罰せられざる悪徳・読書
ちょっと大変な本を読んでしまった。うっかりページを開いてみたが最後、読み終えるまで立ちあがることもできなかった(ほんとうはトイレに立ちました、念のため)。なんだろう、この大興奮! すばらしい本に出会ってしまった。
- 作者: ヴァレリーラルボー,Valery Larbaud,岩崎力
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 1998/09
- メディア: 単行本
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ヴァレリー・ラルボー(岩崎力訳)『罰せられざる悪徳・読書』みすずライブラリー、1998年。
出会ってしまった、という書き方はおかしいかもしれない。なにせ、購入したのはずっと前のことなのだ。魅力的、いや、麻薬的なタイトルに惹かれ、買ったままずいぶんと長いあいだ放置してしまっていた。これほど薄い本だというのに! そのあいだにも、たいして期待値を上げてはいなかったのだから、もう自分の選書センスの無さに愕然としてしまう。こんなにすばらしい本が、それと気付かれもせず、自分の本棚に眠っていただなんて! すでに買ってあるけれどまだ読んでいないという方は、今すぐ本棚を漁るべきだ。興味はあったけれど買うには至らなかったという方は、全速力で書店を目指すべきだ。興味もないし買う気もないという方は、呪われてしまえ、いや、どうか考えなおしてみてほしい。
この100ページにも満たない本は、以下のローガン・ピーアソール・スミスの散文詩の引用からはじまる。
「慰め
先日、打ちひしがれたような気持で地下鉄に乗っていたとき、私はわれわれ人間の生活に留保されたさまざまな喜びのことを考えながら、そのなかに慰めを探し求めていた。しかし、ほんのすこしでも関心を払うに価する喜びはひとつもなかった。酒も栄光も、友情も食物も、愛も徳の意識も。してみれば、このエレヴェーターに最後まで残り、それらに比べてより陳腐にならざるものはなにひとつ提供してくれそうもない世界にふたたび上がっていく価値がそもそもあるのだろうか?
だが突然私は読書のことを考えた。読書がもたらしてくれるあの微妙かつ繊細な幸福のことを。それで充分だった。歳月を経ても鈍ることのない喜び、あの洗練された、罰せられざる悪徳、エゴイストで清澄な、しかも永続するあの陶酔があれば、それで充分だった」(ローガン・ピーアソール・スミス「慰め」、3~4ページ)
これほどすばらしい詩を読んで、先に進まずにいることができるはずもない。ラルボーはこの「罰せられざる悪徳」という表現がたいそう気に入っていたらしく、読書という行為の悪徳性、そして悪徳と呼ばれうるほどの読書というものの姿を、明らかにしていく。
「読書が悪徳だというのはまた、つぎの理由にもよる。すなわち経験に照らしても統計からみても、これは他の悪徳と同じく例外的で異常な習慣だということ。正常な人間が本を読むのは職業上の必要に迫られてのことであり、さもなければ仕事や労苦から気をまぎらせるためである。読書の楽しみだけのために読書し、熱心にその楽しみを追い求める人間は例外的存在なのだ。ほとんどすべての人間が文字を知っており、多かれ少なかれ本を読むからといって、その事実に欺かれてはならない。文字が読めるとはいっても、大部分は自転車に乗れるとか電話が使えるとか、車の運転ができるとかいうのと同じことであり、賭博師や守銭奴が少数であるように読書人も少数派なのである」(5~6ページ)
本を読む人は世の中にたくさんいるし、本を読むことができる人はもっと多い。だが、彼らは総じて、ラルボーが目指すところの「読者」ではないのだ。この理想の読者、少数者たる「読者」がいかにして形成されていくかを、ラルボーは幼年期から追ってみせる。その過程の描き方が、もうとんでもなくすばらしい。
「表紙にはジュール・ヴェルヌの名前しか書かれていない、しかし子供が読むのはジュール・ヴェルヌと協力して書いた彼自身の本なのだ。自分の経験、感情、発見、あるいはもっとも古い夢想までもちこんで、彼はその本を豊かにする。さまざまな冒険を引き伸ばし、複雑に絡みあわせ、自分で創作した挿話や人物をつけ加える」(12ページ)
