ヘッセの読書術
最近、読書という行為そのものを主題にした書物をたくさん読んでいる。その最中に思い出した、ずっと昔に読んだ一冊。詳しく内容を覚えている部分もいくつかあったが、とても楽しい再読となった。
- 作者: ヘルマンヘッセ,フォルカーミヒェルス,Hermann Hesse,Volker Michels,岡田朝雄
- 出版社/メーカー: 草思社
- 発売日: 2004/10
- メディア: 単行本
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ヘルマン・ヘッセ(岡田朝雄訳)『ヘッセの読書術』草思社、2004年。
じつは、ヴァレリー・ラルボーの『罰せられざる悪徳・読書』を読みながら、同じような言葉をどこかで読んだような気がしていたのだ。やっぱり、ヘッセだった。ほとんど同じ時代を生きた二人が、まったく違う場所で同じようなことを書いていた、というのは興味深い。ヘッセもラルボーもたいへんな語学の才能を持っていたので、どちらかの作家がじっさいにもう一方を読んでいたことも考えられる。とはいえ、ヘッセのこの本は1977年に編纂されたものなので、もしラルボーがヘッセを知っていたとしても、それは発表された当時の新聞や文芸誌を通して、ということになるだろうが。
この本は、ヘッセ自身による一篇の詩からはじまる。題は、「書物」。
「書物
この世のどんな書物も
きみに幸せをもたらしてはくれない。
だが それはきみにひそかに
きみ自身に立ち返ることを教えてくれる。
そこには きみが必要とするすべてがある。
太陽も 星も 月も。
なぜなら きみが尋ねた光は
きみ自身の中に宿っているのだから。
きみがずっと探し求めた叡知は
いろいろな書物の中で
今 どの頁からも輝いている。
なぜなら今 それはきみのものだから」
(「書物」より、7ページ)
以下、収録作品。意味がないので、評価はつけなかった。
「書物(詩)」
「書物とのつきあい」
「本を読むことと所有すること」
「保養地での読みもの」
「言葉」
「読書について」
「世界文学文庫/世界文学文庫リスト」
「ベッドで読んだもの」
「本の魔力」
「本のほこりを払う」
「愛読書」
「日本のある若い同僚に」
「「パン(ブロート)」という言葉について」
「書くことと書かれたもの」
このうち「世界文学文庫/世界文学文庫リスト」は、本全体の約半分を占めるもので、これ以外の作品はどれも非常に短い。執筆時期が異なることもあって、語られている内容が重複していることもあるが、全体として見ると、話題はかなり多岐にわたっている。とはいえ、そのどれもが読書という行為と深い関係を持っているのだ。
「一冊の本を読むということは、よい読者にとっては、ひとりの未知の人間の性格と考え方を知って理解しようと努め、できたら彼と友だちになるということである。とくに文学者の作品を読む場合には、私たちはもちろん作品の中の限られた範囲の人間と出来事だけではなく、とくにその文学者の生き方とものの見方、気性、心理、最後にはその描写の仕方、芸術的表現手段、思想と言葉のリズム等を知ることになるのである」(「本を読むことと所有すること」より、46~47ページ)
「本当の教養は、何らかの目的のためのものではなく、完全なものを目指すすべての努力と同様に、それ自体価値のあるものなのである。体力や、機敏な運動能力や、美しい身体を得るための努力が、金持ちや、有名人や、権力者になるなどの最終的な目標をもつものではなく、その努力そのものが私たちをより楽しく、幸せな気分にし、自分の体力に対する自信と、自分が健康であるという気持ちをいっそう高めてくれるという価値をもっているように、≪教養≫すなわち、精神と情緒を完成するための努力もまた、ある限られた目標に向かう難儀な道ではなくて、私たちをよろこばせ励ましながら私たちの意識を拡大し、私たちの生きる能力と幸福になる能力を豊かにすることなのである」(「世界文学文庫」より、76ページ)
