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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

性についての探究

 アンリ・カルティエ=ブレッソンのエッセイ『こころの眼』に登場したアンドレ・ブルトンの姿を見て、思い出した一冊。シュルレアリストたちが性について語り合った記録である。

性についての探究

性についての探究

 

アンドレ・ブルトン編(野崎歓訳)『性についての探究』白水社、2004年新装版。


 これがどんな内容の本であるのかは、ジョゼ・ピエールなる人物の「序」で詳細に語られているので、そのまま引用してしまおう。

1928年初頭、シュルレアリストたちは、いわば身内だけで集まって、自由な討論という形のもとに一種の調査を行なった。それが後に『性についての探究』と題されることになる。われわれの知るかぎり、そしてアンドレ・ブルトン関係文書(アルシーヴ)に残された記録によるかぎり、1932年8月1日の最終回まで、全部で12回の会合が持たれた。これはかなり驚くべきことと言えるだろう。というのも、この時期、シュルレアリスムは、その歴史の中でもっとも重大な危機を迎えていたのである。とりわけ1930年、ブルトンによる『シュルレアリスム第二宣言』の刊行と、それに対する非難文書『屍骸』の発表という事件があり、さらに1932年には、ルイ・アラゴンの除名という、きわめて重大なできごとが起こっている。ところが、こうした危機や分裂騒ぎにもかかわらず、そしてまた、性の神秘の解明をめざすこの会合の初期のメンバーの多くが、ブルトンの仇敵ジョルジュ・バタイユのもとに去ったり、フランス共産党に入党したりしたという事情にもかかわらず、なおシュルレアリスムは存続し、そればかりか『性についての探究』もまた続行されたのだった!」(ジョゼ・ピエール「序」より、8~9ページ)

 イアン・マキューアン『初夜』の冒頭に、こんな一文がある。「彼らが生きたこの時代には、セックスの悩みについて話し合うことなど不可能だった。いつの時代でも、それは簡単なことではないけれど」(まったく、なんとマキューアンらしい文章だろう!)。この、簡単でないことをどこまでも語り合ったのが、『性についての探究』である。シュルレアリスムにすこしでも関心のあるひとなら、おおいに楽しめることが約束されている一冊だ。登場するのは有名な人たちばかりで、「性」というテーマも、いかにもシュルレアリスムにふさわしい。シュルレアリスムと「性」とは、切り離しがたい関係をもっているのだ。「付録」として収められた「国際シュルレアリスム展への序」で、ブルトンは「シュルレアリスムが、起源から今日に至るまで、手を届かせようとし続けてきたその場所とは、エロティスムである」と語っている(248ページ)。

 とはいえ、わたしにとってのこの本の最大の魅力は、敬愛する二人の作家、すなわちクノーとプレヴェールの肉声を聞けることにある。腹を割っての打ち明け話の舞台で、第三者によって記録された二人の声は、とてもとても貴重なものだ。だが、ジョゼ・ピエールがこんなことを書いているのも、挙げずにはいられない。

「癒しがたいペシミスムにとりつかれたレモン・クノーは、あまり絶望的なことばかり言うので、こちらはいったい笑ったらいいのか泣いたらいいのかわからないくらいだ。ひょっとしたらクノーは、そういう態度によって、ブルトンが愛好するユイスマンスの小説の情けない主人公たちを彷彿とさせているのかもしれない! だが、何といっても一番期待はずれなのは、ジャック・プレヴェールだ。当時を知る誰しもが、たいへんな話し上手と讃える人物なのに、ここでは調子のいいときでさえさほど価値のあることは言っていない――私の期待が大きすぎたのかもしれないが」(ジョゼ・ピエール「序」より、27~28ページ)

 期待はずれ? いやいや、そんなことは全然ない。ジョゼ・ピエールがどうしてこんなことを書く気になったのか、わたしにはまったく理解できない。ブルトンもエルンストも、正直どうでもいい。この本が輝くのは、クノーとプレヴェールが発言しているときなのだ。とりわけプレヴェールは、あらゆる期待をおおいに上回る大活躍を見せている。

ブルトン ナヴィル、金を払って女と寝るということに、どのくらいまで我慢できる?
 ナヴィル まったく我慢ならないし、それにそんな経験もない。
 ブルトン プレヴェール?
 プレヴェール 経験なし。金をもらったことはあるよ」
(「第一回」より、57ページ)

