Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話

 先日『ムッシュー・テスト』と果たした喜ばしい再会を機に、手に取った一冊。プラトンを範にとった、ヴァレリーによる三篇の対話篇。

エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話 (岩波文庫)

エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話 (岩波文庫)

 

ポール・ヴァレリー清水徹訳)『エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話』岩波文庫、2008年。


 よくこんなものを訳した、と思うと同時に、よくこんなものを文庫化した、とも思う。日本にはまだこんなに狂った出版社があるんだ、と嬉しくなってしまった。文庫化されるということは、出版社が需要を見込んだ、ということだ。いろいろと狂っていて、たいへん好ましい。

 最初の「エウパリノス」は、冥界で繰り広げられるソクラテスとパイドロスとの対話である。本篇がはじまる前に、ヴァレリーによるたいへん率直な「刊行者覚書」が付されている。

「文学裏話として、ここで申しあげておきたいのだが、『エウパリノス』は、いまから二十年ほどまえ、シュー、マール両氏の刊行した『建築』と題する大判の図録のための序文として書かれた。本文は求めに応じて、一定の紙幅を、紙の大きさ、選ばれた活字、ページ面の縁取りや装飾から定まってくる数の文字と符号(約十二万語)を正確に満たすものでなければならなかった。対話体を使うおかげで融通がきいて、たいして意味のない問答を組み入れるなど、ちょうど砲手が目標の周辺に何発か打ち込むようなかたちで、この予定計画を実現させることができた。「たしかに」とか「なるほど」とかの差し障りのない言葉で、あってもなくてもよい一行がつくれるわけである」(「刊行者覚書」より、4ページ)

 そういうこと、ふつう書くか? と思いながらも、そのあまりの率直さに度肝を抜かれてしまう。しかもその先には、タイトルにもなっているエウパリノスという人物が、作中で書かれているような建築家ではなかった、ということまで語られているのだ。曰く、「本物のエウパリノスは建築家というよりもはるかに技師であったらしい。わたしは彼を代弁者というきわめてささやかな役割へと格下げしたことを彼の≪霊≫に陳謝する」(「刊行者覚書」より、4ページ)。こうして、まだ本篇に入る前から、読者はこの作品で語られている内容を予想することになる。そう、この「エウパリノス」は、建築という芸術に対する讃歌なのである。

「運命の神々は法を定めて、人間という種族に欠かせぬもののなかには、何か無分別な欲求がかならず姿を現す、となさっている。愛欲がなければ人間は存在しないだろう。不条理な野望がなければ科学も存在しないだろう。あのかずかずのきわめて名高い都市や、かずかずの無用な記念建造物は、理性の働きではとてもそれらを構想することなどできはしなかったであろうと、理性は讃歎とともに眺めている」(「エウパリノス」より、11ページ)

「おお、パイドロス、きみはかならずや気がついたことがあるはずだ、政治に関することであれ、市民の個人的利害に関することであれ、もっとも重要な論議のなかで、あるいはぎりぎりに切迫した状況で愛するひとに言わねばならぬ微妙な言葉のなかで、――そう、きみはたしかに気がついたはずだ、そういう言葉にはさまれるごくささやかな言葉やこの上なくわずかな沈黙が、どれほどの重みをもち、どれほどの影響力を産み出すものかということを。相手を説得しようという飽くなき欲求とともに、あれほどしゃべりまくったこのわたしにしても、とどのつまりはこう納得したのだ、この上なく重大な論拠も、どれほど巧みに導かれた論証も、一見無意味なこうした細部の助けを借りなければ、ほとんど効果がないということを。また逆に、凡庸な理屈でも、機転のきいた言葉や王冠のように金色に塗られた言葉のなかにちょうどうまい具合に吊りさげてあれば、長いあいだ耳を愉しませてくれるということを」(「エウパリノス」より、16~17ページ)

 とはいえ、なにかを予想するということに関して、ヴァレリーほどそれが困難な作家もいないだろう。主題がなんであるかというのは、ヴァレリーを読むときにはあまり意味がない。話題は右往左往し、一見まるで関係のないことが美しい言葉で語られたかと思ったら、驚くべきアプローチの仕方でふたたび本題に立ち返ってゆくのだ。

