天の穴
先日穂村弘の『ぼくの短歌ノート』を読んだ際に、ぜひとも読みたいと思った歌人、沖ななもの第六歌集。じつは永田和宏の『現代秀歌』を読んだときからとても気になっていたので、すこし前に日本からまとめて本を送ってもらった際に含めてもらっていたのだ。短歌新聞社の「現代女流短歌全集」という、ちょっと身構えずにはいられない名前のシリーズの第四巻として刊行された一冊。ところで、「女流」というのはとても不思議な言葉で、ただ「女性」と言うよりはよっぽど衒学趣味、言外の意味が多すぎ、少なくともぜんぜん詩的ではないように響くのだが、短歌専門の出版社がいったいどうしてこんな詩とは真逆の方向を向いた名称を付けてしまえたのだろう、と、かえって気になってしまう。1995年がもう20年も前だというのは信じがたいことだが、この20年のうちに、「女流」という言葉は死語になったのかもしれない。現在性のない死骸として見つめる目がないと、この言葉の違和感には気づけないのかもしれない。
この歌集を読むまでの沖ななもの印象は、「木にやたら詳しいひと」だった。Amazonでもなんでも、この歌人の名前を検索にかけてもらったら、わたしの言う意味はすぐに察してもらえることだろう。『木』、『樹木巡礼』、『神の木 民の木――巨樹巡行』と、木という語が題に含まれた著書が非常に、いや、異常に多いのだ。その偏愛ぶりはこの歌集のなかでも顕著で、読んでいて何度も、『若きウェルテルの悩み』のなかのゲーテの言葉、「無限に豊富なのは自然だけだ。自然だけが大芸術家を作り上げるんだ」を思い出した。自然の大きな力を感じずにはいられない歌ばかりなのだ。
たましいの抜けたる櫟(くぬぎ)の一葉をのせてゆっくり水面は動く(7ページ)
榧の木の向こうの空のおごそかな薄いいびつな三日月のかけら(10ページ)
口あけて梢みおれどほほほほと揺れているだけなにも落ちてこぬ(16ページ)
もやだてる野を占領し明らめる空を占めたる木の全容は(18ページ)
立ち尽くす冬枯れの木が素手をもて今朝の日輪を支えておりぬ(25ページ)
秩序という人間界の条理から並木の欅の高さが揃う(30ページ)
榧の木の洞にひそめる胎内のごとき木魂を聞きて離れぬ(35ページ)
今年命とびたちしのちにのこされて形揃わぬ蟬穴がある(91ページ)
ここかしこに蟬穴があり茫とした口あいていて何もおこらず(91ページ)
枯れかかった杉の梢に陣取って肋骨雲が動こうとせず(104ページ)
木が詠まれた歌を抜き出してみた。櫟(くぬぎ)や榧(かや)など、見慣れない漢字、でも木の名前であることはなんとなくわかるものが頻出してきて、じつは読みながら何度も漢和辞典を引いた(辞典を引くのはとても楽しい)。でも、沖ななもがとくに輝くのは、木と語り合っているとき、その親密さを詠っているときだ。
やぶこうじ、からたちばなの赤い実が鳥に食われてみたいと言えり(13ページ)
遠目にはただの一本の木とみえてちかづけばなかなかの面構えなり(15ページ)
すこしあそばせてもらいます、近づくと木はこそばゆそうに頷く(15ページ)
しなやかにたおやかに木はしないつつ葉をおとすときくやしくないか(16ページ)
木にも位というものあらばおそらくは下っ端なるが挑むごと立つ(17ページ)
葉も持たず花も持たざる冬の木のはにかむを見つ公園の裏(18ページ)
この木あの木そのむこうの木 どの影も影にためらいがある(19ページ)
嫌なことはあとにまわして白小花散る下を行く仰ぎつつ行く(38ページ)
うずたかく積もった枯れ葉が音たてるもう遅いおまえの主張など聞かぬ(101ページ)
なかでも、「なんという愛の強さ!」と叫びたくなるような歌が、以下の二首。あまりの愛に、思わずちょっと笑ってしまう。
瘤のある木が人を喰うはなしあながち不快というにもあらず(44ページ)
稜線にたよりなく木がはえているあそこがどうにも甘やかさ増す(56ページ)
この「あそこがどうにも甘やかさ増す」という控えめな表現が、とっても気に入った。また、これもちょっとおもしろいな、と思ったのだが、この歌人は花というものを、けっしてただ美しいものとしては描かないのだ。木への愛情表明が強烈な分、そのことがとても異様に映る。
