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Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

神々は渇く

配架-フランス文学 評価-★★★★★(奇跡) テーマ-革命 テーマ-ユマニスム

 最近、何度も読み返したくなるようなぶっ飛んだ小説に出会ってないなあ、と考えていた矢先、きました、ぶっ飛んだ小説。こんなに夢中になってページを繰った読書体験は、じつに久しぶりな気がする。ぶっ飛んだ。

神々は渇く (岩波文庫 赤 543-3)

神々は渇く (岩波文庫 赤 543-3)

 

アナトール・フランス大塚幸男訳)『神々は渇く岩波文庫、1977年。


 まず、どういう経緯でこの作品に手を伸ばすことになったかを書いておきたい。そもそものきっかけは、読んでから選書にさえも多大な影響を与えているエラスムスだ。ユマニスムという言葉を頼りにルキアノスを手に取ると、彼の信奉するエピクロス哲学が大いに語られていた。そして、ユマニスムに導かれるがままにプラトンに手を伸ばすと、死刑という刑罰の功罪が気になりはじめた。ユーゴー『死刑囚最後の日』から『死刑執行人サンソン』まで至ると、今度の関心は恐怖政治にあった。そしてとうとう、アナトール・フランスに行きついたのである。こんなことをわざわざ書くのは、この小説の登場人物の一人、いや、主人公の一人と呼ぶべきか、が、なんとエピクロス哲学の徒であったからである。それまでは一方通行にしか見えなかった読書の道筋が、突如としてその全体、円環の姿を垣間見させてくれた。読書というのは、なんて楽しいことだろう、と思った。

 その人物の名は、モリース・ブロト・デ・ジレト。もう、ほんとうの主人公そっちのけで紹介したい。革命前には貴族だった元収税請負人の老人で、若いころには貴婦人たちを相手にかなり遊んでいたらしい人物だ。没落した今となっては、五階建ての安アパルトマンの六階、狭苦しい屋根裏部屋を借りて住んでいる。この男が、エピクロス哲学を現代にまで伝えた張本人、ルクレティウスを読んでいるのだ。いや、ルクレティウスを愛しているのだ。

「革命がすべてを彼から奪ったのである。彼は馬車の出入りできる門の下で肖像画を描いたり、メジスリ河岸でパン・ケーキやバタ焼きを拵えたり、人民の代表者たちのために演説の草稿を作ってやったり、若い女たちにダンスを教えたりして、生計を立てた。そして今では、梯子を伝って這い入るよりほかなく、天井が低くて立ってはいられない屋根裏の、糊壺と、麻糸の包みと、水絵具の箱と、紙の裁ち屑とのほかには何の家財道具もない部屋で、モリース・ブロトは操り人形を作り、大きな玩具商に売っていた。玩具商はそれを更に行商人たちに売り、行商人たちは小さな子供たちに人気のあるそれらの操り人形を、竿の先に刺して、シャン=ゼリゼで売り歩くのであった。動乱の直中にあって、それに自分自身も大きな不運に見舞われていながら、モリース・ブロトは晴朗な魂を失うことなく、気晴らしにルクレティウスは読んでいたので、赤茶けたフロックコートのポケットからはいつもこの詩人の一巻がのぞいていた」(19ページ)

「――こんなところに住んでいらっしゃるの、モリース? ここならうるさい人々に邪魔される心配はほとんどないわね。悪魔か猫ででもなければこんなところにまであなたに会いには来ないわ。
 ――ここはせせこましすぎますよ、と元の貴族は答えた。それに、何を隠しましょう、時には雨さえ降って来るのです、それでなくても粗末なベッドの上に。しかしそれは大したことではありません。晴れた夜には、月が見えますよ、人間の愛の似姿であり証人である月が。というのも、奥さん、月はいつの時代にも恋人同士から愛の証人とされたからです。そして満月は――蒼白い、まん丸い満月は、恋する男にその欲情の対象を思い出させるものですよ。
 ――わかりますわ、と夫人はいった。
 ――恋の季節には、とブロトはつづけた。猫たちはこの樋の中で大騒ぎします。しかし猫たちが恋のために屋根の上でにゃあにゃあ鳴いたりいがみ合ったりするぐらいのことは赦してやらなくてはなりませんな、恋は人間の生活を苦悩と犯罪とで満たしていることを思えば」(162ページ)

 アナトール・フランスはこの魅力的な老人の動向を、ほんとうの主人公エヴァリスト・ガムランと同じくらいのページを割いて、語り伝えてくれている。この男の言葉が、もうすべて引用してしまいたくなるほど美しいのだ。小説の登場人物にこれほどまでに惹かれるのは、ケストナー『飛ぶ教室』で描いた「禁煙さん」以来のことのように思える。そして、世を捨てた知識人という点で、彼らは酷似してさえいるのだ。

