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Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

ぼくの短歌ノート

 穂村弘が昨年刊行した短歌評論集。ページを開いたが最後、読み終えるまであっという間だった。じつを言うと、そうなることがこれまでの読書体験から簡単に予想できたからこそ、なんというか、もったいなくって読みはじめられずにいたのだ。現在も『群像』誌上に連載中の「現代短歌ノート」四年分の記事をまとめたもので、じつに穂村弘らしい一風変わったテーマごとに、現代歌人にかぎらず古今の作品が集められたもの。すこし前に紹介した『はじめての短歌』とも、いくつか内容の重複がある。

ぼくの短歌ノート

ぼくの短歌ノート

 

穂村弘『ぼくの短歌ノート』講談社、2015年。


 穂村弘が「褒めのプロ」であることは、『短歌ください』の巻末で俵万智が指摘していたとおりだが、このひとはほんとうに関心を持たせるのがうまくって、読んでいてじつにたくさんの歌人とゆっくり向き合いたくなった。彼の著作を何冊も読んだいまでは、穂村弘が評論を書きまくっているのには、はっきりとこの目的意識が含まれているように感じられる。つまり、彼が「褒めのプロ」であるというのは、「紹介のプロ」でもあるということなのだ。短歌世界という沃野はわたしのように不案内な者にはちょっと豊かすぎて、地図もなしには歩き回る気になれないような広大さを感じさせるものである。そんな読者のために、伝道師の役割を買って出てくれているのだ。なんてありがたい。穂村弘が同時代にいることを心から嬉しく思う。

 また、穂村弘の「紹介」は、けっして短歌に不案内な読者に対してのみ向けられているわけではなく、同時代の才能あふれる新人たちの発掘、彼らの作品をすでに短歌に親しんだことのある人びとに知らしめる、ということにも、とても意識的だということを忘れてはならない。

  押すたびに爆発夢想するもまた鳥のさえずりだった信号機  虫武一俊(149ページ)

「分岐する運命の可能性に対するヴィヴィッドな感受は青春期のものだろう。年をとるにつれて、「爆発」など起きるはずがないという体感が支配的になってゆく。人生の重みが増して、その外側の意味は見失われる。それに抗って鮮度を保つ魂は詩人のものだ」(150ページ)

 虫武一俊はじつはまだ第一歌集さえ刊行していないのだが、穂村弘の評論で採りあげられている回数は非常に多く、個人的にはすでに馴染みのある名前、という印象さえある。『短歌ください その二』でもすばらしい作品がたくさん採用されていて、『はじめての短歌』では一章の中心的役割を果たしてさえいたこの歌人は、書肆侃侃房の「新鋭短歌シリーズ」から2016年6月に、ついに第一歌集を刊行予定だ。このひとの歌集はほんとうに楽しみにしている。

  廃品を集めてめぐる軽トラはわたしの前でゆっくり止まる  鈴木美紀子(135ページ)

  容疑者にかぶされているブルゾンの色違いならたぶん、持ってる  鈴木美紀子(202ページ)

  お裾分けされた水ようかんが差し上げた水ようかんだと気づく猛暑日  鈴木美紀子(207ページ)

  間違って降りてしまった駅だから改札できみが待ってる気がする  鈴木美紀子(210ページ)

 また、同じ書肆侃侃房の「新鋭短歌シリーズ」について言えば、第三期の最後の配本に予定されている鈴木美紀子の歌集も、刊行予定は2017年3月と、まだかなり先のことだが、ぜったいに見逃せない。とりわけ本書のなかで、この歌人の存在感は際立っていて、異なるいろいろなテーマの章に専門歌人たちに混ざって顔を出しているところなど、もうベテランかと錯覚してしまうほどの風格がある。名前が地味(とても失礼)なので見落としてしまいがちだが、じつは斎藤茂吉や葛原妙子並みに登場数が多いのだ。

 錯覚、という言葉を使って思い出したのだが、以下の土屋文明の一首も忘れがたい。

  十といふところに段のある如き錯覚持ちて九十一となる  土屋文明(175ページ)

