夢の通い路
ひょんなことから、最初の一篇「花の下」を読む機会があり、最後まで読んでみたいと思った連作短篇集。自分にとっては二冊目の倉橋由美子。
親本のハードカバーでは旧仮名遣いだったのが、文庫化にあたって新仮名遣いに改められ、そのため書名も『夢の通ひ路』から『夢の通い路』となっている。それが原文の雰囲気を損なっていると言う人がいるのはもっともなことだけれど、読者の間口を広げるには、こちらのほうが手に取りやすいことは確かだ。旧仮名遣いの日本文学にほとんど触れてこなかったわたしとしては、正直、嬉しい。翻訳文学のくせに旧漢字旧仮名遣いのままの古い岩波文庫も、どうにかしてほしいと思っている。
この連作短篇集は、以下のみごとな書き出しからはじまる。
「夜が更けて犬も夫君も子供たちも寝静まった頃、桂子さんは化粧を直して人に会う用意をする。誰にも話していないことであるが、それは別に秘密にしておく必要があってのことではなくて、話す必要がないので黙っているだけのことである。大体、別の世界があってそこの人たちと付き合っているというような話を理解してもらうのは、考えただけでもむずかしい」(「花の下」より、10ページ)
まったくもって、この作家はなにをはじめるかわからない。ぜんぜん予想がつかないのだ。そのおそろしさを、最初の一文だけで読者に伝えてしまうというところも、おそろしい。読んでいると、どんどんおかしな方向へ話が膨らんでいく。
「迂闊な話ながら、桂子さんは佐藤さんが西行であったことを改めて思い出した。とはいうものの、西行、あるいは佐藤義清という名前はこの佐藤さんには余り似合わないと思う」(「花の下」より、11ページ)
「「黒猫の女」は、つややかな毛に覆われた背中を見せながら、鏡に向かって座り、前脚を、いや腕を上げて、優雅な菱形をつくりながら髪をとかすしぐさをする。それから化粧品を並べて化粧にとりかかった。猫の顔にどんな化粧をするのかしら、と桂子さんは妙な興味を抱いた。猫には口紅を引くような唇があっただろうか。そんなことを思っているうちに、黒い猫は戸棚から薄紫のローブのようなものを出して羽織ると、二本足歩行で部屋を出ていった」(「黒猫の家」より、116ページ)
あきらかにおかしなことが起こっているのに、その原因を追究するような人がひとりもいないのは、まるでカフカの世界だ。倉橋由美子も、それを確実に意識している。その証拠が以下の一節だ。
「通りがかりに犬のオドラデクの頭を撫でてやったが、よく眠っていて目を覚ます気配もない」(「花の下」より、10ページ)
この「オドラデク」というのはもちろん、カフカの短篇「家父の気がかり」に出てくる、生きものなのかそうでないのかもわからない、つまりなにもかもよくわからない物体の名前だ。先日『聖少女』を読んだときにも思ったことだけれど、倉橋由美子は文章の至るところに、読書体験の片鱗を混ぜ込ませている。わたしに倉橋由美子を薦めてくれた人は、それを「目くばせ」と呼んでいた。
「桂子さんは、これまでに自分のところから三冊ほど翻訳を出しているハンガリーの女流作家と英語にフランス語をまじえて話をしながら、時々その貴婦人の様子を窺っていた」(「赤い部屋」より、124ページ)
ハンガリー出身なのにフランス語で話すのなら、これはもうどう考えても『悪童日記』で知られるアゴタ・クリストフのことだろう。そもそも日本で三冊も翻訳が出ているハンガリーの女流作家など、アゴタ・クリストフ以外にはいそうもない。しかもこの女流作家、物語の進行とはまったく関係ないのだ。まさしく「目くばせ」である。
とはいえ、この連作短篇集に関しては、読書の体験が「目くばせ」だけに使われているわけではない。主人公の「桂子さん」は、一篇につきだいたい一人か二人、「あちらの世界」の住人と出会うのだが、それが過去の著者であったり、物語の登場人物であったりするのだ。
「「定家さんは意外にベートーヴェンがお好きなんですね」と桂子さんは言った。ある若いポーランド人のピアノ・リサイタルでベートーヴェンの後期ソナタ二曲を聴いたあとの食事の時のことである。
「私がドビュッシーあたりが好きだと思ってらっしゃったんでしょう。ところがさにあらずです」と定家さんは言った。「微妙な色の音の霞が漂うようなのより、力強くて建築的な構造の見えるのが好きです」」(「慈童の夢」より、42ページ)
「佐藤さんのようなあちらの世界にいる人と自分の意思で会うには、さしあたりその人のことを念ずるよりほかに仕方がなくて、桂子さんは久しぶりに『山家集』などを開いて佐藤さんの歌を読み返してみた」(「遁世」より、95ページ)
