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Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

ムッシュー・テスト

 友人が書いたとても短い文章に、駆りたてられるようにして読んだ一冊。じつはずいぶん前に読んで、なにひとつ、ほんとうになにひとつ理解できずに、読破を諦めた経験のある本。

ムッシュー・テスト (岩波文庫)

ムッシュー・テスト (岩波文庫)

 

ポール・ヴァレリー清水徹訳)『ムッシュー・テスト』岩波文庫、2004年。


 この本についてなにかを書こうとしていると思うだけで、絶句してしまう。数年前に、自分がこの本を理解できなくてよかったとさえ思う。今回読みなおしてみて、以前よりもすんなりと文章が入ってきてしまったのだ。まさに、入ってきてしまった。いや、もちろんすべては理解できてはいない。でも、ところどころわかってしまう。それがおそろしい。これを理解するというのは、正常なことではないという気がしてならないのだ。理解している気になっているだけだと思いたい。

「この想像上の人物を、わたしは、なかば文学的で、なかば付き合いの悪い、というか……内にこもった青春のころつくりだしたのだが、いまや遠く消え去ったその時期以来、この人物はある種の人生によって生きつづけてきたようである、――この人物が語った言葉よりはあえて口を閉ざしたことに誘われて、ある読者たちがこの人物の身に想い描いた人生によって」(「序」より、7ページ)

「わたしは文学を疑っていた、詩というずいぶん精密な営みに対してまでそうだった。書くという行為は、つねに、ある種の≪知性の犠牲≫を要求する。たとえばだれもが知るように、文学書を読むための諸条件は言語への過度の精密さとは相容れない。知性はえてして日常言語には不可能な完璧と純粋を求めたがる。しかし、精神を緊張させなければ快楽をえられない読者などめったにいるものではない。わたしたちは何やら面白がらせなければ読者の注意を惹きつけられないし、こうした種類の注意は受け身なものだ」(「序」より、8ページ)

 つい先日、上述の友人とこの本の印象について語り合った。今になって思いかえしてみても、あれはあってはならない会話だったと思う。これこそ「精神の危機」だ、と話した。狂人であると、互いに宣告しあっていたようなものだった。

「われわれは自分の考えるところを、何とあまりにも他人の考えの表現形態に従って、判断していることか! そうわかるまでは無数の言葉がわたしの耳もとでぶんぶん唸っていたが、以後、それらの言葉に託された意味がわたしを揺りうごかすことはめったになくなった。そしてわたし自身が他人に向かって言葉を口にするたびにわたしの感じたのは、その言葉がどれもこれも、わたし自身の思考とはちがうということだった。――口に出したとたんに言葉は変えようがなくなるからである」(「ムッシュー・テストと劇場で」より、16ページ)

 だが、ムッシュー・テストは狂人ではない。逆だ。その対極にいるのである。

「ある話が脈絡に欠けるかどうかは、その話を聴く者による。思うに精神とは、自分自身にとって脈絡に欠けることはありえない、そういう出来のものだ。だからわたしはテストを気違いに分類するのは差し控えた」(「ムッシュー・テストと劇場で」より、32ページ)

「狂人とは正反対の人物である(しかし逸脱=変性ではある――自然界のなかではあれほど重要なもの――意識的なものと化した逸脱=変性なのだ)、なぜなら彼は、解離、置換、類似などを極点にまで押しすすめながらも、しかし確実な回帰と誤つことのない逆転操作によって、おそらくつねにより豊かになって戻ってきたからだ」(「ムッシュー・テストの肖像のために」より、133ページ)

 では、どんなひとなのか。

「どんなものごとについても、それを認識するのが、実現するのが易しいか難しいか、わたしはただそれにしか関心がないね。難易の度合を測ることには極度の注意をはらっている、しかも何ごとにも執着しないようにしているんだ…… そもそも、よく知っていることなど、わたしに何の意味がある?」(「ムッシュー・テストと劇場で」より、25ページ)