 年齢というのはとても恣意的なものだ。社会的な意味はあっても、ただ生きるということに関しては、数字としての年齢がなにかを働きかけてくるようなことは一切ない。きっと年齢というのは単に社会的な意味、つまり比較のためにだけ数えられているものなのだ。つい先日は元旦で、わたしはこの2016年のあいだに三十歳になるわけだが、思えば年度が変わるというのも単なる社会の取り決めにすぎないことで、どこかの偉い人が、「やっぱり2016年は一か月後にはじまることにしましょう」などと決定したら、その一か月後の前日には、大晦日の喧騒がもう一度繰り返されるような気さえしてしまう。本来ならば命には関係ない、作り物であることが自明なはずのものが、さも自然の摂理かのように振る舞っているからこそ、年齢や年度というものに大きな違和感を感じてしまうのかもしれない。

  体などくれてやるから君の持つ愛と名の付く全てをよこせ  岡崎裕美子(33ページ)

  唐突に村上姓は素敵だと気づき村上さんに言いに行く  小林真実(101ページ)

  雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁  斉藤斎藤(173ページ)

  砂時計のなかを流れているものはすべてこまかい砂時計である  笹井宏之(194ページ)

  縁石に乗り上げながら心から私は右へ曲がりたし、今  石川美南(201ページ)

 これらは、もう新人というわけでもないけれど、現在進行形で活躍を続けている歌人たちの作品(笹井宏之のみ故人)。どの歌人についても、まだまとまった歌集を読んだことがなくって、とても気になっている。小林真実は『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』の「まみ」のモデルになった歌人で、いまは雪舟えまという名前で活躍している。それから、いまをときめく歌人といえば、今橋愛が無視できなかった。今橋愛といえば、以下の一首がとても有名だ。

  たくさんのおんなのひとがいるなかで
  わたしをみつけてくれてありがとう  今橋愛(79ページ)

 ちょっとインパクトがありすぎる一首で、この歌人が「あえて」これほど率直な短歌を詠んだ、という文脈を無視してしまうと、「こんなの短歌じゃないやい!」という拒否反応さえ招いてしまいそうだ。というか、じつはこの本を手にするまでの自分が完全にそういう拒否反応を抱いていた人間で、短歌の機微というものを感じとることのないままに、このひとは好きになれそうもないな、などと考えてしまっていたのだった。この本のなかで初めてほかの作品を読んでみて、こりゃあやべえ、と思った。すばらしいのだ。

  とりにくのような せっけん使ってる
  わたしのくらしは えいがに ならない  今橋愛(70ページ)

  もちあげたりもどされたりするふとももがみえる
  せんぷうき
  強でまわってる  今橋愛(37ページ)

「男は自らの体をこのように詠わないし、詠ってもニュアンスが変わって、詩的な衝撃は発生し難いことが予想される。そこに痛みの感覚がないからだ。女性の身体感覚のモノ化とは、一方に現代の主体的な生の可能性があり、その一方で依然として男女の性的非対称性があるという、引き裂かれた現状と関わりがあるのではないか」(38~39ページ)

 そもそも、〈たくさんの〉の一首についても、ひらがなの二行書きという時点で、この歌人がその表記に意味を感じているからそうしているのだ、ということに気づいてもよさそうなものだが、短歌のことをよく知らなければ知らないほど、ひらがな書きや二行書きの特異性などにはぜんぜん気づけず、一行書きの「普通の短歌」(おかしな言葉だ)と同じものとして味わってしまいがちだ。今橋愛の「率直」を「安易」と同じような意味で捉えてしまうのは、はっきりと間違いなのだと知らされた。この歌人はものすごく前衛的で、しかもその新しさはまだぜんぜん古びていない。だから誤解を招くし、「安易」というようなそれこそ「安易」な感想を抱かせてもしまうのにちがいない。

  するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら  村木道彦(156ページ)

「作者の代表歌である。自分を捨てた女性の姿を思い描くというどこか屈折したナルシシズム。でありながら、平仮名表記及び「する」「だろ」「たる」「たり」「マロ」「ばり」「がら」というラ行音の連鎖によって作中世界はどこまでも柔らかい。あれほど柔らかい「マシュマロ」がその片仮名表記によって相対的には硬くみえるほどだ」(156ページ)

