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Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

ちびまる子ちゃんの短歌教室

 こいつ、ついに気でも狂ったか、と思われる向きもあるかもしれないが、大丈夫、たぶんまだ正常です。先日から何度も、「知らないということには慎み深くありたい」という永田和宏の言葉を繰り返しているわけだが、わたしの無知が、まるちゃんさえ動員した、というだけのことである。気でも狂ったか、と思った方全員に言いたい。馬鹿言え、これ、めっちゃいい本だぞ、と。集英社から刊行されている学習参考書、「満点ゲットシリーズ」の一冊。

小島ゆかりちびまる子ちゃんの短歌教室』集英社、2007年。


 なにがおもしろいって、この本が含められているシリーズ名が「満点ゲット」である以上に笑えることなどない。短歌に詳しくなることで満点を取れる教科など存在しないし、そもそも短歌を含むあらゆる詩、いや、文学というのは、そういった数字で表すことがどこまでも不向きな芸術、教科にさえなりえないものである。しかも、著者をよく見てほしい。なんと、小島ゆかりである。小島ゆかりといえば、『現代秀歌』に以下の一首が紹介されていたことが記憶に新しい。

  団栗はまあるい実だよ樫の実は帽子があるよ大事なことだよ  小島ゆかり

 この歌人が「満点ゲット」だなんて! ありえない。言うわけない。シリーズ名にあくまでこだわるとしたら、もういちばんありえない選択かもしれない。学習参考書を子どもに買い与える教育ママ・パパには申し訳ないが、この本を与えたところで、学校でのあなたの子どもの点数が伸びることは決してない、と断言できるだろう。だが同時に、親御さんも子どもも、きっと気づくはずである。世の中には点数などではけっして判断できない美しいものがある、ということを。そしてそれは、「団栗はまあるい実だよ樫の実は帽子があるよ」と歌人が言うのと同じ意味で、「大事なこと」なのだ、ということを。

 というわけで、小島ゆかりの本書である。古典和歌から現代短歌にいたるまでの百首が紹介され、それぞれに「意味」や鑑賞の「ポイント」、それからさくらももこによる四コマ漫画が各ページに詰めこまれており、たいへん情報量の多い豪華な本である。百首を分けて数えてみたところ、47首が古典和歌、2首が近世の和歌(豊臣秀吉と橘曙覧)、24首が近代、27首が現代と、古典和歌に割かれている比重が意外なほど大きい。しかも、47首ある古典和歌のうち、わたしの記憶違いでなければ、どれひとつとして百人一首には採られていない、という点にも注目したい。持統天皇山部赤人のもの(〈春過ぎて〉と〈田子の浦〉)はあるが、それさえも定家が改変する前の『万葉集』バージョンである。つまり、一般に人口に膾炙しているのとはまた異なるラインナップで、古典和歌への関心をもかき立ててくれる選歌となっているのだ。さすがの一言に尽きる。ちなみに、『万葉集』からの選はとくに多くて21首。『古今和歌集』が11首、『新古今和歌集』だと7首である。ほかの8首は、『拾遺和歌集』や『玉葉和歌集』など。

  石(いわ)走る垂水(たるみ)の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも  志貴皇子(20ページ)

「「さわらび」の「さ」は、歌のリズムを整えるためにつけられたものですが、ここでは、芽を出したばかりのやわらかいわらびの感じがよく出ていますね。「わらび」「さわらび」と、口に出して言ってみてください。「さわらび」のやさしい言葉の感じがよくわかるでしょう」(21ページ)

「最期の「かも」は、「~だなあ」という感動の心です。古典の作品によく出てくる「かも」は、もう一つ「~かなあ(~だろうか)」という軽い疑問を含んだ感動の心もあります。この「かも」については、「カモかなあ、カモだなあ」と覚えると、たいへん覚えやすいですね」(21ページ)

 はい、先生! と思わず声が出る。「カモかなあ、カモだなあ」だなんて! 覚えやすいどころではない。こういった文法知識もさりげなく与えてくれるので、読んでいて難しいところなどひとつもない。また、「歌のこらむ」と題された小特集ページで、さまざまな予備知識も伝授してくれていて、理解を助けてくれる。たとえば以下は「枕詞」についての説明。

「ある言葉の前に置いて、その言葉だけのときよりもすてきなリズムと雰囲気を作ります。五音または四音からなり、ふつうは現代語には訳しません」(24ページ)