タイトルに「読書術」という単語が含まれているとおり、読書家のあるべき姿勢について書かれた文章は非常に多い。基本的にはヴァレリー・ラルボーが簡潔にまとめたのとほとんど同じことが語られているのだが、簡潔さを求めるあまりラルボーが言及しなかった話題が、この本ではたくさん語られている。
「努力する者なら到達できなくはない一定の文化水準に達した人にとっては、芸術の分野と知識の領域との区別は消えてしまう。つまりその水準に達した人は、一つの芸術作品を、歴史画とか風俗画、悲劇とか喜劇などのジャンルによってではなく、それが芸術的にすぐれたものかどうかによってのみ評価するのである」(「書物とのつきあい」より、10ページ)
「このような人は、一冊の本を読む場合、音楽を聴いたり、景色を見たりするときとまったく同じように、何か新しいもの、自分をよろこばせるもの、忘れ難いものをそこから得て、それによって以前よりも少し豊かに、楽しく、あるいは賢明になりたいということ以外はどんな関心ももたないであろう。そしてこの新しいもの、この生活の充実と生活力の強化を与えてくれたのが、詩人であるか、哲学者であるか、悲劇作家であるか、機知に富んだ漫筆家であるかなどということはほとんど問題にしなくなるであろう。この立場には、普通私たちが考えているよりもずっと簡単に到達できる。ただ、先にもいったような、気後れや軽蔑心から本を避けるというくだらない態度や、何でもすぐ否定する高慢な態度や、何でも知っているという意識などを捨てるだけでよい。こうすることで自主的な判断力を得るための決定的な一歩を踏み出してもう目的まで半分以上進んだことになる」(「書物とのつきあい」より、10~11ページ)
これはもちろん、乱読をしろ、ということではない。むしろヘッセは声高に、乱読という行為を斥けている。
「せかせかと休みなく読み、いたるところでつまみ食いをし、いつもただ最も刺激的なものと、精選されたものだけを得たいと望む人は、まもなく表現の様式と美しさを理解する感覚をだめにしてしまうであろう。このような読者は抜け目のない専門的な知識をもつ芸術愛好家という印象を人に与えがちだが、たいてい読んだ本の筋だけとか、くだらない、風変わりなことを記憶しているにすぎない。むしろこのような落ち着きのない読み方をしたり、始終新しい本を追いかけたりするよりは、まったく逆のことをする方が、つまりかなり長い時間をかけてあるひとりの著者の作品とか、ある一つの時代の作品とか、ある流派の作品を読みつづけることの方がはるかに好ましい!」(「書物とのつきあい」より、24ページ)
「私はあらゆる避暑客に、心から「今度こそはまったく何も読むまい!」という決心を固めるようにお勧めする! なぜなら、そもそもよい本とよい趣味の敵は、本を軽蔑する人や字の読めない人ではなくて、乱読者だからである」(「保養地での読みもの」より、52ページ)
乱読者たちと、その向こう側にいる真の読書家たちを隔てている溝は、深い。ラルボーが、乱読という段階を理想の読者に至る通過儀礼のようなものとしてとらえていたことを思い出そう。この溝は、一足飛びで越えられるようなものではないのだ。
「私たちをこのような教養に導いてくれる道のうちで、最も重要な一つの道は、世界の文学作品を地道に読むことである。すなわち、過去の時代が、多くの民族の詩人や思想家の作品という形で私たちに残しておいてくれた思想、体験、象徴、想像の産物、理想像などの膨大な宝とゆっくり慣れ親しんでゆくということである。この道は果てしがない。誰ひとりとしてこの道を最後まで歩きつくすことはできない。これからも、ただ一つの偉大な文化民族の文学作品だけでも、全部を詳しく読みつくし、知りつくすことなど誰にもできないであろう。まして人類全体の文学作品にいたってはなおさらのことであろう」(「世界文学文庫」より、77ページ)
「傑作が私たちに対して真価を明示するその前に、まず読者である私たちが傑作を読んで理解し、その真価を認めるだけの能力を養わなくてはならない」(「世界文学文庫」より、123ページ)