「いかなる美しいものも生とは切り離せない、そして生とはしだいに死んでゆくものなのです」(「エウパリノス」より、22ページ)

「わたしにはわたしの肉体以外に牢獄はなかったのだ」(「エウパリノス」より、34ページ)

「きみも知るように、魂の能力というものはふしぎなことに夜から発してくる…… それは幻覚の力で現実にまで進んでくる。ぼくはそれを呼び招き、沈黙によってそれに懇願する…… するとこの能力は明察と誤謬を一杯にはらんで現れてくるのだ」(「エウパリノス」より、39ページ)

 ヴァレリーの作品ほど速読を拒むものはない。できるだけ時間をかけてゆっくりと読まなければ、ここに書かれていることは、なにもあたまに入ってこないだろう。だが、話題が一足飛びで別のほうを向いてはまた戻ってくるので、一気呵成に読まなければ、いくつもの話題のなかで身動きがとれなくなってしまう怖れもある。たしかにあるはずのまっすぐな道筋を、すっかり見失ってしまうかもしれないのだ。つまり、時間をかけて何度も躓きながら、それでも一気に読んでしまうのがいちばん良い。そうすれば、なにが語られているのかを見失うこともないだろう。

「きみはこの都市のなかを散歩しながら、気がつかなかったかしら、この都市にたくさんある建物のうちで、あるものは黙し、あるものは語り、そしてこれはもっとも稀なのだが、ある建物は歌いかけるということに」(「エウパリノス」より、32ページ)

ソクラテス:彼の言うところの≪歌いかける≫建物について、もうすこし明快に説明を求めたいのだ。
 パイドロス:どうもその言葉があなたにつきまとっているようですね。
 ソクラテス:精神にとって蜜蜂であるような言葉があるものだ。そういう言葉は蠅のように執拗に精神につきまとう。あの言葉はわたしを刺したのだ」(「エウパリノス」より、48ページ)

 さあ、建築である。わたしの友人に、建築を題材にした文学作品をあたまのなかでコレクションする、という奇妙な性癖を持った男がいる。この本は、ぜひとも彼に薦めなければ、と思った。ヴァレリーはまず、建築と音楽を、それら以外の芸術から引き離す。

「わたしの心は、一方の側に<音楽>と<建築>を、他方の側に他のいろいろな芸術を位置させるように導びかれる。親愛なるパイドロスよ、絵画は額縁にはいった絵として、あるいは壁画として表面を覆うにすぎぬ。そこで絵画は事物なり人物なりを装うのだ。彫刻にしても同じで、わたしたちの視界の一部分を飾る以上のものではない。しかし、周辺と融和した神殿や、そういう神殿の内部は、わたしたちにとって一種の完璧な偉大さを形成して、わたしたちはその内側に生きるのだ…… そのとき、わたしたちは人間の作品のなかに存在し、そこを動きまわり、そこに生きている! この三次元のひろがりのなかには、検討され、深い省察を加えられなかったような部分はひとつとしてない。わたしたちはそこで何らかのやり方で、何者かの意志と好みとを呼吸している。その人間の選んだ空間の釣り合い(プロポーション)のなかに、わたしたちは捉えられ、制御されている。わたしたちは彼から逃れられないのだ」(「エウパリノス」より、49ページ)

「つまり、人間を人間のなかに閉じこめるふたつの芸術があるわけだ。というかむしろ、ちょうどかつてのわたしたちの身体が眼の創造物に閉じこめられ、視界にとりまかれていたように、存在をその作品のなかに、魂をその行為と行為の産出物のなかに閉じこめるふたつの芸術がある。このふたつの芸術によって、人間はふたつのやり方で、石材なり楽曲なり、何らかのやり方で形象化された内的な法則と意志に包まれるのだ」(「エウパリノス」より、52ページ)

 対立項としての絵画や詩といった芸術のことも、もちろん語られている。『ムッシュー・テスト』のなかで語られていた言葉に対する不信感は、たいへん興味深いことに、絵画という分野においても通ずるものなのだ。