「枕詞は、たとえば呪文みたいな不思議な言葉と考えてもいいし、またたとえば、人で言えば帽子やスカーフのような、なくてもいいけどあったらすてきな、歌のおしゃれだと考えてもいいですね」(24ページ)

 枕詞って、「すてきな」「おしゃれ」だったのか……! と目から鱗が落ちるところである。この軽妙な語り口がたまらない。ちなみに「枕詞」といっしょに説明されることの多い「序詞」については、かなり進んだページに、以下の一首とともに説明がある。

  ほととぎす鳴くやさ月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな  よみ人しらず(130ページ)

「序詞は枕詞と同じ働きをしますが、五音までが枕詞、六音以上になると序詞と言います。
 たとえばこのあやめ草の歌では「ほととぎす鳴くやさ月のあやめ草」までが「あやめも知らぬ」をみちびき出す序詞の働きをしています。昔の人は本当に、言葉を楽しく大切に使っています」(131ページ)

 ずっとこんな調子なのである。文法事項は掲載歌に合わせた内容なのでけっして網羅的なものではないが、右も左もわからない自分には、このくらいのほうがむしろちょうどいい。もちろん大切なのは品詞分解(この言葉、使うのは高校生以来だ)などではなく意味、さらには意味さえ通り越して、語感のほうなのだから。ちなみに上にもすこしだけ書いた持統天皇山部赤人の歌については、こんな言葉がある。

  春過ぎて夏来たるらし白たへの衣干したり天の香具山  持統天皇(26ページ)

「夏のおとずれを晴れやかに詠んだ歌。青空のもと、夏の緑の山のふもとに、ぱあっと真っ白な布の衣が干してあるさわやかさは、現代のわたしたちにもよくわかりますよね。洗剤のCMに使っちゃいたい一首」(26ページ)

「古代の人は夏があまり好きではなかったらしく、春と秋の歌はたくさんありますが、夏の歌はごくわずかしかありません。梅雨のころのじめじめした気候や、夏の暑さをきらったためでしょう」(27ページ)

  田子の浦ゆうち出でて見ればま白にそ富士の高嶺に雪は降りける  山部赤人(32ページ)

「「田子の浦」は、今の静岡県富士市の海岸のあたり。「ゆ」は「~から(~より)」の意味の古い言葉。「うち出でて」は、視界のせまいところから急に広いところへ出てみると、という意味です。
 「ま白にそ」の「そ」は、気持ちを強く出したいときに「そ(ぞ)~ける」の形でよく使われます。みなさんが「白」を「真あっ白!」なんて言うのと同じだよ。ビデオを見るような、迫力ある動きと映像に注目してください」(32ページ)

 持統天皇の一首をあげて「洗剤のCMに使っちゃいたい一首」というのは、驚きである。そもそも夏の歌が少ない、というのも、藤原定家がこの歌を百人一首にとった遠い理由となっているように思える。ところで持統天皇といえば、珍しい女性の天皇ということで、どんなひとだったのだろうとわたしなどはいろいろと想像を膨らませてしまうわけだが、この歌のように清廉潔白なひとだった、というわけでもないようだ。

  百伝ふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ  大津皇子(112ページ)

  うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟(いろせ)と我が見む  大伯皇女(113ページ)

 これらは『万葉集』に名が見られるひとびとの歌であるが、大津皇子(おおつのみこ)はほかならぬ持統天皇に陥れられ、謀反の罪を着せられ処刑されたひとだというのである。それも、次期天皇の有力候補だったという、歴史書では不足しない理由によって。一首はまさに処刑されようというときに詠まれたものと想像されている。つぎの大伯皇女(おおくのひめみこ)は、大津皇子の姉。歌の内容からも察せられるとおり、この一首が詠まれたときには、すでに弟は亡き者となっている。

  家にあれば笥(け)に盛る飯(いい)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る  有間皇子(110ページ)