ヘッセは何度も繰り返して、だれもが読まねばならない書物などというものは存在しないということを訴えている。すなわち、「私たちが必ず読んでおかなければならない、それを読まなければ幸福になれない、人間形成もできないというような本のリストなどは存在しないのである!」(「書物とのつきあい」より、11ページ)。あらゆるブックリストというものは、それまで知らなかった作品を知るためには良いきっかけとなるかもしれないが、個人にとってそれ以上の意味を持つことは、けっしてないのだ。
「個人が何を読み、何を買うべきかについて一定の助言を与えることはもちろん不可能である。この点に関しては各個人が自分の頭脳と趣味に従わなくてはならない。千冊とか百冊の「最良」の書物のリストをつくる試みがよく行われている。――もちろんそれは個人の蔵書のためにはまったく役に立たない試みである。読書に当たっての最も大切な模範的態度は、虚心に、一切の偏見をもたずに本に向かうことであることを、もう一度ここで強調しておきたい。とても賢明な人びとが、詩を読むことなどは気晴らしにすぎず、せいぜい小娘に似つかわしいことだと言っているのを耳にすることがよくある。こういう人びとはたいてい、教訓的な、学問的な本を読むべきであると考えている。ところがどんな民族もどんな時代も、彼らの教訓や知識の財宝をもっぱら詩の形で記録してきたのである!」(「書物とのつきあい」より、19ページ)
「千冊の、あるいは百冊の≪最良の書≫などというものは存在しない。各個人にとって、自分の性格に合って、理解でき、自分にとって価値のある愛読書の独自の選集があるだけである。だからよい蔵書は注文でそろえることはできない。各人が友人を選ぶときとまったく同様に、自分の欲求と愛に従って、自分でゆっくりと書物を集めなければならない。そうしてできたささやかな蔵書が彼にとって全世界を意味するようになるのだ」(「本を読むことと所有すること」より、47ページ)
ところで、先日アメリカの雑誌『Newsweek』に、どこかの大学が新入生たちに読むことを義務づける課題図書のリストが掲載されていて、そのラインナップに度肝を抜かれたことを思い出した。十冊程度の短いリストだったのだが、その中身にはゲーテの『ファウスト』、ダンテの『神曲』、聖アウグスティヌスの『告白』、ニーチェの『ツァラトゥストラ』、ミルトンの『失楽園』、モンテーニュの『エセー』などが含まれていたように思う。つまり、どれも大部な、ぜったいに強制されて読んではいけない本ばかりだったのだ。大学に入ったばかりの学生を、読書という行為から徹底的に遠ざけようとしているとしか思えなかった。あのリストを作成した大学教授連中は全員、以下のヘッセの言葉を肝に銘じるべきだろう。
「世界文学に対する読者の生き生きとした関係にとって重要なのは、とりわけ読者が自分自身を知ること、それとともにまた、自分にとくに感銘を与える作品を知るということであって、何らかの規準あるいは教養の計画などに従わないということである。読者は、本に対する愛の道を行くべきであって、義務の道を行くべきではない。ある傑作が非常に有名であり、それをまだ知らないのは恥ずかしいからというだけで、それを無理に読むのは、大変な間違いである。そうするかわりに、誰でも各自の性質にふさわしい作品でまず読むこと、知ること、愛することをはじめなくてはならない」(「世界文学文庫」より、79~80ページ)
「努力する者なら誰にでも、世界文学の尊ぶべき画廊は開かれている。量が問題ではないのだから、その豊富さにびっくりする必要はない。一生のあいだに一ダースほどの本を読んで満足しながら、しかも真の読書家であるという人もいる。また、あらゆるものを手当たり次第に読んで、どんな本についても話の仲間入りができるが、しかしその努力が全然役に立たなかったという人もいる。なぜなら、教養は、養成されるべき対象を、つまり人格と個性を必要とするからである。人間形成が形成される本体なしに、いわば教養の対象となる人間とは関係なく行われるところでは、知識を得ることはできるかもしれないが、知識への愛、知識との生きたつながりは生まれない。愛のない読書、畏敬の念の欠けた知識、心の伴わない教養は、精神に対する最大の罪悪の一つである」(「世界文学文庫」より、81ページ)