「画家は、自分の画のある一部分が緑色であってほしいと望むとき、そこに一本の樹を描き入れるが、彼はそのことによって自分が原則として言おうとしていた以上の何ごとかを言ってしまう。彼は、一本の樹の観念から派生するあらゆる観念を自分の作品につけ加えてしまい、これだけで充分という地点に踏みとどまれない。彼は色彩を何らかの存在から切り離すことができないのだ」(「エウパリノス」より、53ページ)

「ある言葉はしかじかのとき、しかじかの要求からつくられ、また別のある言葉は別の状況下につくられた。事物のただひとつの側面、ただひとつの欲望、ただひとつの精神が、いわばただひとつの行為によるようにして言葉を創設したのではない。だから言葉というものの集まりは、いかなる個々の用途にも適合しないし、言葉を確実な道をとおって遠くのほうにまで発展させていこうとすれば、果てしない言葉の枝分かれへと踏み迷わざるをえない…… だから、こうした複雑な言葉を組み合わせて調整してゆくときは、かたちの不揃いな石塊を組み合わせてゆくのと同じように、この種の調整につきものの偶然の幸運や不意の効果を当てにしなければならぬわけで、だから運命によってそうした仕事に恵まれている人びとに、≪詩人≫の名をあたえねばならぬのだ」(「エウパリノス」より、68ページ)

 恣意的な解釈から逃れられる芸術形式、それが建築と音楽であると語っているのかもしれない。思えばヘッセも『ヘッセの読書術』のなかで、「詩人の使う言葉はどれもすべて、口に出すと同時に自分の言いたいこととは違った意味を勝手に連れてきたり、言いたいことを完全に伝えるのを妨げたり、それどころか意図とは反対のイメージを連想させるようなものばかりである」と言っていたではないか。

「絵画や詩にもそれなりの力はある! しかしその力は、いわば現在時のなかにとどまっている。美しい身体はそれ自体として眺められ、わたしたちにすばらしい瞬間をあたえてくれる。それは自然の一部分で、芸術家はそれを奇蹟的に作品へと定着させたのだ…… しかし<音楽>と<建築>とは、それら自体とはまったくちがうものをわたしたちに考えさせる。それらはこの世界のただなかにあって、いわば他の世界の大建造物のようなものなのだ。あるいは、ある構造と持続の――諸存在の持続ではなく形態と法則の持続であるような持続の――そこここに点在する実例のようなものなのだ。<音楽>と<建築>とは、一方は宇宙の形成を、他方は宇宙の秩序および安定性を、わたしたちに直接的に想い起こさせるためにあるかと思われる。それらは精神によるさまざまな構築と精神の自由とを祈願する、――、精神の自由とはこのような秩序を探究し、かぎりないやり方でその再建を行うものなのだから。したがってそれらは、世界と精神とがふつうにかかずらっている個別的な外見、植物とか動物とか人間とか……の外見は無視する」(「エウパリノス」より、55~56ページ)

「知的に感知できる形態を石材に課し、楽曲にかよわせる、自然界の事象からはほとんど何ものも借りてはこない、可能なかぎりすこししか模倣しない、これこそ、これらふたつの芸術に共通するところだ」(「エウパリノス」より、56~57ページ)

「楽音そのもの、純粋な楽音は一種の創造物だ。自然界には雑音しかない」(「エウパリノス」より、58ページ)

 とはいえ、恣意的な解釈が可能だということは、つまり、その制作者も恣意的に、それらの素材を選びとっているということだ。ヴァレリーはそのことを忘れない。

「建築をする人間、何ものかを製作する人間の行為は、その行為によって変えられる実質の≪すべての≫性質など気にかけず、それらのうちのいくつかだけを考慮に入れる。わたしたちの目標にこと足りるもの、これがわたしたちにとって重要なのだ。雄弁家にとっては言語の効果を駆使できれば、それで充分だ。論理家にとっては言語のなかのさまざまな関係と言語の一貫性だ。一方は厳密さをおろそかにし、他方は文飾を無視する。これは物質の世界でも同じで、車輪や扉や水槽は、一定の堅牢性、一定の重さ、調整や作業のための一定の扱いやすさを要請する。そしてもし栗の材木と楡の材木と樫の材木とが、それらをつくるために同等に(あるいはほぼ同等に)適しているならば、車大工や指物師は、費用を考えるだけで、それらの材木をほとんど差別なしに使用するだろう。だがきみは、自然界ではレモンの樹が林檎を産み出すのを見ることはない、たとえその年は林檎のほうがレモンよりも実りやすいとしても」(「エウパリノス」より、85~86ページ)