「幸いなことに、砂漠を行く旅人にも似た子供の読者は、一番最後のあたりで、澄みきった爽やかな水をたたえた小さな泉を発見する。彼にも身近な言葉で書かれた詩。その詩の単語はいずれも彼の知っている意味をもっており、まるで自分のもののように思える思考や感情を表現している。あるいは自分以外の誰にも見えていないと信じていたものを描写している。彼は救われたのだ」(13ページ)
先日、『和子の部屋』をとりあげたときに、「自分もこれを考えたことがある、と、一般読者が思えるようなことを、言葉にまでできるというのが、一流の作家・思想家の条件といってもいい」と書いた。ラルボーはそれよりも先に進み、まさにこれこそが、読書にのめり込んでいく発端となることを宣言している。つまり、さらなる「自分以外の誰にも見えていないと信じていたもの」を求めて、読者はどんどん別の本に手を伸ばすようになっていくのだ。先日考えたのと同じことをラルボーが書いているのを見て、わたしがこの欲求を充足させたことも付け加えずにはいられない。そして、次の段階は乱読である。
「そこで今度は、あらゆる方向への乱読、この美しい近代という土地のひろがり全体を渉猟する時期がはじまる。読者の欲望に好奇心と虚栄心がつけ加えられる。それはもはや下心なく求められ味わわれた快楽だけではない。しかじかの目新しい名前のかげにかくされているものを知りたいという欲求、≪すべてを読み≫、そのことを自慢したいという欲望がつけ加えられるのだ」(14~15ページ)
この段階では二つの誘惑が待ち受けている。つまり、俗悪な作品に惹かれ、商業主義的ベストセラーを追うようになってしまうこと。もう一つは、同時代の有名作家を敬遠するようになってしまうこと。わたしは、自分がまだこの段階にいることを否定できない。だが、ラルボーはこの態度に一定の共感も示してくれていて、こんなことも書いている。
「秀れた作品がひろく知られるまでには普通長い時間がかかるものだし、どんな時代をとってみても、もっとも秀れた作家ともっとも有名な作家が一致することはない」(15~16ページ)
つまり、もっとも理想的なのは同時代の作品も蔑ろにしない態度とはいえ、結局のところ読者は古典作品へと向かっていくことになる。
「教養人と無学者を完全にわけへだてる唯一の境界線を彼はのりこえたのだ。それ以後彼にとって≪近代的≫という言葉はなんの威光ももたず、推奨の言葉であることをやめる。「なんて美しいんだろう! 近代的だと言ってもいいほどだ」と人が言うのを聞いて彼は微笑する。部隊の大部分はその線の手前にとどまっており、それを越えることは決してないだろう。この情熱が人に強いる辛抱強さと苦痛とは、どう考えても大きすぎるのだ。持ちあげてみなければならないあれらすべてのヴェール、辞書で探さなければならないあれらすべての単語、理解しなければならないあれらすべての文法体系…… 義務教育がなんとか片付いてしまえば、彼らはただその時々の状勢に通じるとか、新聞の文芸時評を読むとか、受賞作あるいはいわゆるベストセラーを買うだけで満足してしまう。そうなれば万事休す、彼らは諦めてしまったのだ」(18ページ)
新奇なものばかりを追い求める読者というのは、俗悪な大衆文学から抜け出せない人びととなんら変わるところがない(俗悪、と頭ごなしに決めつけるこの姿勢を、ラルボーに咎められたばかりとはいえ)。こういう読書家は、たいへん数が多いと思う。話題づくりのために本を読んでいるのか、と思えるような人びと、商業主義的で権威主義的な連中だ。その先には、こういう人びともいる。
