Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

Salad Anniversary

 先日、アルジェリア人の友人と「ほんとうに翻訳不可能な文学とはなにか」という話題で盛り上がったのだが、彼がジョルジュ・ペレック『煙滅』、およびその対を成す『Les Revenentes』の名をあげるのを聞いていたら、ほんとうのところは「翻訳可能な文学」のほうが数少ないのでは、と思い至った。逐語的な厳密な意味での翻訳(というか置き換え)というのは、もちろんほとんどどんな言語間であっても文法構造上不可能なわけだが(日本語でも岩波文庫プラトン『饗宴』のような例はあるにせよ)、そこまでいかなくても、詩の翻訳というのはいつの時代にも最も難しいものだ。なかでも定型詩ほど難しいものはない。昨日書いたばかりの『マチネ・ポエティク詩集』を見ても顕著なとおり、そもそもの定型そのものの翻訳が大きな課題となるからだ。すると、短歌がどのように外国語に訳されているのかが気になった。気になったときにすぐに購入できる位置にあったのが、この本というのは、納得はできるけれどなんだかおかしい。

Salad Anniversary (Pushkin Collection)

Salad Anniversary (Pushkin Collection)

 

Machi Tawara, Juliet Winters Carpenter (Trans.), Salad Anniversary, Pushkin Press, 2014.


 日本人の場合、とくに興味が無い人でも、短歌と俳句というのは日本文学が誇る詩の定型としてセットになっているにちがいないが、外国では短歌よりも俳句のほうが圧倒的に有名である。「haiku」の人気ぶりに比べると、短歌などはいまだに大文字で「Tanka」とされることが多いようで、とてもじゃないが人口に膾炙しているとは言いがたい。文学好き、なかでも日本文学好き、そのなかでも古い詩まで読む日本文学好きでなければ聞いたこともない、というのが現状で、「Waka」にいたってはほとんど目にしない。やや無茶な例えではあるが、日本人が「ソネット」という言葉は知っていても、たとえば「オード」や「アレクサンドラン」という言葉は知らない、というようなものだろうか。そもそもの和歌→連歌→俳諧→俳句という歴史的な流れが、あまり知られていないように思えるのだが、おそらくその理由は俳句の、なかでも「切れ」の外国語における受容にある。

  古池や蛙飛びこむ水の音  芭蕉

  old pond . . .
  a frog leaps in
  water's sound

  Un vieil étang et
  Une grenouille qui plonge,
  Le bruit de l'eau.

البركة القديمة
تقفز فيها ضفدعة
صوت الماء

 上から、日本語原文、英訳、仏訳、アラビア語訳。ご覧のとおり、申し合わせたかのように三行詩として訳されているのだ。これは俳句の「切れ」を翻訳するにあたって考えられたものなのだろうし、わたしは俳句のことなど控え目に言ってもなにひとつ知らないので、これが選択として有効かどうかという判断はできないのだが、ここで問題にしたいのは、そもそもの三行詩の発想が「俳句=五七五」からきているということだ。しかも、いまでは三行詩としての「haiku」は、英語やフランス語でも創作者を持つまでに普及している。和歌・短歌・俳諧・俳句すべてにおいて、外国での本格的な受容はおそらく20世紀以降のこと、大きな時間差はなかっただろうと予想されるが、なかでも三行詩としての「haiku」が突出して有名になっているのだ。

 さて、その前提に立ってみると、短歌を訳そうとするときには、自然と、「短歌=五七五七七=五行詩」という発想が持たれることになる。われわれ日本人の歴史感覚が一般には共有されていないことも忘れてはならない。彼らにとっては短歌よりも俳句のほうが先に意識されていた可能性が高いのだ。五行詩というと、英語にはソネット並に横長のリメリックという押韻定型詩があるが、俳句のような「短さ」はぜんぜん伴ってこない。五行というのは、短歌を収める器としてはすこし大きすぎるように思えるのだ。

  ねがはくは花のしたにて春死なむそのきさらぎの望月のころ  西行

  puisse le ciel
  me faire mourir au printemps
  sous les fleurs des cerisiers
  au deuxième mois
  quand la lune est pleine

  天よどうか
  春に死なせておくれ
  あの桜の花のしたで
  二つめの月
  満月のころに
  (私訳)

  世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし  在原業平

  If cherry blossoms
  One day ceased to exist
  In this world of ours,
  Perhaps our hearts in spring
  May know some tranquility.