「職人は、自分がかたちとして模倣しようと思っている頭のなかの観念に、また予想している用途に素材を適合させようとして、素材に力を加えることで、ある秩序を破り、ないしはかき乱すことになる、そうしなければ作品を製作することはできないのだ。したがって職人が製作する物体は、どれもこれも否応なしに、全体としての段階が部分部分の段階につねに劣ることになる」(「エウパリノス」より、87ページ)

「人間は自然全体ではなく、ただその一部分を必要としている。もっとひろい考え方をして全体を所有したいと望むのが哲学者だ。だが人間は生きることしか望んでいなくて、鉄も青銅も≪それ自体として≫必要とするのではなく、あるしかじかの硬さ、あるしかじかの可延性を必要としているにすぎない」(「エウパリノス」より、89ページ)

 こんなふうに整理しようとしてみると、ヴァレリーの語っていることは驚くほど論理的だ。だがもちろん、これらの文章もわたしの取捨選択した部分、つまり、とりもなおさず恣意的な解釈に過ぎない、ということも忘れるわけにはいかない。

「人間による創造は、自分の身体のためになされるか、自分の魂のためになされるかのいずれかで、前者は実用性と名づけられる原理にもとづき、後者は美の名のもとに人間が求めるものだ。しかし他方で、建築ないし創造する者は、世界の他の部分や自然の運行にかかわり、しかも世界の他の部分にしても自然にしても彼のつくるものをたえず解消させ、腐敗させ、あるいは倒壊させてゆく傾向があるのだから、彼は第三の原理を認めてそれを自分の作品に伝えようと努めないわけにはいかない、そしてこの第三の原理は、彼の作品が、やがては滅びるその宿命に抵抗を対立させようという望みを表明しているのだ、つまり彼は堅牢性ないしは持続を探究することになる」(「エウパリノス」より、97ページ)

 ところで、これを語っているのがソクラテスであるということを思い出そう。ヴァレリーの描くソクラテスは、建築という芸術の魅力にとりつかれた挙げ句、プラトンの描くソクラテスだったら言いそうもないことを口走っている。

「いったいわたしは、他の人たちに、この上なく疑わしいことについて、わたしが彼らよりよく知っていると信じこませた以外に、何をしたというのだろう? ――しかも、そう信じさせる秘訣とは、ひどい不当な裁判が引き立て役となり、数多くの友情にかこまれて従容と死に就いた、そのため空も暗くなり、自然も騒いだ、ということにあるわけだ。死を一種の傑作たらしめることほどおぞましいことがあるだろうか? … 生命はこうした不滅の死の苦悶に対して身を守ることができない。生命は純粋にも、悲劇のもっとも美しい部分は最終行の最後の言葉のあとにはじまると、否応なしに思いこんでしまうのだ!」(「エウパリノス」より、114ページ)