「自分が何を言っているのかわかっていない、ということがわかっている人間!」(「ムッシュー・テストと劇場で」より、34ページ)

 文章を拾いながら考えたのだが、わたしは共感できたというよりも、むしろ自分にも理解できた箇所を探し集めていたようだ。

「そこでわたしは夢想した、もっとも強靱な頭脳、もっとも明敏な発明家、もっとも正確に思想を認識するひとは、かならずや、無名のひと、おのれを出し惜しむひと、告白することなく死んでゆくひとにちがいない、と。そうした人びとの生き方がわたしに開示されたのは、他でもない、彼らほど志操堅固ではないため名声赫々たる生き方をしている人びとによってなのである」(「ムッシュー・テストと劇場で」より、17ページ)

「発見など何ものでもない。むずかしいのは発見したものをおのれの血肉と化することである」(「ムッシュー・テストと劇場で」より、21ページ)

 前半の三篇、「ムッシュー・テストと劇場で」と「友の手紙」、それから「マダム・エミリー・テストの手紙」がとくに心に残った。「友の手紙」はムッシュー・テストが書いたのか、それとも語り手である「わたし」が書いたのか、はたまたヴァレリーがほんとうに友人に向けて書いたものなのか、はっきりとしたことはなにひとつわからないのだが、輝く一文が随所に散りばめられた傑作だ。

「生きた身体が動かぬまま、生命をもたぬ動く物体に身を委ねて、運ばれてゆく。特急列車は「都市」という固定観念にとりつかれているんですね。われら乗客はそいつの理想の虜となり、そいつの単調な憤激の玩具と化してしまう」(「友の手紙」より、43ページ)

「そこで自分なりに想い描くんですが、わたしたちが居場所を変えるときの感情には、ある未知の、しかもわたしたちに本質的な実質のなかで、微妙な分離と再結合の働きがともなっているのです。奥深いところで行われている分類作用、そいつが変容する。出発が決まったとたんに、まだ身体のほうはすこしも動きだしていないうちに、やがてまわりのすべてが一変すると考えるだけで、わたしたちの隠れたシステムに、あるふしぎな変更が通達されることになる。ここからやがて立ち去る、そう感じるだけで、まだ手で触われる一切のものが、いわばつい隣にあったその実在性をほとんどたちまちのうちに失ってしまうのです。まるで、それらの現前性の能力が打ちのめされたとでもいうようで、能力のいくつかが消え失せてしまう。昨日はまだ、きみはわたしのそばにいたのに、それでもわたしの内部には、もはやきみとは長いあいだ会うこともあるまいという気持にすっかりなっている秘密の人間がひとり生まれていた。すこし経てば、もうきみの姿は見あたらないというのに、わたしはきみと握手など交わしていたのです。そのときのきみは不在の色に染められ、まるで目前の未来などまったくもっていない身というふうに、わたしには見えた。すぐそばから見ていたきみが、遠くに見えたのです。きみの眼差は同じだったのに、もう持続を含んではいなかった。きみとわたしのあいだには、ふたつの距離があるかのように思えました、まだ感じとれぬ距離と、はや途方もないものとなっている距離とのふたつが。そして、ふたつの距離のどちらをより現実的と見なすべきか、わたしにはわからなかった……」(「友の手紙」より、45~46ページ)

 ジャン・コクトーを思い出した。『ポトマック』だ。「ある町と町のあいだに、一人の貧しい旅行者がいる。彼が町に残してきたもの、それはもう彼のものではない。彼がこれから町で求めるもの、それはまだ彼のものではない」。だが、コクトーの「貧しい旅行者」が客観的に描かれているのに対して、ヴァレリーはどこまでも主観的である。彼にとっては、感覚がすべてなのだ。

