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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

田園交響楽

 先日の『クロイツェル・ソナタ』に引き続き、青柳いづみこ『六本指のゴルトベルク』に紹介されていて、どうしようもなく読みたくなった本。さすがは神西清、文字の大きさだけを変えつづける新潮文庫の海外文学のなかにあって、すこしも訳文が古びていない稀有な例である。

田園交響楽 (新潮文庫)

田園交響楽 (新潮文庫)

 

アンドレ・ジッド神西清訳)『田園交響楽』新潮文庫、1952年。


 いま、また音楽を聴いている。わざわざ書くまでもなく、曲はベートーヴェン交響曲第六番「田園」だ。指揮はカルロス・クライバー。この指揮者の名はクラシックの愛好家のあいだではすでに伝説となっていて、録音嫌いな彼が遺した数少ない演奏はどれも「超」が付くほどの名盤として大切にされている。ヨハン・シュトラウス二世とベートーヴェンのものは特に有名で、とりわけ後者の交響曲第四番にいたっては、わたしはこの指揮者のものを聴いてから他の録音が聴けなくなってしまったほどだ(ついでに書くと、幸福な例外は「リハーサルの鬼」として知られるセルジュ・チェリビダッケのそれで、テンポがまったく異なり、ほとんど別の曲のように聴ける。ちなみに彼もまた録音嫌いで有名な指揮者である)。

 ヘ長調で書かれていることや「田園」という標題からも連想されるとおり、全体的にとても明るい、爽やかな曲である。五楽章から成り、珍しいことにそれぞれの楽章にも標題が付されている。第一楽章「田舎に到着したときの晴れやかな気分」、第二楽章「小川のほとりの情景」、第三楽章「農民たちの楽しい集い」、第四楽章「雷雨、嵐」、そして第五楽章「牧人の歌 嵐のあとの喜ばしく感謝に満ちた気分」。後半の三楽章は切れ目なく連続して演奏され、ヘ長調ヘ短調、そしてまたヘ長調と、情景が目まぐるしく変化する。

 ベートーヴェンがこれと並行して交響曲第五番「運命」の作曲にとりかかっていたことはよく知られていて、彼は現代風に言えばマルチタスクの名人だった。「運命」と「田園」という対比からもわかるとおり、同時期に書かれたものはたいてい雰囲気をまったく異にしている。ひょっとするとベートーヴェンは、とめどなく溢れてくる色とりどりの着想を余さず記録するために、常に複数の受け皿を必要としていたのかもしれない。単純に言ってしまえば、悲痛なものは「運命」に、陽気なものは「田園」に、といった風に、汲めど尽きせぬ音楽の泉からこぼれだした着想を割り振っていたのではないだろうか。

 交響曲第六番「田園」には、悲愴なところがすこしもない。それはすべて「運命」に吸収されてしまっていたのだから。アンドレ・ジッドは、そこに目をつけた。

 ジッドの『田園交響楽』は、ひょんなことから盲目の少女ジェルトリュードを引きとることになった牧師の話である。死に瀕した老婆に祈りを捧げるために赴いた家で、牧師は少女と出会う。この出会いの情景は、読む者に壮絶な印象を与えるものだ。

「近所の女は蝋燭を手に取って、暖炉のほうへ差しつけて見せた。火床のなかにうずくまって、どうやら眠っているらしいものの姿が、おぼろに見わけられる。房々した髪の塊が、ほとんどその顔をおおいかくしている。
 「この娘は盲目で、女中さんの話では姪だとかいうことです。家の者といっても、これっきりらしいのです。養育院へでも入れなければなりませんでしょう。さもないとこの娘は、どうなることやらわかりませんものね」
 本人を前において、ずけずけと身の上を決めてかかるのが、私にはいやな気持だった。この薄情な言葉が娘の胸に、どんなに悲しく響くことかと気づかわれた。
 「起さないようにおし」
 せめてこの女の声なりと低くさせようと思って、私は穏やかにそう言った。
 「いいえ、眠っちゃおりますまいよ。この娘は白痴なんでございます。口もきけませんし、人の話も何ひとつわかりませんのです。私は今朝がたからこの部屋におりますが、この娘は身じろぎひとつしないで、じっとこうしていますの。最初は聾かと思いましたが、女中さんの話ではそうでもないらしく、聾なのはお婆さんのほうだということです。その婆さんがまた、この娘にといわず、ほかのだれかれにといわず、まるっきり口をきいたことがなかったそうで、口をあけることといったら、もうよほど以前から、物を食べるときだけだったそうです」」(9~10ページ)