 政争に巻き込まれた結果としての一首ということでは、この有間皇子(ありまのみこ)の歌も忘れられない。この場合の政敵は持統天皇ではなく蘇我赤兄(そがのあかえ)だが、有間皇子がここで体験しているのはただの「旅」ではなく、やはり処刑される前の護送であったという。わたしは世界史狂いで、大学でも歴史を専攻していたわけだが、日本史の知識は恥ずかしいほどにぜんぜんなく、こんな歴史の闇の部分を、歌とともに教えてくれる先生がいたら、もっと興味を持ったのになあ、と思わずにはいられない。なにせ、8世紀ごろに編まれたとされる『万葉集』には、5世紀に詠まれたとされる歌さえ載っているのである。日本史として語られるほとんどの場面に、歌があった、というのは興味深い。歌で読む日本史、みたいな本があってもよさそうなものだ。

 時の流れは歌に登場する語彙や語感にも大きな影響を与えていて、そういった知識を得ると、一首と向き合うのがさらに楽しくなる。たとえば、「にほふ」という言葉。

  春の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つをとめ  大伴家持(25ページ)

「「紅にほふ」の「にほふ」は、照りかがやく様子を言う言葉。現代の匂い(香り)の意味とはちがうので、注意してね。現代でもたとえば、「におうような美人」なんていうほめ言葉がありますが、それは、「かがやくような美人」という意味です。「匂いがするような美人」では、なんだか臭いみたいで変でしょ」(25ページ)

  さつきまつ花たちばなの香をかげば昔の人の袖の香ぞする  よみ人しらず(39ページ)

「キーワードは「香り」。『万葉集』の歌には出てこなかったでしょ。花や人の香りを歌に詠むのは、『古今和歌集』以後の流行なのです」(39ページ)

 現代のわれわれの感覚でいう「匂い」というのは『万葉集』には登場してこない。それが現れるのは『古今和歌集』以降であるという。『古今和歌集』からおよそ百年後に書かれたとされる『源氏物語』、なかでも「宇治十帖」では、「薫」だの「匂宮」だの、やけに嗅覚を喚起させる個人名が多いが、言葉のそもそものニュアンスに「かがやくような」という意味があったと知ると、この男たちを見る目も変わってくるだろう。好奇心をぐんぐんそそられるこういった記述には不足しない。

  東(ひんがし)の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ  柿本人麻呂(30ページ)

「ずっと昔、東のことを「ひむかし」と言っていました。漢字で書くと「日向し」、つまり日の出に向かう方角の意味です。それがしだいに、ヒムカシ→ヒムガシ→ヒンガシ→ヒガシ、と音が変化して現在の「東」になったんだって」(30ページ)

  見わたせば柳さくらをこきまぜて都ぞ春の錦なりける  素性法師(36ページ)

「ポイントは「春の錦」。昔から秋の紅葉を「秋の錦」と言いました。この歌の作者は、それならこっちは「春の錦」だ、と詠んだのです。「錦」は模様の美しい織物のこと。きっと自分の発見に大満足したにちがいありません。「どうだぁ」という得意顔が見えてくるようなリズム。楽しく味わおう」(36ページ)

  旅人の宿りせむ野に霜降らば我が子羽ぐくめ天の鶴群(たずむら)  遣唐使の母(118ページ)

「「羽ぐくむ」という言葉、いかにも大きな羽でぐぐっと包む感じがしますね。育てるという意味の「育む」のもとは、実は「羽ぐくむ」なのです」(119ページ)

  月をこそながめなれしか星の夜の深きあはれを今宵知りぬる  建礼門院右京大夫(148ページ)

「近代に入るまで、日本人にとっての夜空の美の代表は、だんぜん月でした。古典の歌にも月はたくさん登場しますが、星はまれにしか詠まれていません。これは不思議なことですね。ですから、右京大夫の一首は本当に新しい感覚の歌だったのです」(149ページ)

 文法的なことに関連して言うと、とくにおもしろかったのが「体言止め」についての記述。以下の式子内親王の一首とともに、『新古今和歌集』的な技法として解説されている。

  山ふかみ春ともしらぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水  式子内親王(44ページ)

「歌の最後を体言(名詞)で止めて、言葉のひびきや雰囲気をあとに残す方法です。わかりやすく言えば、「!」や「…」の感じがあとに残る作り方。『新古今和歌集』の代表的な技法の一つだよ。
 ためしに、体言止めを使わないと、この歌はどうなる?

