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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

ヴァレリー文学論

 本を読んでいて感嘆する一文に出会ったとき、わたしはそのページの端を折る。そして、同じページのうちにいくつもそのような輝ける一文があったときには、ページのもうひとつの端も折る。だが当然ながら、折れる端の数には限界があり、片方のページを二度も折ってしまうと、その裏側に書かれていることを諦めざるをえなくなる。諦めきれないとき、わたしはとうとう付箋を持ち出す。付箋が大活躍するのはたいてい歌集や句集であって、散文には珍しいことだ。そして、感嘆するたびに付箋をぺたぺたと貼りつづけていたら、なんと2本の束をまるまる使い切ってしまった。つまり、200枚だ。本は膨れあがり、上部が森のようになっている。

ヴァレリー文学論 (角川文庫)

ヴァレリー文学論 (角川文庫)

 

ポール・ヴァレリー堀口大學訳)『ヴァレリー文学論』角川文庫、1955年初版、1969年改版。


 付箋を貼った箇所をすべて紹介することは、もちろんできない。そんなことをするくらいなら、むしろまるまる書き写してしまうべきだ。この本に書かれたことを一字一句書き写す、それは考えるだけでも心が躍る作業だが、そんなことをしたら法律に触れてしまうだろう。だからわたしにできるのは、この本の魅力を矮小化することでしかない。すでに存在している作品について語ることはいつだってそうなのだが、今回はとりわけ、この点を強調しておきたい。ヴァレリーがこんなことを言っているのだ。

「人は無償の贈り物のつもりで、多くの生命の代価を支払って得られた千のものを、漁夫が血を吐いて漁った真珠を、火焙り台からこぼれ落ちた書物を、平気で利用している」(38ページ)

「三年がかりで模索し洗練し修正し拒絶し選択し続けてできあがった文章が、あかの他人に、三十分にも足らない時間で、味わわれたり、読まれたりする」(97~98ページ)

 そして、こうも言っている。

「ある作品を真に愛する人たちというのは、その作品の内面および彼ら自身の内心をながめるに、少なくもその作品を作るに用いられたと同じほどの欲望と時間を消費する者のことだ。
 だが、その作品をおそれ、その作品から逃げている人たちの方がより功利的だ」(44ページ)

 わたしはこの本を真に愛したい。だが、いまのわたしにできるのは、まさしく功利的に、最近の関心に適った文章を引用すること(=矮小化)くらいだ。およそ文学をめぐる問題で、この本が示唆を与えないものなどひとつもない。だから、わたしがここで『剽窃の弁明』『零度のエクリチュール』に語られていた「独創性」に関連した文章を引用するのは、単純にそれがわたしの関心に応えてくれているからにすぎない。

「十七世紀の文学は、常にある一つの集団を目安に書かれている。それは一人の人間のものではない。たとえば、あの文章法を見るがよい、自分にものを言うのなら、人は決してあんなもののいい方はしないはずだ」(71ページ)

「ロマンチズム以来、人々はそれまでのように、練達(メートリーズ)を模倣する代わりに珍奇(サンギュラリテー)を模倣するようになった。
 しかし模倣本能は依然として存している。ただ近代人はそれに一つの矛盾を加えた。練達ということは、その言葉が示すように、芸術の手段にあからさまに使駆されるかわりに、その手段をわがものにして、自由自在に使駆するかのごとく見せる意味だ。
 だから練達の獲得ということには、当然、手段から出発して考えたり、組み立てたりする習慣、および作品を手段の働きとしてより以外には認めないこと、すなわち、作品を手段から独立した仮想された主題または効果という方面から着手しないという意味が含まれているのだ。
 その結果として、時々、機会またはその天質のおかげで、新しい手段を創造し、世上に新しい世界を生み出したかと思えるような個性的(オリジナル)な作家が現われて、練達の欠点をあばきこれを征服する場合もある。しかし、いつの場合にも、それは単に手段に関してのみのことだ」(42ページ)

 これらの経緯は、バルトが語っていたこととほとんど逐語的に合致する。バルトはそれを語るのに「エクリチュール」という言葉をもちいていたが、それはこの事情を説明するには、鉤括弧に括られた一語があったほうが便利だったからにすぎない。問題自体は古いものなのだ。

「新しさは、本質的に、ものの消滅するはずの部分なのだ。新しさの危険な点は、それが自動的に新しくなくなり、しかもただ単純に失われてしまう点にある。この点、若さや生命と同形だ。
 この喪失に反抗を試みることは、つまり新しさの反対の活動をすることだ。
 つまり芸術家としての新しさの探求は、消滅の探求であるか、さもないなら、新しさという名のもとに、それとは全く別なものを探求して軽蔑を買うことか、そのいずれかなのだ」(34ページ)

「新しさは、麻薬の一種だ。やがてそれは、いかなる栄養物以上に必要になり、たえず分量を増していって、はては致死量を用いるか、われらが死ぬか、いずれかを選ばなければならない結果になる麻薬だ。
 新しさの本質、言い替えれば、事物の亡びる部分に、こうまで深い執着を持つというは実に奇怪なことだ。
 君らは知らないのか、最も新しい思想(イデ)にさえも、上品な様子、あわただしくない落ち着いた様子、とっぴでなく昔ながらのものの様子、今朝はじめて見つかったものらしくなく、ただ作られていたのが思い出されたらしい様子を与えることがたいせつだと、君らは知らないのか」(107~108ページ)

 作家であれ批評家であれ、はたまた読者であれ、わたしたちはあまりにも新奇なるものを求めすぎているように思える。バルトの用語をもちいれば、「白いエクリチュール」、または「零度のエクリチュール」だ。だが、それはほんとうに、芸術に対する正しい姿勢なのだろうか。