「人間の唯一の希望は、おのれの苦しみを減らし、おのれの楽しみを増大させる行動手段を発見する、つまり、おのれの感受性自体に従って、おのれの感受性そのものに働きかけることができるような力を直接または間接に、おのれの感受性にあたえる行動手段を発見するところにある。
 これまでこの方向に沿ってなされてきたことの決算が、ここに示されている。感受性がすべてであり、すべてを支え、すべてを評価する」(ムッシュー・テストの思想若干」より、149ページ)

「何ごとも底の底まで掘りさげてはいけない、これが文学のきびしい掟なのです」(「友の手紙」より、59ページ)

 ヴァレリーはこうも書いている。

「だれが知ろう、あるひとの真の≪哲学≫が……伝達可能かどうかを?」(「ムッシュー・テストの肖像のために」より、135ページ)

 文字によって感覚を伝達するというのは、厳密を期そうとすればするほど、難しいことだろう。不可能であると言い切ってもいい。伝達手段としての言葉は、それほど強靱なものではないのだ。

「はっきりとした自覚なしに理解したことなどは、理解したとは断じて確信がもてない、まったくのところわたしの精神はそういう出来なのです。反省ぬきで明晰なことと、確実に難解なこととが、わたしにはひどく識別しがたい……」(「友の手紙」より、58ページ)

「わたしはあらゆる言葉を信用しない、すこし考えてみるだけで、世間の人びとが言葉を信じているのが馬鹿馬鹿しく思えてくるからです。巧みに言葉を使って、ある思考の空間をじつに敏捷に渡ってゆく人びとがいますが、そういう言葉の使い方を見ると、残念ながらわたしは、深淵のうえに投げかけられ、歩行はできるが停止は許されない薄い板片になぞらえたくなってしまいました。すばやく動けるひとなら、その板片を使って逃げだすけれど、かりにほんのわずかでも立ちつくそうものなら、そのわずかな時間で板片は壊れて、何もかも底深くに落ちこんでしまう。急ぎのひとにはわかっていたのです、重さをかけてはならない、と。いずれだれにもわかるだろうと思いますが、どれほど明晰な話でも難解な用語から織りなされているものです」(「友の手紙」より、58~59ページ)

「言葉というものは、のぞみのままに排列できるし、言葉でつくる結びつきのひとつひとつが、かならずしも何かに対応しているわけではないんだ。二百ほどの言葉を忘れねばならぬ、それを耳で聞いたら翻訳しなければならない。こうして、≪権利≫という語はいたるところで、多くの人びとの精神から消去されねばなるまい、だれも眠りこんでしまわぬために」(「対話」より、127~128ページ)

 そもそも伝達不可能なものを伝えようとした文章が、平易なはずもない。ヴァレリーはこうして、「晦渋な作家」と呼ばれるようになった。

「学識あり温厚で、しかも好意にあふれているかたがたで、わたしの作品を読むのにフランス語に翻訳されるのを待っておいでのひとが、ずいぶんいらっしゃる。そのかたがたはそれを公衆に向かってこぼし、わたしの詩を何行か引用なさるんだが、打ち明けて申せば、どうやらその詩句のどこかに当惑なさっているにちがいない。そればかりか、何かがまるで理解不能ということそれ自体から、彼らは正当なる栄光を引きだすのです。他のひとならば、わからなければ隠すところですがね」(「友の手紙」より、56~57ページ)

「奇妙な王国じゃないですか、そこでいくらお見事なものが産出されたって、どれもこれも、ただひとりを除くすべての魂にとって苦々しい糧なんですよ。それらがお見事であればあるだけ、それだけ糧の味は苦々しい」(「友の手紙」より、52ページ)

「わたしはあなたのさまざまな観念を、まったく明瞭に眺めて、ほとんどわたしの観念のつまらぬ装飾と見なしているので、それらを軽蔑している。そしてわたしは、ガラス鉢のなかの、なみなみとたたえられた澄んだ水のなかを、三、四尾の金魚がぐるぐる泳ぎまわりながら、いつも素朴で、いつも同じ発見を繰り返しているのを見ているような具合に、あなたの観念群を眺めている」(「ムッシュー・テスト航海日誌抄」より、113ページ)