 ひらがな書きということで思い出したのが、村木道彦。この一首は永田和宏『現代秀歌』のような本でも何度も紹介されていて、すでに親しみのあるものだったのだけれど、穂村弘の解説を読んでみて初めて「おおっ」となった。「マシュマロが相対的に硬くみえる」という説明のことで、ラ行音の連鎖がどうこう、という箇所は、正直ピンとこない。そんなの、専門歌人以外はだれも気にしていないのでは? という気がしてしまう。それはわたしが声に出して短歌を読む類の読者ではなく、もっぱら紙に書かれた文学作品として鑑賞しているから、発音したときの音の流れに鈍感なだけなのかもしれないけれど。気に入った歌はほかにもあった。

  ぼうぼうとけぶれるはるを階段に紅しょうが一片(ひとつ)おちいたるのみ  村木道彦(171ページ)

 べつの歌人ではあるが、ひらがなの歌ということに関しては、以下の一首も忘れがたい。

  ねじをゆるめるすれすれにゆるめるとねじはほとんどねじでなくなる  小林久美子(157ページ)

「現実的には限りなくどうでもいい内容だが、「ねじ」としての役割を果たせなくなることを「ねじでなくなる」と断定したところが面白い。平仮名表記の効果によって言葉の心理的な滞在空間が延びることで、哲学的なニュアンスを帯びているようにもみえる。「ねじ」について詠いつつ、それ以上の真理を語っているような気がしてくるのだ」(157ページ)

 また、カタカナについても、ちょっと思うところがある。じつは最近、自分がカタカナを苦手になっていることに気づいたのだけれど、その理由はたぶん、英語やフランス語といった、日本人であるわたしにとっては外国語である言語を、ちょっと日常的に使いすぎているからなのだ。いや、そんなことをわざわざ書くのは恰好つけたいからではなく、単純に混乱しているのだ。現在のわたしの生活では日本語を口にする機会が月に数回しかなく、いまやわたしにとっての日本語は、いわば中世ヨーロッパにおけるラテン語のような、会話のためではなく読み書きのための言語となりつつあるのだ。つまり、いったいどこまでがカタカナ語として通用するのか、感覚的にわからなくなりつつある。大げさに言えば、ルー大柴が間違っているのかどうかがもうわからないのだ。たとえば「アクチュアルな」なんていう日本語が平気で書かれているのを見ると、強い違和感を覚えるようになった。自分でも昔使ったことがあるような気もするけれど、いまや日本語本来の語彙で言い表さない必要性を感じない。そんな奇妙な状態にあるからこそ、以下の西澤孝子の歌を見て、ものすごい衝撃を受けたのだ。

  やはらかなあなたの舌を吸つてゐるもしかしてディープ・キスなのかしら  西澤孝子(225ページ)

  抱かるるたび開かれてゆく感覚をバージニティーと呼ぶ星月夜  西澤孝子(226ページ)

「あまりにも強すぎる陶酔感。しかし、唐突に挿入された「バージニティー」の外来語が恋愛の人事を超えたぎりぎりのポエジーを生み出している。陶酔の底で摑まれた〈私〉の感覚的な真実が「バージニティー」の辞書的な意味を覆してしまった」(226ページ)

 こういうカタカナは、ありだと思う。カタカナでしか表記できないニュアンス(含意、というのとはちょっと違う)があるからこその、必要だからこその「バージニティー」。これが「処女性」だったら、とてもつまらないし、一首の奥行きがなくなってしまうだろう。意味わかってますか、と思わず尋ねたくなってしまうような、確信犯的なおかしさが肝なのだ。どうでもいいが「ポエジー(poésie)」というのはフランス語で、つい先日英語で話をしている最中に、なんの気なしにこの言葉を発して、相手にぽかんとされた。「詩情」という意味でのポエジーは、英語にすれば「poetry」だが、「poetry」では「詩情」以外の意味(「詩(一般)」)が強すぎて、逆に「poetry」をフランス語に訳したら別の言葉(「poème」)になってしまう。ちなみに古英語には「poesy」という語があるそうだが、それにもやはり詩情という意味はなく、そもそもそんな言葉を知っているひとはたぶん街中にはいない。なんの話をしているのかわからなくなってきた。