  もし桜が
  われわれのこの世界から
  ある日なくなったなら
  春のわたしたちの心はきっと
  ある平安を見出すことだろう
  (私訳、第二行と第三行は原文では逆)

 和歌を二首、それぞれフランス語と英語で引用し、直訳してみたが、どうだろうか。そんなに悪くない気がしなくもない。だが、直訳してみたときの五行の長さはどういうことだろう。改行せずに並べてみると一目瞭然である。

  世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

  もし桜がわれわれのこの世界からある日なくなったなら春のわたしたちの心はきっとある平安を見出すことだろう

 な、なげえよ! と言いたくなる。だが、もっと大きな問題がある。これは和歌の例なのですんなりいったかもしれないが、現代短歌には句割れ・句またがりがあるのだ。塚本邦雄以降、積極的に用いられたこの手法は、短歌を五行に切り刻むことを徹底的に不可能にしているように思える。

  日本脱出したし 皇帝ペンギン皇帝ペンギン飼育係りも  塚本邦雄

 たとえばこれは、きれいな五行にはぜったいに訳せない類の短歌であると思う。というか、五行詩としての短歌にこだわるかぎり、現代短歌の美しさ・楽しさが外国に輸出される可能性は、とても低くなってしまうのではないか、と思わずにはいられない。そのぶん、今回翻訳されている現代短歌が、俵万智だというのは象徴的だ。以前日本語の原書である『サラダ記念日』をとりあげたときにも書いたとおり、俵万智は驚くほど定型を遵守する歌人なのだ。

 さて、前置きが異常に長くなったが、『サラダ記念日』の英訳である。この本は記念碑的ベストセラーだし、基本的には平易な口語短歌なので、他の歌人の歌集よりも訳される可能性が圧倒的に高いことは想像に難くない。そしてページを開いてみたところ、驚くべきことにこのJuliet Winters Carpenterという翻訳者は、彼女の短歌を通例の五行ではなく、三行あるいは四行に訳していたのだ。

  今日までに私がついた嘘なんてどうでもいいよというような海

  "All the lies you ever told
  don't really mean a thing."
  the ocean seems to say (p.54)

  いつもより一分早く駅に着く 一分君のこと考える

  Arriving at the station one minute early,
  I spend one minute
  thinking of you (p.67)

  親は子を育ててきたと言うけれど勝手に赤い畑のトマト

  Parents claim to raise their children,
  but garden tomatoes turn red
  unbidden (p.77)

  「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

  "This tastes great," you said and so
  the sixth of July —
  our salad anniversary (p.96)

 いかがだろうか。リズムを度外視すれば、これらは原文の意味が持つ輝きをけっして失っていない、良い翻訳だと思う。ただ、原文でリズムがすべてであったような歌は、やはり難しかったようだ。

  「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ

  Warm — knowing
  when I say "I'm cold,"
  you're there to say "Me too" (p.16)

 俵万智の代表作として『新・百人一首』でも取り上げられていたこの歌は、英語では残念ながらぜんぜん響いてこない。原文でリフレインだった二度目の「寒いね」を「Me too」と訳していることからも、きっと訳者はぜんぜんべつの印象を目指したのだろう。これはあまり成功しているとは思えない例ではあるが、反対に、英訳されて輝きを増したように思える歌もある。

  沈黙ののちの言葉を選びおる君のためらいを楽しんでおり

  Enjoying your hesitation,
  I watch you hunt for words
  to break the silence (p.11)

  あいみてののちの心の夕まぐれ君だけがいる風景である

  After you have gone
  evening gathers in my heart —
  all the scenery is you (p.13)

  やみくもに我を愛する人もいて似ても似つかぬ我を愛する

  There is one who loves me
  randomly — a "me"
  that isn't me at all (p.46)

 これらの英訳は、日本語原文からは想像もつかないような具体性を獲得していて、ぜんぜん印象の異なる、新たな詩作品となっている。印象が異なるといえば、以下の有名な二首もずいぶん雰囲気が変わっている。

  愛人でいいのとうたう歌手がいて言ってくれるじゃないのと思う

  It's enough to be your lover
  sings someone in a song,
  making it sound so easy (p.21)

  「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの

  "Marry me,"
  after two canned cocktails —
  are you sure you want to say that? (p.27)

 批判はあるかもしれないが、これはこれでいい、と思う。とくに、「嫁さんになれよ」を「結婚してくれ(Marry me)」と訳しているのには驚く。そりゃあまあそういう意味なわけだけれども、なかなか勇敢な選択だ。下の句の「言ってしまっていいの」が「are you sure you want to say that?」という、英語として大変こなれた一行になっているのも、とても楽しい。オノマトペも愉快に翻訳されている。