「――未来を予言することを職業としている人々が金持になることは稀です。彼らのぺてんはすぐに見破られますからね。人を欺く彼らの言葉は彼らを憎むべきものにしています。しかし彼らが真に未来を予言するとしたら、彼らはさらにいっそう憎むべきものとなるでしょう。人間が自分の身の上に起こるはずのことを知っていたら、人間の生活は堪えがたいものであるだろうからです。そうなれば人間は未来の苦患を発見して、前もってそれに苦しみ、もはや現在の幸福を楽しむことはできないでしょう、その幸福もどんな結末を告げるかがわかっているのですからね。無知は人間の幸福の必要条件です。それに大ていの人間はこの条件を立派に満たしていることを認めなければならない。われわれは自分のことはほとんど全く知らず、他人のことは全く知らない。無知だからこそわれわれは落ちついていられるのです、嘘こそわれわれの至福の源泉なのです」(75~76ページ)

「――女ってものは何と好奇心の強いものなのでしょう! あなたは今日もまた、われわれがどこへ行くのかを知りたがっていらっしゃる。トランプ占いの女たちにお訊ねになるがよい。わたしは占者ではありませんよ。それに哲学は、どんな健全な哲学にせよ、未来を知る上では大した助けにはならないのです」(164ページ)

 いささか先走りすぎているような気もするが、物語の後半に入ると、この老人は行き倒れている一人の老修道士を助け、自宅にかくまってやる。このバルナバ会修道士との対話が、すこぶる面白い。一般に、司祭や修道士といった人々は神学者や哲学者ほどの雄弁さは持たないものだ。この老修道士も多分に漏れず、自らの命を救ってくれたこの謎の知識人を相手に、反駁する手段を持てずにいる。

「――とりわけ音楽にいくらか才能を示したジャン=ジャック・ルソーは、その倫理観を「自然」に学んで身につけたと主張しているが、実はカルヴァンの諸原理から盗んで来ていた無能な男だった。ルソーのいうところとは反対に、自然はわれわれに同胞相喰むことを教えている。そしてあらゆる犯罪とあらゆる悪徳との例をわれわれに示して見せている。それらの犯罪や悪徳は社会状態によって矯められたり隠されたりしているにすぎない。人は徳を愛すべきである、しかしそれは人間が気持ちよく一緒に生きてゆくために考え出した単なる便法にすぎないと心得ておいたほうがよい。われわれが倫理とか道徳とか呼んでいるものは世界の秩序に反するわれわれの同胞の絶望的な企てにすぎないので、世界の秩序は闘争と、殺戮と、互いに相反する力の盲目的な相剋なのである。「自然」は自ら自分を破壊している、さればわたしは考えれば考えるほど、世界は狂犬のようなものだと思わずにはいられない。神学者や哲学者は、自然を創造し世界をこしらえたのは神であるというが、その神はどう見ても不条理で邪悪である。彼らは、神は恵み深いものであるという、それは彼らが神を恐れているからである。しかし神が残虐きわまるものであることは彼らといえども認めざるを得まい。彼らは人間にあってさえ稀な悪意を神に持たせている。そしてそれによって、神を地上において崇拝すべきものにしている。というのも憐れむべき人類は、何ら恐れる必要のない正しい親切な神々に対しては崇拝をささげることはないだろうからだ。人類はそうした神々の恵みに感謝することはないだろう、何ら恐れる必要のない神々には感謝するには及ばないからだ。煉獄と地獄がなかったら、恵み深い神も一介のあわれな者にすぎないだろう」(90~91ページ)

「――エピクロスはいっています。神は悪を阻止しようと欲していてそうすることができないのか、悪を阻止することができるのにそうしようと欲しないのか、悪を阻止することもできずそうしようとも欲しないのか、或いは悪を阻止しようと欲しており且つそうすることができるのか、そのいずれかであるといっています。神が悪を阻止しようと欲していてそうすることができないのなら、神は無力です。悪を阻止することができるのにそうしようと欲しないのなら、神は邪悪です。悪を阻止することもできずそうしようとも欲しないのなら、神は無力にして邪悪です。悪を阻止しようと欲しており且つそうすることができるのなら、神父様、神はどうしてそうしないのですか?」(209ページ)

 このような哲学が読者に対して恐るべき説得力を持つのには、恐怖政治というこの小説の時代背景が寄与するところも大きかっただろう。そろそろ、作品の話をしなければならない。この『神々は渇く』は、1793年から1794年、たった二年間のパリ、歴史的にももっともややこしく、恐ろしく濃密な二年間を舞台としている。1793年といっても、1月21日のルイ十六世の処刑はすでに終わっており、時代はまさに恐怖政治に移行しようとしていたところだった。主人公である青年、エヴァリスト・ガムランは、母親を相手にこんなことを語っている。