 さて、せっかくだから漢字についても引用してしまおう。穂村弘はこんなことを書いているのだ。

「現代短歌のセオリーのひとつに、漢字にするか仮名にするか迷ったら仮名にひらけ、というものがある。漢字使用によって生まれる意味の伝達効率の良さが、韻律を軸とした表現の多義性を求める短歌においてはマイナスに働くことが多いからだ。逆にいうと、一首の中で漢字を多用する場合には相応の理由があることになる」(160ページ)

 そして、その「相応の理由」を持つ短歌として挙げられていたのが、以下の沖ななもの一首。 

  北浦和 南浦和 西浦和 東浦和 武蔵浦和 中浦和と無冠の浦和  沖ななも(163ページ)

「実在の駅名尽くしの歌。どうして「浦和」にはこんなに種類があるのだろう。利用者は逆に混乱するんじゃないか。特に「中浦和」と「浦和」って位置関係が謎。そのうちに北東浦和とか南南西浦和とかできそうな勢いだ。そんな庶民の実感を短歌にしてしまったところが面白い。もっとも偉い(?)筈の元祖「浦和」が「無冠の」と呼ばれているところもポイント」(163ページ)

 沖ななもという歌人は『現代秀歌』を読んだときからとても気になっていて、樹にやたら詳しいひと、という印象くらいしかなかったのだが、これを見て読まねば、と思った。なにせ「無冠の浦和」である。こんな表現を思いつくひとが、おもしろくないわけがない。

  「百万ドルの夜景」というが米ドルか香港ドルかいつのレートか  松木秀(126ページ)

  かなしきはスタートレック 三百年のちにもハゲは解決されず  松木秀(126ページ)

 松木秀に対して感じた印象は今橋愛とは対照的で、じつはこの歌人『短歌の友人』を読んだときにとても興味を持ったのだった。社会学のような批評性が、短歌と親しみのないわたしにも受け容れやすかった。でも、いまではこの歌人の批評精神はちょっと行き過ぎているような気がしていて、彼の表現手段が短歌である必要性を感じなくなりつつある。行き過ぎた批評精神というのは、詩情を殺すものだ。それこそスタンダールが小説のなかに政治を持ちこむな、と言ったとおり、クラシック音楽のコンサートの最中に耳もとで拳銃をぶっ放されたような不快感を抱いてしまう(とはいえ『赤と黒』を読めば、スタンダールが拳銃をぶっ放しまくっているのは明白だ)。だから、こういう冗談めいた口調のものが、個人的にはちょうどいい。冗談が過ぎるのもまた微妙なところなのだが、ちょっと独特な歌人であることは間違いない。

  一度にわれを咲かせるようにくちづけるベンチに厚き本を落として  梅内美華子(32ページ)

  ボールペンの先に小さく黒き玉のこして郵便局を出でたり  梅内美華子(145ページ)

「「ボールペンの先」には確かにそういうものができる。そのことを知ってはいても、普段は特に意識しない。だが、或る日、或る時、或る「郵便局」に、そのような「玉」を残したことが〈私〉の生の証なのだ。宛名を書いたとか手紙を出したとか預金を下ろしたとか、人間界の意味ある記述は意識的に避けられている。出来事が小さければ小さいほど、無意味なら無意味なほど、そこに運命の絶対性の光が宿るからだ」(145ページ)

 梅内美華子も、とても気になった。〈ボールペンの先〉の一首については、穂村弘は「生の証を残した」と表現しているけれど、一首を読んだ感想としては、その行為のなかに罪悪感を抱いているような印象が与えられている。つまり、「黒き玉」が気になっているのだ。郵便局で、次に宛名を書くひとが、一画目に、びちゃ、となってしまうから。結論は穂村弘が書いているとおり、細部に宿る詩情である。これぞ穂村弘が『短歌の友人』で繰り返していた「短歌的リアリティ」だ、と思わずにはいられない。

  座るとき立ち上がるとき歩くとき ありがとう足そして重力  東直子(119ページ)

