六本指のゴルトベルク
最近は短歌に関連する本ばかりを紹介していたものの、じつはこれと並行して、わたしはいまかつてない情熱をもってクラシック音楽に関する本を読み漁っている。音楽論、音楽小説、作曲家の伝記など、その内訳はさまざまだが、すべてのきっかけとなったのは、今年8月に文庫化されたこの本を手に取ったことだった。
青柳いづみこ『六本指のゴルトベルク』中公文庫、2012年。
つい先日、安物の(といっても自分にとってはけっして安くはない)電子ピアノを購入したおかげで、日本に留まっていた半年ほどの期間に楽しんでいた音楽の趣味を再開できるようになった。というか、ピアノにまったく触れられずにいた数ヵ月のうちにちょっと信じられないほど高まった音楽への情熱が、わたしに電子ピアノを買うよう仕向けたのである。いったい自分のなかでなにが起きてしまったのか、この突発的な欲求は「呪い」とでも呼んだほうが遥かに正確なほど強く、わたしは来る日も来る日もピアノ曲のCDを聴きつづけては、練習さえすれば自分のレベルでもどうにか演奏できるようになりそうな作品のリストを作り、楽器もないまま楽譜を探し求め、いまにも紙に鍵盤の絵でも描きはじめそうな状態にあった。そんなとき、この本が新刊として目の前に現れたのである。
これまで読もうと思ったことは一度もなかったものの、青柳いづみこというピアニストのことをまったく知らないわけではなかった。彼女は、プレヴォー『マノン・レスコー』や、レニエ『水都幻談』の魅力をわたしに教えてくれた、青柳瑞穂の孫なのだ。だが、平凡社ライブラリーから刊行されている『青柳瑞穂の生涯』の著者として名前だけは認識していたものの、遺族が書いた作家や文学者の伝記というのは往々にしてあまりおもしろいものではないので、ほとんど気にも留めていなかった。さらに言えば、ピアニストにして文筆家、という夢のような肩書きも、夢のような肩書きである分かえって安っぽい商業広告のように響いた。なめていた、と言ってもいい。
結論から言って、わたしは大いに驚かされた。彼女の文章はたんなる「本も読むピアニスト」どころか、「ピアノをプロとして弾くこともできる文芸評論家」のものとして映ったのである。この『六本指のゴルトベルク』は、小説のなかで効果的に使われている音楽をピアニストの視点から分析する、という類の本なのだが、とりあげられている文学作品は古典から最近のミステリーまでじつに幅広く、その冊数は30冊以上。数が多ければよい、というわけではもちろんないのだが、その言葉づかいや小出しにされる文学知識の幅を見ていると、直接紹介されている作品たちの背後に、圧倒的としか言えない量の読書体験が潜んでいることがまざまざと見てとれたのだ。
「イギリスにおけるマジック・リアリズムの旗手アンジェラ・カーター『血染めの部屋』(富士川義之訳、ちくま文庫)の後書きを読んでいたら、とっても気になることが書いてあった。
「「マジック・リアリズム」というのは、もともと、20年代に、ドイツの「ノイエ・ザッハリヒカイト」(新即物主義)の芸術家たちの新傾向に対してあたえられた用語である。すなわち超現実的、ないし幻想的な出来事を、明確で、冷たい、動きの乏しい、微細に描かれた、輪郭の鮮明な、情緒に訴えることの少ないイメージを用いて、リアリズムの手法を手本にして描く傾向をいう。この用語が一般的になるのは、ボルヘス、マルケス、カルペンティエール、コルタサルなどのラテンアメリカ作家たちが国際的な人気を博し、彼らの小説の極めてユニークな特性を「マジック・リアリズム」と一括して呼ぶようになった60年代以降のことと言ってよい」(富士川義之)
