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Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

水都幻談

 先日古本屋巡りをしていたら、フランス文学者である窪田般彌のエッセイ集に出会った。『カザノヴァ回想録』を代表作とする訳者だけあって、ヴェネツィアに関するたくさんのことが語られている一冊だ。そこに、レニエの名前もあった。「お、レニエの本、たしか一冊持っていたぞ」となる。そのエッセイ(ちなみに『フランス文学夜話』という題である)を中断して本棚を探しまわり、ようやく見つけてパラパラとめくってみたら、あんまりおもしろいので読み終えてしまった。

水都幻談―詩のコレクション (平凡社ライブラリー)

水都幻談―詩のコレクション (平凡社ライブラリー)

 

アンリ・ド・レニエ(青柳瑞穂訳)『水都幻談』平凡社ライブラリー、1994年。


 じつはこの本、窪田般彌訳もある。『ヴェネチア風物誌』という題だ。いや、ふつうだったらこちらを手に入れるのが筋というか礼儀なのだろうが、この青柳瑞穂訳に独特な味わいがあることは疑いようもない。なんとこの本、文語体で訳されているのだ。文語体というか、ほとんど森鷗外の雅文体である。『マノン・レスコー』など、青柳瑞穂の訳書はすでに何冊か読んだことがあったが、こんな文体はこれまで見たことがなかった。「訳者による作品解説と小伝」には、こうある。

「わたしがこの散文を訳すにあたって、文語体を使ったのは、自分の趣味とか、擬古文好みなどによるものではないことを明らかにしておきたい。むしろ、わたしは文語体など不得意で、もとより、よくするところではないが、それを敢て冒険したのは、レニエ自身の格調の高い、時には誇張味さえある文章のためである。この文章を日本語に移すには、日本語のこの文語体こそいちばん忠実であると思ったからにほかならない」(「訳者による作品解説と小伝」より、162ページ)

 ちなみに断っておくと、窪田般彌訳の『ヴェネチア風物誌』もすでに注文した。こちらを読むときには、この訳書とはまったく別の喜びを得られるだろうと確信している。これは散文詩集であり、わたしは散文詩という言葉にめっぽう弱いのだ。

「今日しも、わが手は、原稿用紙とインキ壺の間を往き来すること幾百遍、この重労働に指のひきつり、腕の鈍ること屢なれば、かかる折はペンを擱きて、とりとめもなき想ひに耽りつつ、目前なる愛玩の器を眺めては愉しむ。そはランプの灯影をうけて仄かに明るし。夜は更けたり。銅の二つの井戸の中にてインキは燦く。ああ、と、嘆息まじりにわれは独語す、この井戸の中に怪しき水神の如くにかくれんとする「思想」を、われ如何なれば仄暗き水より引き出し得ざるやと。ああ、紙面を素足にて踊る思想の、そが足跡のありあり描かるるを見たきものかな」(「朱塗盆のインキ壺」より、16ページ)

 いきなりだが、この「朱塗盆のインキ壺」には、レニエがこの詩集に賭したすべての想いが集約されている。好古趣味、ヴェネツィアの美しさ、この町へ寄せる想い。題にもなっている「インキ壺」もすばらしいが、これと同じくらい印象的なのは、骨董商から買った「小鈴」だ。

「如何となれば、小鈴のそこにあればなり。されど、今日、そを振りしとて何の甲斐あらん。哀れなるかな、そは既に廃物なればなり。今そが頓狂なる、かぼそき響きを呼び起すとも何の益あらん。時代おくれのチリンチリンが何ならん。今日この頃の電鈴のけたたましさ、その呼声にくらぶれば物の数にもあらざるなり。げに電鈴は、家屋の下より上に至るまで、幾重なす壁つきぬけて、われらが命令を伝へ、所きらはず、唐突に、横柄に、我儘勝手に爆発して、聾者をさへ飛び上がらすにあらずや。然るに、この古のかぼそき鈴の音を聞かんがためには、ふるびし住居のしづけさと、閑静なる街の平和こそ望ましけれ。玄関の腰掛にて編物に余念なきも、ただ一触の鈴の音に相応ずる、かの小姓こそ必要なれ」(「朱塗盆のインキ壺」より、18~19ページ)