  永遠に忘れてしまう一日にレモン石鹸泡立てている  東直子(151ページ)

 東直子については、じつはここに書いていないだけで、小説作品も短歌もエッセイも読んだことのある、一時期かなり気に入っていた作家だ。感想を書こうと思っていた「セレクション歌人」シリーズ中の一冊がどういうわけか行方不明になってしまっているので、べつの本でまた短歌作品を読みたいなと思っている。重力のほうの一首については、ほかの歌人の作品も参照しつつ、穂村弘はこう書いていた。

「日常の実感としては自然というか、我々が普通に感じたり考えたりすることだと思う。しかし、それがそのまま素直に作品化されたり、歌集名になったりするところが短歌的と思えるのだ。現代詩や俳句や小説ではみかけない光景だ」(121ページ)

 山田航の歌集『さよならバグ・チルドレン』のなかの一首、〈自販機の取り出し口に真夜中をすべりあらはるつめたき硬貨〉を読んだときにも思ったけれど、短歌にはこういう、散文だったらなんでもないものとして読み飛ばしてしまいそうなことを、定型に当てはめることで、たちまち詩に変化させてしまう魔力があるのだ。たぶん無意識だとは思うけれど、東直子はその魔力を使うのがとてつもなくうまい。

  宥されてわれは生みたし 硝子・貝・時計のやうに響きあふ子ら  水原紫苑(112ページ)

  畳のへりがみな起ち上がり讃美歌を高らかにうたふ窓きよき日よ  水原紫苑(227ページ)

「一読して、異様な高揚感に圧倒される。ここまでに引用したどの歌よりも現実世界の理を覆す度合いが激しい。「畳のへり」が「みな起ち上がり」とは、いかなる状況だろう。壁のようにずずずっと伸び上がったのか。しかも「讃美歌を高らかにうたふ」とは。「畳のへり」は和風に見えてクリスチャンなのか。また、この歌の特徴は、ハイテンションの理由が読み取れないところだ。失恋とか得恋とかキスとか青春とか死とか、そういう背景が全くわからない。強いて云えば狂気だろうか。結句の「窓きよき日よ」には、この世の因果関係を寄せ付けない危うい至福感が充ちている」(227ページ)

 水原紫苑は良い意味で徹底的に狂っていて、門外漢が言うのもちょっと説得力がないが、葛原妙子と同じような振り切った印象を抱いていて、その揺るぎない感じをとても好ましく思っている。

  わからないけれどたのしいならばいいともおもえないだあれあなたは  俵万智(49ページ)

「五七五七七を意識して読むとき、単純にみえた一首の印象が変化する。「けれど」「ならば」「とも」と次々に前言を受け、翻しながら、言葉の意味がドミノ倒しのように先送りになっていることがわかる。この効果を完全なものにするための総平仮名書き+三十一音遵守なのだろう。そして、読者の意識は、先へ先へと引っ張られていった最後に置かれたドミノの一片=「あなた」に行き着く。だからこそ、結句が倒置になっている。「あなたはだあれ」では駄目なのだ」(49~50ページ)

 俵万智についても、まだまだ読み尽くせないものを強く感じている。この歌、初出は『サラダ記念日』なのかもしれないのだが、ぜんぜん印象に残っていないのだ。穂村弘の解説が秀逸で、こんなとんでもない一首に気づかずにいただなんて、と悔しくなってくる。

  旧かながさまになりしは福田恆存まで丸谷でさへもちやらちやらくさく  小池光(92ページ)

「「丸谷」とは「丸谷才一」のことだろうか。ということは、たぶん現存の全ての作家の「旧かな」はさまになっていない、という意味なのだろう。にも拘わらず、この歌自体が旧かなで書かれているところが面白い。「ちやらちやらくさく」のフレーズがそのまま「ちやらちやらくさ」い、という二重性を帯びてくるではないか」(92~93ページ)

 小池光は、もうおもしろすぎて、このひといったいなんなんだ、と、ずっと思っている。しかもどこか、「べつにおもしろいことなんて言ってないよ」というような、すっとぼけぶりさえ感じられるのだ。すっとぼけ、といえば、斎藤茂吉も忘れられない。このひとは、天然ぼけのほうではあるが。