  山ふかみ春ともしらぬ松の戸に雪の玉水たえだえかかる

 同じ意味なのに、なんだかさえないリズムだと思いませんか。みなさんが使っている言葉も同じです。「夏休みは楽しい」と言うより、「楽しい夏休み」と言ったほうがずっと楽しそうで、「!」の感じがあとに残るでしょ。これが、体言止めマジック!」(44~45ページ)

 日本語に感嘆符「!」や疑問符「?」が持ち込まれたのは、いったいいつごろのことなのだろう。フランス語では遅くとも15世紀から使われているとのことだが、日本語においてはきっと20世紀に入ってからとか、そんなに古い話ではないにちがいない。日本語の詠嘆の表現に合致するものが外国語にぜんぜん見当たらないのはよく知られているが、体言止めや上述の終助詞「かも(カモかなあ、カモだなあ)」など、数々の表現が使われていたことを忘れないようにしたいと思う。安易に使ってしまう前に、このびっくりマーク、ほんとうに必要なのかな、と。江國香織『とるにたらないものもの』に書いていた、以下の一節を思い出した。

「思いだすことがある。アメリカに留学していたころのことだ。「I ATE A CAKE」や「I HAVE EATEN A CAKE」に後悔や詠歎をつけ加えるにはどうしたらいいのか、と、ある日私は教師に尋ねた。英語にだって、詠歎を示す言葉があるはずだ、と、思ったのだ。その白人中年男性教師はしばらく考え、説明が要る、と、言った。「ダイエット中であるにもかかわらず」とか、「友人にとっておいた分なのに」とか、説明をつければ後悔の気持ちが伝わる、と。
 「違う!」
 普段に似ず、私は語気強く主張した。
 「説明しないことが大切なんです。訴えではなく詠歎なんだから」
 理解してもらうのに時間がかかったが、やがて教師は自信たっぷりにうなずいた。
 「わかった。必要なのは表情と抑揚だ。首をふりながら、ため息まじりに、悲劇的な面持ちで、A CAKE! を強調して言えばいい」
 そして、彼は手本をみせてくれた。私はあっけにとられてそれを眺めて、
 「私には、とてもそんな真似はできない」
 と、つぶやくよりなかった」(「「けり」という言葉」より、103~104ページ)

 いま気づいたが、英語やフランス語で話しているときにも、わたしはじつに「I wonder...」や「Je me demande...」と言う回数が多い。しかも、言うたびに違和感を覚えているのだ。ちがう、おれが言いたいのはそういうことじゃないんだ、と。詠嘆の表現については、もっと調べ、考えてみたいと思う。

  昔おもふ草のいほりの夜の雨になみだなそへそ山郭公(やまほととぎす)  藤原俊成(50ページ)

「「なみだなそへそ」のところ、ちょっとむずかしいね。「な~そ」で、「~するな(~しないでおくれ)」という禁止の意味になります。「なぁ、それやめて」と覚えましょう」(50ページ)

  唐衣着つつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ  在原業平(134ページ)

「「かきつばた」という五文字を各句の始まりにおいて旅の心を詠んだ、有名な折句の歌」(134ページ)

 古典和歌については、ほかにも大伴家持の「春愁三首」など、忘れたくない歌がたくさんあった。

  うらうらと照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思えば  大伴家持(122ページ)

  春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影にうぐひす鳴くも  大伴家持(122ページ)

  我がやどのいささ群竹(むらたけ)吹く風の音のかそけきこの夕(ゆうべ)かも  大伴家持(123ページ)

 また、『万葉集』にある「東歌」や「防人歌」についても、もっと知りたい。『図書館』を書いたアルベルト・マングェルの名言、「理想的な読者というのは、すべての文学作品を匿名作家のものとして読む」を、忘れないようにしたいと常々心がけてはいるのだが、わたしにはどうも権威主義的というか、作者と作品を結びつけすぎてしまう悪い癖があるのだ。『短歌ください』を読んでいたときから思っていたことだけれど、短歌という詩の完結ぶり・匿名性は、こういう態度に変革を迫ってくるところがある。もっと純粋に、もっと頭のなかを空にして、目の前の言葉を楽しめ、と。

  父母が頭(かしら)かき撫で幸(さ)くあれて言ひし言葉(けとば)ぜ忘れかねつる  防人歌(128ページ)

 それから、以下の西行の有名な一首に、びっくりするような解説が書かれていた。なるほど、文学の題材になるわけだ、と思う。

  ねがはくは花のしたにて春死なむそのきさらぎの望月のころ  西行(144ページ)

