Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

いそがなくてもいいんだよ

 しばらくぶりの更新。といってもたかだか四日ぶりで、ふだんのわたしの更新頻度を知るひとは、こいつ気でも狂ったか、と思っていることだろう。ちょっと事情を説明すると、断食月中は、あらゆる会社の勤務時間を短くするように、と、当地の労働法で定められているため、平時よりも早く仕事を切りあげることができるのだ。しかし、同僚たちはみんなやたらと仕事熱心な連中なので、まずわたしが立ちあがって「帰ろうぜ」と言わなくてはならない。だから多少仕事が残ってしまっていても職場を去るようにしているのだが、それでも外出先では日中、コーヒーを飲んだり煙草を吸ったりができないため、自然、それらを求めて自宅に直帰することになる。ニコチン摂取のための、引きこもり生活。そりゃあ、読書が捗るわけである。

いそがなくてもいいんだよ

いそがなくてもいいんだよ

 

岸田衿子『いそがなくてもいいんだよ』童話屋、1995年。


 先日の山之口貘の詩集、『桃の花が咲いていた』と同じ日に購入した、わたしにとっては二冊目の童話屋詩文庫である。岸田衿子の詩は小池昌代の選んだ『恋愛詩集』にも収録されているが、じつはこのひとの名前は、とっくの昔から知っていた。彼女は、アーノルド・ローベルの絵本の翻訳者なのである。幼いころ、わたしは彼女が訳した『どろんここぶた』の熱狂的な読者だった。それはまさしく「熱狂的」以外には形容しようのない愛しかたで、もう本といえば『どろんここぶた』、毎日二回は読んでいたと記憶している。また、べつの翻訳者ではあるが、同じ作者の『ふくろうくん』も大好きだったし、「がまくんとかえるくん」が出てくる『ふたりは〜』シリーズも愛読していた。アーノルド・ローベル岸田衿子がいなかったら、わたしの幼年時代はあれほど幸福なものではなかっただろう。

 だから、今回はじめて彼女のまとまった詩集を読んでみて、すこし拍子抜けしてしまった。期待値が高すぎたのかもしれないし、『どろんここぶた』のような愛しかたをするには、わたしがすこし年齢を重ねすぎてしまったのかもしれない。でも、この選集に収められている詩は、どうにも、読者の年齢層が想定されているように思えてしまったのだ。そして、そこにわたしは含まれていない、という予感が、わたしを怯ませ、同時に興醒めさせたようにも思える。「童謡詩」というのだろうか、子どもに向けて放たれたように映る言葉たち。まど・みちお阪田寛夫も、そういう詩を書かせたら天才以外の形容が思いつかなくなるような詩人ではあるが、彼らの詩が心底すばらしいのは、その詩情が、大人が隠し持つ子ども心にも作用しているからなのだ。まさしくケストナーの言葉どおり、「八歳から八十歳の子どもたちへ」というのが、こういう言葉たちのありかたなのだろう。だが、岸田衿子の場合、大人である彼女の本心を隠されてしまっているような、まだ十分には心を開いてもらってはいないような、そういう距離感、疎遠を感じてしまった。それに、これはマンデリシュタームが言っていたことだが、詩人というのは本来、どんな特定の読者をも想定するべきではないのだ。

 それでも、小池昌代が選んだ「あかしあは尽きないのに」がすばらしかったこともあって、この選集が悪いのでは、という不当な不信も、じつはまだまだ捨てきってはいない。四行詩、というのだろうか、短詩には、いいなと思うものがいくつもあった。

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  わたしはえのぐをといた


  わたしはえのぐをといた
  昼をとっておくために
  窓をみがいた
  夜をとっておくために


(「わたしはえのぐをといた」、18ページ)
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  この季節は あかるすぎて


  この季節は あかるすぎて
  文字が読めないから
  水の底の小石の数を かぞえよう
  えのころ草の穂をしらべよう


(「この季節は あかるすぎて」、40ページ)
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  くるあさごとに


  くるあさごとに
  くるくるしごと
  くるまはぐるま
  くるわばくるえ


(「くるあさごとに」、88ページ)
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 どれも、題がそのまま一行目となっている。いや、ひょっとしたら、そもそも題が付されていないものを、この選集にまとめるにあたって、編集者が一行目を題として採用したのかもしれない。四行、という絶妙な短さを見ていると、どうしてこのひとは短歌のほうに心を寄せなかったのだろう、と不思議に思ってしまう。題と一行目が異なるものもあった。

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  毬 Ⅰ


  毬をつく音が 耳に残っている
  旅に出かけても まだ聴こえてくる
  毬をついた私はもうどこにもいないが
  土は同じ力で毬をついているのだ


(「毬 Ⅰ」、104ページ)
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 ほかにも、四行詩ということでは、以下のものも忘れがたい。