 なにかを伝達する、というときには、きまって他者が介在する。その他者に対する圧倒的な不信感が、作家に言葉を費やさせる。ヴァレリーはその困難を取り払うために、ムッシュー・テストと「わたし」を巡り合わせたのかもしれない。

「どういう点で、この今日の午後、この偽りの光、この今日という日、このさまざまな既知の出来事、これらのページ、この任意の全体が、他の全体から、一昨日という一日から区別されるのか? 感覚器官は、変化が起こったとわかるほど鋭敏ではない。これが同じ日ではないと、わたしはよく知っている、けれど、そう知っているというだけにすぎない。
 わが感覚器官は、過去というこのじつに精妙なあるいは深遠な作品を解体できるほど、鋭敏ではない。この場あるいはこの壁が、先日のそれらのありようとおそらく同一ではないと見分けられるほど、鋭敏ではないのだ」(「ムッシュー・テスト航海日誌抄」より、104~105ページ)

「この奇異な人物にあっては、もっとも活き活きとし、もっとも明確な思い出でさえ、その精神の現在における形成としてしか現れなかった。そしてしかじかのイメージをともなう過去という感覚自体が、過去とは現在に属する一事実だという観念を、――あるイメージのもつ一種の……色彩をともなうものだった――あるいはそれは、精密にして正確な返答の迅速さなのである」(「ムッシュー・テストの肖像のために」より、137ページ)

 なんという生きづらさだろう。議論の前提となるはずの部分からして、あまりにもちがいすぎるのだ。これほど読者を選ぶ本もないと思う。

「このパリには、文学と科学と芸術、そして一国の政治が、他の都市をつきはなして集中している、およそこの地上に、ここほど、言語活動が激しく行われ、反響がつよくこだまし、つつしみが忘れられているところはない、そうわたしは考えました。フランス人は自分たちのありとあらゆる観念をひとつの囲いのなかに集めてしまったのです。わたしたちはそういう囲い地のなかで、自分たちの火に焼かれながら生きている」(「友の手紙」より、48~49ページ)

「わたしはこの帝国を支配する法則をぼんやりと尋ね求めました。楽しませる必要、生きる欲求、後生に生き残りたいという願望、驚かせたり、衝撃をあたえたり、叱責したり、教えたり、軽蔑したりする楽しみ、さらには嫉妬の棘、そういったものがこの「地獄」をあやつり、かきたて、昂奮させ、かつは説明するものでした」(「友の手紙」より、62ページ)

 ところで、ムッシュー・テストには妻もいる。エミリーだ。彼女も、おかしい。

「とても美しいのです、あのひとの眼は。あの眼は、眼に見えるどんなものよりもほんのすこし大きい、そこが好きです」(「マダム・エミリー・テストの手紙」より、66ページ)

「わたくしは、ある確乎としてゆるがぬ眼差の世界のなかを、ぶんぶんと飛びまわっている一匹の蠅、見られているときもあり、見られていないときもあり、しかしけっして視野のそとには脱けられない」(「マダム・エミリー・テストの手紙」より、81ページ)

 彼女とムッシュー・テストとの関係は、さらに狂っている。

「結局のところ、あのひとのことがあまりよくわかっていないからこそ、この地上で生きてゆく来る日も来る夜も、次の瞬間がどうなるかまったく見通しがつかないからこそ、わたくしはほんとうに幸せなのですね。わたくしの魂の渇望しているのは、なによりもただただ驚かされるということです。期待とか、危険とか、すこしばかりの疑いのほうが、確実なものを所有することよりも、ずっとわたくしの魂を昂揚させ、生き生きとさせてくれる」(「マダム・エミリー・テストの手紙」より、70ページ)

