剽窃の弁明
最近、ふたつの言葉の厳密な定義を知りたくて仕方がない。「剽窃」と「模倣」である。前者は悪徳として、後者は敬意の表明として扱われるものなのだろうが、うまく言葉にできない。そこで手に取った一冊。
- 作者: ジャン=リュックエニグ,Jean‐Luc Hennig,尾河直哉
- 出版社/メーカー: 現代思潮新社
- 発売日: 2002/02
- メディア: 単行本
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ジャン=リュック・エニグ(尾河直哉訳)『剽窃の弁明』現代思潮新社、2002年。
結論から言って、この本はわたしの疑問に直接答えてくれるものではなかった。だが、間接的にはいろいろなことを学べたし、糸口は見つかったように思える。本文中や「訳者あとがき」にたくさんの魅力的な書物が紹介されていたので、それらを丹念に読んでみたいと思った。以下は疑問に答えてくれた若干の部分。
「剽窃は、自分の文に他人の文を溶け込ませてこれを消滅させようとする。希釈による掠め取りである。文体模写(パスティッシュ)は逆に他人の肉を纏って、その人に見せかける。こちらは役者の演技練習に似ている。しかしこの練習において自らが偽者であることを洩らすのは、パスティッシュの実践者ではなく、模作それ自体だ。この巧妙な文学的手管は、しかも、<文体>を模倣しようとすればするほど、気づかれやすくなる。つまり、剽窃による奪取とは違って、ジェラール・ジュネットが言うように(『パランプセスト』)、パスティッシュはつねに、これはXがYを真似たテクストであるという<契約>を暗黙の前提にしているのである。パスティッシュはなにがなんでもパスティッシュだと悟られなければならない。さもないと、著者が書いた正真正銘のテクスト、つまり手本となるテクストそのものになってしまう」(49ページ)
「パスティッシュは、ある作品の隠された部分、秘密、裏側を露わにする。したがって、パスティッシュの実践者は、無遠慮な秘密の暴露をその職務とし、肉弾戦をその戦術とする。ところが、他人の肉体で自らを包み込むパスティッシュの実践者にたいし、剽窃者は肉体を奪い取ってしまう。パスティッシュがテクストの癖、弱点、その歩調から装備一式にいたるまでを模倣するのにたいし、剽窃はより男性的で、ときにはより荒々しい振る舞いに及ぶ。己の気まぐれと頑迷さに他人の肉体を従わせるのである」(50ページ)
そもそも「剽窃」という言葉が提示するものの大きさが問題なのだ。タイトルが示しているとおり、この本の議題は「剽窃」のほうに集中している。
「剽窃を追求すればかならず、思ってもみなかったところ、望んでもいなかったところまで行ってしまうものだ」(アナトール・フランスの言葉、11ページ)
「剽窃は、言葉をめぐる問題を集約し、際だたせるために恰好のトポスなのかもしれない。剽窃という木を引き抜くと、そこに現れる根っこに、テクストや言葉をめぐるほぼあらゆるテーマが繋がっているとでも言えようか」(「訳者あとがき」より、190ページ)
なにかを剽窃する、というのは、ほんとうに可能なことなのだろうか? この疑問は、反対の言い方もできる。つまり、なにも剽窃しないことが、いったいどんなひとにできるというのだろう? 言葉に付着した意味というものは、慣習として与えられているものにすぎない。そしてその伝統を拾うことが、言語活動の根本ではないか。それは剽窃ではないのだろうか?