「新しさは、単なる変化に自分たちの最大の興奮を求めようとする精神以外のものにとっては抵抗しがたいほどの魅力を持たない」(35ページ)

「新しさに対する排他的な愛着は批評精神の欠如を示すものだ。なぜかというに、ある作品の新しさを批判するほど容易なことはほかにはないのだから」(108ページ)

 新しさには必ず「個性」や「独創性」や「オリジナリティー」といった言葉が付着する。そしてこれらの言葉をもとに、「剽窃」や「盗作」や「模倣」といった言葉が蔓延していくのだ。

「自分の「個性」を保護しようと努力する人々がある、(僕は実際に見て知っている)彼らはこの目的のために模倣するのだ。つまり彼らは自分たちに「個性」の価値を教えた人々のまねをするのだ」(64ページ)

「今日では、――猿が感じる印象には大いに文学的価値があるはずだ。そしてもし、猿がその文章に人間の名で署名するとしたら、これは天才だということになるはずだ」(51ページ)

 だが、ほんとうにオリジナルなものなど存在しない。というか、それは存在することができない。

「他人を自己の栄養物にすることほどオリジナルな、個性的なことはほかにない。ただし、これを消化しなければいけない。獅子は同化された多くの羊から成る」(107ページ)

「剽窃家というのは、他人の養分を消化しきれなかった者のことだ。だから彼は、元の姿の気づかれるような作品を吐き出すのだ。
 つまりオリジナリテというのは、胃袋の問題でしかない。
 もともとオリジナルな作家でござるなぞは、ありはしないのだ。真にこの名に価する人々は、世に知られていないばかりでなく、知ろうとしても知りがたい。
 だが、わしはオリジナルな作家でござる! という顔をするやつならある」(94~95ページ)

 なぜ存在できないか。それは、言葉というものが常に他者に向けて発せられているからだ。ほんとうにオリジナルなもの、それは失書症に陥った人びとの内面にしかない。

「世間に発明された言葉がないという事実が、だれも自分自身のためにものを書きはしないという証拠になる。自己流のものの言いようをしてよいのは、自分自身に対してだけだ」(93ページ)

「もしも小鳥に、彼が歌っていることを、なぜ彼が歌うのかを、また何が彼の中で歌うかを、正確に言うことができるとしたら、彼は歌わないはずだ」(110ページ)

「僕らの真の敵は無言だ」(114ページ)

 わたしが思うに、先人たちはあまりにも多くのものを残しすぎた。そのため、新しさを求めること以外には、文学作品を生みだす理由が持てなくなってしまったのだ。だが、ヴァレリーはこの風潮に「ノン」を突きつける。

「新しさの中にあって最上のものは、古い欲求(デジール)にかなうものなのだ」(35ページ)

「個性(オリジナリテ)以上に尊いものがある、それは世界性(ユニヴェルサリテ)である。
 これには個性も含まれてはいるが、時と場合によってそれを用いたり、用いなかったりする」(62ページ)

 堀口大學ともあろう人がいったいどうしたことか、この「universalité」という単語には「世界性」の訳語があてられている。いやいや、これは原義どおりに「普遍性」とするべきだったろう。「世界性」では地理的な広がりに留まってしまい、時間的な広がりを含めなくなってしまう。そうするとこれが「新しさ」の問題に対するヴァレリーの答えであるという点に気づきにくくなってしまう。とはいえ「普遍性」という語が当時はまだ人口に膾炙しておらず、堀口大學が苦心の果てに使用を避けたという可能性もきわめて高い。カタカナでルビを振ってあったのが、その証拠だ。

「容易に模倣されるものおよびその模倣が容易に否定されるものは用いないこと」(99ページ)

「模倣が正当であり、価値があり、見るに堪え、かつ模倣されたがために損なわれたり、価値を失ったりすることも、また原作のゆえに模倣の価値も失われることもないものこそは大芸術品だ」(107ページ)

 人が文学を論ずるときにきまって登場する、おびただしい数の作家や作品などの固有名詞は、ここではほとんど見られない。ヴァレリーが語るのは個別の事象ではなく、もっともっと本質的なものだ。だからこの本について語ろうとすることはすべて矮小化なのだ。そのときの関心に応じて、何度も開いてみる必要がある。そのたびに新しいものが得られるだろう。

「この水盤に、四十センチの深さがあろうと四千メートルの深さがあろうと、そんなことはどうでもよいのだ。僕らにうれしいのはその水の輝きだけだ」(82ページ)

「世界じゅうの知力を集めても、一つの物体を動かすことはできない。しかしまた世界じゅうの体力を集めても、動かせないような物体もある」(96ページ)

「きわめて短い作品の場合、小さな細部が全体にも比すべき重要さを持つ」(102ページ)

「僕らに判然と見えるもので、しかも言い表わしにくいものは、僕らがそれを言い表わそうと骨を折る価値の必ずあるものだ」(118ページ)

「日が僕の思念を明るくする。僕の思念が僕の夜を明るくする」(132ページ)

 わたしに扱える最大の賛辞の言葉すべてを並べたてたところで、なんの満足も得られないだろう。この本に書かれていないことなどない。一生読みつづけていきたい一冊である。

ヴァレリー文学論 (角川文庫)

ヴァレリー文学論 (角川文庫)

 


〈読みたくなった本〉
ヴァレリー『若きパルク/魅惑』

若きパルク/魅惑

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ユイスマンス『さかしま』

さかしま (河出文庫)

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アーサー・シモンズ『象徴主義の文学運動』

完訳 象徴主義の文学運動 (平凡社ライブラリー (569))

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