「博学な好奇心ともいうべきもの。だがそれは文学への情熱とは次元を異にする。博学な好奇心と文学的情熱との関係は、吝嗇と浪費癖、あるいは酩酊と愛の関係に似ている。前者はあまりにも危険から守られており、あまりにも容易に満たされ、その情熱にとりつかれた人間に求めるところあまりにも少なすぎるのである。この種の情熱は人間を歪め、より早く涸渇させる。博識のために博識たらんとする人は、ほどなく作品のなかに自分の研究対象となるような面しか見ようとしなくなる。人間自体よりその病気のほうがより興味深く現実的なものと考えるようになる医者のように。純粋な博学者はやがて、わざわざ足をとめて文学作品の美に眺め入ろうとはしなくなる。ひたすらその作品の歴史的背景とか特殊状況のことしか考えなくなる。いわば作品と反りがあわないことを早くも充分に感じているのだが、自分がその作品をのりこえてしまい、それを見下ろすような高みに至りついたからだ、と彼の自尊心は告げる。そして彼は自尊心のほうを信じる。もはや研究対象としか接触をもたず、結局、研究対象以外のことにはまったく無知なまま満足しきって生きることになる。膜に包まれ、固まってしまったのだ」(24ページ)
こちらは、大学教授に特に多いタイプだろう。いや、なにも教授にまで位をあげなくとも、こういう人は至るところにいる。「なんとか主義」という概念を捏造するのはたいていこういう人たちだし、それをありがたがるのもこういう人たちだ。もっと単純な例では、古典と呼ばれる作品を手当たり次第に読んだと豪語し、その一作ごとの感想を尋ねてみると、「あらすじ」以上の返答を返せないような人びと。こういう人たちの仲間入りだけはぜったいにしたくないと、常々思っている。わたしが目指しているのは、むしろ以下のような読者像だ。
「彼は物質的利害を無視して情熱に身をゆだねたのだ。恋に落ちた男が女のために借金を重ねるように」(19ページ)
「いまや彼は、ヨーロッパ全体で600人しか読者をもたないにしても、たとえばカリマコスのような詩人のほうが、十万部も印刷される本を書いた現代作家より有名であり、今後も有名であり続けるだろうことを知っている」(20ページ)
この「物質的利害を無視して情熱に身をゆだね」るということを、忘れないでおこう。芸術というのは、金にならないものなのだ。
「それは専門でもなければ職業でもなく、ひとつの資質、人間自体にかかわるなにか、彼の幸福の一部をなし、彼にとって間接的にこの上なく有用ではあっても、礼儀正しさや勇気や善良さが金にならないのと同じく、決して一スーの金ももたらさないなにかなのだ」(27~28ページ)
商業主義に離反することでもたらされる喜びがあることも指摘されている。たしかな鑑賞眼をもってすれば、選書を誤ることもないのだ。これは是非とも身につけなければならない能力である。なにせ、われわれの一生はあまりに短く、読みたいと思える本はあまりに多いのだから。
「これらの快楽のなかで最大のものは、もしかしたら、一冊の本の価値をほとんど最初の一瞥ではっきりと見抜くことなのかもしれない。エキスパートの楽しみ。二、三ページ読むだけで足りることもしばしばある。ちょうどひとりの男なり女なりがどの社会階級に属しているかを知るのに、ものの数分その話しぶりを聞けば足りるように。つまらない本だと判断すればためらいなく投げ棄てる。しかしその本は何千部も売れているし、将来も売れ続け、高名の生みだすあらゆる利益をその作者にもたらすだろう。しかし十年たち、二十年たって彼の判断の正しさが裏づけられる。≪永遠の忘却≫という恐ろしい判決によって。欺かれなかったこと、誠実な人間として、いかさま師たちの裏をかいたことに覚える快楽」(35ページ)
そして最終的に示される理想の読者のあるべき姿は、予想どおり、とてもつつましいものだ。この結論を読んだときには、なんだか嬉しくなってしまった。
「私たちとしては、叡智の道を遠く歩んできた彼を、虚栄心さえのりこえたものと考えたい。彼は一介の読者であることに満足し、自分の愛する本、いまのところほとんど人目を引かないが二十年後には有名になっているはずの本を、ひそかに、最良の友たちに推奨するだけで満足する」(38ページ)