 ジッドの文章には、ちょうどアナトール・フランス『シルヴェストル・ボナールの罪』のような、一人称という形式の使い方を熟知した作家だけが与えてくれる安心感がある。上に引いたものだけを見ても明らかだが、すべての描写が語り手の主観と分かちがたく結びついていて、三人称のときに絶えず忍びこんでくる無駄がすこしもない(これに関してはヴァレリーが、自分はぜったいに「侯爵夫人は五時に外出した」というような文章を書かないだろう、と見事に要約してくれている)。

「まだ気持ははっきり決っていたわけでもなく、そのまましばらくは老婆の寝顔に、じっと見入っていた。落ちくぼんで、ひだの寄った口もとは、びた一文も出すことではないと、紐できりりとくくった守銭奴の財布の口を思わせた」(10~11ページ)

「もし人間に、いい加減な反対を唱えてうれしがる癖がなかったら、世間の物事はずいぶんすらすら運ぶにちがいない。周囲の者の、「あいつに何ができるものか」と繰り返す声が耳にはいるばかりに、私たちは、したいと思うあれやこれやのことを、子供のころからどれだけ手をつけずにすごしてきたことだろう」(11ページ)

 とりわけ傑作なのは妻アメリーの描き方だ。どんな読者も彼女に対して好意的にはなれなくなるような描写なのに、それでいて彼女はじつに魅力的なのだ。彼女の名が出てくるたびに、お、今度はなにをやらかしてくれるのかな、と期待してしまう。

「アメリーは、どうせ私なんか、なんの言うこともないのですけれどと、いつも長談義にはつきものの前置きから始めて、それにあなたが、たとえどんなに習慣や常識にはずれた非実際的なことをお思いつきになろうと、私はやっぱりあなたの言いなりになっているほかはありませんものねなどと、不服を並べはじめた」(15ページ)

「妻の詰問の初めの文句を聞きながら、キリストの言葉が胸から口もとまで上がってきた。しかし、聖書の権威のかげに自分の行為をかくまうのは、いかにもにがにがしいことに思われたので、私はそれをじっと噛み殺してしまった」(16ページ)

 アメリーは盲目の少女ジェルトリュードを家族の一員に加えることにそもそも反対していたため、物語全編を通じてことあるごとに、夫である牧師を苛立たせるのだ。彼女の態度はじつにいやらしく、ねちねちとしている。読者はかなり早い段階で彼女の性格を知らされるので、牧師がなにかするたびにこの妻の反応を思って、夫が悩みはじめるよりも先に戦々兢々することになるのだ。

「白状すると、行きつけの小間物屋の払いをすませ、ついでに糸を一箱買ってきてくれというアメリーの頼みを、ヌーシャテルに着くやいなや私はすっかり忘れてしまったのだ。これには、おそらく彼女が腹を立てたより以上に、私も自分で自分に腹が立った。けっして忘れまいと心に誓ったことではあり、「小事に忠実なものは大事にも忠実ならん」ということも心得てはいるし、忘れたら最後どんな文句をつけられまいでもないことも、内々恐れていた私であってみれば、なおさらのことであった。責められる義理は立派にあるのだから、いっそ頭ごなしに責めつけてもらいたかった。だが例のひとり合点の不服を心のなかに包んだ彼女は、はっきりと非難の言葉を口に出そうとはしなかった。ああ、疑心暗鬼などには耳もかさずに、現実の悪だけで満足ができたなら、人生はどんなに美しく、われわれの不幸はどんなにか忍びやすいことだろうか」(47ページ)