 好古趣味というのはいつの時代でも、現代に対する批判精神と結びつきやすいものだ。レニエのなかでのその結びつきは、自分のことのようにはっきりとわかる。それをさりげなく繋げるものが、この「インキ壺」であり「小鈴」なのである。だが、この鈴を描く筆致の、なんと魅力的なことだろう。

「もとより鈴とても弁へて、世のさまの移り変りしことも、今の世にては通用せざることも知れるなり。そが膨らめる黄色き衣裳の下に、せんなき舌を羞づかしげに抱きて蹲まるさま、既にすべてをあきらめて、うつらうつらとまどろめるとも見えたり、酔狂に誰ぞ起し来んものかと待つとも言ふべく、偶然の手の触るる機会をうかがへるものとも言ふべし。如何となれば、おそらくは過ぎし日をなつかしみ、従順にして善き女中なりし頃を思ひ返しつつあるに相違なければなり。而して、たとへ一秒にせよ、かかるだらしなき恰好をすてて、せめていま一度、そが膨らみしスカートの下にぶらさげたる卵形の舌より、家族的のささやかなる響きの、あたかも雛のかへるが如くに飛び出さんを彼女の聞かまほしきもまことにむべなりや。然りと知りて、何故にわれ、彼女が無言の命令に従はざるか。さりながら、時により、われらは物事の心を理解して、そがささやかなる願ひをかなへやることなきにしもあらず。哀れなる鈴かな。そが声はかぼそく、しやがれ、そが歌はひからびて、かすかなるべし。思ふだに嗤ひを禁じ得ず」(「朱塗盆のインキ壺」より、19~20ページ)

「されど、われ、いくたび鈴をふるも、空し。くたびれて、そを銅の硯箱の、朱色も鮮かなる盆の上に置く……。何人も来たらざるなり。伏せたるチューリップの内側にて、この青銅の舌は充分なる音を出さざりしと見ゆ。むべなるかな、ちりん、ちりんが過去の耳まで達せんがためには、時間をよぎりて、一世紀余りを溯る必要のあらんを」(「硯箱」より、68ページ)

 これらの骨董品は、レニエがどこにいても、彼の想いをヴェネツィアへと連れ戻す。この詩集は、おそらくパリで書かれているのだ。ある種の郷愁の念が、これら「インキ壺」や「小鈴」といったものを、きわめて魅力的に映している。ヴェネツィアがいつまでも離れないのだ。

「嘗てのわれは、そが執念き威力より逃れんと心に誓ひしものなれど、あはれ、いかでかくまで魅惑的なる呪縛をふせぎ得んや。そが魅力は、あまりにも強く、あまりにも染みやすければ、一たび感染せんか、永久の囚はれ人となるは必定なり」(「朱塗盆のインキ壺」より、23ページ)

「もとより、この地には数多の骨董商あり。ある者の如きは、宏壮なる建物の各階を悉く占領し、時代ものの珍品にて室々を埋めて、足のふみ場もなき有様なり。如何となれば、ヴェネチアが外人客に己を提供するは、ただにそが光と色によりてのみにあらず、そが昼と夜の美観によりてのみにあらず、そが永遠の水、そが磨りへりし石畳によりてのみにあらず。そが絵画と大理石像によりても、レースとガラス細工によりても、繊細華麗なる手芸品によりても、己が身を売りもすればなり。ヴェネチアは、己が遺産を商ふ無数の手を通じて、古の優美と奢侈を撒きちらすなり」(「策略」より、93~94ページ)

 この本は、一冊まるまるヴェネツィア讃歌である。≪ヴェネチア≫という音を語る箇所は、まるで『ロリータ』の冒頭のようだ。ナボコフがこれを真似したのかもしれない、とさえ訝ってしまう。

「げにこは妖しくも美しき不思議なる地にあらずや。その名を聞くだに逸楽と憂愁の想ひ胸に湧く。試みに言ひ給へ、≪ヴェネチア≫と。されば、月光の沈黙を破りて、玻璃の砕くる音を聞き給ふらん……。≪ヴェネチア≫と。さればそは、一条の陽光を受けて、絹布の引き裂くるが如し……。≪ヴェネチア≫と。されば五彩は入り混じりて、変りやすき澄明の一色となるかに見ゆるを。魔法と奇術と幻覚の地にあらずや」(「幻覚」より、37~38ページ)