「西行は、その願いどおりに、陰暦二月十六日に世を去りました。歌を詠んだのが五十代ごろ、亡くなったのは七十三歳と言われています。
 同じ時代に生きた藤原俊成や定家も、西行のこの日の死を感動をもって記しています。
 本当にこんなことって、あるんですね。奇跡の人、西行」(145ページ)

 西行の歌は以前、尊敬している人が愛を公言していたのをはっきりと記憶していて、いつかゆっくり『山家集』を読みたいな、と、以来ずっと思っている。以下の一首は、そのときに教えてもらった歌。桜を読んだ名歌は数あれど、これはちょっと忘れられない。

  風さそふ花のゆくへは知らねども惜しむ心は身にとまりけり  西行

 いつか辻邦生の『西行花伝』も読んでみたいな、と思っている。

 さて、ここからは近代の歌である。永田和宏の『近代秀歌』を読めていないので(すでに筆写はしたけど)、わたしにはまだ『新・百人一首』で得た知識しかない。でも、上にも書いたけれど、短歌の匿名性、一首を楽しむということは、ほんとうに予備知識を必要としない、とあらためて思う。

  馬追虫(うまおい)の鬚のそよろに来る秋はまなこを閉ぢて想ひ見るべし  長塚節(74ページ)

「「馬追虫の鬚の」までは「そよろに」をみちびき出すための序詞。さあ、ここが大事なところだよ。前に出てきた枕詞を思い出してください。序詞は、枕詞の長いもの。つまり、すぐ次に来る言葉をうまく生かすために置かれる飾りの表現なのです」(74ページ)

  ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲  佐佐木信綱(76ページ)

「六つの「の」によって、ゆったりとしたリズムを作っています。そして、国→寺→塔→雲とカメラを動かすように作っています。声に出して読んでみると、だんだんいい気分になるよ」(76ページ)

  ニコライ堂この夜揺りかへり鳴る鐘の大きあり小さきあり小さきあり大きあり  北原白秋(160ページ)

「単純でゆったりとしたリズムから、鐘のひびきの強弱だけでなく、この夜の空間の深さまで感じられるような気がしませんか。何度でも声に出して読んでみてください。きっと忘れられない一首になりますよ」(160ページ)

 小島ゆかり北原白秋を愛しているということが、言葉の端々から伝わってきた。「こらむ」の口調といい、なにやら解説の熱が違うのだ。こんな一首も紹介されていて、すごくいい。

  わかば色鉛筆の赤き粉(こ)のちるがいとしく寝て削るなり  北原白秋(65ページ)

 正岡子規の以下の一首も、おもしろい。これなどは、外側にある情報を得てはじめて輝く類の歌であると思う。

  十四日、オ昼スギヨリ、歌ヲヨミニ、ワタクシ内ヘ、オイデクダサレ  正岡子規(152ページ)

「明治三十二年三月十三日に、岡麓という歌の仲間に出したお知らせのハガキでした。実は、翌日の三月十四日に子規の家で開かれた歌の会(根岸短歌会)は、その後もっとも大きな組織となる「アララギ」へと発展します。ですから、このハガキに書かれた日は、短歌の歴史上たいへん重要な日になったのです」(152ページ)

 現代の短歌も数多く紹介されている。永田和宏の『現代秀歌』に言及のなかった歌人は、稲葉京子くらい。

  ふるさとの木に近づけば蟬だまるそんなに怖くないさ僕だよ  高野公彦(87ページ)

「幼なじみの友だちに話しかけるような口調が、とてもやさしくて、思わず声に出して言ってみたくなりますね、「僕だよ」って」(87ページ)

  水を出ておおきな黒き水搔きのぺったんぺったん白鳥がくる  渡辺松男(92ページ)

「水の上の白鳥は、遠くから見るとたいへん美しく優雅ですが、水から上がると、この歌のようにちょっと不格好でユーモラス。白鳥だって、生きるってことはたいへんなんだなあと、作者は親しく思ったにちがいありません」(92ページ)

  虫食いのみどりも共にきざむなり冬の蕪(かぶら)よ良くきてくれた  坪野哲久(96ページ)

「たくさんの物をむだにしてしまうわたしたち、この歌を覚えて少し反省しましょう」(96ページ)

  長き長き手紙を書かむと思ひしにありがたうと書けば言ひ尽くしたり  稲葉京子(175ページ)