イギリスでは1970年代以降の作家たちにこの傾向が顕著で、現実と幻想のあいだをたえず揺れ動き、過去、現在、未来を自在に往来し、夢が日常性とまざりあって風変わりなモザイク模様を織りなし、変幻きわまりない世界をつくりあげるという。
ウソー! と私は思った。ピアノの世界で「ノイエ・ザッハリヒカイト」と言ったら、テキストに忠実に、主観をさしはさまず、感情より理性に働きかけるような演奏態度のこと。たしかに「明確で、冷たい、動きの乏しい、情緒に訴えることの少ない」というところは共通しているかもしれないが、およそファンタジックではないし、ボルヘス、マルケスという名前から受ける印象とは正反対だ(どうしてこう、ことクラシックになるとものごとの捉えかたが突然クソおもしろくなくなるのだろう?)」(52~53ページ)
以上はアンジェラ・カーターの『血染めの部屋』がとりあげられる章からの引用である。「ボルヘス、マルケスという名前から受ける印象とは正反対だ」などという文章を、読書家でない人間に書くことができるだろうか。さらに、彼女はアンジェラ・カーターの短篇の内容を簡単に紹介しながら、ピアニストにしか書けないことも付け加える。
「狂乱状態で音楽室に戻った妻は、母親に電話をかけようとするが、線が切断されている。
ここで彼女がとった行動が、いかにも音楽家らしい。逃げるかわりに、ピアノを弾きはじめるのである。
最初のうちは指がふるえて思うように動かない。それでも弾いているうちに心が慰められ、一巻、二巻それぞれに二十四曲ずつあるバッハの『平均律クラヴィーア曲集』を片っぱしから弾くという「精神療法的な作業」にとりかかる。
一ヵ所のミスもなく全曲を弾き通したら、朝にはふたたび未婚の娘に戻っているにちがいない……と自分に言いきかせながら。
ピアノ弾きにとっては、現実よりも音楽のほうが正しい世界で、音楽がすべてを洗い流してくれるんですね」(57~58ページ)
「私はバッハがとても苦手なので、『平均律』なんか弾きはじめたら、さらに不安が増してどうしようもなくパニクってしまうにちがいない」(59ページ)
また、1789年7月14日に三人の芸術家たちが何をしていたかを検証したギィ・スカルペッタの小説『サド・ゴヤ・モーツァルト』を紹介した章には、こんな一節も。
「海外作家の場合、翻訳・紹介されてはじめて私たちの目に触れることが多い。サドは澁澤龍彦さんとともに我が家にやってきたから、何となく澁澤さんと同世代のように感じていたし、ゴヤも堀田善衛さんの三巻にわたる評伝の、威圧感のある黒い箱とともに本棚に鎮座ましましていたから、これまた何となく堀田さんと同世代のような気がしてしまう。対してモーツァルトは、首のまわりに変てこなカラーをつけ、頭に鬘をつけたこまっしゃくれた少年の肖像画として学校の音楽室に掛けられていたから、何となくものすごく古い時代の人のように思いこんでいたものだ」(206ページ)
ご覧のとおり、青柳いづみこの文章には気取ったところや衒学的なところがすこしもない。彼女が文学の専門家ではない、という点も、その文章を好ましくしている要素のひとつなのだろう。なにか専門の領域を持つ大学教授の著作などとは決定的に異なり、彼女の知識はたったひとつの軸をもとに展開されているわけではなく、もっとずっと広範で、作家たちの権威や文学的価値など、大学教授たちをがんじがらめにしがちな政治的偏見からもかけ離れている。つまり、彼女は広範な読書体験に裏づけられた文学趣味をもとに、言ってしまえば完全に自分の趣味を軸にして発言をしているのだ。これは、ヴァレリー・ラルボーが『罰せられざる悪徳・読書』のなかで語っていた理想「riche amateur(豊かな愛好家)」の典型であり、それは同時にわたしの目指す理想でもある。
彼女がケストナー好きというところも嬉しい。ケストナーが好きなひとに悪いひとはいない!