ヴァレリー・ラルボーという作家の名前は至るところで目にしていたものの、じつは著作を読むのは今回が初めてだった。「訳注」や「あとがき」を読んでいて知ったのだが、この作家はわたしがここで頻りに繰り返している「1920年代パリの文学風景」(ヘミングウェイ『移動祝祭日』、「雑記:移動祝祭日記」などを参照)にかなり深く関わっていて、これまで一度も手に取らなかったのが不思議なくらいだ。
「ほぼ1920年を境に、ラルボーは彼自身の創作活動のかたわら、外国文学の紹介、翻訳にも力を注ぐようになる。前述のように、ラルボーはフランスの作家にしては珍しい語学的才能の持主であり、しかもそれが繊細・微妙な感受性と鑑賞眼に裏打ちされていたので、彼によってフランスの読者に、ひいては世界の読者に紹介された詩人や作家は十指に余る。なかでも幸福な出会いと呼ぶべきなのは、ラルボーとジェイムズ・ジョイスのそれであって、『ユリシーズ』の作者が二十世紀最大の小説家のひとりとして認められるのに、ラルボーの寄与は極めて大きな働きをなした。すなわち、1921年12月、『ユリシーズ』がまだ校正刷の段階にあったころ、その刊行者でありラルボーの個人的友人でもあったシルヴィア・ビーチの好意で全篇に目を通すことのできたラルボーは、共通の友人アドリエンヌ・モニエの経営する≪本の友の家≫でジョイスについて講演したのであったが、翌22年、この講演原稿は≪nrf≫に掲載され、ジョイスの出現を歓迎する最初の論考となった」(「訳注」より、63~64ページ)
シルヴィア・ビーチとアドリエンヌ・モニエ! 当時の彼女らの活躍ぶりは、「あとがき」でも繰り返し語られている。
「のちに≪コメルス≫誌の共同編集者となるヴァレリー、ファルグ、ラルボーのほか、この昼食会にしばしば招かれたのは、ジャン・ポーラン、アレクシ・レジェ(すなわちサン=ジョン・ペルス)、アドリエンヌ・モニエなどであった。アドリエンヌ・モニエはパリのオデオン通りで<本の友の家>という名前の書店を営んでいた女性であるが、同じ通りの筋向かいで<シェイクスピア・アンド・カンパニー>書店を経営していたアメリカ女性シルヴィア・ビーチとともに、二度の大戦間の文学の動向に大きな影響を及ぼした人である。この二人を私はかつて「オデオン通りの二人のミューズ」と呼んで紹介したことがあるが、アドリエンヌとシルヴィアは非常に仲がよく、たとえ無名ではあっても自分たちが独創性の持ち主と判断した作家たちを世に知らせるための努力と協力を惜しまなかった。シルヴィアの店は、いわゆる失われた世代のアメリカ作家たちの溜まり場となり、彼らあての郵便物の受け取りも引き受けていたので彼らの「私書箱」と呼ばれたほどだった。この二人の活動で特筆に値するのは、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』の刊行と、前後九年の歳月をかけて完成されたそのフランス語訳の出版である」(「みすずライブラリー版あとがき」より、88~89ページ)
「<シェイクスピア・アンド・カンパニー>という<出版社>から刊行されたのは、前にも後にも『ユリシーズ』だけであるという事実は、ビーチがどれほどジョイスに傾倒していたかを証してあまりあるものといえよう」(「みすずライブラリー版あとがき」より、89ページ)
そういえばこの訳者岩崎力は、他ならぬモニエの『オデオン通り』の翻訳者でもあった。最近になって新装・復刊され、その美しい装幀にたまらなく惹かれるのだが、旧版をすでに持っている身としては手を出しづらい。内容の異同とかもあるのだろうか。あるんだろうな。
すでに名前が挙がった『コメルス』という雑誌も、詳しく説明されている。
「「≪コメルス≫礼讃」という一文でガストン・パレウスキは「二度の大戦間のヨーロッパ文学の目次のようなもの」と評しているが、誌面の重要な部分が同時代の注目すべき外国作家たちに割かれていたことは、この雑誌の大きな特徴だった。すでに述べたジョイスのほかにも、ウンガレッティ、リルケ、カフカ、パステルナーク、フォークナーなどの詩人たち、作家たちが、いくぶんなりともフランスの読者に知られるにいたったのは、もっぱらこの雑誌のおかげであったことを考えれば、ラルボーの寄与がたんに社交的な<つきあい>ではなく、彼自身の内発的推力によるものであったことが理解できよう。T・S・エリオットがサン=ジョン・ペルスによって、マクリッシュとリカルド・グイラルデスがラルボー自身によって、フェデリコ・ガルシア・ロルカがジュール・シュペルヴィエルによってそれぞれはじめてフランス語に翻訳され紹介されたのも≪コメルス≫誌上においてであった」(「みすずライブラリー版あとがき」より、93ページ)