 プラトンが描くソクラテスがこれほど複雑な思想の持ち主だったら、彼が設立したアカデミアはきっと狂人だらけになっていたことだろう。それもおもしろそうだ。

ソクラテス:前にも言っただろう、わたしは多数の者として生まれ、たったひとりの者として死んだのだ。生まれたての子供は無数の群衆なのだが、人生はたちまちのうちに、その群衆をたったひとりの個人へ、自己を表示し、ついで死んでゆく一個人へと還元してゆく。わたしとともに数多くのソクラテスが生まれ、そこからすこしずつ、いつか司法官の前に立たされ毒人参を飲まされることになるソクラテスが切り離されていったのだ。
 パイドロス:とすると、その他のすべてのソクラテスはどうなったのです?
 ソクラテス:観念になったのだよ。彼らは観念の状態として残った。彼らは存在したいと要請したのだが、拒否されてしまった。わたしは彼らを、わたしの内部に、わたしの疑惑、わたしの矛盾等々として保持している。ときにより、そうした人間の芽ばえは機会に恵まれることがあり、そうしたときわたしたちは、ほとんど本性を変えそうになる。わたしたちのなかに存在しようとは思いもかけなかった志向や才能に気がつくことがあるものだ。音楽家が将軍になったり、水先案内人が医師の天分を自覚したりする。自分の美徳に見とれ、自分を尊敬していた者が、みずからのうちに隠れたカークスを発見したり、泥棒の魂に気づいたりするのだ」(「エウパリノス」より、70~71ページ)

「もしかりにきみたちがわたしの言葉に耳を傾けてくれなかったら、わたしの自尊心は、きみたちの思考を信服させるために何か他のやり方を探したことだろう…… 建物を建てたかもしれぬ、詩をうたったかもしれぬ…… おお、思索のうちに失われたわたしの日々! 何という芸術家をわたしは殺してしまったことか!」(「エウパリノス」より、115ページ)

 さて、恣意的であるということは、部分しか取らないことだった。それは裏返せば、選びとる以外の部分を認めないということだ。ここで主体と客体を入れ換えると、人間の本質が浮かびあがってくる。

「わたしたちは自分以外のものに対して、ただ自分に同意する権利以外は認めないのだ! ――わたしたちはまさしく望んでいる、数しれぬ<天空>が、そして大地が、またあちこちの都市が、そしてまた男たちが、とりわけ女たちが、そして彼らの魂が、また彼らの力が、さらには彼らの美しさが、そしてまた動物たちや植物たちが、――いやさらに素朴にも<神々>までが――それら全部が全部、またそれぞれにわたしたちの欲望に適合するその美にしたがって、あるいはそれぞれがわたしたちの弱さにもたらしてくれる力に応じて――ただわたしたち一個人のための、滋養物、装飾、調味料、支持体、資源、光、奴隷、宝物、城壁、愉悦に他ならないということを!」(「エウパリノス」より、116ページ)

 これに先立って、ヴァレリーはこんなことを書いていた。

「人間のなすことは、二種類の時間のなかで創造することであり、そのうちの第一の時間は純粋な可能性の領域に流れる。あらゆるものを模倣することができ、それらをたがいに無限に結合させることの可能な微妙な物質のなかを流れる時間だ。第二の時間は自然の時間だ。それはある仕方で第一の時間を含み、また別の仕方で、第一の時間のなかに含まれる。わたしたちの行為はこれらふたつの時間を分かちもつ。計画はたしかに行為とは分離されており、行為は結果と分離されている」(「エウパリノス」より、95ページ)

 この第一段階、なにかを選択する以前の「可能性の領域」を、ヴァレリーはもっとも美しいものと呼ぶ。

「あらゆる行為のうちで、もっとも完璧なのは建設するという行為だ。あるひとつの作品は愛を、瞑想を、きみのもっとも美しい思想への服従を、またきみの魂による法則の発見を、そしてまたたくさんの他のものを要請する、きみのほうではそんなものを所有しているとはまるで思ってはいなかったのだけれど、きみの魂がみごとにそれらたくさんのものを引き出してくるのだ。この作品はきみの生のもっとも内密なところから流れだしてくるのだが、だからといってきみ自身と合一することはない。もしこの作品に思考する力があたえられているとしたら、この作品はきみの存在を予感するだろうが、それを確定することも、明晰にそれを想い抱くこともけっしてできはしないだろう。きみはこの作品にとって一個の<神>となるのだ……」(「エウパリノス」より、120~121ページ)

 ここで「建築」ではなく「建設」という訳語が使われていることにも、無関心ではいられない。そして「建設者」は、こう言うのである。

「わたしこそは、きみたちの望みのものを、きみたちよりすこしばかり正確に想い抱くひとだ」(「エウパリノス」より、125ページ)