野茨の赤い実がいま鮮明に思い出す花の季節(とき)の奢りを(20ページ)
茄子の花 大根の花 紫蘇の花 花はいつでも腐臭をまとう(21ページ)
麓までおりればたちまち忘れゆく花のかたちと花のふところ(33ページ)
八分ほどひらきかけたる黄の薔薇のそれより咲かず机(き)の上十日(93ページ)
まったくもって、樹木図鑑を片手に森に迷いこみたくなってくるような歌ばかりだ。苔への愛着を表明している親しい友人に、ぜひ以下の〈裏側に〉の一首を教えてあげたい、と思った。
裏側にまわればそこも苔の道いずこへか誘うごとくに曲がる(39ページ)
運動靴にいつしかじくじくしみてくる気味の悪さを持ちて歩めり(40ページ)
今年初の郭公の声がふところに飛び込んでくる森のしたみち(43ページ)
それから、植物以外には、風を詠んだ歌が目を引いた。木を眺める目というのは、きっとそれを揺らしつづける存在である、風をも映し出さずにはいられないのだろう。
秋色の風に押されてサイダーの蓋が側溝にたどりつくまで(11ページ)
勝鬨のようにひびかう電線のこよいの風は切実さもつ(24ページ)
梢から梢をわたりゆく風のあまれるが下へむかいて吹ける(38ページ)
送電線おおきくたわみ夕霧の奥へ吸われて行く先不明(49ページ)
風とも関連して、こんな歌もあったので挙げておく。
横腹に風のかたまりの圧しつける力をうけて列車ははしる(45ページ)
おそい風景とはやい風景をそれぞれに送りつづけて進む列車は(55ページ)
これらを見て思い出したのは、以下の吉野弘の詩、「緑濃い峠の」だ。
――――――――――――――――――――
緑濃い峠の
緑濃い峠の
緑にも染まらず
私の乗った赤い電車が
林をつらぬき走り続けた。
あのとき
風をまとった電車にあおられ
のけぞり、たわみ
葉裏を返し、激しく揉まれていた線路際の木立ち。
伸びすぎた梢は
電車にはじかれ、ピシピシ鳴っていた。
あの風景が、なぜ今も
私の目にやきついているのだろう。
赤い美しい電車に素気なく撥ねつけられているのに
それをさえ待ち焦がれていたかのように
おどけて、かぶりをふり
喚声をあげて揺れていた木立ち。
毎日つれなく走り去るだけの電車
その電車から何度、邪慳にされても
電車が好きだという身振りをかくさない木立ち。
一度、電車というものを見に来て
綺麗な電車に一目惚れ
そのまま線路沿いに住みついてしまった
とでもいうような世間離れのした木立ち。
その木立ちが電車に見せた
正直な求愛、激しい身の揉みよう
少し気はずかしげな、おどけよう――。
あんな一方的な愛もあると知った
小さな旅の一日。
(「緑濃い峠の」『吉野弘詩集』より、25~27ページ)
――――――――――――――――――――
いま読み返してみても、この詩の素朴な愛と、沖ななもの自然への愛はどこかで繋がっているな、と思う。自然を詠った歌は、ほかにも数多い。
日溜まりに羽をかかげた虫たちが足を駆使してなにか諍う(8ページ)
青空には果てがないから気鬱な雲雀 気も狂えずに啼いてみてるが(22ページ)
『植物の神秘生活』真夜中に取り出してくる夢をみるため(27ページ)
あふれんとして溢れざるあやうさを印象づけて浜名湖はある(48ページ)
風景から色が消えゆき山間(やまあい)の一点の灯が主張はじめる(49ページ)
煙突の上空(うえ)すてられたままの月ありて濃淡をつけてながれる雲は(50ページ)
しろがねの板のごときと見ていしに近づけば無数の不揃いの波(53ページ)
吹き寄れる枯れ葉閉じ込め凍りたる甕の水面は終日とけず(79ページ)
山が山にかぶさるような谷間を走りぬけるときの息の苦しさ(81ページ)
自己主張持たざる波が人間のズックをぬらしひきかえしゆく(83ページ)
こきざみに動き続ける天球の一角にわれも彼もゆれいる(84ページ)
語るなき石といえども語ることあらざるということにはあらず(85ページ)
百万の針が天空からふりそそぎ平らかな海の面を刺せり(86ページ)