「剽窃した作家をこれほど執拗に追い詰めるのは時代の悪癖だ。フランスはそう結論する。そしてこの悪癖はオリジナリティーの悪癖でもある。「だれかに発想を盗まれたら、ドロボーと叫ぶまえに、その発想がほんとうに自分のものだったかよく考えてみよう」。そしてさらに、「われわれはただただ人をあっと言わせたがっている。たったひとつでもオリジナリティーを認めてくれる賛辞があれば胸を打たれる。まるでオリジナリティー自体がなにか望ましいものであって、そこに良し悪しの区別などないかのように」。「われわれがいま目にしている極端な個人主義は危険な病である」」(13ページ)
「人が書くどの言葉もいわば括弧に入っている。文学史とはこうした繰り返しの在庫一覧に他ならない」(32ページ)
本を読んでいて、それがすばらしい本だと思う瞬間は、自分が予期していたものと巡り会えたことに由来する。文学は除外すべきなのかもしれないが、それでもなにか期待するものがあって読んでいるのだから、文芸書を読む理由も無視するべきではないだろう。わたしは常々、村上春樹が人気を失わない理由について考えている。それは彼が、「自分しか考えていなかったことが書かれている」と何百万もの読者に思わせるからではないのか。ヴァレリー・ラルボーの『罰せられざる悪徳・読書』を思い出そう。ラルボーは「自分以外の誰にも見えていないと信じていたもの」に、読者が救われる瞬間を克明に描いていたではないか。しかし、その描かれる対象となったのと同じことが、他の読者をも共感させているのだ。どうして他の作家が、同じことを思いついていないはずがあろうか。
「なぜ私がポーをあんなにも完璧に翻訳できたかお分かりになりますか? ポーが私に似ているからです。初めてポーの本を開いたとき、私は驚き、そして恍惚感におそわれました。そこには私が夢見ていた主題ばかりでなく、私が考えていた<文章>がそのままあったからです。しかも書かれたのは二十年前」(ボードレールの言葉、42~43ページ)
「ヒエロニュムスの家庭教師であった名高いラテン語文法学者ドナトゥスは、自らに属すると思っていたものを、以前の著述家の文章に発見しては激しい怒りに駆られていたらしい。「死ぬがいい! われらより先にわれらの真似をなす輩などくたばれ!」と叫んでいる」(43ページ)
芸術におけるオリジナリティーというものは、どこまでも信用がならない。現代においては、この忌むべきもの(独創性)を追求するために、「芸術」という言葉の意味をも押し広げなければならなかった。『ダダ・シュルレアリスムの時代』に描かれていたような、シュルレアリスムやダダイスムと、その先に生まれた未来派やレトリスムの関係を考えればわかりやすいだろう。前者に芸術の名を与えるのは容易いが、後者には躊躇が生じる。オリジナリティー、それはほんとうに追求する価値のあるものなのだろうか? そもそも、それは存在するのだろうか?
「各テクストは、明示的にせよ暗示的にせよ、引喩によって他のテクストを参照させ、各テクストは故意にせよ偶然にせよ、ひとつの引用集を成すのである。そして今度は読者が引用集を再創造すなわち再編集し、かくて引用ははてしなく続いてゆく。ただし、いっけん同じ事を繰り返しているだけのように見える文学は、じつは、連続性だけでなく、緩慢で漸進的な変化もまた示している。カフカの先駆者たちは、お互い同士が似ていないにもかかわらず、なぜことごとくカフカを思わせるのだろうか? なぜなら、彼らの唯一の収束点がこの来るべき作品の中にあり、そしてこの作品こそが、彼らの出会いに後からひとつの意味とひとつの秩序を与えるからである。「それぞれの作家が各々の先駆者を創造する」とボルヘスは言う。文学の時間は可逆的なのだ。だからこそアントナン・アルトーは、海と魚を謳ったハンプティ・ダンプティの詩にせよ、<ジャバウォッキー>にせよ、ルイス・キャロルが彼アルトーを盗作し剽窃したと言えたのである」(168ページ)
「なぜ、突如としてこれほどの憎悪が、陰険な訴訟が、遠回しで、そのくせに執拗な猜疑心が、こんな嫌がらせ、こんな脅迫が噴出してくるのだろうか? 招かれた者の過剰が選ばれた者にたいする遺恨を募らせる集団にとりわけよく見られる、あの行動生態学的な法則による現象だろうか? いかなる作品も作者の所有物であることを止めて、ささやかなものであれ、美的な領土の植民地、所有地になってゆくことを、まるで無視したがっているかのように怒り狂い、「俺の言葉だ! 俺の言葉だ!」と四方八方に叫ぶ作者の傷つきやすさ。じっさい、ミシェル・シュネデールによれば、剽窃された作者があんなに苦しい思いをしてまで執拗に自らの言葉を纏め上げ、防衛し、その所有権を声高に主張するのは、彼らがだれにもまして自らの言葉の非固有性を相手にしているからである。彼らは、つねに自らの許を逃れ去るこの無以外に、自分のものとてなにひとつ持っていないのだ」(126ページ)
エニグはこのオリジナリティーなるいかがわしいものに、どこまでも闘いを挑む。
「文学は自らの剽窃の独創性(オリジナリティー)でしか生きられない。どんなに美しい言葉もよそからやってくる」(33ページ)
「言葉、色、光、音、石、木、青銅は生きた芸術家のものだ。それを使いたい人のものだ。ルーヴルを盗め! 打倒オリジナリティー。創作すればするほど窮屈になる卑屈で不毛な自我よ、くたばれ。純粋で、破廉恥で、徹底的な盗み万歳! われわれに負うべき責任などない。目についたものはなんでも盗め」(48ページ)
では、剽窃とはいったいどんな行為を指す言葉なのだろうか?