  人間は予感なしに病むことあり癒れば楽しなほらねばこまる  斎藤茂吉(55ページ)

  円柱の下ゆく僧侶まだ若くこれより先いろいろの事があるらむ  斎藤茂吉(55ページ)

  うつくしきをとめの顔がわが顔の十数倍になりて映りぬ  斎藤茂吉(62ページ)

  街上(がいじやう)に轢かれし猫はぼろ切か何かのごとく平たくなりぬ  斎藤茂吉(124ページ)

  目のまへの売犬の小さきものどもよ生長ののちは賢くなれよ  斎藤茂吉(180ページ)

 引用してみてあらためて思ったが、このひと、ほんとうにおかしい。近代を代表する歌人って、このひとでほんとうに合ってるのでしょうか、と、だれかに問いただしたくなってくる。『新・百人一首』の座談会で、永田和宏も「当たり外れの落差が大きすぎる」というようなことを言っていたけれど、これらの歌が「当たり」のほうなのかどうかも自信が持てない。でも、こんなひとが近代代表だなんて、ちょっとすてきだと思う。「なほらねばこまる」だなんて。まとまった歌集を寝そべって読んでみたい。

  バスを降りし人ら夜霧のなかを去る一人一人に切りはなされて  大西民子(128ページ)

  夕刊を取りこみドアの鍵一つかけてしまへば夜の檻のなか  大西民子(128ページ)

  妻を得てユトレヒトに今は住むといふユトレヒトにも雨降るらむか  大西民子(132ページ)

 大西民子の歌も、もっと読んでみたいな、と強く思わせるものばかりだった。この歌人については穂村弘が饒舌を極めているので、以下の文章を見てもらいたい。

「内容だけをみれば、誰もが知っている出来事に過ぎない。だが、そこから生まれた短歌は読者の感情に訴える味わいをもっている。大西民子の歌人としての強みを、誰もが経験する日常をドラマチックに表現する能力の高さ、と云い換えることができそうだ。詠われている内容が誰にも判りやすく、その表現が劇的だから一層共感しやすいわけである」(130~131ページ)

「この手法は殊にかつての私のような短歌を読み慣れていない読者の心を強く揺さぶる。その一方で、読み手が短歌に詳しくなるにつれて、ともすればそのドラマ性が通俗的に感じられてくることがある。どんなジャンルでも通ほど渋好みになる傾向があるが、短歌の場合も例外ではない。石川啄木の判りやすい感傷性よりも斎藤茂吉の謎の天然振りに惹かれる専門歌人は多いのだ」(131ページ)

 三首目に挙げた〈ユトレヒト〉については、「〈私〉の胸中に降る幻の「雨」のオノマトペとも感じられる「ユトレヒト」」という美しい説明も忘れずに挙げておきたい(132ページ)。「斎藤茂吉の謎の天然振り」という言葉にも笑ってしまうが、短歌という芸術がもたらす感動のある部分には、共感という要素が少なからず潜んでいて、歌人が庶民的・通俗的であればあれほど、その共感は一般に獲得されやすいのだ。

「世の中には沢山のモノが存在する。でも、それらが短歌に詠われる頻度には大きな偏りがある。遠足のおにぎりの歌はあるけど、鮨屋で食べる鮨の歌はほとんどない。それなのに、コンビニやスーパーに並んでいる鮨の歌はやけに多い。銀座の鮨屋の感想なんておいしかったか高かったかしか書きようがないのに対して、真夜中のコンビニの売れ残りの鮨とかスーパーのタイムセールの鮨は身近で詩的にも扱いやすいんだろう。そもそも銀座で鮨を食べた歌は共感されにくい。一人称の詩型である短歌は金持ちで恵まれた〈私〉像と極端に相性が悪いのだ」(25ページ)