「わたくしのような名前で呼ばれている女は世間にはおりません。愛しあう者たちがどんなに滑稽な名前でおたがいに呼びあうか、ご存じでいらっしゃいますね。犬や鸚鵡を呼ぶときのようなどんな名前の呼び方も、肉体で親密に結ばれていることから自然に生まれた果実なのです。心の語る言葉は子供っぽいものですし、肉体の声は簡単な要素だけからなっております。それにムッシュー・テストは、愛とは、一緒に馬鹿になれることにある、と考えているんです、――馬鹿げたことも獣性もすっかり許されて。ですから、あのひとなりのやりかたで、わたくしを呼ぶのです。たいていいつも、わたくしになにを求めているかに応じた呼び方をします。わたくしにあたえられる名前、そのひと言だけで、わたくしはなにを期待したらいいのか、なにをしなければいけないのかがわかります。あのひとののぞんでいるのが、なにも特別なものではないとき、わたくしに向かって「存在(エートル)」とか「もの(ショーズ)」とか言います。ときどき、わたくしを「オアシス」と呼びますが、そんなときはうれしくなります」(「マダム・エミリー・テストの手紙」より、83~84ページ)

 エミリーの屈託ない明るさに触れていると、読みながらどんどんあたまがおかしくなっていくのが、自分でもわかる。

「悦楽を不安から引きはなしておきたいと思えば、悦楽を知りつくしてはならないのです」(「マダム・エミリー・テストの手紙」より、72ページ)

 最初の三篇につづくのは、長さもまちまちのさまざまな断片だ。詩人という言葉がなかったら、ヴァレリーはすぐさま精神病院送りになっていたことだろう。正直ほとんど理解できないのだが、そのわけのわからない断片の随所に、美しい一文が潜んでいる。

「わたしは愚か者の意識がどういうものかは知らないが、才気あるひとの意識は愚かさにみちているものだ」(「ムッシュー・テスト航海日誌抄」より、94ページ)

「わたしの眼前のこの照明は眼隠しであり、覆い隠しているのだ、ひとつの夜を」(「ムッシュー・テスト航海日誌抄」より、95ページ)

「――ねえきみ、無限なんて、もうたいしたものじゃない、――それは文字のうえの問題さ。宇宙とは紙のうえにしか存在しない」(「対話」より、123ページ)

「きみはいくらか天才的に、考えだすのだ、――どれもこれもきみが暗記していることばかりをね」(「対話」より、127ページ)

「自分のなかへは完全武装して入らねばならぬ」(「ムッシュー・テストの思想若干」より、141ページ)

 ヴァレリーの気に入っていた言葉、「天使」も紹介せずにはいられない。

「「天使」という観念はヴァレリーにおいて独特な意味を担っている。まず、「キューピッド」のように「愛らしい天使」という考え方とはまったくちがうことを言っておこう。ヴァレリーが言葉遊びのように、「無縁な(エトランジェ)」=「奇異な(エトランジュ)」=「天使であること(エートル・アンジュ)」と≪カイエ≫に書いているように、「天使」とは、いわば人間的なありようとは「無縁」な、見るからに「奇異」な姿を示すものなのだ。人間社会のしきたりや記号の意味するところをまったく受けとめないような、ある遠い地平から見つめるような主体のありよう、というのに近い」(「訳注」より、165ページ)

 つまり、「étranger」「étrange」「être ange」だ。『異邦人(L'étranger)』を書いたとき、カミュはこのヴァレリーの言葉遊びを知っていたのだろうか。ヴァレリーが「天使」であるというのは悪くない。こいつは人間ではない、と言い切ってしまったほうが、よっぽど話が早いだろう。でも、ヴァレリーが伝えようとした、伝達不可能なはずのたくさんのものが、彼を神格化することを禁じる。発狂せずに戻ってこられたことを喜ぶべきなのかもしれないが、初めから「なにもかもわけがわからない」と言って投げ出すのが、おそらくいちばん正常な反応なのだろう。もう手遅れなのかもしれない。何度も読み返したい。

ムッシュー・テスト (岩波文庫)

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<読みたくなった本>
デカルト方法序説

方法序説 (ちくま学芸文庫)

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