ラルボーがとりわけ外国文学の紹介に貢献していたというのは興味深い。そういえば彼は本篇のなかでも、ネルヴェーズという作家の態度を示しながら、外国作家たちの本を読むことを奨励しているように思える。
「彼は、自分でもその理由ははっきりしないままに、無学な連中に好まれる作者たちより彼のほうを好むフランスの少数派の選択の正しさを裏づけるのは外国のエリートの賛同だと感じていたのである。そして今日なお(完全に忘れられてしまったネルヴェーズについてはそうは言えないにせよ)、たとえばラシーヌは、いや、フランスやイギリスやイタリアの大古典作家の誰もが、自国の読者に比べてすくなくとも同数の読者を外国にもっている。偉大な作家は、国境を越えた同好の士の小グループを産み出すのである」(33~34ページ)
この本には「旧版」と「みすずライブラリー版」のふたつの「あとがき」が収められているのだが、どちらもすばらしい内容だった。「あとがき」の良い本に悪い本はない。わりと唐突にプルーストの読書論まで紹介されていて、嬉しい。
「プルーストの読書論はラスキンのそれの対極に位置している。ラスキンにとって、良書は人類のすぐれた叡智の≪宝庫≫であり、≪胡麻≫という呪文を唱えることによって扉を開き、そのなかに収められた宝をひとつひとつ取り出すべきものであったとすれば、プルーストの意見では、その宝庫は各人のなかにすでに存在しているのである。宝は外在するオブジェのようなものではなく、あくまでも各自の内側にある。ただ多くの場合、一種の怠惰や軽薄さから、その宝庫の扉は閉されたままになっている。書物は、その種の怠惰や軽薄さを抑えたり打破したりするきっかけにはなりうる。しかし書物の役割はそれに尽きるのである」(「あとがき」より、77ページ)
ラルボーの目指す読者像は上記のとおりだが、彼が標榜した「riche amateur」という言葉も、それを端的に表していると思う。フランス語の「riche」には「金持ちの」「豊かな」という意味があり、また「amateur」には「アマチュア」「愛好家」の意がある。「金持ちのアマチュア」「金持ちの愛好家」「豊かなアマチュア」「豊かな愛好家」と、四通りの訳が考えられるが、ラルボーが最後の一つのニュアンスに重点を置いていたのは明らかだ。
「≪riche amateur≫という種族は、社会的、経済的な事実というより、むしろある精神状態なのだ。つまり種々の状況、とりわけ金銭に関して、一定の視野の広さをもっていること、明日の生活についてある程度無関心であること、物質的利益よりは快楽を選びとり、社会的奴隷状態に身をおいて豪奢な生活を送るよりは、むしろ糊口の資はつつましくとも自由な生活のほうを好むこと」(ラルボー「1935年1月29日の日記」、「あとがき」より、81ページ)
なにかの「専門家」であろうとすることは、必然的に「博識のために博識たらんとする」ことに繋がっていってしまうだろう。「専門家」の対義語としての「アマチュア」が、フランス語では同時に「愛好家」という意味を持っている。これらの二重の意味のどちらをとっても、「riche amateur」という標語はラルボーにぴったりなものだ。
「教養は快楽の娘でこそあれ、労苦の娘ではない」(オルテガ・イ・ガゼット『傍観者』の言葉の「記憶による引用」、31ページ)
うっかり手を出してみてよかった。この本の内容がたくさんの人の共感を得たら、とてもすてきだと思う。何度も読み返したい。
- 作者: ヴァレリーラルボー,Valery Larbaud,岩崎力
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