 ああ、あたまがおかしくなってしまいそうだ。ヴァレリーはたしかに論理的なのだが、それでも自分が、自分に可能だった解釈を無理に当てはめて、引用文を並べ替えただけとしか思えない。まったくちがう結論に到達するひともいると思う。わたしが取りだした部分がすべてではないと、なんとしてでも強調せずにはいられない。時間をおいて、何度も読みなおしてみたい。

 つづく「魂と舞踏」も、登場するのはソクラテスとパイドロス、ここにさらにエリュクシマコスが加わっている。

「きみは悪夢にさいなまれるとき、目覚めを、光の明確を求めはしないかな? わたしたちは太陽そのものによって蘇り、堅固な身体の現前によって力づけられるのではないだろうか? ――けれども、そのかわり、わたしたちは、昼の世界でわたしたちにつきまとう心配を解消させ、苦しみを停めさせて欲しいと、睡眠と夢に求めるのではないかしら? だからわたしたちは、一方から逃れ、他方に救いを求めるのだ、夜のただなかで昼を願いながら、また逆に光あるあいだに闇を求めながら。知りたくてうずうずしながら、また知らなければ知らないですっかりいい心地になって、わたしたちは存在するもののなかに、存在しないものへの救済策を求め、存在しないもののなかに、存在するものへの慰めを求める。あるときには現実が、またあるときには幻影が、わたしたちを慰めてくれる。結局のところ、魂にとっての力の源泉は、その武器である真実と――そしてその鎧である虚偽、このふたつ以外にはないのだ」(「魂と舞踏」より、135ページ)

「夢の反対物とは、パイドロスよ、何か他の夢でなくて何だろう? …… <理性>そのものがつくりだすような、警戒と緊張の夢だ! ――そして<理性>は何を夢見るのだろう? ――もしかりに<理性>が身をこわばらせ、立ったまま、武装した眼をきっと見すえ、まるで唇を支配するように口をきりりと結んで、そんなふうにして夢を見るとすれば、その<理性>の見る夢とはわたしたちがいま現に眼にしているものではないだろうか? ――正確な力と計算しつくされた幻影とからなるこの世界こそが、それではないだろうか?」(「魂と舞踏」より、142~143ページ)

 三人が語る場所はもはや冥界ではなく、プラトンやクセノフォンによって描かれた『饗宴』の舞台である。以下のソクラテスの発言に呼応するように、ひとりの女が現れる。

「生命とは踊る女だ、みずから跳躍して、雲の果てに到るまで身を委ねることができるならば、女であることをやめて神となるかもしれぬ女なのだ」(「魂と舞踏」より、136ページ)

 初めはただ歩いているだけだ。彼女を眺めながら、三人の会話は熱を帯びていく。

「わたしたちがふつうに歩くときの歩みは、じつにたやすく、何とも親しいものなので、それ自体として、また奇異なる行為として考察されるという名誉を得たことがない(不随や障りある身となって、わたしたちが歩みを奪われ、他人たちの歩みに感歎するという場合は別ですが)…… だから、歩みについて素朴に無知であるわたしたちを、歩みはみずから知るとおりのやり方で導いてくれます。土地の状態によって、また人間の目的や気分や状態によって、あるいはさらに道の明るさにさえ左右されて、歩みは歩みとしてある。すなわちわたしたちは、歩みというものを考えぬまま、歩みを失っているのです」(「魂と舞踏」より、147~148ページ)

 音楽や舞踏を文字によって表現するというのは、いつの時代の詩人にとっても難問で、そのためひどく魅力的なことなのだろう。不可能を可能にする男ヴァレリーは、大喜びでこれに挑む。

エリュクシマコス:さあさあ、いよいよですよ…… 静かに、静かに!
 パイドロス:何とこころよい瞬間…… この静けさは矛盾だ…… 「静かに!」と叫ばずにいるには、どうしたらいい」(「魂と舞踏」より、149~150ページ)

ソクラテス:おお! ほら見たまえ、彼女はとうとう異例な域へと踏みこみ、可能ならざるもののなかへと突き進んでゆくぞ!」(「魂と舞踏」より、152ページ)