「私の誕生日は六月四日だ。虫歯予防デーに生まれたおかげで虫歯が一本もないのが自慢だが、この誕生日にはもうひとつ自慢がある。五月になおすと五月三十五日になることだ。『エーミールと探偵たち』で知られるドイツの児童文学作家ケストナーに、『五月三十五日』という作品がある。五月三十五日には、馬が口をきいたり洋服だんすの奥が南洋になっていたり、不思議なことが起きるという楽しいお話だ」(205ページ)
とはいえもちろん、直接的な文学研究ではないにせよ、彼女にだって専門はある(そのうえ、じつは彼女は大阪音楽大学の教授)。それは、ドビュッシーだ。
「実は私が研究するフランス近代の作曲家ドビュッシーが、この『パンの大神』を読んでいたのだ。ドビュッシーと交遊関係にあった詩人ポール=ジャン・トゥーレがマッケンの紹介者で、本国では大スキャンダルを起こした『パンの大神』を1901年に仏訳している。彼から訳書を贈られたドビュッシーは、たいそう喜んで礼状を書き、マッケンのことを「すばらしい才能」と評している。
トゥーレには、マッケンの影響下に書かれた『ポール氏』という小説もある。ドビュッシーはこちらも読んでいたらしく、ピアノ曲『子供の領分』の第四曲「雪は踊っている」はこの作品の雪のシーンにヒントを得たのではないかという研究者もいる。
雪のシーンといったって、サドまがいの猟奇の城から逃げてきた少女が、窓ガラスにぴったり顔をおしつけてあとからあとから降りつもる雪をじっと眺めているという情景だから、およそ牧歌的どころのさわぎではない(そういえば、サスペンス・ドラマなどで、ヒロインに危機が迫るシーンでよく「雪は踊っている」のメロディが流れる)。
ドビュッシーは、一般的には「印象主義音楽の創始者」ということになっていて、モネとかルノワールのあわあわした絵をひきあいに出されることが多いが、実際にはエドガー・ポーやE・T・A・ホフマン大好きという怪奇幻想派。麗子さんのお仲間なのだ」(132~133ページ)
最後に出てくる「麗子さん」というのは、澤木喬『いざ言問はむ都鳥』の登場人物の名前。ドビュッシーの文学に対する趣味については最近読み終えた彼女のほかの著作『音楽と文学の対位法』(なんて魅力的なタイトル!)にも詳しく書かれていたので、こちらもいずれ紹介したいと思っている。
彼女の専門はドビュッシーだが、偏愛している作曲家はベートーヴェンだという。
「私はドビュッシー研究家ということになっているが、実は作曲家ではベートーヴェンがダントツに好きである。なぜか?
彼ほど緊密に作曲した人はいないから。
ベートーヴェンの音楽のつくり方というのはあんこう鍋みたいなもので、まったく捨てるところがない。骨も皮もプリプリのゼラチン質も全部使いきってしまう。
モーツァルトやシューベルトに比べるとベートーヴェンは着想が豊かなほうではなかったと思うが、なけなしのモティーフを原型をとどめなくなるまで解体し、有機的に使いきる手腕はものすごいものがある。
ちなみに無駄使いの代表例はチャイコフスキーの『ピアノ協奏曲第一番』で、ピアノがジャーン、ジャーン、ジャーンと和音を鳴らしている間にオーケストラが奏でる「タララターンターンタ、ターンタタ……」というメロディなんて、たった一回しか使っていない。ドヴォルザークも同じで、「彼がゴミくず箱に捨てた旋律を拾えば、ふつうの作曲家ならいくつも交響曲が書けてしまう」と皮肉られている。
ベートーヴェンの仕事部屋のくず箱には、八分音符ひとつ残らないだろう」(179~180ページ)
この「ドヴォルザークのゴミくず箱」に関するくだりは、たしかブラームスの言葉だった。それにしても、「あんこう鍋」という喩え!
「というわけで、ベートーヴェンの音楽は弾くほうも緊張する。普通の作曲家は、「埋め草」といって、主要モティーフと和声のすき間を充填するためにわりとどうでもいい素材をもってきたりするものだが、ベートーヴェンの場合は「埋め草」ですら主要モティーフのなんらかの変形なので、まったく気がぬけないのである。
いつかテレビで、小さな箱をひとつひとつ山形に積み、どこまで高く積みあげられるかを競うゲームを見たことがある。山が高くなればなるほどほんの少しの振動でもくずれてしまうから、箱を載せる場所、バランスとタイミング、力のコントロールなどすべてに気を使う。