「――ロベスピエールに望みを託しましょう。あの人は徳の高い人ですから。とりわけマラに望みを託しましょう。あの人は人民を愛していて、人民の真の利害を見分け、それに奉仕する人です。あの人はいつも先頭に立って叛逆者の仮面を剥ぎ、陰謀の裏をかいて来ました。廉潔の士で、恐れを知らない人です。危機に瀕した共和国を救うことのできる者はあの人の外にありません。
 市民(シトワエヌ)ガムランは、頭を振ったので、無造作に留められていた国民徽章は布帽子から落ちた。
 ――エヴァリスト、もうたくさんだよ。お前のマラも他の人間と違いはしない。他の人間以上の価値があるわけではない。お前は若いから、幻想を抱いているのだよ。今日はマラについてそんなことをお言いだけれど、お前はミラボや、ラ・ファイエットや、ペティヨンや、ブリソについても、かつてそう言ったじゃないか。
 ――そんなことを言った覚えはありません! とガムランは叫んだ。嘘をついたわけではない。実際、忘れてしまっていたのである」(26ページ)

 エヴァリスト・ガムランは二十代の若者で、売れない画家でありながら、共和主義思想に心酔していて、ポン=ヌフのセクション委員会に出入りしている。主人公が画家であるという点は面白い。そしてその画家が、革命思想を持っているという点はもっと面白い。フロベール『感情教育』において、1848年の二月革命前夜のパリを舞台に、画家のペルランにこんなことを話させていたのが思い出される。

「ペルランは怒りに口ごもったが、それではどうだとばかり、
 「モリエールは? 認めるかね?」
 「立派です!」とセネカルは答えた。「フランス革命の先駆者として尊敬しています」
 「へえ、革命ね。芸術がどこにある? 史上最低の時代だ!」
 「最高の、です!」」(フロベール(山田ジャク訳)『感情教育』上巻、河出文庫、89ページ)

 ところで、フランス語の動詞活用にはさまざまな法(mode)と時制(temps)がある。たとえば過去形には複合過去(passé composé)と半過去(imparfait)という時制があり、それ以外にも文学作品においてのみ使われる単純過去(passé simple)という、物語のための活用形がある。以上にあげたのはどれも直説法(indicatif)という法なのだが、他にも条件法(conditionnel)や接続法(subjonctif)というややこしい法もあり、そのなかでもまた現在形や過去形の形が異なる。外国語として学ぶうえではそれが非常に厄介なのだが、わたしが通っていたフランスの大学の文法教師は、授業中に、接続法半過去(subjonctif imparfait)という活用形を指して、こう言った。「これは覚えなくていい」。「どうして?」と尋ねたら、「単純過去よりももっと、文学的にしか使われないから」「どういうこと?」「つまり、プルーストアナトール・フランスでも読まないかぎり、目にすることもないってことだよ」。わたしは、「それこそ自分が覚えなければならないものだ!」と叫んだ。まわりの学友たちから「勝手にやってくれ」と言われたのは書くまでもない。

 アナトール・フランスは、少しだけプルーストに似ているのだ。いや、影響を受けたのはプルーストのほうなのだから、プルーストアナトール・フランスに似ている、と書くべきだろう。今回の『神々は渇く』は日本語訳で読んでしまったので原文を見ていないのだが、おそらく一文は長く、単純過去や接続法半過去で溢れているのだろう。それは、プルーストをフランス語で読もうとするときに、いつもつまずく点である。そういえば、パリで出会った文学好きのフランス人は、その一文の長さをあげて、「プルーストは気ちがいだ」と言っていた。絵画が作品中に溢れている点も、この二人の共通点としてあげられる。フランドル派にかなり好意的という趣味の点まで、共通しているのだ。

「――美しいのは古代の芸術と、それに鼓吹されたものだけです、と画家は答えた。しかし僕も、テニールスや、ステーンや、オスターデの風俗画が、ヴァトーや、ブーシェや、ヴァン・ローの駄作にまさることは認めます。人間性はこれらの画家たちの作品にあっては醜悪化されていますが、ボドゥワンやフラゴナールにあってのように卑俗化されてはいませんからね」(80~81ページ)

 プルーストの『失われた時を求めて』、その第一巻『スワン家の方へ』のなかに、わたしが好きで好きで仕方がないこんな描写がある。

「ピアニストは彼ら二人のために、まるで彼らの恋の国歌のようなヴァントゥイユの小楽節を弾いてくれるのだった。国歌はまずヴァイオリンのトレモロの連続で始まり、数小節のあいだはただ前面を占めているその音だけが聞こえているが、ついでそれは不意に身をひいたように思われる。そしてあたかもなかば開いたドアの狭い框を通して奥行きを与えられたピーテル・デ・ホーホの絵のなかでのように、ずっと遠くの方に、はいりこんでくる光のビロードのような肌ざわりに包まれて、別の色に染まりながらあの小楽節があらわれる」(プルースト(鈴木道彦訳)『失われた時を求めて スワン家の方へ』第二巻、集英社文庫、81ページ)

