Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

クロイツェル・ソナタ/悪魔

 青柳いづみこ『六本指のゴルトベルク』で紹介されていて、どうしようもなく読みたくなった本、そのいち。19世紀のロシア文学を読むのはじつに久しぶりのことだったので、ページを開く前からとてもわくわくした。

クロイツェル・ソナタ/悪魔 (新潮文庫)

クロイツェル・ソナタ/悪魔 (新潮文庫)

 

トルストイ原卓也訳)『クロイツェル・ソナタ/悪魔』新潮文庫、1974年。


 いま、音楽を聴きながらこれを書いている。曲はもちろんベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第九番「クロイツェル・ソナタ」だ。奏者はアルテュール・グリュミオークララ・ハスキルで、1956年の録音。たぶん、というかほぼまちがいなくモノラル録音なのだけれど、そんなことはちっとも気にならない。むしろ、ヴァイオリンのピッチカートですらピアノの旋律に溶け込んでいて、それがいっそうこの曲の悪魔的な響きを強めていると言ってもいい。

 トルストイが書いた「クロイツェル・ソナタ」のなかで題材となっているのは、このベートーヴェン作品の第一楽章だ。ちなみに、青柳いづみこが書いていたとおり、ヤナーチェクが書いた弦楽四重奏曲第一番「クロイツェル・ソナタ」は、トルストイのこの小説が題材となっている。同じ「クロイツェル・ソナタ」という名を持った、ヴァイオリン・ソナタと小説と弦楽四重奏曲があるのだ。ベートーヴェンにこの曲を献呈されたヴァイオリニストのルドルフ・クロイツェルは、まさか自分の名が後世においてこれほど広範に、それも複数の芸術にまたがって残ることになるなんて思ってもみなかっただろう。

 だがもちろん、トルストイの書くものがただの音楽礼讃に終始するわけがない。このブログでは四年も前に『イワンのばか』を紹介したことがあるけれど、あのときにも書いたとおり、晩年のトルストイはひたすらに説教くさいのだ。とりわけこの文庫に収められた二篇はどちらも性愛をテーマにしているとあって、その説教くささにはさらに拍車がかかっている。ただ音楽にのみ興味のあるひとが読んだら、度肝を抜かれるだろう。ひとによっては、音楽が出てくる場面にまでたどりつけないかもしれない。

「弁護士は、今や離婚問題がヨーロッパの世論を占めていることや、わが国でも同じような事態がふえる一方だということなどを話していた。きこえるのが自分の声だけなのに気づいて、弁護士は話を打ち切り、老人に声をかけた。
 「昔はこんなことはありませんでしたね、でしょう?」こころよい笑顔を見せて、彼は言った。
 老人は何か答えようとしたが、このとき、列車が動きだしたので、ハンチングをぬぎ、十字を切って、小声でお祈りを唱えはじめた。祈りを終え、十字を三度切り終ると、老人はハンチングを深くまっすぐにかぶり、座席の上で姿勢を正して、話しだした。
 「そりゃ、あなた、以前にもありましたけれど、ただ今より少なかったですね」老人は言った。「今の時代ではそういうことがなければふしぎですよ。なにせ、ひどく教育のある人間ばかりになってきましたからね」」(「クロイツェル・ソナタ」より、12~13ページ)

 発端は汽車のなかで語り手が出くわした、離婚問題に関するなにげない議論だった。たまたま乗り合わせた客同士のあいだの、相手をやりこめてやろうとまではだれも思っていない、退屈しのぎのための談話。だが、語り手と相席していた紳士ポズドヌイシェフには、これは黙っていることのできない議題だった。彼は嫉妬に狂った挙句に妻を殺した男だったのである。ほかの人びとがこの場違いな男から距離を置いたのち、ポズドヌイシェフは語り手に、自分が身をやつしていた放蕩三昧の日々、それを母胎にして生まれた性に対する自身の考え、そして事件の顛末を語って聞かせるのだ。