ベートーヴェンを弾いているときの気分がそれと同じである。すべての音に何らかの意味があり、ひとつでもおざなりにすると、それまで積み上げてきた大伽藍が崩壊してしまうような恐怖に襲われる。その恐怖がまた快感だったりするのだけれど」(180ページ)
婚約者を誘拐されたピアニストがベートーヴェンのピアノソナタ第29番「ハンマークラヴィーア」を弾くことを強要される、という筋書きの小説、永井するみ『大いなる聴衆』が紹介された章も印象的だ。
「何はともあれ、この第四楽章こそが、『ハンマークラヴィーア』の難所中の難所なのだ。ゆったりとした序奏のあと、三百八十小節にも及ぶ錯綜するフーガが展開される。
フーガというのは、要するに寄せ木細工のようなものだと思えばよい。ある主題が設定され、それを逆さにした逆行形、くるっとまわした転回形、ぐーんとのばした拡大形、ぎゅっとちぢめた短縮形などあらゆる形に変形させ、それを組み上げていく。
『ハンマークラヴィーア』の場合には、主題の最初に舌をかみそうなトリル(となりあった音をすばやく交替させる装飾音)がついていて、これがありとあらゆる場所で再現されるので、ピアニスト泣かせの楽章になっている。イタリアの名ピアニスト、マウリツィオ・ポリーニが1976年に完璧なディスクをつくるまでは、人類には演奏不可能と言われていたほど」(31~32ページ)
だがなんといっても、ベートーヴェン作品が効果的に使われた小説作品といえば、トルストイの『クロイツェル・ソナタ』だろう。同じ章で紹介されているジェームズ・エルロイ『レクイエム』には、こんなセリフが登場するそうだ。
「もう少し穏やかな音楽を聴けば、それがあなたの力になってくれるでしょう。ベートーヴェンはロマン派の音楽は、暴力を内に秘めた人の激しい感情を呼びさましがちなものです」(181ページ、エルロイ『レクイエム』からの引用)
すでにトルストイの『クロイツェル・ソナタ』を読んだことのあるひとには、このセリフのおそろしさがずっしりと伝わってくるにちがいない。トルストイにおいては、その危険な音楽が合奏されるのだ。
「妻とトルハチェーフスキイは早速モーツァルトのソナタを合奏する。ヴァイオリニストのほうがはるかに腕前が上なので、妻を助け導き、よいところを認めてはげます。古典のソナタはヴァイオリンが先にメロディを奏で、ピアノが応答する形が多いから、音楽を通じてむつまじい語らいをする場所はたくさんあったはずだ。
ここで大事なのは、彼らは何度か会い、親しくなったのちに合奏をはじめたのではないということだ。午前中に初めて会って、夜にはもう音楽なのである。これはとてもまずい。
普通の人間関係は、言葉を介して築かれる。見ず知らずの他人からスタートし、言葉をかわし、お互いの共通点を発見し、共感しあい、しかるのちに恋愛に至り、しばらくたつとやがて言葉がいらなくなり……というコースとをたどるのだが、音楽はすべての手順をすっとばし、二人の男女をいきなり「言葉がいらなくなった状態」に置く。貴族は、二人が「自分たちの位置や社会の節制を乗り越えて」ある密約を結んでしまったことに気づく」(183~184ページ)
「トルストイの小説を夢中になって読み、殺された妻にいたく同情したのが、チェコの近代作曲家ヤナーチェクである。彼は「妻に対する男性の専制」に抗議するため、その名もズバリ『クロイツェル・ソナタ』(1923)という弦楽四重奏曲を一週間で書き上げた。
弱音器つきの三弦で提示される陰鬱な循環主題と、それを勇気づけるチェとのモティーフ。第三楽章では、哀れっぽく許しを乞う旋律が、激しくかきならされる弦のパッセージでにべもなくはねつけられる。弦楽器の粘っこさを利用して嫉妬の感情を巧みに表現した音楽心理ドラマだが、終末部分にはほのかな光がさし、聴き手は救われる。
ロシア文学に精通したヤナーチェクには、他にもゴーゴリにもとづく小交響曲『タラス・ブーリバ』や、ドストエフスキーの『死の家の記録』にもとづくオペラなどがある。
ところで、文豪トルストイ自身も音楽を愛し、定期的にピアノのレッスンを受け、作曲もしていたことをご存じだろうか?
