手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)
こんなに立てつづけに紹介するべき作家ではないのに、またもや穂村弘。先日の『世界中が夕焼け』と『求愛瞳孔反射』はすこし前に読んだものだけれど、これはほんとうについ最近読み終えた。もっとゆっくり読めばよかったとも思う。穂村弘の真骨頂、歌集。
穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』小学館、2001年。
これがどんな性格の歌集であるのかを説明するのはためらわれる。予備知識なしで読みはじめたほうがおもしろいように思えるのだ。読みながら、これがどんな歌集なのかを想像する、ということ。わたしはすでに『世界中が夕焼け』やほかの本からこの歌集に関する知識を得てしまっていたので、その楽しみを味わうことはできなかった。きっと面食らっただろうな。わくわくしただろうとも思う。なにも知らずにこの本を手に取るひとたちを、羨んでしまう。
とはいえ、なにも説明しないままでは進められないので、簡単に書く。これは「まみ」という女の子の手紙である。穂村弘じゃなくって、まみ。と書いてしまうと語弊があるのだけれど、穂村弘とまみが同一人物か否かなんていうことは、この歌集を読んでみるとかなりどうでもよくなってくるのだ。重要なのは、主体が女の子である、ということ。そして、まみはもちろんエキセントリックな女の子である。おまけに、ウサギ連れ。
ヒ・ケ・ン・シャ・ニ・ナ・リ・タ・イ、手足こめかみに電極つけて、ツリーみたいに(35ページ)
氷メロンの山よりふいと顔あげて、ここらで舌をみせたげようか?(36ページ)
不思議だわ。あなたがギターじゃないなんて、それはピックじゃなくて舌なの?(52ページ)
いちばん美人のかたつむりにくちづけて、命名ヴィヴィアン・ウェストウッド(62ページ)
マフラーがちくちくしない方法を羊に教えてもらう日曜(74ページ)
思えば「天然」だとか「不思議ちゃん」だとかいう言葉が流行りはじめる以前からエキセントリックな女の子たちは存在していたし、その突飛な行動によって男たちを魅了しつづけていたのだ。彼女たちに対する憧れは、いったいどこからやってくるのだろう。自分が理屈っぽいからか、完全に理知的で明晰な女性よりも、放っておくとなにをはじめるかわからない、どんなに知恵をしぼってもかならず予想を裏切る行動をとるような女の子のほうに惹きつけられてしまう。穂村弘が語っていたとおり、理屈というのは社会が求めるもので、それは基本的に男性的な価値観に基づいているのだ。象徴的なのは以下の一首。
知んないよ昼の世界のことなんか、ウサギの寿命の話はやめて!(44ページ)
この歌集に収められている歌のほとんどは、夜、それも常識的な人たちならとっくに眠っているような深夜が舞台となっている(ように思える)。「昼の世界」というのは、もちろん男性たちが創りあげた社会のことだ。つまり、まみは「夜の世界」の住人なのであり、この歌集は夜に対する讃歌集なのである。
夜明け前 誰も守らぬ信号が海の手前で瞬いている(20ページ)
真夜中のなっとう巻きは太るってゆゆが囁く、震える声で(38ページ)
午前四時半の私を抱きしめてくれるドーナツショップがないの(55ページ)
夜が宇宙とつながりやすいことをさしひいても途方にくれすぎるわね(101ページ)
もう、いいの。まみはねむって、きりかぶの、きりかぶたちのゆめをみるから(102ページ)
だがご覧のとおり、ここで詠まれているのは夜に対する礼讃ばかりではない。その時間帯に独りで目を醒ましていることの孤独、「昼の世界」に適応できないがための、夜を愛するがための苦悩を詠んだ歌は、非常に多い。
つっぷしてまどろむまみの手の甲に蛍光ペンの「早番」ひかる(19ページ)
包丁を抱いてしずかにふるえつつ国勢調査に居留守を使う(54ページ)