たいせつなのは、じっくり地道に、自分の愛する本と向き合うことである。そこから関心を広げて、虚栄心や衒いのない状態で古典作品と出会うことが重要なのだ。古典とは背伸びをして読むものではなく、ましてや人に強制されて読むものではぜったいにない。ただ愛着だけが、正しい姿勢なのである。ヘッセは愛着をこめて、ゲーテやシェイクスピアについて語っている。
「いわゆる古典作家たちの周辺には、本当は評価していないのに、本心からではない、あるいは本当に知らないのに知ったかぶりの、度を過ごした称賛が蔓延している。しかし本当に偉大な作家たち、第一にシェイクスピアとゲーテを知ることはどうしても必要である」(「書物とのつきあい」より、26ページ)
「ゲーテの≪ファウスト第二部≫については、学者や愛読者がおよそ二百年来あらゆる解釈を試みて、きわめてすぐれた解釈ときわめて愚劣な解釈を、この上もなく深遠な解釈とこの上もなく平凡な解釈を見いだしてきた。しかしあらゆる文学作品の表層の下部には、たとえ解釈できないほど深く隠されていても、名状しがたいほどの多様な解釈の可能性が、すなわち近代の心理学でいうところの「シンボルがもつ極度に多様な定義」がひそんでいるのである」(「読書について」より、73ページ)
話題になっている最新の書物を手当たり次第に読むぐらいなら、じっくりと一冊の古典を、何度も何度も繰り返し読むほうがいい。
「私たちはあらゆる精神史の一つの原則に突き当たる。つまり最も古い時代の作品は、ほとんど時代遅れになることがないということである。今日流行作品であって、注目を集めているものは、明日はふたたび見捨てられるかもしれないのだ。今日新しく、興味を引くものは、明後日にはもはやそうでなくなる。しかしいったん数世紀を超えて生き抜き、そしてなお変わらず、忘れ去られず、死滅しないものの価値は、私たちの生きている時代にもおそらくもう大きな変転を体験することはないであろう」(「世界文学文庫」より、86ページ)
書物は、話題づくりのために読まれるべきではないのである。ましてや、そんなことのために書かれた書物なんて愚の骨頂である。そのような出版物の洪水に溺れかけているわれわれこそ、このことを肝に銘じるべきではないだろうか。
「書物は、最新のニュースや強盗殺人事件のように、世間の話題となってそののち忘れられてしまうためにあるのではなく、静かに、まじめに読んで楽しまれ、そして愛されることを望んでいるのである。そのときはじめて書物の内奥の美と力が発揮されるのである」(「書物とのつきあい」より、16ページ)
「どの作品が幾世代も超えて存続する作品に入るかについて、その作品の成立した時代は判断できない」(「世界文学文庫」より、106ページ)
再読という行為の魅力についても、ヘッセは紙幅を費やして語っている。先述のとおり、この本を読むのは二回目なのだが、初めて読んだときには気にも留めなかったような箇所が、とても輝いていた。これがあるから、本を読むのは楽しくもおそろしい。どんな本であれ、一読しただけでなにかを理解したとは思わないほうがいい。
「ただ一回限りの、義務的な、あるいは好奇心からする読書では、決して本当のよろこびや、深い楽しみを味わうことはできず、せいぜいその場限りの刺激的な、すぐさま忘れられてしまう緊張を楽しめるにすぎない。けれどもある本をはじめて、おそらくほんの偶然に読んだときに深い印象を受けたならば、少したってからそれをもう一度読んでみるべきである。二回目に読んだときにその本の本質がはっきりと現れること、つまり純粋に外見的な興味を引く要素が脱落して、その本の内容、表現の独自の美しさと力の真価が発揮される様子は驚嘆に値する」(「書物とのつきあい」より、16~17ページ)