「兄の友達に陽気な大学生がいたのですが、これがいわゆる気立てのいい若者というやつで、つまり酒も博打もわれわれに教えこんだ、極めつきの不良でしてね。酒を飲んだあと、あそこへ行こうと、わたしたちを口説きおとしたのです。わたしたちはくりだしました。兄もまだ童貞だったのに、その晩、堕落してしまったのです。十五の少年だったわたしも、自分のしていることの意味もまるきりわからぬくせに、自分自身を汚し、一人の女を汚すことに力をかしたのでした。なにしろ、わたしのしたようなことがわるい行いだなんて言葉は、年長者のだれからもきかされていませんでしたからね。今だって、だれ一人耳にしないでしょうよ。なるほど、たしかに聖書の戒律にそういうことは記されていますけれど、あんな戒律は試験のとき神父さんに答えるのに必要なだけで、それとてたいして必要なわけじゃなく、ラテン語の条件法でutを用いるというきまりには、とうてい及ばぬくらいですよ」(「クロイツェル・ソナタ」より、33ページ)

「忘れもしませんが、わたしはまだ部屋から出もしないうちに、すぐにその場で、うら悲しい、めいった気持になって、泣きだしたくなったものです。童貞の喪失や、永久に滅びてしまった、女性に対する関係、などを泣きたくなったのです。そう、女性に対するごく自然な、気取らぬ関係は、永久に滅びてしまったのです。あれ以来、女性に対する清い関係は、わたしにはなくなりましたし、ありえなくなったのです」(「クロイツェル・ソナタ」より、36ページ)

 ポズドヌイシェフ、つまりトルストイの考えはじつにストイックで、極端だ。彼によれば、人類を不幸に陥れるあらゆる原因は、性的な欲望にある。その論理はじつに明確で、すこしも古さを感じさせないどころか、現代においてもそのまま当てはまることばかりだ。

「ふしぎなことに、美は善であるという完全な幻想が、往々にして存在するものです。美しい女が愚劣なことを言った場合、それをきいても愚かさは見ずに、聡明さを見るのです。その女が醜悪なことを言ったり、したりしても、何か愛すべきことのように思うのです。女が愚かなことも醜悪なことも口にせず、しかも美人だったりしようものなら、すぐさま、奇蹟のように聡明で貞淑な女性だと信じこんでしまうものですよ」(「クロイツェル・ソナタ」より、40ページ)

「われわれ男性が知らぬだけで、しかも知ろうと思わないから知らないだけで、女たちは、このうえなく高尚な、われわれのいわゆる詩的な愛とやらが、精神的な価値によって左右されるわけではなく、肉体的な親密さや、さらにはヘアスタイルとか、ドレスの色や仕立てでどうにでもなることを、実によく知っているんです」(「クロイツェル・ソナタ」より、42~43ページ)

 性愛についての議論、ということでは、ジョルジュ・バタイユのいくつかの著作を思い出すひともいるだろう。この本を読んだ直後に『空の青み』を読んだら、読者の内部にいったいどんな化学反応が起こるのだろうか。

「どの小説にも、主人公たちの感情や、彼らの散歩する池や茂みなどがことこまかに描写されています。しかし、一人の娘に対する彼らの偉大な愛情を描きながら、その興味ある主人公の身にそれまでどんなことがあったかについては、何一つ書かれないのですからね。売春宿にかよったことや、小間使だの、女中だの、人妻だののことは、一言も語られないのです。かりにそういう不謹慎な小説があるとしても、いちばんそういうことを知る必要のある人間、つまり若い娘たちには、あずけないんですよ。最初のうちは娘たちの手前、わたしたちの都会や農村の生活の半分を充たしている、こうした淫蕩なぞ、まったく存在せぬようなふりをしましてね。そのうち、そうした偽善にすっかり慣れて、しまいにはイギリス人のように、われわれはみな道義的な人間であり、道義的な世界に暮らしているのだと、自分でもまじめに信じるようになるのです。娘たちこそかわいそうなもので、まったく本気でそれを信じこむのですからね」(「クロイツェル・ソナタ」より、41ページ)