テロップの流れはやくてわからない、わからない、誰、だれが死んだの(65ページ)
疑いようもなく、まみのエキセントリシティは彼女を孤独に追いやっている。理解できないところが魅力、というのは、じつのところ男たちの勝手な言い草で、当人してみればだれにも理解してもらえないという孤独に常に苛まれることが約束されているようなものなのだ。ゆえに彼女の孤独は、救いようがないほど深い。
美しい指環は足の親指にぴったりでした、報告おわり。(22ページ)
ありったけのパジャマ抱えて唄いだすインフルエンザのテーマソングを(24ページ)
残酷に恋が終わって、世界ではつけまつげの需要がまたひとつ(27ページ)
金輪際、つぶやきながらうっとりと涙腺摘出手術を想う(37ページ)
両手投げキス、あのこの腕はながいからたいそうそれはきれいでしょうね(47ページ)
のぞきこむだけで誰もが引き返すまみの心のみずうみのこと(58ページ)
掃除機をかけてこんなに汗をかくわたしはきっと風邪だと思う(78ページ)
いま、まみは、踊りつかれて(あれ、みなさん静止してたんですか?)ねむるの(79ページ)
いつもいつも双子座だけが幸福な星占いが連載される(73ページ)
神様、いま、パチンて、まみを終わらせて(兎の黒目に映っています)(86ページ)
ここで、この歌集が「手紙」であることを思い出そう。手紙を書くときには、机と向きあう。そして、机と向きあって手紙を書くときには、ひとは独りであるはずなのだ。あまりにも日常的な語彙なのでこれまで気づきもしなかったけれど、机というのはそこから生みだされる手紙と同様、孤独なアイテムなのだ。さらに言ってしまえば、夜のアイテム。
まみの白い机は夢にあらわれて「可能性」と名乗った。アイム、ポシビリティ(30ページ)
つむってもあけてもまるでおんなじのまっくらやみで手紙を書こう(62ページ)
おやすみなさい。これはおやすみなさいからはじまる真夜中の手紙です(64ページ)
窓のひとつにまたがればきらきらとすべてをゆるす手紙になった(101ページ)
とはいえ、彼女の手紙はいつも机に向かって書かれているわけではない。
〈自転車に乗りながら書いた手紙〉から大雪の交叉点の匂い(8ページ)
先日『世界中が夕焼け』を紹介したときにも書いたけれど、短歌にはこういった、ひとつひとつの言葉が持つ性格を気づかせてくれる愉しさがある。《校庭の地ならし用のローラーに座れば世界中が夕焼け》の、「校庭」という言葉の響きは、その顕著な例だ。川本真琴の歌「さくら」のなかに、「《絶交だ》って彫った横に《今度こそ絶交だ》って彫った」というのがあるけれど、この「絶交」というのも「校庭」と同じくらい、学生だったころには多用していたはずなのに大人になってからは見向きもしなくなってしまった類の言葉だろう。この場合は歌詞だけれど、どうしてこのフレーズがこれほどまでに心に響くのかは、穂村弘を読むまでは気がつかなかった。
恋の歌(とわたしが勝手に判断したもの)にも、忘れがたいものが多い。
ボーリングの最高点を云いあって驚きあってねむりにおちる(14ページ)
腕組みをして僕たちは見守った暴れまわる朝の脱水機を(15ページ)
清潔なベッドの上でコンビーフの巻取り鍵を回してあげる(26ページ)
星の夜ふたり毛布にくるまって近づいてくるピザの湯気を想う(81ページ)
なめとって応急処置をしておこう、うなずきあって舌を準備す(81ページ)
甘酒に雪とけてゆく なぜ笑ってるか何度も訊かれる夜に(84ページ)
大好きな先生が書いてくれたからMは愛するMのカルテを(100ページ)
たとえば最初に挙げた一首の「ボーリングの最高点を云いあう」というのは、恋人たちの他愛ない会話、あとから思い出そうにも記憶にはぜったいに残っていないような会話の細部を言語化した稀有な例だろう。アナトール・フランスがこんなことを書いているのを思い出した。「ほんとうに愛しあっている恋人は身の幸福を筆にはしない」(アナトール・フランス『シルヴェストル・ボナールの罪』50ページ)。ここでは、「ほんとうに愛しあっている」最中に体験された細部が書き留められているのだ。