トルストイの書いた音楽として残っている『ワルツ ヘ長調』は、『クロイツェル・ソナタ』の悪魔性などみじんも感じられない、しゃれたサロン風の小品である。作曲家兼ピアニストであり、末はノーベル賞ともいわれる詩人で小説家……でおまけに豊満な美女というスーパーロシア人、レーラ・アウエルバッハのピアノでCDに収録されている」(187~188ページ)
また、同じくベートーヴェンに関連して忘れてはならないのが、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』。ここでもやはり、音楽を通じた語らいの効用と危険性、こう書いてよければ音楽を介しての「交歓」の力というものがまざまざと描かれている。
「煎じ詰めていくと、音楽家というのは言葉を信用していないんだと思う。言葉を越えた「会い方」を知ってしまっているから。ひとことも言葉を発しなくても、人間にはわかりあえる瞬間があることを――それは誰だって知っているだろうが、そういう瞬間を音楽を通していつも「体感」している種族だから」(246ページ)
「恋人同士がいくら抱きあっても、心まで抱きあっているとはかぎらない。肉体の接触より濃密な「魂と魂の接触」こそが、音楽の正体なのだ。音楽を演奏するとき、聴くとき立ちのぼってくるものなのだ。音楽が、人の心にしまわれている数々の秘めた思いをひきだす力をもっているのは、まさにこの作用のためなのだ。
『ジャン・クリストフ』は音楽家を主人公にした音楽小説だが、同時に、音楽現象というものを見事に言語化した作品でもある。クラシックはよくわからないから、とか長くてむずかしそうだから(たしかに……)という理由でこの書を遠ざけるのは、人類がつくりだした富のうちでもっとも豊かなものを知らずにすませることになるだろう」(252ページ)
音楽家というのは言葉を信用していない。江國香織が阿部和重の対談集『和子の部屋』のなかで「言葉しか信じられません」と告白していたのを思い出した。この対比は、個人的にかなりおもしろい。
青柳いづみこは、本職のピアニストにしか書けないこともふんだんに織りこんで、この評論集を彩っている。
「コンサート前の緊張というのは、やった人でなければわからないし、また、やった人でもなかなか伝えられないようなたぐいのものだ。というのは、本番前はこの世の終わりのような気分になるのに、ステージが終わったとたん、すっかり忘れてしまうからだ。
また、きれいに忘れることができなければ、次にまたくり返そうという気持ちにはとてもなれないだろう。
私の場合、極端に過敏になる。たとえば腕をどこかに軽くぶつけたりすると、普段は何でもないのに大きなあざとなってひろがる。そういうふうに感じるのではなく、実際にあざができてしまうのだ。肩出しドレスではみっともないので、ドーランを塗って隠す。
ドレスを着ると、決まってトイレに行きたくなる。着る前に用心して行っておいたにもかかわらず、もう一度行きたくなる。お腹が必ずゆるむから、整腸剤を飲みまくる。あっ、胃薬も。
袖からこっそり舞台を覗くと、巨大な黒いピアノの肌がゴキブリのようにつやつやと光って見える。生まれてこの方ピアノなんて一度も弾いたことがないような気分になる。あわてて楽譜を見るのだが、何千回、何万回と弾いてきた曲なのに、初めて読むテキストのようによそよそしい面構えをしている」(61~62ページ)
「頼まれて演奏に行って、出てきたピアノがホワイトだったりマホガニーだったりすると、嫌な予感におそわれる。ホワイトはジャズ用に調律されていることが多く、鍵盤が軽すぎて指がすべってしまうのだ。マホガニーのピアノは楽器よりは家具として扱われていることが多く、鍵盤が鉛のように重かったり、全然鳴らなかったりする。ときどき、椅子まで家具調で高さの調節がきかなかったり」(128~129ページ)
また、完璧に弾く、ということに対する強迫観念についても、興味深く読んだ。
「完璧に弾くということと「音楽になる」ことは必ずしも一致しないのも我々がいつも体験することだし、ある時期にすばらしく弾けていた曲がのちに同じように弾けるとも限らないので、エレンには限りなく同情してしまう」(20ページ)
「不思議なことに、一回ミスタッチすると、気分はとても楽になる。これはたぶん、ピアニストたちが「すべての音をあるがままに完璧に弾かねばならぬ」という完璧病にとりつかれているからだろう」(64ページ)
ピアニストたちを苛んでやまない完璧病の理由は、以下のジャン・エシュノーズの言葉に要約されているだろう。
「作者のエシュノーズが来日したとき、インタビューでそのシーンについてきいてみたら、彼は苦笑いしながら「クラシックのピアニストって、どう考えても妙なシチュエーションに置かれているよね」と言ったものだ。
「自分がつくったのでもない曲をすみからすみまで暗記して弾かなければならず、作曲家と作品に対して責任を負わされている」」(214ページ)
