ヴァレリー詩集
さきに紹介した『ヴァレリー文学論』をまるごと含んだ、ほるぷ出版「フランス詩人選」の一冊。装幀はピエール・カルダン。前半30ページに「十二詩編」を含んでいるため、別枠で紹介することにした。
ポール・ヴァレリー(堀口大學訳)『ヴァレリー詩集』ほるぷ出版、1982年。
あの『ヴァレリー文学論』をまるごと含んだ本に星五つを与えないわけにはいかない。収められた詩のうち六篇は『月下の一群』にも入っているとはいえ。
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失はれた美酒
一と日われ海を旅して
(いづこの空の下なりけん、今は覚えず)
美酒少し海へ流しぬ
「虚無」にする供物の為に。
おお酒よ、誰か汝が消失を欲したる?
あるはわれ易占に従ひたるか?
あるはまた酒流しつつ血を思ふ
わが胸の秘密の為にせしなるか?
つかのまは薔薇いろの煙たちしが
たちまちに常の如すきとほり
清げにも海はのこりぬ……
この酒を空しと云ふや?……波は酔ひたり!
われは見き潮風のうちにさかまく
いと深きものの姿を!
(8~9ページ)
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この「失はれた美酒」は、『月下の一群』にも収められているソネットだ。とはいえ、1955年新潮文庫版の、さらには1952年版白水社のものを底本とした1996年講談社文芸文庫版の『月下の一群』とも、テクストの若干の異同がある(新潮文庫版では「「虚無」に捧ぐる供物にと」、文芸文庫版では「あるはわれ……」の「ある」が漢字の「或る」となっている)。
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足音
私の沈黙の子供たち、お前の足音は
静かにつつましやかに
つめたくも声をひそめて
待ち侘る私の床の方へ来る。
清い女よ、神神しい影よ、
つつしみ深いお前の足音が
ああ 何とやさしいことだ!
ありとある尊い宝が
今、お前のはだしの足にのつて
私の方へ来る!
若しもお前が
差しのべたその脣の上に
わたしの思ひをなぐさめる
接吻を持つて来たとしても
やさしいその身振を急いではくれるな
ありなしのこのつかの間の心地よさ、
お前を待つてゐた間
お前の足音が私の心であつたのだ。
(15~16ページ)
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たくさんの図版が挿入されているのも、この本の魅力だ。アドリエンヌ・モニエ主宰の「本の友の家」の写真や関係のあった文学者たち(マラルメ、ジッド、リラダン、ピエール・ルイスなど)の肖像なども入っていて、わくわくする。とりわけ嬉しかったのは、ヴァレリーが堀口大學に宛てた手紙の写しが載っていて、その内容を原文で知ることができたことだ。堀口大學は1936年に、第一書房から刊行された『文学雑考』(『文学論』の母胎となったもの)を三部、原著者であるヴァレリーに贈っていた。この手紙はその返答である。
「Paris, le 10 Septembre 1938
40 Rue de VILLEJUST. XVI
Cher Monsieur Horigoutchi,
Je viens de recevoir les trois exemplaires de votre traduction de "LITTERATURE". Ce volume est un aspect ravissant: j'ai été charmé de l'élégance exquise de la typographie et de la reliure. Malheureusement, je ne puis me relire dans votre langue.. Je puis seulement vous dire combien il m'est agréable de penser que mes idées, grâce à vos talents et à votre travail, font ce que je n'ai jamais fait: un beau voyage et un séjour au Japon. Je vous en remercie de tout coeur ainsi que du gracieux envoi de ces volumes. Je vais en donner un exemplaire à la Bibliothèque de l'Institut de France, où des hommes plus instruits que moi pourront le consulter.
Veuillez croire, Cher Monsieur Horigoutchi, à mes sentiments bien reconnaissants et bien sympathiquemesnt dévoués.
Paul Valéry
P S. Peut-être connaissez-vous Monsieur ANESAKI MASAHARU professeur d'Histoire des religions à Tokio ? Si vous le connaissez, je vous prie de lui exprimer mes sympathies et de lui dire mon excellent souvenir. Merci.」
「拝啓。
貴訳『文学雑考』製本三部拝受いたしました。立派な本ですね。組み版と装丁の優美なのに、わたくしは惚れ惚れいたしました。残念なのは、わたくしに、あなたの国語で自著が再読できないことです……。もっとも、わたくしにも、自分の思考が、あなたの才能と努力のおかげで、わたくしにまだできなかった楽しい日本滞在をしているわいと思うと、はなはだ愉快だとだけは、申しあげられます。このことと、それから、この本を寄贈してくださったことについて、心からお礼を申しあげます。三部のうちの一部は学士院団の図書館へ寄付することにして、そこでわたくしより才学の備わった人士の閲覧に供する心算でいます。
まずは右拝受の御礼まで。 草々頓首
1938年9月10日
パリ市第16区ヴィルジュスト街40番地にて
ポール・ヴァレリー
追啓。
東京帝大の宗教史の教授、姉崎正治氏をご存知でしょうか? もし折りがおありでしたら、どうぞわたくしから、くれぐれもよろしく申しあげたとお伝えおきくださいませんか。多謝」(212ページ)
堀口大學がフランス語で自分の名を綴るときに、「Horigoutchi」と書いていたのがわかっておもしろい。英語風の「Horiguchi」では「オリギュシ」と発音されてしまうからだ(とはいえ、これでも結局は「オリグチ」なのだが。となると「大學」は「Daïghaque」だろうか?)。姉崎正治氏の名は、まちがいなく「アネザキマザアリュ」と読まれていたことだろう。この甚だ丁重な返信から、作品からは見えないヴァレリーの人柄を読みとることもできる。
持ち運びには不便だし、ぜったいに持っておかなければ一冊というわけでもないが、ただのコレクション以上には魅力のある一冊である。