「われわれの社会の女性は、売春宿の女などとは違う欲求によって生きていると、あなたはおっしゃるのですね。わたしは、そんなはずはないと申しあげて、それを証明してごらんにいれます。もし人間が人生の目的や、人生の内容によって、さまざまであるとしたら、その差異は必ず外面にも反映して、外面もさまざまになるはずです。ところが、みなに軽蔑されるあの不幸な女たちと、いちばん上流社会の貴婦人たちとを、見てごらんなさいまし。装いも同じなら、ファッションや香水も同じ、腕や肩や胸をあらわにする点や、ヒップを強調するためのパットも同じなら、宝石や高価な華やかな品物に対する情熱も、気晴らしやダンス、音楽や歌もまったく同じじゃありませんか。向うがあらゆる手を使って誘惑しにかかっているように、こっちも同じことをしているんです。何の違いもありませんよ。厳密に定義すれば、短期間の売春婦はふつう軽蔑され、長期の売春婦は尊敬される、と言うしかありませんね」(「クロイツェル・ソナタ」より、44ページ)

 ポズドヌイシェフの論理から導かれる結論はただひとつ、性欲を徹底的に抑えこむこと、放蕩を根絶することである。

「梅毒の治療に注がれる努力の一パーセントなりと、放蕩の根絶に向けられてさえいれば、梅毒なぞとうの昔に影をひそめていたでしょう」(「クロイツェル・ソナタ」より、35ページ)

「これじゃ、散歩道や道路という道路にありとあらゆる罠を張りめぐらすのと、まったく同じじゃありませんか、いや、もっと悪質ですよ! いったいどういうわけで、賭博が禁じられていながら、女たちが性欲を挑発する、売春婦のような服装をすることは禁止されないんでしょう? そのほうが千倍も危険なのに!」(「クロイツェル・ソナタ」より、52~53ページ)

 これらの箇所を読んだ男には、沈黙を守るくらいのことしかできそうもない。女性が読んだら、いったいどんな感想を抱くのだろうか。たとえば倉橋由美子が読んだとしたら? かなり興味がある。

「動物たちは、さながら子孫が自分らの種族を存続させることを承知しているかのように、この面では一定の法則を守っています。人間だけがそれを知らず、また知ろうともしないんですよ。そして、できるだけ多くの快感を得ようなんてことにばかり、心を砕いている始末なんだ。しかも、それがだれかと思や、万物の霊長たる人間なんですからね。いいですか、動物が交尾するのは子孫を作りうる時期に限られています、ところが、汚らわしい万物の霊長は時を選ばずで、快感さえ得られりゃいいって始末ですよ。そればかりじゃなく、こんな畜生道を珠玉の創造物にまで、愛にまで、高めるのです」(「クロイツェル・ソナタ」より、74ページ)

「悪魔の奸知を見てください。快楽だの、楽しみだのというんなら、はっきり、楽しみなんだとか、女は甘美な肉の塊だとかと認めたらよさそうなものですがね。そうじゃないんです。最初は騎士たちが、女を神格化するなんて主張しましたし(いくら神格化したって、やはり快楽の道具として見ているんですが)、このごろじゃ女を尊敬するなんて言い張る始末ですよ。席を譲ったり、ハンカチを拾ってやったりする者もいれば、女性がすべての職務につく権利だの、参政権だのを認める連中もいます。そういうことはすべて実行するくせに、女性観だけは相変らず昔のままなんですからね。女は快楽の道具なんです。女の身体は快楽の手段なんですよ」(「クロイツェル・ソナタ」より、76ページ)

 ところで、性交はもちろん種の保存のためにも必要なものである。禁欲の徹底は人類を滅ぼすことにつながるのではないか、という語り手の問いかけに対するポズドヌイシェフの反応はじつに興味深く、同じ著者の『人生論』を思い出させた。

「「どうすれば人類は存続するだろうと、あなたはおっしゃるんですね?」またわたしの向い側に腰をおろし、両足を大きくひろげて、その上に両肘を低くつくと、彼は言った。「なぜ人類が存続しなけりゃならないんです?」彼は言った。
 「なぜですって? さもなけりゃ、われわれはいなくなってしまうじゃありませんか」
 「じゃ、なぜわれわれが、いなければならないんです?」
 「なぜですって? 生きるためですよ」
 「でも、なぜ生きていかなければいけないんですか? かりに何の目的もなく、人生のために生命が与えられたのだとしたら、生きてゆく理由なぞありませんよ。もしそうだとしたら、ショーペンハウエルや、ハルトマンや、それにすべての仏教徒たちは、まったく正しいわけです。また、もし人生に目的があるとしたら、その目的が達成されたときに人生が打ち切られねばならぬことは明らかです。そういうことになるでしょう」」(「クロイツェル・ソナタ」より、59~60ページ)