「ある読者がまったく新しい言葉を習得せず、彼がそれまで知らなかった新しい文学作品に近づきにならなくとも、彼は自分の読書を無限に続け、さらに専門化し、高め、磨くことができる。あらゆる思想家の本、あらゆる詩人のあらゆる詩行は、どれもそれをくりかえし読む者に、数年ごとに一つの新しい顔を見せるであろう。以前とは違った解釈ができるようになり、それまでとは違った共感を呼び起こされるであろう」(「本の魔力」より、184ページ)
ところで、この本に収められた「世界文学文庫/世界文学文庫リスト」は、すでに何度もブックリストの無意味さを訴えていた、ヘッセ自身が編んだブックリストである。これは、何度も読み返したい。紹介されているイギリスやフランスの文学は、ほとんど文学史の教科書のようなラインナップなのだが、じっさいに愛着のこもった読書体験によって選ばれている点が、文学史とは徹底的に異なる。それから、ドイツ文学の豊潤さは衝撃的である。そしてそのほとんどが日本語に翻訳されていることにも、とても驚いた。ヘッセがそれを選ぶ姿も、愛着が感じられてとても微笑ましい。
「とんでもないことをした。今私は一つの重大な見落としに気がついた。『ヴォイツェク』『ダントンの死』『レオンスとレーナ』の作者ゲオルク・ビューヒナーを忘れていた! もちろん彼を欠かすことはできない!」(「世界文学文庫」より、107ページ)
話題はまだまだたくさんある。初めて読んだときから今まで、とてつもない共感とともにずっと記憶に残っていたのは、以下の一節だ。
「本を買うということはただ本屋と著者を養うために役立つだけでなく、本を所有すること(それを読むことだけでなく)には、まったくそれ独自の楽しみと独自のモラルがある」(「世界文学文庫」より、81~82ページ)
それから、言葉の多義性についての議論も興味深く読んだ。なにかを言うときにも、なにかを書くときにも、自分の考えが完全に相手に伝わるなど、ほとんどありえないことのように思えてくる。詩人でもあるヘッセは、人一倍このことを痛感していたのだろう。
「詩人の使う言葉はどれもすべて、口に出すと同時に自分の言いたいこととは違った意味を勝手に連れてきたり、言いたいことを完全に伝えるのを妨げたり、それどころか意図とは反対のイメージを連想させるようなものばかりである。その上にどんな言葉もそれ自体の中に意味の明確な伝達を抑圧したり、奪い取ったりする障壁をもっているので、ちょうど狭い部屋の中で出した声が、四方の壁に反響して力を失い、遠くまで届かなくなってしまうように、詩人の言葉もこの障壁に突き当たって屈折し、言いたいことが読者に伝わらなくなってしまうようなものばかりなのである」(「言葉」より、54ページ)
「『若きヴェルターの悩み』と『ヴィルヘルム・マイスター』が同じ言葉で書かれていることを誰が真剣に信じるだろう? ジャン・パウルが私たちの学校教師と同じ言葉を使っていたと誰が信じよう? そしてこれは詩人の例にすぎない。それも乏しく貧困な言葉で、まったくほかのことのためにつくられた道具を使って仕事をしなくてはならなかった詩人の例にすぎないのである」(「言葉」より、59ページ)
魔法を使うときに唱える呪文が、それ自体言葉からできているという事実を、わたしたちはあまりにも蔑ろにしてきたのではないだろうか。言葉とは本来的に、魔術的なものなのである。
「どの民族においても、もともと言葉と文字は神聖なもの、魔術的なものであり、事物に名をつけたり文字を書いたりすることは魔術的な行為であって、精神の力で妖術を使って自然を征服することであったし、いたるところで文字は神の贈りものとして称賛されたのである。ほとんどの民族の場合、書くことと読むことは神聖な秘術であって、僧侶階級に独占されていた。ひとりの若者がこの権威ある技術を習得しようと決心することは、一つの偉大な、尋常ではないもくろみであった」(「本の魔力」より、172ページ)