完璧病の進行具合はピアニストによってもさまざまなようだが、もはや障害と呼ぶしかないような重度のレベルに達する例も多いことがわかる。そのひとつの例として挙げられるのは、エルフレーデ・イェリネクの『ピアニスト』。幼いころからピアニストになることを嘱望され、そのための教育を絶えず受けさせられながら、ついにプロになれなかった悲劇的な例である。
「エレーヌ・グリモーもツィメルマンもミケランジェリも、強迫的な性格をむしろキャリアに活かしている。悲劇なのは、エリカのように、ピアノの勉強で強迫性障害を昂進させられながら、ついにプロになれなかったケースではないだろうか(きっといる、ものすごくたくさんいる)。
『ピアニスト』は、霊感に恵まれなかった子供が、本人の意に染まない、人工的な教育を継続して受けたときにどんなゆがんだ反応を示すものかということについての絶好の臨床報告書でもある」(76ページ)
カラオケに対する彼女自身の体験も、この完璧病がもたらす害の一例なのかもしれない。
「クラシックの音楽家などという人種は特殊能力を備えたナントカ星人みたいなものだ。パトカーのサイレンも救急車のピーポーいう音も、きちんと楽譜に並ぶ音符として聞こえる。お母さんが子供を叱るどなり声もメロディのように聞こえる。
一度、失敗してしまった。書評委員にはカラオケの好きな方が多く、会がはねたあと店にくり出す相談をしている。皆さん、歌は好きなのに楽譜は読めないらしく(小・中学校の音楽教育は何をやってるんだ!)、持ち曲はテープをまわしてくりかえし聴いておぼえてしまうという。歌謡曲やポップスは大好き(ついでに演歌も……)だが、目の前に楽譜がないと何も歌えない私などは足手まとい以外の何物でもない。
ひそかにそんなことを考えていたら、「ねぇ、青柳さんも行きましょうよ」とどなたかが誘って下さり、思わずこんな言葉が口をついて出た。
いいですけど、私、ちょっとでも音程が狂うと気になって仕方ないですから……。委員会一同、大いにずっこけたことは言うまでもない」(77~78ページ)
完璧病にかぎらず、青柳いづみこは一見華やかなクラシック業界に潜む深刻な問題点を、いくつも告発している。なにせ、こんにちのピアニストたちは、「有名音大を出ても海外に留学しても国際コンクールに入賞しても、一流オーケストラと共演してすら食べていけない」のだそうだ(167ページ)。その構造的欠陥は明らかで、現代の音楽家たちはかなり厳しい状況に立たされている。芸術にまで常に金勘定の論理を当てはめようとするから、こんなことになってしまうのかもしれない。
「ピアノは図体が大きいため、会場に備えつけられた楽器を弾くのが普通だ。しかし、ヴァイオリンは自分で自分の楽器を持ち歩く。声楽家は自分の声が楽器だから、ヴォイス・トレーニングに精を出し、技術を磨く。トレーナーや師事する先生の発声法次第で声質が変わったり、今まで出せなかったような声が出たりする。
ヴァイオリンだってボーイング(運弓法)や運指の技術を磨くし、師事する先生のメトード次第で音質が変わったりレパートリーが変わったりするわけだが、その上に、声楽家にとって「声帯」に当たる部分をお金を出して買わなければならないのだ。その額がまた、ウン千万とも億とも言われる。
もし子供がヴァイオリンで素質を示したら、両親は先祖伝来の田畑を売り払う覚悟をしなければならない。運良く田畑があればよいけれど……」(137ページ)
声楽、ということに関して言えば、歌手たちの力について書かれた文章も感動的だった。以下は、アン・パチェット『ベル・カント』を紹介した章から。
「何も道具を使わず、マイクも通さず、天性の素質と訓練と節制によって巨大な歌劇場のすみずみにまで響きわたる人声の力は圧倒的だ。ピアニストは、間違っても歌手とジョイント・リサイタルなど開かないほうがいい。どんなにテクニックを弄しても、目にも止まらぬ早業で鍵盤の端から端までかけぬけても、三十分もかかる大作をミスひとつなく弾き終えても、オペラのアリアの、たった二分の歌唱、たった一本のメロディにかなわないのである」(90ページ)
クラシック音楽のピアニストにしては珍しく、青柳いづみこはジャズについても大いに語っている。わたしは、具体的になにをしたら音楽がジャズとなるのかがいまいちわかっていないので、いちど詳しく調べてみたいと思った。即興演奏とジャズの関係性。たとえばショパンのピアノ曲の多くは、もともと即興演奏だったのを楽譜に記したもの、と伝えられているし、音楽ジャンルとしての境界線がどこにあるのか、ほんとうにわからない。ジャジーなリズムやコード進行、というものはあるけれど……。
「レコード会社のディレクターやマネージャーたちは、てっとりばやくクラシック畑からジャズメン候補生をさがす。
あるとき、昔の教え子で、美形が多い音大のピアノ科でもとびきりの美人&スタイル抜群さんがため息まじりに、先生、ジャズにころべばデビューさせてやるって言われてるんですけど、どうにもふんぎりがつかなくて……と言っていた。