 ポズドヌイシェフが告発する放蕩の危険性が現代においてもまったく衰えておらず、そのくせその対処法については百年前から一歩も進んでいない、という点を無視することはできない。だが、これはトルストイにはわかりきっていたことだった。彼は以下のように予言している。

「わたしが今知っていることを、世間の人たちはまだ早急には知りえないでしょうね。太陽や星に、鉄がどれくらいあるか、どんな金属があるか、そんなことはすぐに知るにいたるでしょう。しかし、われわれの低劣さをあばいてくれるもの――これは容易にわかりゃしませんよ、ひどくむずかしいことです……」(「クロイツェル・ソナタ」より、84ページ)

 さて、性愛に関する議論はそのままポズドヌイシェフの結婚へと結びついていき、ここにきてついに妻が登場してくる。

「情欲をいだいて女を見る者は、すでにその女と姦淫したにひとしいという福音書の言葉は、他人の妻に対してのみ向けられたものではなく、何よりもまさに、自分の妻に向けられたものにほかならないのです」(「クロイツェル・ソナタ」より、63ページ)

「二人の関係は敵対的なものになる一方でした。そしてしまいには、もはや意見の相違が敵意を生むのではなく、敵意が意見の相違を生むところにまで行きついたのです。妻が何を言おうと、わたしは言う前から反対でしたし、妻もまったく同じことでした」(「クロイツェル・ソナタ」より、93ページ)

 そして、音楽である。きっかけは、トルハチェフスキーというヴァイオリニストが彼の家を訪問してきたことだった。自身もピアノを弾く音楽好きの妻は、もちろんこの男に興味を抱く。

「わたしはあの男を妻に紹介しました。さっそく、音楽の話がはじまり、やがてあの男が合奏したいという希望を申し出たのです。妻は最後のこのころはいつもそうでしたが、実にエレガントで、魅力的で、男心を騒がせるほど美しかったのです。あの男はどうやら、ひと目で妻の気に入ったようでした。それだけではなく、バイオリンを合奏する楽しみに恵まれることを、妻は喜んだのです。なにしろ妻はそれが大好きで、そのために劇場のバイオリニストを雇い入れたこともあったほどなので、妻の顔には喜びの色があらわれました。しかし、わたしを見るなり、妻はすぐにわたしの気持をさとって、その表情を変えたので、ここにお互いの欺し合いの演技がはじまったのです」(「クロイツェル・ソナタ」より、115ページ)

「その晩、あの男はバイオリン持参で来て、二人は合奏しました。しかし、合奏は永いこと調子がでませんでした。必要な楽譜がなく、手もとにあったものは、妻が準備なしには弾けなかったからです。わたしは音楽がとても好きだったので、二人の合奏に共感して、あの男の譜面台をセットしてやったり、ページをめくってやったりしました。二人はそれでもどうにか、無言歌をいくつかと、モーツァルトソナチネを演奏し終えました。あの男の演奏はみごとなもので、音のニュアンスといわれるものが最高度にそなわっていました。それだけではなく、あの男の性格にはまったくそぐわぬ、繊細で上品な趣味が感じとれるのでした」(「クロイツェル・ソナタ」より、117~118ページ)

 音楽という高尚な趣味を媒介にして対話を続ける妻とトルハチェフスキーを、ポズドヌイシェフは嫉妬に溢れたまなざしで見守ることになる。たしかに、それが音楽という「良き趣味」であった場合に、いったいだれに彼らを止めることができようか。おまけに、ポズドヌイシェフはけっして没趣味な夫ではなく、自身も音楽を愛しているのだ。

「あの男のほうが、技倆はもちろん妻よりはるかに上なので、妻の演奏を助け、同時にいんぎんに妻の演奏をほめそやしました。あの男の態度は実に立派なものでした。妻ももっぱら音楽にだけ興味を惹かれたように見え、実に飾りけのない自然な態度でした。一方わたしはと言えば、音楽に関心を惹かれたふりこそしていたものの、一晩じゅう、ずっと嫉妬に苦しみつづけていたのです」(「クロイツェル・ソナタ」より、118ページ)