 さて、盲目の少女ジェルトリュードは、牧師のもとで教育を受けはじめる。生まれつき目の見えない者にいかにして教育を授けるかというくだりは、じつに興味深く読んだ。ずいぶん前、サラマーゴの『白の闇』やアデアの『閉じた本』を紹介したときにも書いたけれど、わたしは目が見えないということと文学の関連性にただならぬ関心を持っている。小説を読みながらわたしたちが見る景色というのは、盲人に対して語られる世界の景色とほとんど変わらないはずだからだ。

 だがもちろん、盲目の人びとは小説に登場する風景を実際に見たことがないのだから、勝手はぜんぜんちがってくる。というか、彼らが抱えている困難は、はっきり言ってわたしの想像を絶している。ジェルトリュードが言葉を解するようになってから牧師に話すことは、どれもじつに突飛で、印象的だ。

「あとで話してくれたことだが、そのとき聞いた鳥の歌声を、頬や手をなでるあの熱と同じに、やはり光の作用なのだと想像していたそうである。もとより深く考えたわけでもないが、熱い空気が歌いはじめるのは、水を火にかけると煮えたつのと同じことで、すこしも不思議はないと思っていたという」(32~33ページ)

「よく人のするようにわかったふりをけっしてしないのが、ジェルトリュードの美点だった。わかったふりをする人は、自分の頭の中を知らず知らずのうちに、不正確なあるいは間違った知識で満たし、したがってその判断も毒されていくことになるのだ。彼女にあっては、その明確な観念を把握できないかぎり、あらゆる概念はいつまでも不安と焦慮の種になった」(39ページ)

 そして牧師のまえに立ちはだかった最大の困難のひとつが、色という概念の説明である。ここに、とうとう音楽が登場する。

「そのうちに、ヌーシャテルへ連れて行って、そこの音楽会を聞かせる機会があった。交響楽の中のいちいちの楽器の役割は、偶然にも色の問題を解くのに都合がよかった。真鍮楽器、弦楽器、木管楽器が、それぞれみんな違った音色をもち、音の強弱はあるにしても、それぞれいちばん高い音からいちばん低い音にいたるまでいっさいの音階が出せることを、ジェルトリュードに気づかせておいて、さてそれと同じようにして自然界にも、ホルンやトロンボーンの音色に似た赤と橙色、バイオリンやセロやバスに似た黄色と緑、それからフルート、クラリネットオーボエなどを思わせる紫や青のあることを、考えてごらんと言ってみた。するとたちまち、疑惑の色は消えて、魂の中からわき出た一種の恍惚がこれに代った。――
 「じゃ、どんなにきれいなことでしょうねえ!」と、彼女は繰り返して叫んだ」(37ページ)

 この文脈に沿って考えてみれば、「音色」という日本語の字面はじつに気が利いているではないか。そしてジェルトリュードの世界の美しさは、彼女がベートーヴェンの「田園」を聴いたことによって最高潮に達する。

「曲目はうってつけの『田園交響楽』だった。私が「うってつけの」と言うのは、だれにもすぐ合点がゆくように、この作品ほど彼女に聞かせたい作品はないからである。会場を出てからも、ジェルトリュードはずっと黙りつづけて、深い法悦にひたっている様子だった。
 「あなたがたの見てらっしゃる世界は、本当にあんなに美しいのですか?」彼女はやがてこう言った。
 「あんなに、っていうのは?」
 「あの『小川のほとりの景色』のように」
 私はすぐには答えられなかった。えも言われぬその諧調が、実は世界をあるがままに写しだしたものではなくて、もし悪と罪とがなかったらさだめしこうもあろうか、こうもあったろうかという世界を描いたものだと私には思い返されたからである。それに私は、悪や罪や死のことを、まだジェルトリュードに言いだせずにいたのである。
 「目の見える人間は」と、私はやっとのことで言った、「見えるという幸福を知らずにいるのだよ」
 「けれど、目の見えないあたしは」と彼女はすぐさま叫んだ、「耳できく幸福を知っていますわ」」(39~40ページ)