「心をこめた「ありがとう」が、どんな長い感謝の文章よりも、自分の気持ちをよく伝えてくれることに気づいた歌」(175ページ)

  かゆいとこありまひぇんか、といひながら猫の頭を撫でてをりたり  小池光(181ページ)

「「ありまひぇんか」って、猫っぽい」(181ページ)

 以下の三首では、穂村弘『短歌の友人』で語っていた「短歌的リアリティ」の存在感が際立っている。細部に対するこの強い意識こそ、短歌を読むことの大きな魅力であると信じて疑わない。

  こんにゃくの裏と表のあやしさを歳晩のよる誰か見ている  岡部桂一郎(97ページ)

「この歌の主人公は、よりによって年末の夜、こんにゃくを見つめているのです。「うーむ、どちらが裏なのだ。知りたい……」、そうつぶやいたかどうか知りませんが、とにかくアヤシイ。
 しかしこの歌、いいなあと思いませんか? それはたぶん、目的や意味のあることだけしかしない人間なんてつまらないと、どこかで感じているからです。作者もわたしたちも」(97ページ)

  新しきとしのひかりの檻に射し象や駱駝はなにおもふらむ  宮柊二(98ページ)

「お正月の動物園は、きっと静かでのどかでしょう。でも、動物たちは檻の中。故郷のアフリカや砂漠を恋しく思っているでしょうか。それとも、もっと別のことを思っているでしょうか。あるいは、何も思っていないのでしょうか。それは人間にはわからないことです。でも、大切なのは想像する心」(98~99ページ)

  ひだりてからみぎてににもつもちかえてまたあるきだすときの優しさ  村木道彦(179ページ)

「ふと立ち止まってかばんをもちかえてみる。立ち止まったことで、町の風景や木や空が見える。そしてまた歩き出す。そのとき、さっきとはちがう、ほんのちょっとだけ新しい自分になれるかもしれません。この歌の「優しさ」は、そんなささやかな、やわらかい感情ではないでしょうか」(179ページ)

 ハードボイルド、とわたしが勝手に呼んでいる佐佐木幸綱は、こんな愛らしい一首が紹介されていた。このひと、なにかとかっこよすぎる。そして、ずるすぎる。

  氷イチゴはじめ一さじ中年になりても口に夏の海満つ  佐佐木幸綱(88ページ)

 この一首については、コラムのように書かれた小島ゆかりの体験談も魅力的だった。

「わたし(小島ゆかり)が高校生のころ部活の帰りによく行ったお店のおじさんは、いつも気むずかしい顔をしているのに、かき氷にはすごくロマンチックな名前をつけていて、笑ってしまいました。氷イチゴは「初恋」、メロンは「夏山」、レモンは「はじめてのキス」、それから、おじさん特製の甘いミルクシロップのかかった「白い恋人たち」!」(89ページ)

 いいなあ、そういうの。こういう言葉、大切にしていきたい。

 また、この本では番外編として、百首のほかにこんな歌も紹介されている。

  いちょうの木大きな木だな見上げるとはっぱせんべい上から上から  橋口健斗(192ページ)

  風が吹く大きなくじらおよぎ出す田んぼの重いいなほかきわけて  樋口瑠莉(193ページ)

  ハンカチで洗ったばかりの濡れた手を拭くときいつも優しい気持ち  石垣来実(197ページ)

  飼い犬を裏声出してかわいがる父の姿は誰も知らない  篠原輪子(199ページ)

 これ、じつは小中学生が詠んだ歌なのだ。コンクール入選作とのこと。とくに「くじら」の一首なんて、ちょっとうますぎるだろ、と思う。なにやら悔しいほどだ。おれはいったいなにをやっていたんだ、と思ってしまう。

「特に古典の歌は、少しわかりにくいところがあったかもしれません。それでもいいのです。わからなくても、なんとなく不思議な感じだなあとか、なんとなく言葉の調子がいいなあとか、もしそう思うことができれば、あなたはもう短歌の魅力を知っているのです」(190ページ)

 こういう本がたくさん売れて、子どもたちが短歌と親しむ機会が増えれば、上のようなすてきな歌がもっともっと詠まれることになる。そう思うと、わくわくしてくるではないか。それってすごくすてきな未来だ。「満点ゲット」シリーズに秘められたこの爆弾のような一冊、もっと多くのひとに読まれてほしい。おすすめ。