 ここまでくると、なんだかすこし笑ってしまう。しかも、こんな会話まで飛び出すのだ。ソクラテスの暴走。

パイドロス:学芸の女神たち(ムーサイ)にかけて言うが、足というものがわたしの唇にこれほどの欲望をそそったことは、かつてない!
 ソクラテス:ということはつまり、きみの唇はあの驚くべき足の能弁を羨んでいるのだな! きみは、できるものなら、きみの語る言葉にあの足たちの翼を感じたい、きみの口にするところを、あの足たちの飛躍と同じように活き活きとした文彩で飾りたいのだ!
 パイドロス:わたしが? ……
 エリュクシマコス:彼はただ足の雉鳩にちょっと接吻したいと思っているだけですよ!」(「魂と舞踏」より、153ページ)

 この「魂の舞踏」は「エウパリノス」よりもよほど短い作品だ。ちなみにつづく「樹についての対話」は、これよりもさらに短い。とはいえ、やはりヴァレリー、、美しい一文が随所に散りばめられている。

「ときおり、理性とは、自分の身体のことをまるで理解しないでいられるわたしたちの魂の能力だと、わたしには思えるのです」(「魂と舞踏」より、158ページ)

「愛の魂とは愛しあうふたりのあいだの打ちかちがたい差異であり、他方で愛の精妙な実質は愛しあうふたりの欲望の同一性です」(「魂と舞踏」より、159ページ)

 目の前で繰り広げられる壮絶な舞踏を眺めながら、三人は想像力をかきたてられ、たくさんのことを想起していくのだ。またしてもわたしは、ヴァレリーについてなにかを語ろうとすることの不可能性を感じている。思考のプロセスがぜんぜんつかめないのだ。あたまのなかをのぞいてみたい。

「きみの感じたのは、すべて正当かつ晦瞑なこと、だから死すべき人間という機械に完全に合致している。わたしたちとは、組織だった奇想ではないだろうか? そしてわたしたちの生体組織とは、きちんと作動する支離滅裂、正しく働く無秩序ではないだろうか?」(「魂と舞踏」より、154ページ)

「観念は、在るもののなかに、在らざるもののパン種を仕込む…… でも、結局のところ、真理がときおりくっきりと現れては、幻影と誤謬の調和のとれた体系のなかで調子はずれな音を響かせる…… するとたちまち、一切があやうく滅びてしまいかねず、そしてソクラテスが御みずから、わたしに治療法を訊ねにやって来られる、明察と倦怠のこの絶望的な症状のために!」(「魂と舞踏」より、168ページ)

「おそらく、魂の唯一にして永遠の対象は、実在しないものなのだ。かつては在り、いまではもう在らぬもの、――やがては在るだろうが、まだ在らぬもの、――可能なるもの、不可能なるもの、――そこにこそ魂がかかわるものがあるが、在るところのものは、断じて、断じて、そこにはない!」(「魂と舞踏」より、173~174ページ)

 最後の「樹についての対話」には、ソクラテスたちは登場しない。ここで対話を繰り広げるのは、ウェルギリウスの『牧歌』に登場する牧人ティティルスと、なんと、あのルクレティウスである。

「このわたしは、自分の幸福な時々のことしか知ろうとは思いません。今日、わたしの魂は樹となっています。昨日は魂が泉だと感じていました。明日はどうか? … 祭壇の香煙とともに空へとあがってゆくでしょうか、それとも悠然と羽ばたく禿鷹の力を感じながら野の上の高みにいるでしょうか、わたしにわかりましょうか?」(「樹についての対話」より、186~187ページ)

「わたしたちの涙とは、わたしの意見では、わたしたちの表現することの無能力、言い換えればわたしたちがそうであるところのものの圧迫から言葉によって逃れきれぬという無能力の表現なのです」(「樹についての対話」より、198ページ)

 この作品はなにかひとつの真理を求めて書かれたものというより、ひとつの事象を見つめるふたつの異なる姿勢を描いたものとしてとらえるべきだろう。同じテーマのもとに、叙情詩と叙事詩とを書こうとしているような作品だ。ちなみに上掲のふたつの引用は、どちらもティティルスの発言。ルクレティウスは、いかにもルクレティウスが言いそうなことを語っている。