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  一ぽんの木は


  一ぽんの木は
  ねむっているわたし
  幹は夜を吸いこんで
  梢は夢のかたちにひらく


(「一ぽんの木は」、112ページ)
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 これなんて完全に、歌人沖ななもの世界である。『天の穴』に収められていた、樹木を詠んだ歌たちが、自然に思い出されてくるではないか。いま思えば「あかしあは尽きないのに」もそうだったが、岸田衿子沖ななもと同様、木を語っているとき、ひたすら輝く。

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  かぜと木


  くるみの木は
  わを えがきながら
  ゆれている

  くりの木は
  わらいが とまらないみたいに
  ゆれている

  しらかばは
  ふるい ワルツを
  おどっている

  おんなじ かぜが
  ふいているのに


  はんのきは
  おじぎしながら
  ゆれている

  ななかまどは
  あかんぼを だいて
  あやしている

  もみの木は
  そらにむかって
  うたうたってる

  おんなじ かぜが
  ふいているのに


(「かぜと木」、50〜52ページ)
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 短歌との関連で言うと、以下の「古い絵」を読んだときには、小島ゆかりの一首を思い出した。

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  古い絵


  木の実の重たさをしるまえに
  話しをはじめてはいけません

  実のそとを すべる陽
  実のなかに やどる夜

  人の言葉の散りやすさ
  へびと風との逃げやすさ

  手のひらに
  うす黄いろい実をおとすのは

  あの枝ですか
  神の杖ですか

  かすかな音をきくまえに
  話しをはじめてはいけません


(「古い絵」、84〜85ページ)
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  団栗はまあるい実だよ樫の実は帽子があるよ大事なことだよ
  (小島ゆかり永田和宏『現代秀歌』より、76ページ)

 それから、「忘れた国」を読んだときには、シルヴィア・プラスのことが浮かんだ。それも詩集ではなく、彼女の『The It-Doesn't-Matter Suit』に収められていた短篇、「Mrs Cherry's Kitchen」のことである。

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  忘れた国


  その日から
  はさみも布(きれ)も
  昔を忘れてしまった

  ボタンは 子供の胸に
  とまっていたことを忘れて
  空でひかりはじめ
  星は 空をめぐっていた日を忘れて
  こどもの胸にとまった

  波と舟とは まだ仲がいい
  ふたりで丘にあがって
  ひるねしている

  たびびとは リュックをしょって
  雲になり
  たったいちど テントの中で
  ねむりたかった 雲が
  テントの中でねむっている


(「忘れた国」、96〜97ページ)
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 地上に降り立った天使の感覚を描いた「告白」も、ちょっと忘れがたい。「足が まだすこしふるえています/靴下はずっと前から/いちどはいてみたかったのです」。これなんて、穂村弘『短歌の友人』のなかで「短歌的リアリティ」と呼んでいた細部のきらめきと、そっくりではないか。

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  告白


  羽を二つもがれて
  はじめて 地面に立ってみました
  足が まだすこしふるえています
  靴下はずっと前から
  いちどはいてみたかったのです
  重たいトランクをさげて
  旅に出てみたかった
  買物かごに 玉子を入れて
  歩いてゆくのもいい
  何よりも あの階段を
  降りてみたかったのです
  地の底へつづくという 階段を
  降りてみたかったのです


(「告白」、116〜117ページ)
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 これだけの言葉が費やされているのに、覚える感動が短歌とそっくり同じ、というのでは、やはり褒めたことにはならないのだろう。だが、岸田衿子は自分の詩を「歌」と呼称してもいる。彼女のうちのどこかに、短歌の方角へと接近していく心があった、というのは、単なる邪推かもしれないが、それほどまちがってはいないようにも思える。

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  一生おなじ歌を 歌い続けるのは


  一生おなじ歌を 歌い続けるのは
  だいじなことです むずかしいことです
  あの季節がやってくるたびに
  おなじ歌しかうたわない 鳥のように


(「一生おなじ歌を 歌い続けるのは」、82ページ)
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 先日、童話屋詩文庫をまとめて購入するにあたって、じつはわたしは、思潮社が現代詩文庫に収録していない詩人を、重点的に選んだのだ。山之口貘とは幸福な出会いだったが、岸田衿子のほかの詩集に手を伸ばすことになるかは、いまはまだちょっとわからない。だが、「あかしあは尽きないのに」のようにすばらしい詩が、この選集には収録されていなかった、ということが、やはりすこしだけ引っかかっている。わたしの幼年時代を途方もなく豊かにしてくれた詩人が、わたしの気に入らないはずがないのだ。諦めきれない。いつかほかの詩集に手を伸ばす機会が巡ってくることを願う。

いそがなくてもいいんだよ

いそがなくてもいいんだよ

 


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どろんここぶた (ミセスこどもの本)

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