クノー セックスをするとき、何か整えておきたい外的な条件というものがあるか、そしてあるとしたらどんな条件か。
 ブルトン せいぜい否定的な形でだけだね。つまり、外部の何かが気になって邪魔になるようなことがないように、ということ(壁紙の模様、衝立や、洗面所がないこと等々)。
 ペレ 明かりはあったほうがいいか、暗いほうがいいか。
 ブルトン 場合による。暗いのは嫌いだね、少なくとも最初のときは。
 クノー ペレは?
 ペレ ぼくは断固明るいほうがいい。その他、外的条件というと、森のなかや、水辺でのセックスが大好きだね。
 クノー ナヴィル?
 ナヴィル どうだっていい。
 クノー モリーズ?
 モリーズ 最小限の否定的条件。邪魔されたくないし、それから明るいほうがいい。
 プレヴェール 夜は眠るため、昼はセックスのため。寝室以外ならどこでもいい」
(「第一回」より、58~59ページ)

 日本語に翻訳されたプレヴェールの詩集は、新刊書店では、今ではまったく手に入れることができない。これは信じられないことだ。『ルネサンス書簡集』にあったペトラルカの言葉をそのまま引用して、こう言いたい。「私には大きな悲しみであり、現代にとっては大きな恥辱、後世にたいしては大きな不正です」。小笠原豊樹訳の『プレヴェール詩集』(マガジンハウス、1991年)を古本屋で発見したら、迷うことなく購入することをおすすめしておく。

ブルトン 何歳くらいの女性が一番好き?
 タンギー 25を過ぎてから。
 ナヴィル 18から40まで。
 ペレ 20から25。
 ユニック 別になし。
 プレヴェール 14歳」
(「第一回」より、61ページ)

ブルトン プレヴェール? 子供は好きか? 子供を持つとしたらどうか?
 プレヴェール 即刻殺してしまうべきだ。
 ブルトン なぜ? いい子だとしたら?
 プレヴェール いい子になる暇もないさ、その前に殺してしまうから」
(「第四回」より、117ページ)

 クノーとプレヴェールが口を開くたびに、にやけてしまう。仲の良い二人のこと、他のシュルレアリストたちに対抗する足並みも揃っている。そういえばクノーによるプレヴェール論は『現代詩手帖』の1979年3月号に訳出されているので、興味のある方はそちらも読んでみたらおもしろいだろう。

アラゴン 何に一番興奮するか。
 デュアメル 女の脚とふともも。その次が性器、その次がお尻。
 プレヴェール お尻。
 クノー 尻」
(「第二回」より、78ページ)

ユニック 女の体で、キスしたい部分は?
 デュアメル 口。
 クノー 鼻の穴。
 ブルトン 乳房。
 ペレ 耳と乳房。
 タンギー 脚。
 プレヴェール 尻」
(「第六回」より、157ページ)

 プレヴェール、どんだけ尻好きなんだよ!

ブルトン デュアメル、妊婦をどう思う?
 デュアメル 深い嫌悪を覚える。
 タンギー ぼくは、直ちに帝王切開を連想する。
 ユニック いい印象はない。
 ジェンバック ぼくは少しも気にならないね、お腹に腸があるのと同じことで。ただし下腹部が膨らんでいるのは嫌だな。
 ブルトン ナヴィル?
 ナヴィル 気の毒に思う。
 プレヴェール 醜い女の場合はおかしみがあるけれど、美女の場合は侘しいね」
(「第四回」より、119ページ)

 クノーも、かなりやばいことも平然と打ち明けている。まさしく打ち明け話。

ブルトン クノーは、言葉の広い意味において、マゾシストか?
 クノー 全然。むしろサディストだろう」
(「第二回」より、82ページ)

クノー 強姦をどう思う?
 ペレ 絶対反対。
 タンギー 大いに結構。
 ブルトン 絶対反対。
 クノー ぼくにとって興味ある唯一のこと。
 デュアメル 興味なし。
 プレヴェール 正当なことと思う。
 ユニック 反対だ」
(「第六回」より、157~158ページ)

 ところで、クノーの初体験は1919年、つまり彼が16歳のときのことだそうだ。

クノー 1919年3月18日、ぼくはル・アーヴルの街の市場のほうに向かって散歩していた。女が一人、雨の日で傘をさしていたが、ぼくに声をかけてきた。その女についていって宿に入った。つまり、セックスをしてみたいという気持ちがとても強かったから。女が服さえ脱がずに始めるものだから、困ってしまったけれど、結局大いに満足を得た」
(「第五回」より、131~132ページ)

 ふつう日付まで覚えているか? とも思うが、わたしの手もとにはフランスで刊行されている、1914年から1965年までのクノーの日記がある。そこで、慌てて1919年を調べてみたのだが、この年は7月3日以降しか書かれておらず、クノーはこの体験に関しては完全に沈黙を守っていた。