 でも、そんな共感を突っぱねるというか、もう完全にべつの次元で詩作を行っている歌人が、少なくとも二人いた。塚本邦雄と葛原妙子である。

「生への感謝と存在の肯定が多くの歌に力を与えていることは否定し難い。ただ感謝と肯定の繋がり方が理屈抜きの順接であることも多く、内省を欠いたその直結振りがジャンルへの不信感や生理的な嫌悪感を呼んでいる面があるように見受けられる。歌人の多くは資質的に世界を丸ごと受容する力が強く、塚本邦雄や葛原妙子といった少数の例外を除いて、それに対して異議申し立てをする感覚が稀薄だと思う」(122ページ)

  愛犬ウリセスの不始末を元旦の新聞で始末してしまつた  塚本邦雄(75ページ)

  硝子戸に鍵かけてゐるふとむなし月の夜の硝子に鍵かけること  葛原妙子(103ページ)

 塚本邦雄の愛犬の名が「ウリセス」というのは、驚きである。これはもちろん『オデュッセイア』の知将のことにちがいない。どうしてこんな、何年間も行方不明になってしまいそうな名前を犬に付けるのだろう。そういえばロジェ・グルニエの愛犬の名前も「ユリシーズ」である。塚本邦雄については、短歌作品以外にも、奇妙な散文が引用されていた。電話番号が新しくなったので新しい語呂合わせを考えた、という大変馬鹿げた内容なのだが、こういう馬鹿げたことに大真面目になれるひとというのは、とてもすてきだ。

閑話休題、私の家を含む東大阪市一部の電話は三年ばかり前に局番が變つた。(略)新局番は七四五、これと六二六二を組合せて、舊番號も霞むばかりの名作を捏ち上げねばならぬ。長考十分、すなはちでき上つたのは「梨五つ浪人六人國を出る」である。頃は元祿、さる大名の姫君が天竺渡りの梨の木に始めて生つた實を、日頃寵愛の文武容色いづれ劣らぬ六人の若侍に與へようとしたが、生憎その數五つ。ここに端を發してお家騒動が起る。波瀾萬丈、紆餘曲折の後六人は祿を棄てて出奔する。いとも舊めかしいロマンで恐縮ながら、「國を出る」とは、「浪人六人=六二六二」までダイアルし終ると、お呼び下さつた私が電話口に出る、すなはち「邦雄出る」が懸けてあるのが味噌。ありの實・浪人・亡命から成る三題噺は、各人の好みでいかやうにも創作しつつ電話いただきたいものだ」(塚本邦雄「菜葉煮ろ煮ろ」からの引用、59~60ページ)

 もとの文章の題名にも注目したい。「菜葉煮ろ煮ろ」。つまり「舊番號」というのは「782626」だったのだろう。馬鹿め! と大声で笑いそうになる。「「邦雄出る」が懸けてあるのが味噌」とか、自分で言うなよ。この文章、いったいなんという本に収録されているのだろう。ぜひ読んでみたい。

 塚本邦雄と同時期に前衛短歌の旗手であった岡井隆のある一首についても、すばらしい逸話が紹介されていた。

  あのね、アーサー昔東北で摘んだだろ鬼の脳(なづき)のやうな桑の実  岡井隆(208ページ)

「実は、引用歌の「鬼」はもともと「兎」だった。ところが、私も参加していた或る互選歌会で、作者が書いたその文字が「鬼」と誤読されたのである。しかも好評を得た。その結果、「兎」が「鬼」に化けた歌はそのまま歌集に収録されることになった」(208ページ)

「作者は「偶然の添削」を受け入れたのだ。その態度に、経験や主観や言語感覚よりも自らを覆す不測の事態を信じる詩人の魂を見た思いがした。数年後、「脳と胸書き間違えるおとこいて光らせたい私が神だったら」(北山あさひ)という歌をみたとき、私は反射的に岡井隆のことを連想した。あのとき、「『兎』と書いたつもりなんですが……」と呟きながら、どこか嬉しそうだった。そんな彼は間違いこそが新たな世界を生み出す契機であることを知る潜在的なアクシデント希求者なのだろう」(208~209ページ)

 詩人の魂を見た思いがした、という一文に、書き足せる言葉など持ち合わせていない。

 また、本書ではほむほむ本人の歌もところどころで引用されていた。このひと、ほんとうに変な歌が多い。解説もどこかずれていて、『世界中が夕焼け』のように山田航に解説しなおしてもらいたくなる。