 ところで、この本の巻末にはどういうわけか、ふたつの作品のフランス語原文が載せられている。片方はこの「幻覚」で、≪ヴェネチア≫の箇所はこうなっている。

「N'est-ce pas, en effet, ici un lieu étrange par sa singulière beauté ? Son nom seul provoque l'esprit à des idées de volupté et de mélancolie. Dites : «Venise», et vous croirez entendre comme du verre qui se brise sous le silence de la lune... «Venise», et c'est comme une étoffe de soie qui se déchire dans un rayon de soleil... «Venise», et toutes les couleurs se confondent en une changeante transparence. N'est-ce pas un lieu de sortilège, de magie et d'illusion ?」(185ページ)

 そう、原文ではイタリア語の「ヴェネチア(Venezia)」ではなく、フランス語名の「ヴニーズ(Venise)」なのである。試しに「ヴニーズ」にして、おまけに訳語もできるだけ変えて、現代語訳にしてみよう。

「じっさい、ここは特異な美しさに彩られた奇妙な場所ではないか? その名前を聞くだけで、快楽と憂愁の念が喚起される。言ってみたまえ、≪ヴニーズ≫と。月の静けさのもと、ガラスが砕けるような音が聞こえるだろう……。≪ヴニーズ≫、これはまるで、陽光のなかで絹が裂けるようなものだ……。≪ヴニーズ≫、そしてすべての色は混ざり合い、透明な玉虫色となる。ここは妖術と魔法と幻覚から成る場所ではないか?」

 どうだろう、「ヴニーズ」云々はともかく、文語体の魔力を感じはしないだろうか。じっさい、ここを読むかぎり、「格調の高い、時には誇張味さえある文章」と言われていたわりに、レニエの文章はかなり平明で、簡潔である。その簡明さが生む疾走感は、ともすると書かれていることの美しさを素通りさせてしまう危険性をも孕んでいるのではないだろうか。現代人にとっての文語体のまどろっこしさが、逆に味わい深さを生みだしているように思える。窪田般彌訳を読みたいと思ったのも、どれくらい印象が変わるのかを知りたいと思ったからである。

 いちいち原文を付さないが、「幻覚」と「冬」は全文がフランス語でも読める。

「昨夜はこの地にて眠りし最初の夜なりしが、あたりの果てしなき静けさに、われは再び目ざむることの絶えてなからんと思ひしほどなりき。而して、朝風のわが目を冷やせしといへども、その目に映る事物はわれをなほも夢幻の境におくが如し。かの物言はぬ水、黙せる石、光あまねき空――この「蠱惑の町」の風物にして然らざるは一つだになく、わけてわれを運ぶ画舫(ゴンドラ)の如き、そが姿の柩をすら思はしめ、この地に在る者のなべて死人たることを表示するにも似たり」(「幻覚」より、37ページ)

「もとより、木枯は、ヴェネチア人の鼻を赤くせり。されどこの化粧の、彼等の顔にほどこさるるを見なば、カーニヴァルの面を思はすは何故ならん。女たちは、なで肩にかけたる美しきショールの襞をば、腰のあたりへ巻きつけんとす。宏壮なる館邸は、灰色の水に、或は、緑色の水に映りて、それぞれの影もて、水を色とりどりに染めわけたり。われ、嘗てこの時ほどヴェネチアの美しさを感ぜしことなし。ヴェネチアは、そがサンチマンタリスムもロマネスクもかなぐりすてて、秋のいささか仰々しきメランコリイから、重くして軽き悲哀の情をとどめつつあるのみ。すでに沈黙とて、わざとらしき態度にはあらで、ただ、かの物言はぬ石や、孤独なる水の物思ふ姿にも似て……」(「冬」より、125~126ページ)

 内容にすこしばかり重複があるのも、レニエの思いの丈を測る基準となっておもしろい。さきほどの「インキ壺」や「小鈴」は至るところで語られているし、糸杉はきまって重要な役割を果たしている。

「われの好む時刻なり。部屋のうちはおほかた暮れゆけど、戸外はなほ昼にして、糸杉の大樹は、そが黒ずめる梢を明るき空高く浮き出せり」(「鍵」より、40ページ)