 クノーとプレヴェールの言葉が輝いているのは、打ち明け話という討議の性質にもかかわらず、他の参加者たちがたいしたことを言っていないことにも拠る。とりわけブルトンはひどい。「期待はずれ」という評価は彼にこそふさわしいだろう。回答がどれもこれも中学生じみていて、腹を割った対話である必要を感じさせないのだ。おまけに狭量である。しかもブルトンに反論をすると、ペレを初めとする同調者たちの、数の暴力の前にねじふせられてしまうのだ。そりゃあ離反もされるさ、と思ってしまう。ちなみに非難の言葉として現れるのが、「唯物論者」、または「ダダイスト」だ(ダダイスムシュルレアリスムとの関係については、以前紹介した塚原史『ダダ・シュルレアリスムの時代』に詳しい。ついでにシュルレアリスム一般については、巌谷國士『シュルレアリスムとは何か』がすばらしい名著である)。

ブルトン きみは化け物屋敷を信じないのか?
 ジェンバック いや、信じますよ……どんなことだって可能なんだから。ただ、一人の女性が生きているということが証明できるものかどうか、やってみせてほしい。
 ブルトン それはまったくの唯物論だ……」
(「第四回」より、116ページ)

クノー ぼくがさっき言いたかったのは、夢で射精があるときには、かならずいくらか自慰への意志があるものだということで、逆にまた、射精なしの快感というのも経験があるように思う。
 エルンスト 賛成だ。
 アレクサンドル 夢の中で快感を得るかもしれないなと思いながら眠りに入ることが、ぼくにはよくある。ところが、たいていの場合、何も感じることなしに終わってしまうんだ。
 ブルトン クノーに賛成する。夢の中では、射精なしの快感というものがありうると思う。
 エルンスト、デュアメル 同感だ。
 ブルトン 二、夢の中に自慰への意志といったものを持ち込みうるものかどうかについて、再度質問を繰り返したい。三、まったく残念なことながら、ぼくには、覚醒時のイメージや欲望を夢の中に引き続き導入できうるとは思えない。これまでにさんざん試みてみたんだが。
 クノー 自慰への意志がある場合には、もちろん夢の外に出て、覚醒状態に入っているわけだ。夢の中で快感を得たときには、夢の外に出ているわけではないし、おそらく射精も起こらないはずだ。
 デュアメル 少しも快感のない射精もありうる。
 エルンスト 反対だ。
 ブルトン 自慰の意志がある場合には夢の外に出ているとすれば、つまりは夢の中では自慰の意志などないということだ。クノーは、シーツのこすれあいやその他の物理的要素が、射精ありにしろなしにしろ、快感を引き起こす原因となりうるという、ぼくの目には嘆かわしいとしか思えない例の理論にくみする気があるのか?
 クノー そのつもりだ。
 ブルトン 唯物論だ。
 デュアメル、ペレ、エルンスト、ノル <同様の抗議。>
 エルンスト 反シュルレアリスムだ」
(「第五回」より、128~129ページ)

 とはいえ、クノーもプレヴェールも負けてはいない。1928年2月におこなわれた「第五回」では、後々の離反を予見する大論争が繰り広げられている。記録されたいくつかの文章が、草稿の段階でブルトンによって削除されているのも興味深い。

エルンスト なんでまだ生きているのか、不思議に思えるような連中がいるもんだな、例えばクノーとか。そんな連中には、ロープの切れ端でも進呈したいね。
 クノー 愛か革命のためになら喜んで死ぬつもりだが、そのいずれとも縁がないだろうことも、自分でよくわかっている。
 ブルトン それはよくある反革命的言辞であり、愛に反対する実証主義的言辞の典型だ。
 ユニック クノーの言ったことは、実証主義というのには当たらないと思う。
 クノー どんなものであれ、人生に対する信頼というのは、ぼくには反シュルレアリスム的なものと思えるが。
 ブルトン そういうことなら、ぼくはクノーが言うようなシュルレアリスムには反対だ。
 ペレ まったくブルトンに賛成。それこそぼくがシュルレアリスムに認める唯一の意義だ。
クノー それならば、それは人生とは関係のないことだ。
 ノル シュルレアリスムはかつて人生の意味以外の何ものかであったことはない。〕
 アレクサンドル ぼくの考えはクノーの考えと反対だ。
 ブルトン 問題の立てかたがよくないようだ。人生に信頼をおくことが問題なのではない。われわれが非順応主義を守るかぎり、心配はないだろう。しかしながら、われわれにとって、人生で唯一妨げられても、禁じられてもいないもの、それこそが愛ではないか。
 プレヴェール 反対だね。
 エルンスト それに加えて、感動を信じるということもある。
 プレヴェール そんなもの、何もないよ。言うことはそれだけさ。
 ペレ ダダ。
 プレヴェール 〔ダダで尻でも拭ってやろうか。〕糞くらえ!」
(「第五回」より、136~137ページ。亀甲括弧内はブルトンによって削除された箇所)