「私たちの言葉の中で、この二百年のあいだに増加した新しい単語は、数においてはまったく膨大で驚嘆に値するけれど、重量感と表現力という点では、言語の実質という点では、美しさと質の高さという点では、ひどく貧しい」(「「パン(ブロート)」という言葉について」より、215ページ)
これほど言葉と真摯に向き合うヘッセが、極東の地で生まれた詩形式に無関心でいるはずもなかった。つまり、日本の俳句である。
「長い時間をおいてからではありますが、日本の抒情詩に、とくにその極度に簡潔で短い表現を追求する努力に私は大変魅了されるようになりました。私たちは日本の抒情詩を読んだ直後に、どんなドイツの現代抒情詩も読んではなりません。そうでないと、わが国の詩は救いようもないほど大げさで、不自然に響くからです。日本人は十七文字の詩というすばらしい発明をしました。そして彼らは、芸術作品は手軽につくることによってではなく、その逆によってすぐれたものになることを絶えず意識していました」(「愛読書」より、202ページ)
短歌や俳句に対して寄せられる、外国からの称賛の声は、枚挙に暇がない。わたしはつい最近になるまで、これらの詩形式の美しさにほとんど気がつかずにいたのだが、もしかすると、日本人が西欧のソネットを暗誦する人びとを羨むのと同じ目線で、われわれは彼らから羨ましがられているのかもしれない、と思った。
そういえば、「日本のある若い同僚に」と題した一章では、日本の文学者からヘッセに寄せられた、おそらく熱烈なファンレターに対する返答が紹介されている。戦後間もない時期の人物であるという点を除いて、その文学者がだれであるかを推測できる要素はないのだが、ファンレターに対するものとしてはおよそ似つかわしくない、ヘッセのすばらしい返答を読むと、宛先人などだれでもよくなってしまう。
「私の本に寄せるあなたの愛は、たしかに罪ではありません。けれども、その愛には批判と節度が欠けています。そのためにその愛は、文人であるあなたを、進歩させることはほとんどできないでしょう。あなたは私を、あなた自信がなりたいと望み、見習う価値と、目標にして努力する値打ちがある存在と考えておられます」(「日本のある若い同僚に」より、209ページ)
最後に、「ベッドで読んだもの」について。読んでみて、思わず「なんだこりゃ!」と声を上げてしまった。ほかの章に比べて、異常にユーモラスな筆致で書かれているのである。エッセイというよりは短篇小説に近くて、編訳者の茶目っ気とサービス精神を感じた。すばらしい仕事ぶりである。げらげら笑いながら読んだ。
「このいささか絶望的な日に、今ベッドに逃げ込んで、残念なことにほかに読みものの用意もしていなかったので、私は二部の新聞を読んだ。その一つのツューリヒの新聞はまだかなり新しく、四日か五日ぐらい前のもので、私の詩が一篇その号に印刷されていたため、もちあわせていたのである。ほかの新聞はほぼ一週間前のもので、これも同じく無料で手に入れた。それは包装紙として私の手に入ったのである」(「ベッドで読んだもの」より、165~166ページ)
「もう一つの新聞のニュースから、私はツェッペリーン飛行船がエッケナー博士の指揮の下に、アメリカからちょうど帰航しようとしていることを知った。ということは、その前にアメリカへ飛んでいったにちがいない。これは一つの大偉業である!」(「ベッドで読んだもの」より、169ページ)
二度目に読んでみて、次に読むときがさらに楽しみになる本は、まぎれもない良書である。何度も読み返して、じっくりゆっくり愛していきたい一冊だ。
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追記(2014年12月18日):見事、文庫化されました。でかした草思社!
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