 ピーテル・デ・ホーホはフェルメールの同時代人、この一節の意味は、彼の描いた絵を観れば、それがどの絵であれ、ほとんど理解されることだろう。

 さすがに脱線しすぎた。『神々は渇く』に戻ろう。エヴァリスト・ガムランは共和主義思想に心酔してはいたものの、前述の母との対話にも見られるとおり、世の人々は革命の夢が幻想にすぎなかったのではないかと、早くも考えはじめていた。

「――君は夢をみているが、わたしは現実の人生に足をつけているのだ。わたしの言葉を信じるがいい、君、革命は厭かれているよ。永くつづきすぎたからね。五年もの間の熱狂、五年もの間の、抱き合い、虐殺、演説、マルセイエーズ、早鐘、≪貴族を絞刑にしろ!≫の叫び、槍の穂先に突き刺した首、大砲の上に跨った女たち、赤い帽子をかぶせられた「自由」の木、白衣を着せられ花車に乗せられて輓かれてゆく若い娘たちや老人たち。それから投獄、ギロチン、食糧の割当配給、掲示、徽章や羽飾り、サーベル、カルマニョル、これは永すぎるよ! それにもう何が何だかわからなくなり始めているではないか。わたしたちはあまりにも見て来たからね、君たちが祭り上げたかと思うと手のひらを返すように突き落とした偉大な市民たちを。――あのネケルや、ミラボや、ラ・ファイエットや、バイイや、ペティヨンや、マニュエルや、そのほか多くの市民たちを。君たちの新しい英雄が明日は同様な目に会わないという保証がどこにある? ……もう何が何だかわからなくなってしまった」(47~48ページ)

 共和主義者であって委員会にまで出入りしている若者に、勇敢にもこの言葉を放ったのは「恋の画家」という店を営む画商、ジャン・ブレーズである。そしてこの男の一人娘、エロディ・ブレーズに、エヴァリストは恋をしていた。このエロディが、すばらしい小悪魔なのだ。文学作品に登場して男心を掌握しようとする女たちの大半は、小悪魔を通り越して悪魔となっているものだが、このエロディは小悪魔の枠をけっして逸脱しようとはしない。まるで、小悪魔でありつづけることに意義を見出してでもいるかのように。

エヴァリストはわれわれが恋していることをどんな微笑にもまして雄弁に物語るあの暗い様子で彼女を見つめた。彼女は小馬鹿にしたようなふくれっ面をして、その黒い眼を大きく見ひらいて彼を見つめた。この表情は、彼女が自分の愛されていることを知っており、それを不快には思っていないところから来ていた。また、そのような顔は恋する男をいらだたせ、男を刺激して歎かせ、男がまだ恋の告白をしていないなら、告白させるように仕向けるものである、ということを知っているところから来ていた。そしてまさにエヴァリストの場合がそうであった」(35ページ)

「彼女は心に思うのであった。≪男の中でも最も熱烈に女を愛している男たちは、最も内気なものである。そうした男たちには助けと励ましとが要る。それに、男たちの天真爛漫さは非常なものなので、女の方が半ば踏み出しても、いや、半ば以上踏み出しても、男たちはそれに気づかない。だから思い切ってこちらから誘いをかけて、男たちには自分の方から大胆な攻撃をかけたのだと思わせ、女を征服したとして得意になるだけの余地を残しておいてやればいいのだ≫」(40ページ)

 エヴァリストの純粋さは、読者に対して、まさにこのエロディの手によって暴かれていく。純粋な若者が革命思想などというものを持ってしまうことの危うさが、ここに自然に浮かびあがってくる。アナトール・フランスは、人々の性格の描き方が抜群にうまい。個々が独立していることは言うに及ばず、その彼らの思想的な違いを、あらゆる方法を使って説明的になることなく伝えてくれている。

「夫人の姿態が逸楽的な懶さを表わしている一方、その身のまわりの物はすべて彼女の優雅さと、気紛れと、才能とを物語っていた。半ば蓋の開かったクラヴサンの近くにはハープが、肘掛椅子の上にはギターがあった。刺繍台の上にはサテンの布地が載っていた。テーブルの上には、粗描きの細密画や、紙片や、数冊の本が散らばっていた。書架は、官能的な欲望に燃えていると同時に、劣らず知識欲に飢えている美しい女の手で荒らされたかのように、乱雑を呈していた」(115ページ)