忘れてはいけないのが、ウサギの存在だ。
「汝クロウサギにコインチョコレットを与ふる勿れ」と兎は云えり(10ページ)
最愛の兎の牙のおそるべき敷金追徴金額はみよ(10ページ)
月よりの風に吹かれるコンタクトレンズを食べた兎を抱いて(12ページ)
本当にウサギがついたお餅なら毛だらけのはず、おもいませんか?(13ページ)
鼻息で鏡を曇らせる兎、守護霊名ギブミービスケット(77ページ)
トランプ カジッタノ オコッテナインデスネ? 熱のある人とおんなじ匂いの兎(85ページ)
アイスクリームの熱い涙を嘗めたがるおりこうさんという名のウサギ(98ページ)
玄関のところで人は消えるってウサギはちゃんとわかっているの(103ページ)
まみの絶対的孤独をまぎらしてくれる数少ない存在として、このウサギは輝いている。ウサギの主観に感情移入してしまう、ということが、すでに孤独であることの告白にちがいないのだけれど。まみの共感は、ウサギだけには留まらない。
海の生き物って考えてることがわかんないのが多い、蛸ほか(19ページ)
ドアの前で眼があったときこの部屋に入りたそうにしてたゴキブリ(32ページ)
水準器。あの中に入れられる水はすごいね、水の運命として(46ページ)
ところで、この歌集には何度か文学作品も登場している。なかでも、ブラッドベリは二度も。穂村弘がサンリオSF文庫のコレクションをしていることはエッセイで読んだけれど、彼はSFが好きなのだろうか?
『ウは宇宙船のウ』から静かに顔あげて、まみ、はらぺこあおむしよ(18ページ)
幸福な王子の肩に従順なツカイパシリの鳥がいたこと(25ページ)
ゴーゴンとメデューサ、どっちがかわいいの? そっちになるわ、みつめてご覧(57ページ)
十月よ。ブラッドベリに日本のつけもの(tsukemono)たちを送ってあげる(59ページ)
なかでも、《ゴーゴンとメデューサ、どっちがかわいいの? そっちになるわ、みつめてご覧》は、この歌集のなかでも一、二を争うほどに気に入った歌だ。ゴーゴンとメデューサという恐ろしい名前を挙げて、「どっちがかわいいの?」だなんて! つづく下の句もこれらの固有名詞が持つ意味を明確に意識していて、とても楽しい。うきうきする。
気に入った歌は、まだまだある。
いつかみたうなぎ屋の甕のたれなどを、永遠的なものの例として(7ページ)
甘い甘いデニッシュパンを死ぬ朝も丘にのぼってたべるのでしょう(45ページ)
ラケットで蝶を打ったの、手応えがぜんぜんなくて、めまいがしたわ(52ページ)
ひかひかの蜘蛛のめんめの表面が艶消(マット)になるよ、死んだ瞬間(55ページ)
免許証みせて あなたが乗りこなす動物たちの名前をみせて(60ページ)
さあ、どうぞ。便秘関係者のためのミステリアスな香りのお茶を(61ページ)
ぬいぐるみの口のなかには宝石がいっぱい詰まっている夏の朝(63ページ)
朝焼けの教会みたいに想いだす初めてピアスをあけた病院(66ページ)
このシャツを着ているときはなぜだろういつでも向かい風の気がする(72ページ)
おばあちゃんのバイバイは変よ、可愛いの、「おいでおいで」のようなバイバイ(76ページ)
この歌集と出会えたことが心底うれしい。今後どこに行くにも、この本はいつも側に置いておいて、いつでも開けるようにしておかなければ、とさえ思う。また彼女に会いたくなるにちがいない。そのときに必要なのは、この歌集が傍らに置いてあるということだけなのだ。その喜び、安心感。
この世界のすべてのものは新しい名前を待っているから、まみは(48ページ)
サイダーがリモコン濡らす一瞬の遠い未来のさよならのこと(95ページ)
無人島に持って行く本の候補が、また一冊増えた。これはわたしに扱うことのできる、最大の賛辞である。
追記(2015年1月11日):文庫化されています。