「ヴェネチアに古き館邸はかずかずあれど、そが中にて最も古きものの一つの、最も高き部屋にて、われ、病後の幾日かを過ごせし折ほど、この町の魅力を妖しきまでに味はひしことなかりき。われは床をはなるることの絶えてなかりしかば、つねに臥したるままにて考へき。――わが下に、この古き家はそが階段を重ね、正面の構へは大運河の水に映れるなり。而して、高潮の日ともならば、大運河は、水に面したる入口の石階にまで満ち来たりて、石畳しける玄関に侵入す……。など考へつつ、異常なる快味をおぼゆるが常なりき。わが周囲には、驚嘆すべき「水都」のひろがれるを思ひ浮べて悦にも入りき。さあれ、窓をひらくも、わが枕辺より実際に見ゆるは、赤き壁の一片と、壁ぞひに聳え立つ一株の糸杉にすぎざれど……」(「恢復期」より、128~129ページ)

 きっとこれは同じ窓からの眺めだったのだろう。建物に対する想いも見逃せない。描き方がとても、とても美しい。

「わが前には小さきカンポ(小広場)ひろがれど、そを囲める家々が、カンポに席をゆづらんがために後ずさりせる恰好なり。紋章を施せる柱廊のアーケード越しに、井戸と、庭の一隅が見え、庭には、紐に洗濯物ほされたり。彼方には、家々。そがヴェネチア独得の高き煙突の、ターバンを被れるが如きあり、煙出しのびつくり箱を思はすがあり。そが煙突の一つ一つには、喜劇の人物か、カーニヴァルの人物が閉ぢこめられてあるやも知れず」(「策略」より、92ページ)

「こは美麗なる古き屋敷にして、そが四層を成す高き正面の構へは、狭きリオ(水路)に面せり。而して、石階の水に浸れる門の頂きには、兜かぶれる女の顔、まぐさ石に刻まれて優美なり。この憂愁をおびたる女戦士の顔は、切れ長き瞼の用心深き視線をば、そこに入り来る人々の上に落さんとす。さはれ、あはれなるかな、彼女の最もしげく眺め入るは、この寂しき水路の緑なす水に映れる己が姿に過ぎざるなり。如何となれば、朽ち果てたるピオ(杭)のならぶ石階に、画舫(ゴンドラ)の停まるが如きは極めて稀なれば。況んや、画舫を降りたつ者ありて、古き世の呼鈴の青銅なる環を引くに、そが遠寺の鐘にも似たる音に応へて、鍵束を鳴らし、すりきれしスリッパを引きずりつつ、この高雅にして荒れたる邸宅の女番人の駈け来るが如きは絶えてなかるべし」(「売邸」より、98ページ)

 特に気に入ったのが「鍵」だ。一軒の家の鍵を所有しているということが、レニエのなかに、自分は観光客ではないという自負を生み、それが彼をこんなにも昂揚させている。パリで初めて家を借りたとき、わたしもこれと同じような優越感めいた感情を抱いた記憶がある。

「今日のわれには雑沓と光彩こそ望まほしけれ。灯火まばゆきサン=マルコ広場にわが心はひかるるなり。彼処にこそ、この憂愁の都になほ僅に残れる生命は集ひ来るなれ。おお、ピアッツァよ、おお、ピアツェッタよ、汝が広闊なる甃石を踏み鳴らす散策者の足音を聞かんかな。窓飾りもとりどりなる店先にて人に押さるるもよし、通りすがりの観光客と見られて、名所写真、さては寄木細工を売りつけらるるも面白からん」(「鍵」より、41~42ページ)

「おお、ヴェネチアよ、この鍵こそ、われが汝の美しさをよそに眺むるただ一介の通行人にはあらで、汝が麗はしの魔術の永遠の囚れ人たるの証なればにや、われ、汝が妖美の標章たるこの鍵を、肌身はなさぬ護符とも、わがうれしき囚れの身の印形とも思ひて、かくは得々持ち歩くなり」(「鍵」より、43ページ)

 絵画に関する記述も多い。ピエトロ・ロンギの手によるものか、後ろ姿を見せた肖像画を眺めながら、詩人の思考は飛躍していく。背中を描いた肖像画、と言われると、わたしはすぐにフランドル派のヘーラルト・テル・ボルフを想起してしまうが、ロンギにもこんな作品があったのだろうか。