 登場人物の数は、とんでもなく多い。エヴァリストやブロトといった架空の人物たちに混じって、実在した革命家たちの名前や声が、至るところから聞こえてくるのだ。その分、注の量もものすごく多いが、不要なものはひとつもない。『神々は渇く』が面白いのは、こういった実在した人々が表に登場して、架空の人物たちと直接的な関係を持つことが一度もないことだ。歴史小説というもののほとんどは、学問的な考証の有無にかかわらず、実在した人々に声を持たせるものだが、アナトール・フランスは断固としてそれをしない。革命家たちがみずから声を上げることはなく、その存在は遠くで示唆されているだけなのである。中心となるのは、歴史にはけっして登場しない市民たち自身、そして読者が運命を知らずにいるのも、その人々だけなのである。

「彼は拷問の廃止によって、また屈辱的な或いは残酷な体刑の廃止によって、司法の世界の慣習が緩和されたことを喜んでいた。そして、かつてはやたらと科せられ、つい最近においてもなお、ほんの小さな軽犯罪の場合にすら、その抑圧手段として用いられていた死刑が、今では稀になって、大きな犯罪だけにしか適用されなくなったことを嬉しく思っていた。彼としては、ロベスピエールと同じように、公安に関係のない犯罪である限りは、どんな犯罪に対しても、死刑を廃止することに喜んで同意したであろう。しかし国民の主権に対して犯された犯罪を死刑でもって罰しないとすれば、それは国家を裏切ることであろうと思っていた」(122~123ページ)

 それでも、実在した人々、とりわけマラの死後、エヴァリストの思想の拠り所ともなったロベスピエールの描き方は、注目に値する。ロベスピエールというのは哀れな人で、革命最初期には死刑廃止さえ訴えていたのだが、のちに恐怖政治を主導したという点から、歴史書のなかでは矛盾の人として描かれている。アナトール・フランスの描写を見ていると、その伝えられている残忍きわまりないロベスピエール像は、まったく説得力を持たなくなるのだ。その傾向はエヴァリストがついに革命裁判所の陪審員に任命されると、どんどん顕著になってくる。ついでに、そのエヴァリストを祝福するブロトの言葉が、またしても輝いている。

「――ガムラン君、君は厳めしくも恐るべき司法官の職に任命された。おそらく他のいかなる裁判所よりも信頼のできる、そして謬りを犯すことの少ない裁判所に、君が君の良心の光を貸し与えるようになったことはめでたい。他のいかなる裁判所よりも信頼でき謬りを犯すことが少ないというのは、あの裁判所は善と悪とをそれ自身においてではなく、またその本質においてではなく、単に触知できる具体的な利害と明白な感情との関係において探究するものだからだ。君たちは憎悪と愛との間にあって意見を述べなければならないことになるのであって――そしてそれは衝動的にできることであるが――真理と誤謬との間にあって意見を述べなければならないことになるわけではない。真理と誤謬とを見分けることは人間の弱い精神の到底能くするところではない。君たちは自分の心の衝動に従って裁けば、間違いを犯す危険はないだろう。陪審員の評決は、それが君たちの聖なる掟である情念を満足させさえすれば、立派な評決であるということになるだろうから。それでもやはり、わたしが君たちの裁判長だったら、ブリドワのひそみにならって、骰子(さいころ)を振って判決を下すだろうよ。裁判に関しては、それがまだしも一番謬りを犯すことのない方法なのだ」(120~121ページ)

 ちなみにブリドワというのは、ラブレーの『パンタグリュエル物語』に登場する裁判官の名。ああ、ラブレー

 エヴァリストが就いた革命裁判所の仕事は、日に日に忙しくなっていく。そのなかで恐怖政治が、恐怖政治と呼ばれるようになっていった理由が浮かびあがってくる。先にあげた引用文にあったとおり、死刑は、「大きな犯罪だけにしか適用されなく」なっていた。その「大きな犯罪」とは、「国民の主権に対して犯された犯罪」のことである。そして、革命によって転覆されたままの社会という不安定きわまりない情勢にあっては、どんな些細な犯罪でも「大きな犯罪」と成り得たのだ。なにかを為そうとする動きは、すべて現体制への叛逆、すなわち共和主義理念そのものへの叛逆と見なされた。見なされた、と言うと、まるで恣意的に見たように聞こえるかもしれない。すべてが、まぎれもない叛逆として、彼らの目に映ったのである。