ティティルス:はて…… 仰ることがわたしには晦渋で、おお、ルクレティウス
 ルクレティウス:わたしには言いたいことがよくわかっている。それでいい。だから、気楽に話したまえ、お望みなら愛について。けれども、わたしとしてはむしろ、その変身ぶりを歌ってほしい…… いったいどうして、おまえの精神のなかで、成長してゆく植物が、おまえに愛を、あの快楽への欲求を想わせたのか?
 ティティルス:快楽ですって? 愛はそれほど単純な本質のものではありません。
 ルクレティウス:それが普遍的な本能よりもましだとでも思いたいのかな? 愛とは運命によって鍛造された突き棒にすぎぬ。
 ティティルス:突き棒ですって!」(「樹についての対話」より、194ページ)

「わたしたちとして怖れるべきは、ただわたしたち自身だけだ。神々も運命も、わたしたちの感じやすい心の琴線の裏切りによるのでなければ、わたしたちに何の働きかけもできない。わたしたちの一段と低い魂に対して、神々と運命は卑劣な支配をする。それらの権力はけっして<英知>の仕業ではない。そうではなくて神性は弱々しい身体たちのなかに、至高の論拠として、賢者の拷問を見出すのだ」(「樹についての対話」より、199ページ)

 ルクレティウスの唯一の作品『物の本質について』を先日読んだばかりだったので、これはかなり楽しい。ウェルギリウスルクレティウスを詩人として尊敬していたからだろうか、ここで描かれるルクレティウスは妙に偉そうで、逆にティティルスは腰が低い。

ルクレティウス:どの植物もひとつひとつ作品だと、おまえは思わないか、そしておよそ観念なくして作品は存在しないということを、おまえは知らないのかな?
 ティティルス:けれど作者が見あたりませんが……
 ルクレティウス:作者などほとんど不必要な細部にすぎない」(「樹についての対話」より、201ページ)

「わたしとしては、こう思うのです。現実はいつでも真よりは無限に豊かであり、あらゆる主題について、またあらゆる事柄に関して、人間たちの精神がかならずや産みださずにはおかぬ多くの誤解、神話も、幼稚な物語や信仰もことごとく含んでいる、と」(「樹についての対話」より、206ページ)

 最後に、「エウパリノス」に付された訳注で紹介されていた、『邪念その他』の一節も挙げておきたい。

「思考力はおそらく、自然が人類という種にあたえた気まぐれな贈り物にすぎない。それはちょうど、自然が、博物館に見られるあの奇妙な反芻動物や絶滅した反芻動物の角を作りだしたのと同じことだ。それらは武器としてにせよ、飾りとしてにせよ、ひどく大きく拡がっていて、節をなしたり、螺旋状をなしたり、あるいはまたひどく枝分かれしているので、それを頭上に戴く動物にとって役に立たぬばかりか、むしろ有害である。思考力もそうではないのか。どうしてそうでないことがあろう。われわれの頭はさまざまな問題や観念を背負っているが、それらが事実の森の茂みにひっかかり、われわれは自由がきかず動けなくなってしまう。もっとも、そのことを誇りとしないわけではない。そして仕方なく詩や仮説という泣き声をあげる、――誇らしげに、そして絶望して」(「訳注」に紹介された『邪念その他』の一節、221~222ページ)

 ヴァレリーを読んでいると、自分の思考が自由気ままに飛びまわっていって、書かれていることになかなか戻れなくなってしまうのを感じる。そのため信じられないほど読むのに時間がかかるのだが、じつはそれがとても心地良い。もっとこの作家の言葉に触れてみたい、と思った。

エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話 (岩波文庫)

エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話 (岩波文庫)

 


<読みたくなった本>
プラトン『パイドロス』

パイドロス (岩波文庫)

パイドロス (岩波文庫)

 

ウェルギリウス『牧歌/農耕詩』

牧歌/農耕詩 (西洋古典叢書)

牧歌/農耕詩 (西洋古典叢書)