いっぽうで楽しそうでいいなぁと羨ましがっているのに、ジャズに転身することを「ころぶ」と表現する、クラシック界のねじくれたメンタリティはつくづくこわいと思う」(96ページ)
「バロック時代には、そもそも楽譜には真っ白な音符しか書かれていなくて、プレイヤーも兼ねる作曲家はその場の感興に応じて自由に装飾を加えて弾いていたのだ。ウィーン古典派時代になっても、モーツァルトやベートーヴェンは即興演奏の名手として鳴らした。ベートーヴェンが『ピアノ協奏曲第四番』を初演したときだって、譜めくりをした弟子のチェルニーがのぞいてみたら、楽譜には簡単な記号のようなものしか記されていなかったという」(100ページ)
演奏に関するヒントも多く、以下のグールドの意見などはとても印象深かった。「指づかいが楽譜の指示とちがう!」とだれかに言われたときの言い訳として、記憶に留めておきたい。
「グールドは、あらかじめ定められた指づかいに真っ向から異議をとなえる。自分は、楽譜に指番号を書きこんだこともなければ、楽譜の指示通りに弾いたこともない。それどころか、「同じ運指で三度と」弾いたこともない。楽器が変われば指づかいも組みなおさなければならない。すべては果てしなく相対的なのだ。
運指法は時代によっても相対的だ。十六、七世紀の鍵盤楽器では、ごく稀にしか親指と小指を使わず、使うのは真ん中の三本だけ。右手で上がるときは中指と薬指、下がるときは中指と人さし指を交替でつけるのが普通だった。ベートーヴェンの弟子だったチェルニーなどは、五本の指を均等に訓練するマゾヒスティックな練習曲をたくさん書いたわけだが、バロック期はもう少しのんびりしていて、よく動く指は「よい指」、あまり動かない指は「悪い指」とされて、一番「よい指」である中指を中心に指づかいを考えたものらしい(ところで、私は中指の動きが鈍く、ちっとも「よい指」ではないのだ!)」(14~15ページ)
ピアノが効果的に使われている文学作品のなかでは、何年間もピアノを弾かずにいた名人が、なんらかのきっかけでふたたび鍵盤と向き合う、というシーンが多いように思える。たしかにこれほどドラマチックな展開はそうそうないので、作家たちが誘惑に駆られてしまうのも頷ける。わたしなんかは一日弾かずにいただけでも指が鋼鉄のように固まってしまうので、年単位で間隔が空いてしまったときにどんな事態になるのか、想像もしたくない。
「二年間も楽器から遠ざかっていたプロの奏者の心理はどんなものだろう。一刻も早く楽器にふれたいような、ふれるのがこわいような、複雑な気持ちになるにちがいない。楽譜はすっかり頭の中にはいっているし、指のほうも、体操とイメージトレーニングで柔軟性を保つように努力はしてきた。それでも最初のうちは指が思うように動かず、いろいろなところでつまずくことだろう。じっくり腰を落ち着けて勘をとりもどし、「頭の中で聞こえている理想の音を現実の音楽に翻訳する術」を学んでいこう」(24ページ)
「久しぶりにピアノを弾くと、まず指の各関節がふくれたようになってうまく動かすことができないような感覚に襲われる。瓦礫の中で二年ぶりにピアノを弾いた『戦場のピアニスト』のシュピルマンが、そうだった。
垢にまみれた指。長いこと切っていない爪が鍵盤に当たってカチカチ音をたてる。鍵盤は鉛のように重たく、アクションも錆ついたように感じる。音はこもっていて、湿ったクラッカーのようだ。
しかし、ものの五分も手ならししていたら、きっと指はすっきりとシェイプアップし、すごいスピードでタッチできるようになるだろう。それにつれて鍵盤も軽やかに動くようになるだろう。身体におぼえこませたものは、そうは簡単に消えてなくならない」(149ページ)
でも、たしかに以前に弾いたことのある曲は、記憶にはなくても身体に染みついているものなのだ。ある曲を久しぶりに弾こうとするとき、曖昧な記憶を頼りに頭で考えながらはじめてみたものが、途中から指の勝手な動きを頭で追いかける、という逆転現象に転じていることは、よくある。それで最後まで通して弾きこなせたことなど、一度としてないのだけれど。
音楽を題材にした小説がこれほどたくさんある、という安心感。この本を起点にいくつもの名作と出会うことができる、という確信。音楽と文学の両方を愛してやまないひとには、手放しに薦められる一冊だ。どちらか片方にしか興味を持っていなかったひとは、もう片方への関心を大いにかきたてられることだろう。この本の真価は計り知れない。わたしも、新しい扉が開いた気分になっている。
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エルフリーデ・イェリネク『ピアニスト』
- 作者: エルフリーデイェリネク,Elfriede Jelinek,中込啓子
- 出版社/メーカー: 鳥影社ロゴス企画部
- 発売日: 2002/02
- メディア: 単行本