「T・S・エリオットはかなり露骨にこう断言していた。弱小詩人は借用し、大詩人は剽窃する、と。オリジナリティーの虜になった近代でさえ、名の知れぬ作者からなら名だたる大作家も平気で盗用している」(37~38ページ)
「剽窃を成功させるためには剽窃するだけでよいなどとだれが言ったのか? めくら滅法に木を拾ってくればヴァイオリンになるとでもいうのだろうか? たとえばそれがカエデ材であっても。<剽窃自体が問題ではない。すべてはそこからなにを作るかに懸かっている>。規則はこれだけ」(111ページ)
つまり、盗むこと自体が問題ではないのだ。なにか素材を盗み出して、それを改悪するのでなければ、なんの問題も生じない。デュマが伝えるシェイクスピアの言葉は、輝いている。
「神だって人間を創るとき、新たな創作ができなかったのか敢えてそうしなかったのかは知らぬが、いずれにせよ自分の姿に似せて創った。だからこそ、同時代の作家から一場面をそっくり盗み出していることがあるとアホな批評家に非難されたとき、シェイクスピアはこんな言葉を口にできたのである。「私はうら若い娘さんをお下劣な連中とのつきあいから救い出して上品な社会に入れてやったのです!」同様の批判を受けたとき、これも同じ理由からモリエールはもっと素朴にこう答えている。「俺は見つけたらすぐ自分の財産にする」。シェイクスピアもモリエールも正しい。才能のある者は盗まず、奪い取るからである。彼はそれを己の帝国に併合して属州となし、己の法を押しつけ、己の臣下を住まわせ、己の黄金の支配を及ぼす。そして、その美しい王国を眺めながら、「この土地はいささかもあんたの世襲財産じゃない」などと敢えて口にする者などいない」(デュマの言葉、45ページ)
「モンテーニュにとって本はたんなる刺激でしかなかった。本に書かれたことよりも、本のおかげで成長できた現在の自分のほうがはるかに重要だった」(55ページ)
そもそも、この「剽窃=悪徳」という考え方自体が、じつに歴史の浅いものだ。それは経済原理に基づいた個人主義とも無関係なものではないだろう。
「剽窃を非合法とみなす考え方は最近のものにすぎない。文学的所有権の表明は、個人的な所有権を文学という個別ケースに当てはめた結果得られたものではなく、あるタイトルを獲得した本屋にその独占権を版権のかたちで保証しようという動きに直接由来している、とロジェ・シャルチエは言う(『文字文化と社会』)」(98ページ)
「ああ、美徳の代理人たち! 剽窃を疑われている? ナチだった過去を今とつぜん暴きでもしたように、取り返しのつかない悪をまえにしているかのように、奴らはあなたを追いつめる。模倣とは、思考力と書く技術を要する実践であり、世代から世代へ人を結ぶ鎖があるいじょう、以前に書かれたものを出発点にしないかぎり別のものは作り出せず、だからこそこの集団的な所有物は人類に属するというのに、こうしたことをなにがなんでも無視したがっているかのごとく、あなたを「火あぶりにする」」(144ページ)
だが、この点においても、糾弾者たちは完全に倒錯している。剽窃は原著者の利益を奪うものではないし、彼らに利益をもたらすものでもないのだ。
「再度問いなおしてみよう。剽窃において盗みとはいったい何なのか、損害とはいったい何なのか、と。本はそのままであり続け、オリジナルのタイトルと著者名が冠されたまま、いままでと変わることなく売られてゆく。作者の名声が傷つくこともない。問題の作品同士が関係を持つことなどほとんどないし、そもそも、何行か、何頁かを盗作されたために、認められなくなったり、評価を落としたり、作品を売ることができなくなったり、うまくゆかなくなった作家がいることを立証できた者などいまだかつて存在したためしはないのだ。剽窃が、一冊の本の存在と剽窃された作家の物質的利益をほんとうに脅かしたことなど金輪際なかったのである。そんなところに問題の核心がないことなど、だれもがよく知っていた」(104ページ)
ロラン・バルトの美しい言葉も、忘れずに挙げておきたい。