エルンスト クノーの発言には、明らかな自己撞着が見て取れるように思う……
 ユニック そんなことは全然ない。
 エルンスト ……、一方では愛(ぼくにとっては革命と等しいもの)に対するブルジョワ的な懐疑精神を残しながら、他方では愛に関してかなり楽観的な留保を示しているのだ。
 クノー 一方でぼくのブルジョワ的懐疑精神を非難しながら、もう一方で愛をどこか楽観的に考えていると非難するのは、つまりはブルジョワ的な論理に対するある種の信頼を表すものではないのか。
 ブルトン いったい、クノーはブルジョワ的論理にかえてどのような論理を持ってこようというのか。
 クノー 何も。
 ブルトン とすると、こういうアンケートに対して、いったい論理なしでどうやって答えられるというのだ。
 クノー 一切の感傷ぬきに、ぼくが友とみなしている人々にたいしてぼくが抱く信頼によって。
 ブルトン それは無理だ。
 クノー ぼくは友情を、愛についてと同じ意味で理解している。愛は、外から押しつけられる運命とは無関係に考えうるものだ。
 エルンスト 「外から」とはどういうことだ? 神によってということか?
 クノー さあ、知らないね。とにかく、愛における運命などというのは、ぼくには理解できないし、理解したくもない問題だ」
(「第五回」より、138~139ページ)

 思えばシュルレアリスムは、文学にかぎらず、それまでの世界のあらゆる観点に対する異端として登場し、喝采を浴びた。そこにおおぜいが参加したのは納得できる。そしてシュルレアリスム運動のなかに「正統」という観念が生まれたとき、それらの人びとが離反していった。須賀敦子『ユルスナールの靴』で書いていたとおり、「求道がないところに異端がないのは当然かもしれないが、精神の働きのないところにも異端は育ちえない」のだ。わたしにはシュルレアリスムから離反していった人びとのほうが、真の求道者であったとしか思えない。この本のなかで批判にさらされている人びとが、とても好ましく映る。

ブルトン アラゴン、女の「性欲」をどう思う?
 アラゴン 一般的に、女の場合に性欲は、いろいろと奇妙な、面白い事態を生み出すもとになっているような気がするが、個人的には、ぼくは女性にはそういう欲望を隠してもらったほうがありがたいし、実際、淡白な女だなとぼくが思った場合、それはいつだって女が欲望を隠していたわけなんだ」
(「第三回」より、101ページ)

アラゴン とくに魅力を感じる女とは、ぼくの場合、目や、髪、胸、身長、尻や脚のせいではなく、その表情によって魅惑する女なのだけれど、それは絶対に描写することができないものだ」
(「第三回」より、104ページ)

 ルイ・アラゴンに関しては、かなり否定的なイメージを持っていたのに、これを読んでかつてない共感を覚えた。ちなみに否定的なイメージをもたらしたのは、ロジェ・グルニエが彼を主人公に書いた短篇「歓迎」(短篇集『フラゴナールの婚約者』所収)である。それから、アントナン・アルトーの知性にも感動した。

アルトー ぼくには、性の領域を個人的なもの、まったく私的な、自分だけのものとみなす傾向がある。人生のあらゆる経験と同様に、身を委ねながらも、そこに何を期待しているわけでもない。ぼくが自分自身でそこから結論を引き出してくるほうが、より有益と思えるし、そういう考えをぼくが必要に応じて、いつ、どのように発表するかによっては、他人にとってもより有益なものとなるだろう。この種のアンケートでは、たいていの場合、どうしたってある種の誇張が混じってくるものだ。それと同様に、こういうアンケートをやって、本当のことを言っている人物とそうでない人物とを見分けることができるものだろうか? ぼくは、性とはそれ自体として、きわめて忌まわしいものだと思う。そんなものからは喜んで解放されたい。すべての人々がそういう境地に立っていたらいいのにと思う。下劣な誘惑の奴隷となるのは、ほとほとうんざりなんだ。しかしながら、たしかに、一種の死に身を投じるようにして性に身を投じるという場合もありうるだろう。でもそれは、絶望の一形式であって、そう感心できるものではない」
(「第六回」より、144~145ページ)