「嫉妬深い人間にとって(われわれの社会の生活ではだれもが嫉妬深くなりますが)、いちばんやりきれぬ人間関係の一つは、男女間の危険な、このうえない親密さを認めるような、世間の一定の条件にほかなりません。かりに舞踏会での親しさや、医者と女性患者の親しさ、芸術や音楽、そして何よりも音楽にたずさわる際の親密さなどを邪魔したりすれば、世間の笑いものになるほかありませんからね。男女二人してきわめて高尚な芸術たる音楽にたずさわることがあるものです。そのためにはある程度の親密さが必要で、その親密さはなんらやましい点を持っていないのですが、嫉妬深い愚かな夫だけがそこに何か好ましからぬものを見いだしうるのです。それにもかかわらず、周知のとおり、ほかならぬそれらの仕事、それも特に音楽を媒介にして、われわれの社会における姦通の大部分が起るのですからね」(「クロイツェル・ソナタ」より、123ページ)

 そして彼らはある日曜日、招待客たちの前でついに「クロイツェル・ソナタ」を合奏する。

「「二人はベートーベンのクロイツェル・ソナタを演奏したのです。あの最初のプレストをご存じですか? ご存じでしょう?!」彼は叫んだ。「ああ!……あのソナタは恐ろしい作品ですね。それもまさにあの導入部が。概して音楽ってのは恐ろしいものですよ。あれは何なのでしょう? わたしにはわからないんです。音楽とはいったい何なのでしょう? 音楽がどんな作用をすると思いますか? なぜ、ああいう作用をするんでしょうね? 音楽は魂を高める作用をするなんて言われてますが、あれはでたらめです、嘘ですよ! たしかに音楽は効果を発揮します、恐ろしい効果を発揮するものです。わたしは自分自身のことを言っているのですがね。しかし、魂を高めるなんてものじゃ全然ありませんよ。魂を高めも低めもせず、魂を苛立たせる作用があるだけです」」(「クロイツェル・ソナタ」より、133ページ)

 ここで「導入部のプレスト」と呼ばれているのは、イ長調の序奏「Adagio Sostenuto」が終わった直後、イ短調への転調後、19小節目からの「Presto」のことだろう(参考URL)。まずヴァイオリンが主旋律を奏で、やがてピアノがとってかわり、そしてそれぞれが競い合うように主旋律を奪い合いながら進むという、とてつもなく感情をかき乱される箇所だ。ヴァイオリンのことはわからないが、ピアノはわりとむずかしい(長いし……)。ほんの数日の準備でまがりなりにも弾けるようになるなんて、この妻、じつはすごい。

「音楽は自分自身を、自分の真の状態を忘れさせ、自分のではない何か別の状態へ運び去ってくれるのです。音楽の影響で、実際には感じていないことを感じ、理解できないことを理解し、できないこともできるような気がするんですよ。わたしはこれを、音楽があくびや笑いのような作用をするというふうに、説明づけているんですがね。つまり、眠くもないのに、人があくびをするのを見ると、こっちまであくびをしたり、べつにおかしいこともないのに、人の笑い声をきいていると、自分も笑いだしたりするでしょう」(「クロイツェル・ソナタ」より、133~134ページ)

「この音楽ってやつは、それを作った人間のひたっていた心境に、じかにすぐわたしを運んでくれるんですよ。その人間と魂が融け合い、その人間といっしょに一つの心境から別の心境へ移ってゆくのですが、なぜそうしているのかは、自分でもわからないのです。たとえばこのクロイツェル・ソナタにしても、それを作ったベートーベンは、なぜ自分がそういう心境にあったかを知っていたわけですし、その心境が彼を一定の行為にかりたてたのですから、彼にとってはその心境が意味をもっていたわけですが、こっちにとっては何の意味もないんですよ。ですから音楽は人を苛立たせるだけで、決着はつけてくれないんです」(「クロイツェル・ソナタ」より、134ページ)

 音楽がひとの精神をコントロールする作用を持つ、というのは一考に値するだろう。ポズドヌイシェフはこれを催眠術であると断言してはばからない。

「中国では音楽は国家的な事業とされていますね。これもまた当然ですよ。希望者はだれでもお互い同士、あるいは大勢の人間を催眠術にかけたあげく、それらの人間に好き勝手な振舞いをするなんてことが、はたして認められていいものでしょうか? しかもいちばん問題なのは、堕落しきった最低の背徳漢でも、その催眠術師になれるって点なのです」(「クロイツェル・ソナタ」より、135ページ)