 ジェルトリュードがとりわけ第二楽章を名指していることにも注目したい。変ロ長調で書かれたこの楽章は「田園」のなかでも特に静謐な性格を備えていて、ベートーヴェンによる標題のとおり、まさしく自然を描いた楽章なのだ。そのあまりの美しさは、ジェルトリュードに疑いの種さえ植えつけてしまう。

「「ほんとうに」と彼女は言った、「この世界は、小鳥の歌うようにきれいなのかしら? なぜ人間はもっとそのことを話さないのでしょう? あなただって、ちっとも話してくださらないんですもの。見えないので、私が悲しがりはしないかと、それがご心配なの? そんなことありませんわ。私には鳥の声がこんなによく聞えて、言っていることがすっかりわかるような気がしますもの」」(33ページ)

「「まあ、あなたは、あたしを安心させようとばかりなさるのね」と、彼女は何かしらいらだたしげな調子で言った、「あたし別に、安心させていただきたくはないんですの。ちゃんとわかっていますわ、あたしに言わずにかくしてらっしゃることが、たくさんあることぐらい。あたしに心配させまい、気をもませまいってね。……あたし、知らないことがあんまりたくさんあるものだから、つい時々……」
 彼女の声はだんだん低くなり、やがて息ぎれがしたように彼女は立ちどまった。その言葉じりを引きとって私が、
 「時々、どうなの?……」と聞くと、
 「つい時々」と彼女は悲しそうに言いついだ、「あなたが授けてくださる幸福は、何から何まであたしの無知の上に築かれているような気がしますの」」(92~93ページ)

 ジェルトリュードの知性の発達は留まるところを知らず、やがて牧師の手に負えなくなり、彼らの関係にも変化が生じはじめる。

「なんとか言いくるめようとしてみたがだめだった。総くずれになった私の論法の退却を告げる太鼓の音のように、私の心臓は激しく鳴っていた」(96ページ)

「主よ、夜というものを、これほど深くこれほど美しいものにお仕立てになったのは、わたくしたちのためなのでしょうか。それとも、わたくしのためなのでしょうか」(98ページ)

 一足飛びに終盤まで飛んでしまうことになるが、ジェルトリュードの視力は、手術によって回復する。そして目が見えるようになった彼女は、「田園」の背後に隠されていたもうひとつの世界、ベートーヴェンの喩えにこだわるなら「運命」のほうの世界と、対峙することになるのだ。そこから先は、ご自身の目で確認してもらいたい。

「人の魂にとっては、この世を残るくまなく曇らせ汚し堕落させ苦しませる無秩序や罪悪よりも、美や安らぎや調和などを思い描くほうが、いっそう容易でもあり自然でもあるわけだ。ところでわれわれの五官なるものは、いま言ったような無秩序なり罪悪なりについてわれわれに教えるとともに、われわれを助けて、この世に何らかの寄与をさせようとするものだ、とね。だから僕は、ウェルギリウスの句 Fortunatos nimium(まことに幸いなるかな)の次には、彼の言った Si sua bona norint(おのが幸福を知らば)よりも、むしろ Si sua mala nescient(おのが不幸を知らざりせば)と続けたいものと思うなあ。不幸を知らずにいられたら、人間はどんなに幸福だろう!」(27ページ)

「キリストのあのお言葉を思い出してくださいまし――『もし盲目なりせば、罪なかりしならん』。ところが今では、あたし目が見えるのです」(109ページ)

 フランス文学者の若林真も、巻末の「解説」風の文章のなかでこう書いている。

「依然として問題は残る。われわれは作者から最終的な解答を期待してもしょせんむだだろう。解答は読者各人がそれぞれの内心の独白のなかに見つけ出すべきものであり、読者の心にそういう独白を誘発することこそ作者ジッドの意図だったのだから」(若林真「『田園交響楽』について」より、134ページ)

 巻末にはまた、新庄嘉章による「ジッドの生涯と作品」という文章も寄せられている。1920年代パリの文学風景について興味津々なわたしとしては、1909年の『nrf』創刊のくだりがたまらなかった。