 エリュアールも、率直に発言する数少ない参加者のひとりである。

ヴァランタン 絶頂の瞬間、何と言うか?
 ユニック 今までに言った一番長いせりふは、「ああ!」。
 ヴィヨン わたしは、何も言わないわ。
 ミシュレ 何も。
 ブルトン 何も。
 ティリオン 一度だけ「おまえ」といったことがある。
 ウーム <沈黙を守る。>
 メイエ 何も。
 ブリュム 相手を愛しているなら、「おまえ」。そうでなければ、何も。
 レナ夫人 普段は、「フェルナンド」(わたしの姉)、あるいは「ドニ」(大好きだったお医者さんで、ついに一度も寝なかった)と言う。または「ピエール」。
 シュニッツラー 何も。
 シュヴァルツ 「おまえ」あるいは「ぼくのかわいい子」。
 カティア・ティリオン 「愛してるわ(ア・オ・イ)」。
 ヴァランタン 「売女」「くそったれ」「淫売」(等々)。
 エリュアール のべつしゃべりまくっているよ」
(「第九回」より、201~202ページ)

 これまで手に取ろうと思ったこともなかった人びとの著作が、一気に近づいてきた。この本の史料的な価値の高さは、無視できないものがあるだろう。

エリュアール それから、一般にエロティック文学についてどう思う、つまりこのテーマを正面から描いたもののことだけれど?
 ブルトン エロティック文学についてはまったく低い評価しか下せない(サド、ピエール・ルイスはぼくにとってはエロティック文学ではない)」
(「第十一回」より、212ページ)

 訳者である野崎歓も、この本の魅力を簡潔に伝えている。

「性――原文ではセクシュアリテ――という言葉の定義に関してさえ了解が成り立たないままに、さまざまなメンバーたちが加わっては、収束することのない討議を続けていく。その記録を通して、シュルレアリストたちの表情を、彼らの作品を介して以上にいわば至近距離から見ることのできる面白さには、いささかなりとシュルレアリスムに興味を抱く者にとってはたまらないものがある。アラゴンの柔軟な弁舌、クノーやプレヴェールのとことん世を拗ねたひねくれ方、エリュアールの単純率直な官能性礼讃。律儀で真面目なエルンスト。イヴとジャネット・タンギーという奇妙な夫婦。ペレが万事ブルトンと歩みを一にする骨の髄からの「正統派」であることや、シュルレアリスト間では「ダダイスト」とか「唯物主義者」というのが相手を否定するための言葉だということがわかったりもする」(「訳者あとがき」より、257ページ)

 文句なしにおもしろい! とまでは言わないが、クノーとプレヴェールすばらしさを、ここでもう一度強調しておきたい。シュルレアリスムに関心がなくても、この二人の作家が好きなら読んでみてほしい。それ以外にも、猥談好きな人、性のさまざまな諸問題に関心のある人(ない人などいるのだろうか?)、ただ笑いたい人にも、たまらない一冊だろう。

性についての探究

性についての探究

 


<読みたくなった本>
アンドレ・ブルトン狂気の愛

狂気の愛 (光文社古典新訳文庫)

狂気の愛 (光文社古典新訳文庫)

 

アンドレ・ブルトン編『夢の軌跡』

夢の軌跡 (1970年) (セリ・シュルレアリスム〈2〉)

夢の軌跡 (1970年) (セリ・シュルレアリスム〈2〉)

 

アンドレ・ブルトンブルトンシュルレアリスムを語る』

ブルトン シュルレアリスムを語る (シュルレアリスム文庫)

ブルトン シュルレアリスムを語る (シュルレアリスム文庫)

 

バルベー・ドールヴィイ悪魔のような女たち』

悪魔のような女たち (ちくま文庫)

悪魔のような女たち (ちくま文庫)

 

ルイ・アラゴン『イレーヌ』

イレーヌ (白水Uブックス)

イレーヌ (白水Uブックス)

 

アントナン・アルトー『神の裁きと訣別するため』

神の裁きと訣別するため (河出文庫 (ア5-1))

神の裁きと訣別するため (河出文庫 (ア5-1))

 

モーリス・ナドー『シュールレアリスムの歴史』

シュールレアリスムの歴史 (1966年)

シュールレアリスムの歴史 (1966年)

 

ピエール・ナヴィル『超現実の時代』

超現実の時代

超現実の時代

 

ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』

エロティシズム (ジョルジュ・バタイユ著作集)

エロティシズム (ジョルジュ・バタイユ著作集)

 

J・K・ユイスマンス『彼方』

彼方 (創元推理文庫)

彼方 (創元推理文庫)