「いな、いな、この黙せる人物は、ふり返ることのたえてなかるべし。画家の描きいだせしままに、立ちて、背を向けて、何時までも平然と秘密を守りとほさんとせるか。かの三角帽も怪しげなる、神秘と道化をこき交ぜし、そが堂々たる風姿よりほか、遂にわれらは何事も知る能はざるか。思ふに彼のわれらが方に交り来るはずもなく、むしろ、われらを案内せんと招けるが如くに見えざるや。さらば一夜、われは彼が暗黙の命令に従ひ、そが額縁まで上り行かん。われ、彼が腕を取り、そのまま二人ならびて、恰も二人づれなる幽霊のごと、壁もやすやすすり抜けて、ヴェネチアの町を駈けめぐらん。そは見物客の往き来するヴェネチアにはあらずして、過ぎし日のヴェネチアなり。さらば闇夜と月夜がこもごもに黒と白との衣を着せしこの町も、やがては被りゐし仮面もおもむろにぬぎて、光と楽と愛に似たる、うまし顔をば現はさん」(「肖像画」より、50~51ページ)

 ピエトロ・ロンギについては、ほかにもたくさんのことが語られている。

「この愛すべき芸術家は、もとより偉大なる画家にはあらねど、そが作品は、ヴェネチアの愛好家には悉く親しまれ、ヴェネチア人の昔の生活に興味を持つほどの好事家には欠くべからざるものなり。われをして言はしむれば、彼の遺せし作品ほど、人の心をとらへ、人に教ふることの大なるを知らず。それ故にこそ、≪かの地≫へ行く毎に、この愉快なる小画伯の、温雅にして、生けるが如き画幅に接するは、われにとりてこよなき歓びなれ。げにそが興趣ふかき≪クアドリ≫(図絵)は、ヴェネチア共和国末期における、貴族の、中流人士の、はたまた、庶民の生活ぶりの、如何やうなりしかを想像せしむるよすがとなり、且つは、才智と、自然味と、真実味の溢れたる筆致もて、当時の軽佻にして優雅なる、おほどかにして艶冶なる世相を伝ふるなり」(「象」より、57~58ページ)

 ところで、ロンギといえば『リドット(賭博場)』を連想するひとも多いだろう。仮面はヴェネツィアを語るうえで欠かすことのできない要素である。

「げに、これらの面のそれぞれは、伝統的に定りたる、不変なる何ものかを表現せるにあらずや。物言ふ象徴としての価値を有するにあらずや。驚嘆すべき面なるかな。彼等がただ舞台に現るるのみにて、人々は直ちにそがすみずみまで知るを得るなり。されば、彼等を眺むることの如何に楽しきことよ。そは面自らの持つ面白味によるはもとより、彼等に関連して、また、彼等のお蔭にて、われらはかの伊太利喜劇の人物を悉く想起すればなり」(「ラ・コメヂア」より、83~84ページ)

 それから、娼婦ベチーヌとの密会の描写も、下品さが欠片もなく、とても美しい。同時代のフランス人作家たちにも見習わせたいほどだ。ほら、ピエール・ルイスとか。

「彼女をわが前にて素裸にせんには、彼女をつつむ衣を、力づくにて剝ぎ取る必要のあらんに。そが手頸をつかまへ、肩にのしかかり、仰向けに倒して、動かざるやう抑へつくる必要もあらんに。よしやわれのそれに成功すとも、われのそこに捉へしは、はや真のベチーヌにてはあらざるべし。そは苛だち、藻掻き、拒む肉体、争闘によりて硬ばり、防戦によりて痙攣する一塊の肉体にすぎざればなり」(「ベチーヌが気まぐれ」より、79ページ)

「われに対してのベチーヌが楽しみは彼女の全裸となるにはあらで、われより着物ごしに見られんとするにあるなり」(「ベチーヌが気まぐれ」より、80ページ)

 友人である画家、マクシム・ドトマも登場している。窪田般彌訳の『ヴェネチア風物誌』には、この画家の挿絵が80枚(!)も付されているそうだ。届くのが今から楽しみである。

「彼の描きしはかかるヴェネチアなれど、ヴェネチアにつきて彼の語ること絶えてなかるべし。然らば、かの地にて過ごせし幾年月は彼の記憶より消え去りたるか。われら共にゐて、よし互に想ひをヴェネチアに馳するとも、かの町の名を口にせしためしなし。かの町は、彼がアトリエ以外、最早いづこにも現存せざるなり。そは裏返しのまま壁に立てかけられし画布の中に在るのみ。されば、われ、そこに描かれし風景を勝手に想像しつつ、かの地より持ち来たりし透明なる徳利のガラス戸棚に飾れるをうち眺むれば、今なほ入江の水をたくはへたるかと思はるる」(「画人」より、107ページ)