「なにがしの将軍の裁判を見ようとして人々は息もつまるばかりに詰めかけていた。というのも、当時は、ブロト老がいっていたように、≪国民公会は、イギリス国王陛下の政府にならって、むざむざと裁判にかけられるようなことはしない叛逆の将軍たちの代りに、戦いに敗れた将軍たちを裁判にかけていた≫からである。≪戦いに敗れた将軍は必然的に有罪だというわけからではない≫とブロトはつけ加えたものだった。≪戦闘には必ず敗軍の将が一人はいなければならない道理だからね。しかし他の将軍たちを叱咤激励するために一人の将軍を死刑に処することほど手っ取り早いことはないのだ。……≫」(125~126ページ)

 こうして、為政者たち全員がノイローゼにでも罹っているかのように、どんな些細な犯罪も国家叛逆罪となる体制が生まれた。恐怖政治の誕生である。

「ルイーズ、あなたは御存じですか、やがてはフランスの王妃と二十一人の立法者たちをその法廷に呼び出そうとしているこの裁判所が、昨日は、或る女中を断罪したのですよ。悪意をもって、共和国を破壊しようという魂胆から、≪国王万歳!≫と叫んだというかどで。真黒い服を着て羽飾りをつけたわれわれの裁判官たちの仕事ぶりは、イギリス人があんなに大事にしているウィリアム・シェイクスピアのやり口に似ています。その戯曲のどんな悲劇的な場面にも俗悪な道化的場面を挿入するあのシェイクスピアのやり口に」(165~166ページ)

「革命裁判所は人足や女中に対しても貴族や財政家に対すると同様に峻厳な判決を下すことによって平等を勝ち誇らせていた。ガムランには、人民政府の体制下においてはそれ以外のゆき方があり得ようとは考えられなかった。民衆を刑罰から除外することは、民衆を軽蔑することであり、民衆に対して無礼なことであろう。それは民衆を、いわば、罰するに値しない者と見なすことであろう。ギロチンの刑が単に貴族だけにしか科せられなかったとしたら、ギロチンは不公平な特権の一種であるということになるだろう。彼はそう判断したのであった。ガムランは刑罰について宗教的・神秘的な観念を抱き始め、刑罰は一つの功徳と固有の諸価値とを持つものであると考え始めていた。犯罪者には刑罰を科すべきである、彼らに刑罰を科さないことは彼らの顔に泥を塗ることである、と考えていた」(190~191ページ)

 エヴァリストが抱いていた共和主義理念に対する陶酔は、宗教そのものである。カトリックという既存の神を打ちたおした革命は、新たな神として、この共和主義という精神を捏造しなければならなかった。ところで、『神々は渇く』が最初に刊行されたのは1912年のことである。アナトール・フランスは百年以上も昔の祖国を舞台に、この小説を書いたのであり、彼が青春を過ごした時代は、第三共和政下のフランスであった。わたしが日本で大学に通っていたころの専門は、第三共和政フランスの歴史である。とりわけ、当時のナショナリズムとも呼ぶべき、共和主義思想の宗教性を暴くことに熱心だった。ナショナリズムを思想というよりも宗教と呼ぶべきであると言ったのはベネディクト・アンダーソンだが、アナトール・フランスが同じメッセージをエヴァリストのなかに描いていると思えてならない。共和主義の宗教性が普仏戦争後の第三共和政下フランスでとくに顕著になったことを思うと、無関係ではないだろう。アナトール・フランスはここでもブロトの口を借りて、すばらしい言葉でそれを伝えてくれている。

「しかしながら、ブロトは宗教を攻撃したいと思う気持ちは抑えた。民衆には宗教が必要だと考えていたからである。ただ、できることなら、聖職者は宗教論争家ではなく哲学者であってほしいと思っていた。彼はジャコバンの徒が既存の宗教を、もっと若くてもっと禍いな宗教に、すなわち自由と平等と共和国と祖国との宗教に代えようとしていることを慨歎していた。彼はもろもろの宗教が最も狂熱的で最も残虐なのはその若い盛りの時期においてであり、宗教は老いるにつれてその狂熱が鎮静するものであることに気がついていた。されば、彼は人々がカトリック教を保持することを願っていた。若い盛りの時代には多くの犠牲者をむさぼり食らったが、今では寄る年波で食欲も衰えて、百年のうちに四、五人の異端者を焼いて食うだけで満足しているカトリック教を」(211ページ)

 動乱のなかにあっても、ブロトの姿勢は揺るがない。この人物がアナトール・フランスその人であることは、もう疑いの余地もない。だが、このエピクロスの徒もとうとう告発の対象となってしまう。そもそも、どんな言葉を発しても叛逆罪を問われる環境で、この老人が無事で済むわけがないだろう。