書いているときは楽しかっただろうなあ、と思う。自分に日本文学の知識がぜんぜんないことを悔しく思った。能のことなど、ほとんどなにも知らない。和歌は好きだけれど、知識はまったくない。しかも、倉橋由美子はそこにとんでもないほど自分の意見を織りこんでくるので、知ってさえいればとても興味深く読めるであろう箇所が、自分に知識がないために、途端にしらけたものになってしまう。ちょうど自分に不案内な話題で盛り上がっている人たちを、横から眺めているときのように。
とはいえ、詰めこみすぎている部分もあると思う。「紅葉狩り」と題された作品に見られる会話などは、ちょっとやりすぎだ。これも「桂子さん」が主人公であることに変わりはないのだけれど、ほかの作品群に比べるとずいぶん浮いて見える。これより前のページに収められた作品ですでに会っているはずの人物と初対面になっているあたり、どうも別の時期に独立した作品として書かれたものらしい。会話に矛盾している点もあるし、あまり良い作品とも思えなかった。
全体では二十一篇が収められているのだけれど、最初の「花の下」から「蛍狩り」までの十六篇が、前後のつながりのある連作として書かれたもののようで、「紅葉狩り」と以後の四篇は少し毛色が違う。表題作「夢の通い路」を含む最後の四篇には、「桂子さん」も登場してこない。
「「今夜は十何万年分もタイム・トラベルをさせていただいたみたいです。まだ頭の中に時差が残っている感じです。でも、この変な話が世間に広まったとして、人々の考え方は変わるものでしょうか」
「大して変わりはしないでしょうね。人は自分の理解したくないことを理解しない」」(「蛇とイヴ」より、196ページ)
「「ママ、学校へはもう行かない。これからは猫のポザイと二人きりで暮らすから」
「猫と二人きりということはないでしょう」と篠田夫人が当惑した顔で言った。
「じゃあ二匹きりで」と和美が言い直した」(「猫の世界」より、215ページ)
倉橋由美子の作品を読むとき、登場人物たちの会話はとても楽しみな要素のひとつだ。奇妙な発言がもっと奇妙な発言によって応えられている。
「「女の頭はとても単純にできているから、先生からは何もかもお見通しでしょう?」
「ということにしておこう。その代わり、女の体は複雑怪奇な楽器みたいで、どこをどう弾いたらいい音が出るのかわからない」
「ヒントを差し上げます。私の場合、弾くというよりも吹けばいいんです。吹いて、うまく振動させれば音が出ます。どうやら私は鍵盤楽器や弦楽器ではなくて管楽器のようですから」」(「夢の通い路」より、244~245ページ)
それから、「交歓」。倉橋由美子の描くセックスは、どうしてこれほどいやらしさを感じさせないのだろう。まるで『小鳥たち』のときのアナイス・ニンのようだ。秘密はその「植物性」にある気がする。彼女は『聖少女』でも「植物同士の弱アルカリ性のアガペーがぼくたちの接触した部分をとおして交流した」と書いていたではないか。「肉欲」といういかにも動物的な言葉は、彼女の描くセックスにはあたらないのだ。
「長く続くこの陶酔は、何もかもが緑の液体になっての交わりにふさわしく植物的な性質のもので、肉の交わりにありがちな動物的な狂乱とはおよそ縁がない。ゆるやかな時間の流れとともに陶酔は深まり、静かな歓喜に身をふるわせるかのように桜はとめどなくその花を散らした」(「花の下」より、15ページ)
「桂子さんはその後深草院らしい人に抱かれていた。というより、虫にでもなって花の部屋に閉じこめられた感じである。桂子さんが華やかな蝶なら、院は花の中で蝶を迎える鋭くとがった雄蕊のようで、それが桂子さんに正真正銘の男性を感じさせた」(「花の部屋」より、22ページ)
読書をしていると、思考がぶわっと飛んでいってしまうことがある。手のなかの書物から受けとったイメージがページから離れて、意識をあらぬ方向へと連れ去ってしまうのだ。この作品集はきっと、作家のそんな体験から生まれたにちがいない。またしても、不思議なものを見せられた。
<読みたくなった本>
カフカ『断食芸人』
ベディエ編『トリスタン・イズー物語』
ヴェルヌ『カルパチアの城』
カルパチアの城 (集英社文庫―ジュール・ヴェルヌ・コレクション)
- 作者: ジュールヴェルヌ,Jules Verne,安東次男
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レ・ファニュ『吸血鬼カーミラ』
アポロニオス『アルゴナウティカ』
サキ『サキ短篇集』