Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

鏡の国のアリス

1865年生まれの『不思議の国のアリス』の妹、1872年刊『鏡の国のアリス』の柳瀬尚紀訳。

鏡の国のアリス (ちくま文庫)

鏡の国のアリス (ちくま文庫)

 

ルイス・キャロル(柳瀬尚紀訳)『鏡の国のアリスちくま文庫、1988年。


有名ではあるのだが、『不思議の国のアリス』に比べると、圧倒的に手に取られる頻度の低い作品である。柳瀬尚紀は解説で「日本人はチェスに馴染みが無いため」と書いているが、理由は別にあると思う。即ち、ディズニー映画を好きになって「よし、原作を読んでみよう」と思い、『不思議の国のアリス』に手を出して、完全に打ちのめされる。よって『鏡の国のアリス』には手が伸びない。キャロルを舐めてかかると、絶対にそうなるだろう。真剣に一言一句の意味を考えながら読もうとすると、第一章の「ジャバウォッキー」が終わるまでに発狂する気がする。何やら楽しい幻想世界として意味を考えずに読めば、これほど面白い物語もないのだが。

チェスをモチーフとした物語だ。『不思議の国のアリス』がトランプをモチーフにした物語だったことを思い出してもらいたい。基本的な指し方と、プロモーションのルールを知ってさえいれば、戸惑うこともない。柳瀬尚紀のあとがきにも説明はあるので、ナボコフ『ディフェンス』のように深く考えることもない。勿論考えようと思えばいくらでも深読みができるのだが、発狂するのでやめましょう。

アリスが自宅の鏡を覗き込むと、鏡の家に入ってしまう。花の生き物の園へ出ると、気付けば機関車に乗っていて、周りの虫から切符を持っていないことを責められる。トウィードルダムとトウィードルディーに会うと「海象君と大工さん」という残酷な詩を聞かされる、などなど。全く理解不能な展開に感動する。予想できないから、飽きない。理解できないから、疲れはする。

「「あたしもウさんにうっとりよ」アリスもついついはじめてしまった。「だってうじうじしないもの。あたしはウさんにうんざりよ。だってうーんと薄気味悪い。あたしはウさんに宴をひらく――ええと――うずらのサンドに厩の干草。噂のその名は卯茶義さん、生まれた家は――」
 「生まれた家は裏山の上」キングはそっけなくいったが、自分もいっしょに語呂遊びをしているのはちっとも気づかない。アリスのほうは、ウではじまる町の名を思い出そうと、まだ迷っていた。「もうひとりの使者の名は、某氏也という。ふたりいなくてはならんのだよ――行きと帰りでな。ひとりは行き、もうひとりは帰り」
 「あのう、失礼ですが」アリスはいった。
 「失礼なことなら申すな」キングがいった。
 「いえ、ただ、おっしゃることがわかりませんというつもりだったの」アリスはいった。「どうしてひとりは行きで、もうひとりは帰りなんですか?」
 「だから申しておるじゃろが?」キングはじれったげにいった。「ふたりいなくてはならんのだよ――持って行き、持って帰る。ひとりは持って行く、ひとりは持って帰る」
 ちょうどこのとき、使者が到着した。はあはあ息を切らせて一言もいえず、ただ両方の手を振りまわすばかり、そうしてものすごい形相でキングをにらんだ。
 「このお嬢さんが、ウさんくさいおまえにうっとりだそうじゃ」」(136~137ページ)

柳瀬尚紀はこれを、完全に大人の読み物として翻訳している。キャロルの翻訳がどれだけ難しいものかを説明するには、先の引用だけで十分だろう。解説に書かれた深町眞理子による激賞を読むと、更によくわかる。

キャロルの言葉遊びは翻訳で読むには勿体無いものだが、柳瀬尚紀による変奏は絶妙だ。この版の『鏡の国のアリス』は既に絶版だが、これから読もうという方は是非とも探してみて欲しい。ただし、ジョン・テニエルの挿絵にこだわりたいなら他社のものを。キャロルに関しては、刊行されている全ての翻訳を手に入れてもいいと思う。

鏡の国のアリス (ちくま文庫)

鏡の国のアリス (ちくま文庫)

 

 

<読みたくなった本>
キャロル『スナーク狩り』

スナーク狩り

スナーク狩り

 

キャロル『シルヴィーとブルーノ』

シルヴィーとブルーノ (ちくま文庫)

シルヴィーとブルーノ (ちくま文庫)

 

若島正編『モーフィー時計の午前零時』
→刊行されたばかりの、チェス小説アンソロジー。

モーフィー時計の午前零時

モーフィー時計の午前零時