96ページ)
あらたしき車輛は地下におろされて永劫のときを光に渇く(98ページ)
ひとり乘るエレベーターは束の閒の獄(ひとや)となりて地階へ向ふ(98ページ)
距離よりも滯空時閒が大事とや紙飛行機は常に不時著(100ページ)
電腦のキーボード這ふ十の指蜘蛛のごとくに網(ネット)を編めり(106ページ)
うすずみの靴墨ぬれば馬革のいささか强く匂ひはじめぬ(125ページ)
病が影を落としていることからも、また、常に貴族であらんとするその気品からも、このひとがいわゆる「普通のお仕事」をしているところなど想像もつかないのだが、「あ、働いてるじゃん」と思えるような歌も複数あって、しかもその労働がいかにも苦しそうなのが、大変おもしろい(失礼)。
蟬の羽の薄き賞與の紙包み夏目漱石透けゐて見ゆも(32ページ)
役員會まへはかならず腹痛む錠劑飮みていつも閒に合ふ(33ページ)
批評會まへはかならず胸痛む良心捨てていつも切り合ふ(33ページ)
飯事(ままごと)のごとき賈(あきなひ)營めど手に握る札(さつ)只々重し(59ページ)
そのような職業経験が影響しているのかどうかはわからないが、いわゆる社会的な歌を詠むとき、この歌人はちょっと驚くほどに痛烈である。たとえばこんな歌がある。
地球儀の傾き地球の傾きとずれて世界は右へ右へと(56ページ)
これは別の本で最近教わったばかりの歌だが、ちょっと福島泰樹の〈ここよりは先へゆけないぼくのため左折してゆけ省線電車〉を思い出さないだろうか。「右へ右へと」というのはもちろん右傾化を隠そうともしない社会に対する批判だろう。以下の一首も、この危惧とは無縁と思えず、重く響いてくる。
わが知らぬ戰中戰後昏くなり川のこなたは疾うに戰前(120ページ)
こうしてあらためて見てみると、ほんとうに盛りだくさんの歌集だな、と感じる。思えばずいぶん時間をかけて読んだ。そもそもの収録歌数が380首余りと「新鋭短歌シリーズ」のほかの歌人の巻よりも圧倒的に多いという点ももちろん関係しているのだろうけれど、それ以上に、一首を読んでから次に進むまでに時間がかかるのだ。一首のたびに顔をあげて、深呼吸をする必要がある。深呼吸のあとには、笑わせられることもあれば、どきっとさせられることも多い。
黑板をホワイトボードが淘汰するこれ殖民地支配の構圖(67ページ)
生命を奪ふにあらじ不可避なる死を先どりて與ふる刑は(72ページ)
富嶽三十六景われは惜しむなり樓(ビル)に隱るる秋の夕ぐれ(87ページ)
ロンドンの精神病院その昔見物料を取りて聳えき(113ページ)
全世界のいかなる富もいくばくの文字と數字に記し得る不思議(115ページ)
空隙を縫ふのがテロで閒隙をつくのがゲリラ 知るや知らずや(119ページ)
政府軍も反政府軍も五分後にアップロードす敵の炎上を(119ページ)
盗人の放ちしドアに秋風が吹きあたる、ああ今年も平和(120ページ)
のびて來て物乞の手のひらきたり生命線のゆたけき長さ(128ページ)
鳥たちの歌うつくしく夕餐の美味となるべく籠ゆ出されつ(130ページ)
完全な日記文学というのとはちがうけれど、感覚としてはそれこそモンテーニュの『エセー』を読むときのように、はじめから読み終えるつもりもないような状態で、ぱらぱらとページを開くといいと思う。一首の前の深呼吸は必要だけれど、旧漢字・旧仮名遣いの視覚的な様相に肩肘を張っていては、楽しめるものも楽しめなくなってしまうだろう。
ガムランの鐵の響きに色あらば宇宙原初の漆黑の闇(92ページ)
遙くもなほ殘影をとどけ來て星の骸は空を飾りぬ(93ページ)
いつしかにベッドは星の海となりわが肉體のひそけく浮ぶ(94ページ)
夕ぐれの飮屋の看板かなしくてかかるネオンを見るために寄る(102ページ)
論文を印字するまでB5紙はただ眞つ白な秋のしづけさ(115ページ)
時間をかけて読んだ甲斐あってか、文語短歌がとても身近なものに感じられるようになった気がしている。文語でも「ケナガマンモス」ってありだったのかよ、という感じ。今回の「いちばん気に入った歌」に選出したいところだけど、じつはもっと気に入ったのがあった。
盗人の放ちしドアに秋風が吹きあたる、ああ今年も平和(120ページ)
食わせものめ、と思わずにはいられない一首だが、社会的にずれてるって、つまりこういうことだよな、と思う。穂村弘が『はじめての短歌』で書いていたとおり、泥棒というのは「お金がほしい」という意識を、働くのではなく盗むことに向けているというだけで、じつはとても社会的な存在なのだ。泥棒が去ったあとの秋風を楽しめるほどに、反社会的な人間になりたい、と強く思う。もしまた歌人に会う機会に恵まれたなら、忘れずにケナガマンモスの折り方を教わろう。しばらくは本棚に定位置を定めることもせず、たびたび読み返したい歌集である。