「あのクロイツェル・ソナタの導入部のプレストにしても、ですよ。いったい、肌もあらわなデコルテ・ドレスを着た婦人たちの間で、客間で、あんなプレストを演奏していいもんでしょうか?」(「クロイツェル・ソナタ」より、135ページ)

 たしかに、これ以上ないほど扇情的な音楽を奏でつづけた男女が、どんな境地に達することになるのかは想像に難くない。問題は、妻とトルハチェフスキーの会話に、まどろっこしい言葉など一つも必要ないということなのだ。そして、これは奏者たち同士にしか伝わらないもので、徹底的に排他的なコミュニケーションでもある。

「若い男の欲望を女から引き離すには、わたしなら梅毒の病院へ見学に連れていったりせずに、わたしの心の中をのぞかせ、心をずたずたに引き裂いた悪魔たちを眺めさせてやりたいですね!」(「クロイツェル・ソナタ」より、149ページ)

「その反応は当然、わたしが自分を導き入れた気分――ますますクレッシェンドで高まってゆき、そのまま昂揚しつづけるにちがいない気分に合致するものでした」(「クロイツェル・ソナタ」より、162ページ)

 音楽ほど甘美なものはなく、ゆえにこれほど危険なものもないのだ。しかも、よりによってベートーヴェン。「クロイツェル・ソナタ」をエンドレスでかけながら読みたい中篇だ。「堕落しきった最低の背徳漢でも、その催眠術師になれる」。この言葉を忘れないでおこう。

 併録されている「悪魔」はより晩年の作なのか、動作主体でひたすらシェイプアップされた、つまりおとぎばなしのような文体で書かれた作品だ。テーマはやはり性愛なのだが、こちらは無駄がないぶん、ページ数のわりにあっという間に読めてしまって、文学作品としてもあまりおもしろみがない。個人的な意見として、無駄は多いほうが好ましいのだ。

「ふつう、ごく普通の保守主義者は老人で、革新者は青年であると、思いがちなものだ。これは必ずしも正しいと言えない。ごく通常の保守主義者は、青年である。青年たちは、生活したくても、どう生活せねばならぬかを考えないし、考える余裕ももたぬため、旧来の生活を手本として選ぶからだ」(「悪魔」より、178ページ)

「「そう、俺には二つの人生がありうる。一つは俺がリーザとはじめた人生だ。勤め、領地経営、子供、世人の尊敬。この人生なら、あの女が、ステパニーダがいないことが必要だ。前に言ったように、あの女を追い払うか、二度と姿を見せぬよう消してしまわなければいけない。もう一つの人生は、ここにある。夫からあの女を奪い、夫に金を与え、恥も外聞も忘れて、あの女と暮すのだ。だが、そのときにはリーザとミリー(子供)がいなくなることが必要だ。いや、なに、子供は邪魔にならないが、リーザのいなくなることが、実家へ帰ってくれることが必要なのだ。彼女が感づいて、呪い、実家へ帰ってくれればいいんだ。俺が妻を百姓女に見かえたことを、俺が嘘つきの卑劣漢であることを、知ってくれるといい。いや、それはあまりにもひどい! それはだめだ。しかし、そうなるかもしれないな」彼は考えつづけた。「そうなるかもしれない。リーザは病気になって、死んでしまうだろう。死んでくれたら、万事うまく行くんだが」」(「悪魔」より、259~260ページ)

 引用したくてたまらなくなるような輝く一文を探し求めているのなら、この「悪魔」は読まなくてもいいかもしれない。『イワンのばか』に収録されていても不思議はない、ほんとうに良くも悪くも無駄のない作品だった。

 これを書きながら「クロイツェル・ソナタ」第一楽章を聴きつづけていたら、メロディがすっかり頭から離れなくなってしまった。聴けば聴くほど、ひとを狂気に追いやるには十分な力を秘めた曲である。とくにあのピッチカート! トルストイはじつにすばらしい選曲をしたのだった。

クロイツェル・ソナタ/悪魔 (新潮文庫)

クロイツェル・ソナタ/悪魔 (新潮文庫)