  エレベーターガール専用エレベーターガール専用エレベーターガール  穂村弘(166ページ)

「繰り返しによって世界がどんどん煮詰められてゆく。「エレベーターガール」専用の「エレベーター」で一人働く「エレベーターガール」専用の「エレベーター」で一人働く「エレベーターガール」、つまり、男の中の男的な意味でのエレベーターガールの中のエレベーターガールが表現されている。そんな彼女は途轍もなくエレガントで、手袋は完璧な真珠色なのだろう」(167ページ)

 気に入った歌は、ほかにもたくさんある。『短歌ください』などに寄稿していた一般読者の歌もいくつも引かれていたのだが、言われなければ専門歌人の作でないとは気づけない。

  賞味期限切れは任せろ俺達は何でも食って生きて来たんだ  新垣一雄(17ページ)

  試食用のさくらんぼ食む老人を嫁らしき人連れて帰りぬ  米沢義堂(23ページ)

  ポストまであゆみきたりて見直せば手紙の宛名いかにも恋し  筏井嘉一(80ページ)

  「やさしい鮫」と「こわい鮫」とに区別して子の言うやさしい鮫とはイルカ  松村正直(86ページ)

  さりげなくさしだされているレストランのグラスが変に美しい朝  早坂類(97ページ)

  ディズニーランドで糞する奴は間違いなく気違いなのさとみんなそう言う  北宮隆行(117ページ)

  「扉のむかうに人がゐるかもしれません」深夜のビルの貼紙を読む  清水良郎(137ページ)

  真夜中の乾燥剤の袋には「食べられません」の文字がいつぱい  清水良郎(138ページ)

  はつ雪の朝ランドセルの子供らの手に手に手に手に手に雪の玉  梨澤亜弓(165ページ)

  祖父なんばん 祖母トンガラシ 父七味 母鷹の爪 兄辛いやつ  踝踵(167ページ)

  六面のうち三面を吾にみせバスは過ぎたり粉雪のなか  光森裕樹(176ページ)

  『潮騒』のページナンバーいずれかが我の死の年あらわしており  大滝和子(177ページ)

  あかねさす昼の光に恥思へや蝙蝠よなんぢの顔はみにくし  前川佐美雄(180ページ)

  三越のライオンに手を触れるひとりふたりさんにん、何の力だ  荻原裕幸(202ページ)

  鳩サブレは絶対くちびるから食べる。くちびるじゃなくってくちばしか  佐藤友美(205ページ)

  『十二少年漂流記』という本をみつけられない客と店員  船山登(205ページ)

  誤植あり。中野駅徒歩十二年。それでいいかもしれないけれど  大松達知(209ページ)

  「発音より声が変だよ」“Hello, Hello,”「声はふつうに出せばいいんだよ」  小島ゆかり(212ページ)

  ましろなる封筒に向ひ君が名を書かむとしスタンドの位置かへて書く  馬場あき子(221ページ)

  君にちかふ阿蘇のけむりの絶ゆるとも万葉集の歌ほろぶとも  吉井勇(229ページ)

  おつとせい氷に眠るさいはひを我も今知るおもしろきかな  山川登美子(231ページ)

  この夫人をくびり殺して
  捕はれてみたし
  と思ふ応接間かな  夢野久作(235ページ)

 穂村弘の評論を読むと、いつもきまって、「ああ、これで穂村弘の評論が読みたくなったときに読む本が一冊減ってしまった」、という、どこか矛盾しているような変な感覚に襲われる。穂村弘の評論ばかり読んでいると、短歌という芸術に対する見方が、ほむほむ流のものに固定化されてしまうような危機感を常々抱いているのだが、この読みやすさ、楽しさはどこまでも抗いがたい。いつものことながら、読んでみたい歌人がちょっと収拾がつかないほどたくさん増えた。

ぼくの短歌ノート

ぼくの短歌ノート

 


〈歌集以外に読みたくなった本〉
三枝昂之『昭和短歌の精神史』

昭和短歌の精神史 (角川ソフィア文庫)

昭和短歌の精神史 (角川ソフィア文庫)