「――この方を連行するのではないでしょうね? そんなことってないわ。……あなた方はこの方を御存じないのよ! 神様のようにいい方なのに。
 市民ドルールメルは彼女を押しのけて、擲弾兵たちに≪行け≫と合図をした。すると彼女は司法官たちと擲弾兵たちに対して、世にもみだらな悪口雑言と卑猥極まる嘲罵とを浴びせかけたので、彼らはパレ・ロワイヤルやフロマント街の便器という便器が頭上に空けられたような思いをした。それから、ティヨンヴィル広場全体にひびき渡り、野次馬の群をふるえ上がらせるような声で、彼女は叫んだ。
 ――国王万歳! 国王万歳!」(248ページ)

 エヴァリストの狂気は、どんどん進行していく。就任当初は拍手を浴びるような無罪判決を出していた彼も、もう軽蔑の眼差しを受ける対象にすぎなかった。だが、告発されることの恐怖から、この若者のことをおおっぴらに批判できるような人は一人もいなかった。彼の心を癒す唯一の存在、エロディでさえも。

「――エヴァリスト、それはどういう意味なの? まさかお前は? ……
 ――お母さん、聴いて下さい。もし妹のジュリがあの部屋に(といって彼は閉まっているドアを指さした)……いると知ったら、僕はこの足でセクションの警戒委員会に妹を告発しに行きますよ。
 哀れな母は、その縁なし帽のように蒼白になって、ふるえる手から編物を取り落とした、そしてどんな弱いささやきよりも弱々しい声で溜息をついた。
 ≪そうだと思いたくはなかった、けれど今はっきりわかった。これは人でなしだ……≫」(262~263ページ)

「――可愛い少年よ、君が大人になって、幸福な、罪のない生活を送るとすれば、それは僕のおかげなのだよ。だが、万一、僕の名が口にされるのを聞くようなことがあったら、君は僕の名を呪うだろう」(319ページ)

 革命裁判所はひっきりなしに稼働するようになり、牢獄はいつも満杯であった。それほどまでに多くの者が告発されていたのである。囚人たちの仲間入りをするためには、ただ「国王万歳!」と叫ぶだけで事足りた。そして公正きわまりない陪審員たちは、平等の名の下に、彼らを分け隔てなくギロチン送りにしていったのである。

「恐怖政治は、ひと月ひと月と、猛威を加えて行った。夜ごと、酔っぱらった牢番たちは、番犬をつれて、監房から監房へと赴き、起訴状を提示したり、名前を間違えて呼び立てたりして、囚人たちの眼をさまさせ、指名された二十人の犠牲者のために、二百人もの囚人を恐怖に陥れた。血なまぐさい影に満ちたあの廊下を、毎日、歎き声ひとつ挙げないで、二十人、三十人、五十人の死刑囚が通って行った。老人もいた、婦人もいた、青年もいた。身分や性格や感情の点でも多種多様で、籤引きで決められたのではないかと思われるほどであった」(274ページ)

国民公会は草月(プレリアル)の法律を公布する。それは法律の伝統的形式の一切を――公正なローマ人の時代このかた、無実な容疑者の救済のために考えられた一切の手続きを、一種の恐るべき愚直さによって廃止するものであった。もはや予審も、訊問も、証人も、弁護人もない。祖国愛がすべての欠を補うこととなったのである。被告人は、実際に罪を犯した者であろうと、実は無実の者であろうと、愛国者たる陪審員の前を黙って通って行く。そしてその間に、黒白を識別しなければならないのである。時として識別に困難で、ともすれば込み入っていてはっきりしない黒白を。こうなっては、いかにして裁判をしたものであろうか? 誠実な者と悪党とを、愛国者と祖国の敵とを、いかにして一瞬間に判別したものであろうか?」(292ページ)

 だが、エヴァリストに迷いはない。もともと理論的なものではなかった心酔に、理屈に合わないところがあったところで、どうしてそれに疑いを投げることができるというのだろう。エヴァリストの正義は、もうめちゃくちゃなものになっている。

愛国者の心には、何という驚きの種が、何と多くの不安の原因があることであろうか! 何たることだろう、して見れば人民の利益を裏切った者どもとしては、ミラボや、ラ・ファイエットや、バイイや、ペティヨンや、ブリソだけではまだ足りなかったというのか? これらの叛逆者どもを告発した人々も裏切り者の数に入れられなければならなかったとは! 何たることだろう、革命を起こしたすべての人々が革命を起こしたのは、革命を破滅させるためにすぎなかったとは!」(283ページ)

 そして、すべての非はロベスピエールに集中する。歴史というものは、常に勝者、生き残った者たちによって語られるものだ。そこに、疑いと批判の余地がある。自分自身も含めて、歴史を学問として学んだことのある人間は、だれもかれもがとんでもない懐疑主義者になる。アナトール・フランスは、エピクロス哲学から生じた懐疑主義者なのかもしれない。一般に伝えられているロベスピエール像は、ここにきて決定的に瓦解する。