 なにもかもが絵画的である。表現の美しさに酔う。これほどすばらしい詩集に出会えたことを、こころから嬉しく思う。

「ああ、何たる美しき装飾画ぞ。草々の筆のうちにも、豊かにして楽しき気のあふれ、何故か、見る者をして、雀躍の止むなきに至らしむるものの如し。またそが静けさは、琥珀色に明るく、音なき楽にもたとへんか」(「ブレンタ河」より、137ページ)

 訳者による「訳者による作品解説と小伝」もすばらしかった。

「ひとつの土地を特に愛好し、だから、そこに居住する場合もおおく、その土地を舞台にして作品を描くといったような作家が、西欧にも、日本にもあることは、わたしたちのつねに注目するところである。その作家にとって、その土地は、そこを舞台にするといった単なる興味的なものでなく、その土地と、その作家の作風がつねに一致し、そこを除いては、その作家は存在し得ないといったような宿命的なものである。だから、その土地がその作品の舞台になっていることはもちろんであるとしても、それは単に選ばれただけの背景でなく、むしろ、その土地そのものの情趣を描くために、その土地にふさわしいテーマがあとで出来あがるといったような場合さえあって、むしろ、その土地そのものが主人公だといってもいいほどである」(「訳者による作品解説と小伝」より、156ページ)

「レニエにとって、過去と現代は区別しがたいのである。なぜなら、過去は消え去った存在ではなくて、つねに現代の中に生きているからである。レニエがなぜヴェネチアをこのように愛好しているかは、それにはいろいろその理由もあって、にわかに決定しがたいことだろうが、なによりもこの町には過去と現在が混在していることもその一つではなかろうか。レニエにとって、過去が美しいのは、過去そのものの美しさでなくて、現代というその過去の美しさを埋没するかに見える俗悪の中に、たまたま、過去の姿が残されているからである。そのちらりと光る過去の幻が、こよなく美しいからである」(「訳者による作品解説と小伝」より、159ページ)

 それから、矢島翠というひとの「解説」も、とてもいい。これだけで、著作を読んでみたいと思った。

「他人の声に耳を傾けずにいること、他人の視線をなぞらずにいることは、この町では無理なのだ。ヴェネツィアについて幾多の声が語ったこと、数知れぬ眼が見たことは、あなたが意識しようとしまいと、あなたにとっての<自分ひとりのヴェネツィア>の、わかち難い一部となっているのだから。
 水はヴェネツィアの伴侶をよそおいながら反乱――氾濫し、この町に壊滅をもたらそうとする。しかしヴェネツィアの歴史が残した名前と、町の魅力によって誘い出されたことばのむらがりがあるかぎり、<静謐のきわみ(ラ・セレニッシマ)>の水上都市は生きながらえるだろう。だれもが自分ひとりの所有物と信じ込んでいる共有財産。老いてもなお受け取る恋文が絶えないコルティジアーナ――貴婦人、あるいは遊女」(矢島翠「解説」より、171~172ページ)

ゴルドーニとカサノーヴァの、ティエーポロとロンギの、そして祭と仮面の十八世紀に、私がレニエのような哀惜あるいはあこがれを感じないのは、私が生きているこの世紀末には、市の観光政策によって謝肉祭――カルネヴァーレが復活し、町中のみやげもの屋に仮面が急にあふれたからだろうか。カルネヴァーレの季節には、十八世紀さながらの男女の仮装すがたに、いくらでもお目にかかれる。それにいま、私たちが生きているのは、あの時代と同様に罪の意識も暗鬱さもない、途方もなくかろやかなデカダンスにほかならない……」(矢島翠「解説」より、178ページ)

 ぜひとも、ヴィヴァルディを聴きながら読みたい一冊だ。文語体の美しさ、表現の多彩さ、比喩の絶妙さ、すべてに酔った。

水都幻談―詩のコレクション (平凡社ライブラリー)

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<読みたくなった本>
永井荷風ふらんす物語

ふらんす物語 (岩波文庫)

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スタンダール『パルムの僧院』

パルムの僧院〈上〉 (岩波文庫)

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レニエ『生きている過去』

生きている過去 (岩波文庫)

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ラスキンヴェネツィアの石』

ヴェネツィアの石―建築・装飾とゴシック精神

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矢島翠『ヴェネツィア暮し』

ヴェネツィア暮し (平凡社ライブラリー)

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