「断片(フラグマン)を盗むことも、断章(フラングマン)を書くことも、結局は同じ美学に属している。自身がニーチェの偉大な読者だったバルトによって繊細に書き留められた美学である。バルトによれば、断章とはなによりもまず細部にたいする愛着、始まりにたいする情熱(「始まりの数だけ快楽がある」)、ごく短い、一瞬の、取るに足らない「ひっかけ=ナンパ(ドラーグ)」なのだ。ある場面の細部に焦点が合ったときに初めて、私はその細部をそっと包囲し、捕まえ、そして奪い去る。つまりそれはつかの間の煌めきであり、ときには抗いがたい刺激である」(73ページ)
ここまでくれば、エニグが「模倣(文体模写、パスティッシュ)」にページを割かなかったことも納得できる。わたしは「剽窃」と「模倣」を善悪の二項対立に当てはめようとしていたが、「剽窃」それ自体が、悪と呼ぶにはふさわしからぬものだったのだ。それは「ユートピア」と「ディストピア」という言葉の対立図式によく似ている。「ユートピア」という言葉を仔細に分析する人は、その定義が「ディストピア」をも含んでいることにかならず行き当たるのだ。まったくもって、アナトール・フランスは正しい。わたしは「思ってもみなかったところ、望んでもいなかったところまで行ってしま」おうとしている。
「「なにひとつとして真なるものはない。すべてが許されている」。とアサッシン派の首領ハサン・サッバーフは言っていた。バロウズとガイシンは「山の老人」〔ハサン・サッバーフのこと〕のこの言葉から文学的創意における自由の原則を引き出したのである。いや、そもそも語はだれのものでもない、とふたりは言う。書かれた、あるいは語られたいかなる語からでも人は真理を切り取ることができる。物語のいかなる一節も、詩的なイメージのいかなる一節も無数の変化を受け入れ、どれもがそれ自体で面白いものになりうるのだ。切り取り、置きなおしたランボーの一頁はまったく新しい像を、真の、しかし新しいランボー像を与えることになるだろう。勝負に一度きりということはない。カードを配り直せ。<どの数なりと、さあ、張った張った(エニー・ナンバー・キャン・プレイ)>」(83ページ)
「「つねに人は思っているほど独創的でなく、信じているほど剽窃者ではない」とミシェル・シュネデールは指摘する。剽窃を非難することは、再度繰り返すが、オリジナリティーというありえない神話をわれわれに押しつけようとすることに他ならない。そしてこのオリジナリティー神話をまえにすると、人の目に映るのはもはや偽造と模倣と改竄だけになってしまう。こうなるともう、自分のテクストが起源であると同時に目的そのものであると思い込み、そこから着想を得たテクストはことごとく偽書あるいは雑種でしかありえない、つまり、自分たちの文章が<即時的に(アン・ソワ)>存在しているのだと信じる作家すら現れてくる。となれば、最初のテクストがその種(ジャンル)のテクストの可能性をすべて汲み尽くしている以上、たとえ剽窃に一切手を染めていなかったとしても、あるテクストに似た他のテクストはことごとく最初のテクストのたんなるむだな繰り返しになってしまうだろう」(168~169ページ)
問題はややこしくなるばかりだ。剽窃を論じることのおそろしさをこれほど感じたことはない。エニグの書き方も色々な方向に好き放題に飛躍するので、論理を追いかけるだけで手一杯だ。だが、これだけは言える。独創性などというものは存在しない、でっちあげられたばかりの近代的神話でしかないのだ。
「素材はみんなの財産、やがては君の所有物になる」(ホラティウスの言葉、21ページ)
読みたい本がたくさん増えた。わずか200ページ程度の、剽窃という問題のすべてを論じ尽くすにはいかにも薄すぎる本だが、教えてくれることはじつに多い。書き方にすこし癖があるものの、博覧強記のすばらしい作家である。ちなみにこのエニグ、もう一冊だけ翻訳がある。そのタイトルは『事典 果物と野菜の文化誌:文学とエロティシズム』。なんていかれた作家だろう。好きだ。そしてそれを翻訳した人びとも、同じようにいかれている。好きだ。
- 作者: ジャン=リュックエニグ,Jean‐Luc Hennig,尾河直哉
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