ぎっしりと緊(し)まった空を口ごもりものの言えない月が彷徨う(90ページ)
おおいなる手があらわれてすべらなるおでこを撫でるそれより日暮れ(93ページ)
繋がれて犬が日常に掘りいたる穴の底(そこい)が秋の日を浴ぶ(94ページ)
雨の音やみたるのちの静けさをかかえこまんとして坐り込む(97ページ)
袋からはみだしたごぼうの泥をかかえ横時雨のなかいそいで帰る(103ページ)
ゆるい傾斜のぶどう畑のむこうはるか、柔毛のような森が展がる(106ページ)
こうしてあらためて眺めてみると、じつに破調が多い歌人である。リズムをもうちょっと大切にしてほしいな、と思わないでもないのだが、たまに定型がきっちり守られているときの、ぴたっと決まる感じはちょっと忘れがたい。たとえば、
白猫が過(よぎ)りそのまま日が暮れる旧中仙道は北風の管(79ページ)
第五句の「北風の管」、ちょっとたまらないではないか。穂村弘だったら、「カ行音の連続が……」なんて言いそうなところではある。たしかに、声に出してみると、とてもカクカクしていて、なんだか気持ちいい。そうそう、穂村弘で思い出したのだが、こんな歌もあった。
とがり屋根の上空をさらにとびつづける風船のなかの気体のせつなさ(56ページ)
これを読んだとき、『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』に収められた、水準器の歌を思い出したのだ。
水準器。あの中に入れられる水はすごいね、水の運命として 穂村弘
まあ、詠われているものが、ちょっと近い、というだけだけれども。この歌からも察せられるとおり、沖ななもはべつに自然だけを詠っているわけではなくって、もっと人工的なものを詠った歌にも、すばらしいものがいくつもあった。
人間の知恵が生み出す明るさに曝されている電子レンジの中(23ページ)
一語にて恋文というならばこの「マーさま」はまさにそれなり(25ページ)
車の音が徐々に近づきぼうそうぞくとなるまでの右の耳(31ページ)
床の間のうすい暗さがかもしだす寺の書院の昼の湿り気(61ページ)
大雑把なところはそのまますておいて細部にこだわり一日を送る(68ページ)
酒屋からもれくる明かりと自販機が照らす明かりが競うこの道(69ページ)
塀際に退きはりつき身をよじり憂鬱が乗る車を見送る(72ページ)
高低の傘の二本が歩みくる小さな橋を雪降るなかを(96ページ)
電話ボックスに手振り身振りの人おりて一人の世界を振りまいている(101ページ)
以下は「あとがき」より。この「あとがき」もすばらしい文章で、このひとの書く散文もぜひ読んでみたい、と思わずにはいられなかった。
「穴は、空虚なものではなくて、むしろ何もないがゆえにかえって充実した空気が漂っている。
子供が掘った穴にしても、植木を植えるために掘った穴にしても、掘られたときから、なにか不思議で神秘的だ。
何もない、からっぽというものが、無意味でもなく、空虚でもない。わたしにはそれがたまらなくうれしいし、ありがたいと思うのだ。なんということはない、ただいいなあと思うだけだが。からっぽの空間を今は楽しんでいる」(「あとがき」より、110ページ)
ぜんぜん緑と関わりのない日常を送っているからか、響いてくるものがとても多い歌集だった。「なんということはない、ただいいなあと思うだけだが」だなんて。いま、山登りや森散策がしたくてたまらない。「運動靴にいつしかじくじくしみてくる気味の悪さ」でさえ、恋しいものである。以下、とくに気に入った一首。
稜線にたよりなく木がはえているあそこがどうにも甘やかさ増す
このささやかすぎる表現に、心底打ちのめされてしまったのだ。ほかの歌集ももっと読んでみたいと思った。
〈読みたくなった本〉
『植物の神秘生活』
- 作者: ピーター・トムプキンズ,クリストファー・バード,新井昭広
- 出版社/メーカー: 工作舎
- 発売日: 1987/05
- メディア: 単行本
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