「この雑誌は別に新しい特定の主義主張をかかげたものではなく、各自の内的完成によって芸術のモラルを打ち立てようという誠実さを持っていて、当時の商業主義に毒されていた文壇に新風を吹きこんだ。そしてこの雑誌を中心として、彼の周囲には、アラン=フルニエ、ロジェ・マルタン・デュ・ガール、ヴァレリー・ラルボー、ジュール・ロマン、ジェック・リヴィエール等の若い有望な人々が集まった」(新庄嘉章「ジッドの生涯と作品」より、120ページ)

 新潮社は一時期ジッドに対してかなり好意的だったのだが、今ではこの『田園交響楽』以外には『狭き門』が残っているばかり、しかもこちらはひどい翻訳だった記憶がある。堀口大學訳の『一粒の麦もし死なずば』や石川淳訳の『背徳者』といった、訳者名を挙げるだけでも眩暈がするような作品に関しては、すでに絶版になってしまっていて久しく、復刊もあまり期待できなさそうだ。ペトラルカの表現を借りると、これは「私には大きな悲しみであり、現代にとっては大きな恥辱、後世にたいしては大きな不正」である(ペトラルカ『ルネサンス書簡集』153ページ)。

ジッドの作品はそれぞれ、彼が人間性の自由を探し求めて彷徨したその巡礼の途上に打ち立てられた道標である。従ってそこには、完成したものはみられない。しかし、それは単なる未完成ではない。時代とともに悩み、時代とともに成長した発展途上の未完成である。ジッドは常に動いていった。そして、常に成長するものの味方であった。固定した、発展のない完成の敵であった」(新庄嘉章「ジッドの生涯と作品」より、125ページ)

ジッドは小説の分野における大胆な実験者であった。彼は正しいと信じたことを宣言した。彼は純粋なモラリストであった。短見な道学者は彼に非難を投げかけたけれども、彼は精神の好奇心の極点を持ちつづけていった。彼の場合におけるような高度の好奇心は、懐疑主義となり、この懐疑主義はさらに創造力と変ってくる。彼はこの好奇心を、彼の好きな先人ゲーテとともに分け持っていた。彼はゲーテのように、絶え間ない衝動によって動かされ、探究の方に絶えず押しやられていた。魂の平穏無事や逃避は、彼のとらないところだった。不安、創造的な懐疑、無限の真理探求が、彼の領分だった。そしてこの真理の方へ、英知と芸術とによって与えられたあらゆる方法を以て、進もうと努力したのだった」(新庄嘉章「ジッドの生涯と作品」より、トーマス・マンの言葉、125~126ページ)

 きっと長生きだったためだろうが、ジッドがヴァレリーやプルーストと同時代人だった、とあらためて考えてみると、軽い衝撃を受ける。これまで、わたしはこの作家をあまりにも蔑ろにしすぎてきたような気がする。フランス語の原書ではまだほとんどのものが新刊として手に入るので、もっと読んでみたいと思った。ジッドとヴァレリーの『往復書簡集』にも、興味津々である。

田園交響楽 (新潮文庫)

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ベートーヴェン交響曲第六番「田園」、おすすめの録音〉

ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」

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〈盲目であるということ〉
ジョゼ・サラマーゴ『白の闇』

白の闇 新装版

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ギルバート・アデア『閉じた本』

閉じた本 (創元推理文庫)

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H・G・ウェルズ「盲人国」『タイム・マシン』

タイム・マシン 他九篇 (岩波文庫)

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〈読みたくなった本〉
ディケンズ『炉ばたのこおろぎ』
「それから彼は、ディケンズのある小説のことを話した。これはローラ・ブリッジマンのことから直接ヒントを得たものにちがいないと言って、すぐに送ってよこすと約束した。はたして四日すると私は『炉ばたのこおろぎ』を受け取って、非常におもしろく読んだ。これは盲目の少女の物語で、いささか長すぎるけれど、ところどころ感動ぶかい個所がある。貧しい玩具作りの父親が、娘を安心と富と幸福の幻影のなかに住まわせておく話である。ディケンズは、この偽りをどうにかして信仰に適わせようと筆をふるっているが、ありがたいことに私は、ジェルトリュードのことでその真似をする必要はないだろう」(27~28ページ)

炉ばたのこおろぎ (1959年) (新潮文庫)

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