「革命裁判所は草月の法律の恐るべき安易さをもって、あのいうところの牢獄内の陰謀の裁判をやってのけた。この陰謀なるものはダントン派とコミューヌとの追放後、巧妙なでっち上げによって、ダントン派とコミューヌとに結びついているものであるとされていたのである。実際、外国の金によって助長された共和国に対する陰謀の二つの主要な性格――時宜に叶わぬ穏和主義と、計画的な過激主義とが人々の眼につくようにと、すなわちダントン派の犯罪とエベール派の犯罪とを人々がこの陰謀のうちに見てとるようにと、相反する思想の持主である二人の女、カミーユの未亡人のあの愛すべきリュシルと、束の間の女神であり陽気なおしゃべり女であったエベール派のモモロの未亡人とが、首謀者として挙げられていた。二人とも対称的に同じ牢獄に監禁され、同じ石のベンチで一緒に泣き、これまた対称的に、二人とも断頭台に上っていた。これはあまりにも巧妙に仕組まれた象徴であった、平衡を得た傑作であった。おそらく検事的精神の持主である誰かが考え出したものであっただろう。しかしマクシミリヤンの手柄であると見なされていた。共和国内で起こる事件は幸福な事件たると不幸な事件たるとを問わず、法律であれ、風俗であれ、季節の移り変りであれ、収穫の出来不出来であれ、病気の流行であれ、すべてがこの民衆の代表者に帰せられるのが常であったのだ。それは正しくなかったが、無理もない。このちっぽけで、こぎれいで、ひよわで、猫のような顔をした男は、民衆の上に強い影響力を及ぼしていたからである」(294ページ)

「その日、昼食後、フィリップ・デマイは、紙挟みをかかえて、「恋の画家」の店にはいった。点刻したばかりの、「ロベスピエールの自殺」と題する版画を市民(シトワイヤン)ジャン・ブレーズに持って来たのである。版画家はロベスピエールをこの上なくおぞましい悪漢に描いていた。フランスの民衆は革命のすべての罪を一身に着せられたこの男の汚辱と恐ろしさとを決定的なものにするあのありとあらゆる記念物(モニュマン)にまだ食傷してはいかなかった」(340~341ページ)

 そもそも、恐怖政治時代のパリが舞台で、純粋な若者が革命思想を信じてしまったら、彼がどのような運命を辿ることになるかは、ほんのわずかな歴史の知識さえあれば、だれにだって予想できることなのだ。さきほど、読者が知らないのは歴史に登場しない人物たちの運命だけだ、と書いたが、じつはエヴァリストの運命だけは、だれの目にも明らかだったと言わなければならない。アナトール・フランスはそんな哀れな男に、恋人であるエロディに向かって、こんなことを語らせている。

「――僕は数日前、或る若いドイツ人の書いた本を読みました。そのドイツ人の名は忘れましたが、非常に立派なフランス語訳でした。シャルロッテという名の美しい若い娘が出て来て、この娘は、エロディ、あなたのように、パンを切っていたのです。ちょうどあなたのように、優雅に、それは愛らしく、パンを切っていたのです。それで、その姿を見て、若きヴェルテルは彼女に夢中になってしまうのです。
 ――で、二人はめでたく結婚することになりますの? とエロディは訊いた。
 ――いや、とエヴァリストは答えた。物語はヴェルテルの非業の死で終るのです」(151~152ページ)

 なにからなにまで、絶妙としか言いようがない。正直、これほどの衝撃はまったく予期していなかった。忘れがたい本がまた一冊増えて、心底嬉しい。

神々は渇く (岩波文庫 赤 543-3)

神々は渇く (岩波文庫 赤 543-3)

 


<読みたくなった本>
アナトール・フランスエピクロスの園

エピクロスの園 (岩波文庫)

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ルクレティウス『物の本質について』

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)

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ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル』

ガルガンチュア―ガルガンチュアとパンタグリュエル〈1〉 (ちくま文庫)

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ユーゴー『九十三年』

九十三年 - ヴィクトル・ユゴー文学館 (第6巻)

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トドロフ『日常礼讃』

日常礼讃―フェルメールの時代のオランダ風俗画

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ゲーテ『若きウェルテルの悩み』

若きウェルテルの悩み (新潮文庫)

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ルフェーヴル『革命的群集』

革命的群衆 (岩波文庫)

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ルソー『新エロイーズ』

新エロイーズ 1 (岩波文庫 青 622-4)

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新エロイーズ 2 (岩波文庫 青 622-5)

新エロイーズ 2 (岩波文庫 青 622-5)

 
新エロイーズ 3 (岩波文庫 青 622-6)

新エロイーズ 3 (岩波文庫 青 622-6)

 
新エロイーズ 4 (岩波文庫 青 622-7)

新エロイーズ 4 (岩波文庫 青 622-7)