  白菜が赤帯しめて店先にうっふんうっふん肩を並べる

  Chinese cabbages with red sashes
  side by side at the shopfront
  preening and tittering (p.97)

  自転車のカゴからわんとはみ出してなにか嬉しいセロリの葉っぱ

  Sticking out of my bike basket
  somehow they delight me —
  celery leaves! (p.125)

 みんな大好き、白菜とセロリの例である。白菜の「preen」は「得意気に(なる)」、「titter」は「忍び笑い」の意味で、ふたつあわせて「うっふんうっふん」だと言うのだ。そんな馬鹿な、という気もするが、セロリのほうはもっとおかしい。「わん」は一見、どこにも訳されていないのだ。ただ、末尾の感嘆符を除いては。先日『ちびまる子ちゃんの短歌教室』について書いた際に、日本語での詠嘆について長々と書いたが、英語での感嘆符の用法には驚いてしまう。短絡的すぎるだろ、と思わないわけではないが、「わん」が「!」である、というのは、ある種の発見にちがいないだろう。

  食べたいでも痩せたいというコピーあり 愛されたいでも愛したくない

  "I want to eat, and not gain weight!"
  So goes the commercial.
  I want to be loved —
    and not to have to love (p.51)

  「人生はドラマチックなほうがいい」ドラマチックな脇役となる

  "Life should be dramatic!" you declare —
  for me a dramatic
  supporting role (p.64)

  「おやっ!?」という言葉流行りて教室の会話大方オヤッオヤッで済む

  "Oh yeah!?" the new catch phrase —
  in the classroom, student conversations
  get by on just "Oh yeah?" "Oh yeah!" (p.76)

 三首目を除いて、原文では感嘆符がないのに、翻訳に感嘆符が登場してくるもの。一首目はコピーの文中なのでいっそ無視してもかまわないが、二首目は発言で、日本語での男が遠く海を見つめているような感慨深さは綺麗に消え失せ、逆に、まるで思ってもないことを言っているかのような滑稽な響きを帯びている。感嘆符ひとつでここまで変わるとは、驚きである。三首目はちょっとおもしろすぎたのであげてみた。

「The same poem illustrates another feature of her work — the tendency for meaning to straddle, not coincide exactly with, the 5-7-5-7-7 syllabic groupings.」(p.138)
「一首は彼女のべつの特色も示してくれている。つまり、意味が句をまたいでいて、五七五七七の音節群に必ずしも合致しない、という傾向である」

「Tanka are often described as "five-line" poems, but this is misleading in several respects — not least being the fact that they are almost always written in a single line in Japanese. All of the poems in Salad Anniversary appear in the original as a single vertical line, three to a page; however, several are interrupted with a space to mark a major break in the poem — a break which may appear at any point. In her second tanka collection, Toritate no tanka desu ("Fresh-picked tanka"), Tawara has experimented with writing tanka in two and three lines of various lengths (although she claims that "in her heart" she still thinks of tanka as a single line). In my translations I have generally adhered to a three-line format, and have aimed at brevity without attempting to duplicate syllable counts.」(p.139)
「短歌は頻繁に《五行詩》として説明されてきたが、これはいくつかの点で誤解を招くように思える。なにせ日本語では、短歌というのはほとんど常に一行で書かれてきたのだから。『サラダ記念日』に収められたすべての短歌は、原文では一行、一ページあたり三首ずつが並べられている。また、いくつかの歌では詩句の切れを示すために空白(スペース)が用いられており、この空白は詩のどんな位置にも登場してくる。第二歌集『とれたての短歌です』のなかでは、俵万智が長さも異なる二、三行に分けての作歌を試みていることも言及しておきたい(それでも胸の内では、彼女にとっての短歌は常に一行のものであるとも告白している)。今回の拙訳では三行形にほぼ忠実に従い、音節数の再現には固執せず、簡潔を目指した。」

 じつに淋しいことに、訳者はなぜ五行詩という選択を採らずに三行を採用したのか、その理由については、一言も触れていない。上にあげた箇所が、「訳者あとがき」のなかで短歌の形式について語っている部分のすべてであり、一般的関心を満たすにとどまっている。どうしてその選択をしたのか、という肝心の部分が聞けずじまいで、肩すかし感は否めない。

 でも、ご覧のとおり、翻訳は悪くない。これまで見落としてしまっていたいくつかの歌も、この翻訳に触れたことで特別な輝きを帯びたように思える。短歌翻訳の可能性に興味のあるひとには、ぜひ手にとってみてもらいたい。

Salad Anniversary (Pushkin Collection)

Salad Anniversary (Pushkin Collection)