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小川洋子『余白の愛』
アン・パチェット『ベル・カント』
- 作者: アンパチェット,Ann Patchett,山本やよい
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2003/03
- メディア: 単行本
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ポーラ・ゴズリング『負け犬のブルース』
ジャン・エシュノーズ『ラヴェル』
奥泉光『鳥類学者のファンタジア』
澤木喬『いざ言問はむ都鳥』
アーサー・マッケン『パンの大神』
Paul-Jean Toulet, Monsieur du Paur, homme public
Monsieur de Paur, Homme Public
- 作者: Paul Jean 1867 Toulet,Pierre-B Nigne Du 1823-1883 Paur
- 出版社/メーカー: Nabu Press
- 発売日: 2011/09/01
- メディア: ペーパーバック
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篠田節子『マエストロ』
クリスチャン・ガイイ『ある夜、クラブで』
- 作者: ウワディスワフシュピルマン,佐藤泰一
- 出版社/メーカー: 春秋社
- 発売日: 2003/02/01
- メディア: 単行本
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クリスチャン・ガイイ『さいごの恋』
- 作者: クリスチャンガイイ,Christian Gailly,野崎歓
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2006/08
- メディア: 単行本
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ケイト・ロス『マルヴェッツィ館の殺人』
パトリック・バルビエ『カストラートの歴史』
皆川博子『死の泉』
ドミニック・フェルナンデス『ポルポリーノ』
ジェイムズ・エルロイ『レクイエム』
ヘレナ・マテオプーロス『マエストロ』
叢書 20世紀の芸術と文学 マエストロ 第1巻 ヘレナ・マテオプーロス(著)/石 (叢書・20世紀の芸術と文学)
- 作者: へレナマテオプーロス,石原俊
- 出版社/メーカー: アルファベータ
- 発売日: 2004/08/07
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叢書 20世紀の芸術と文学 マエストロ 第3巻 (叢書・20世紀の芸術と文学)
- 作者: ヘレナ・マテオプーロス,石原俊
- 出版社/メーカー: アルファベータ
- 発売日: 2007/11/24
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デヴィッド・デュバル『ホロヴィッツの夕べ』
アポリネール『アルコール』
島田雅彦『ドンナ・アンナ』
ルーペルト・シェトレ『指揮台の神々』
ジョン・ガードナー『マエストロ』
篠田節子『ホーラ 死都』
ディケンズ『アメリカ見聞録』
ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』
宇野浩二『苦の世界』
バルザック『従兄ポンス』
従兄ポンス―収集家の悲劇 (バルザック「人間喜劇」セレクション)
- 作者: オノレ・ド・バルザック,Honor´e De Balzac,柏木隆雄
- 出版社/メーカー: 藤原書店
- 発売日: 1999/09/30
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アンデルセン『豆の上に寝たお姫さま』
- 作者: ハンス・クリスチャン・アンデルセン,ドロテー・ドウェンツェ,ウィルヘルムきくえ
- 出版社/メーカー: 太平社
- 発売日: 1985/01
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- 作者: マルグリット・デュラス,田中倫郎
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 1985/05/01
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アンドレイ・マキーヌ『ある人生の音楽』
- 作者: アンドレイマキーヌ,Andre¨i Makine,星埜守之
- 出版社/メーカー: 水声社
- 発売日: 2002/12
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伊坂幸太郎『魔王』