サリンジャーは死んでしまった
以前友人が紹介しているのを読んでから、とても興味を持っていた一冊。彼女が採った以上の方法で、この本の魅力を伝えられるとも思えず、いっそのこと文章をまるまる引用してやろうか、と思ったりもするのだが、それでは完全な剽窃となってしまうので、どうにか自分の言葉でこの本について語ってみたい。
小島なお『サリンジャーは死んでしまった』角川学芸出版、コスモス叢書974篇、2011年。
1986年生まれの女の子による第二歌集である。1986年生まれといえば、わたしよりもひとつ年下だ。著者近影を見ると、なにやらとてもかわいい。小島ゆかりという有名な歌人の娘らしいが、短歌のことをまるで知らないわたしには、その経歴はどんな感慨も呼び起こさない。じつはそんなことも知らないまま、読みたいと思っていた。友人が紹介していたいくつかの歌が、とても強く心に残っていたのである。
穂村弘が「歌には全く誤魔化しようがなく<私>が現れる」と書いているとおり(『短歌の友人』河出文庫、2011年、188ページ)、短歌を読むとその人の思考がかなり具体的に見えてくる。なので、読んでいる最中には、同世代の女の子の頭のなかをのぞき見しているような、とてもいけないことをしている感覚があった。思えばこの歌人に興味を持ったのも、そんなふうな、普通に生活をしていたら絶対に知ることのできない領域に惹かれたからなのかもしれない。それじゃ変態じゃないか。
春風のなかの鳩らが呟けりサリンジャーは死んでしまった(7ページ)
留学する友を乗せたる飛行機の加速するときわれは消えゆく(14ページ)
鳩がふと飛び立ってゆくこの瞬間をこの幸福をいつか忘れる(18ページ、「瞬間」には「とき」のルビ)
ある夢に絵描きとなりて瞑想す水彩画とは静かなる嘘(80ページ)
きみとの恋終わりプールに泳ぎおり十メートル地点で悲しみがくる(92ページ)
携帯電話海に投げ捨て響かせる海底世界にきみの着信(96ページ)
夕雲よいまこんなにもこの野原美しいのにわれのみが居る(108ページ)
コピー機のなかのひかりが行き来するさまを見ている海を見る目で(111ページ)
てのひらに生えし茸をあきかぜにかざしひとりの時間を愛す(113ページ)
燃えるごみ燃えないごみと積まれいてやはり燃えないごみが寂しい(178ページ)
さびしい歌がとても多い、気がする。わざわざ「気がする」と付け加えたのは、自分の琴線に触れたのが、さびしい歌ばかりだったのかもしれない、と思っているからだ。短歌は作者をとてもあざやかに浮かびあがらせるものだが、その歌集のなかからどの歌を選択するかということが、選ぶ人の<私>までをも浮かびあがらせるものだと、いまさらになって気がついた。ほんとうは、もっとさわやかですずしげな歌人なのかもしれない。喜びに満ちた歌も多かったと思う。でも、自分が好きになったのはさびしい歌のほうだった。どうにもならない。このどうにもならない感覚も、彼女が詠っていたもののように思える。
まだ知らぬ場所限りなく存在し時折われを遠くより呼ぶ(112ページ)
なにからも逃げ出したいと嘆きつつあしたの服はもう決めてある(116ページ)
大切にしてきたものを手放せばそこには輝く野原があった(154ページ)
忘れないことは悪くはないだろう真夏が似合うあなたであった(156ページ)
結局は誰のこころもわからない夕暮れとなる時間の速さ(170ページ)
彼女の歌がただならぬ共感を持たせるのは、わたしのような読者にも記憶のある感覚を詠っているからだろう。感覚することとそれを言語化することのあいだには果てしない距離が横たわっているものだが、その距離感を感じさせない分、真新しさのようなものもあまりない。良くも悪くも直球で、解釈に頭を抱えさせられるようなことがないのだ。それがいい、とも思う。でも、ちょっとした物足りなさを感じることもあった。
それから、人がいないということ。彼女の歌を読んでいると、同時代のローマの風景を廃墟として描いた、ジョヴァン・バッティスタ・ピラネージの銅版画を思い出す。それは、女の子たちが普通に感じている(と男たちが錯覚している)孤独からはかけ離れた、もっとずっと深刻な寂寥感を提示しているように思える。
いつの日か建築物を造りたい春には人が集まるような(11ページ)
ひまわりの群落見つつ飛んでゆく鴉の哀しみを誰も知らない(25ページ)
動物の影人間の影が棲む地球を照らす日と月と星(31ページ)
無人なるエレベーターの開くとき誰のものでもない光あり(39ページ)
教会のなかにぼんやり陽の射して光る埃に包まれている(48ページ)
トマトトマトひしめいている冷蔵庫開くたび見て再び閉じる(124ページ)
冬空を映すプールの栓を抜き冬空を一つだけに戻せり(164ページ)
最後に「樹」。「草」や「木々」、「森」や「林」といった言葉が頻出して、なんだかいつでも夏の歌を読んでいるような気分にもなるのだが、その種類が特定されることはほとんどなく、「樹」は基本的に、ただ「樹」として現れる。この緑色の氾濫が、気味が悪いと同時に、とても印象的だった。『サウンド・オブ・ミュージック』的な一面に広がる緑を思わせるのだが、そのイメージはどこか作りものめいていて、手で触れてみると崩れてしまいそうだ。実感の伴わない緑が、こんなに魅力的なものだとは思わなかった。
声もたぬ樹ならばもっときみのこと想うだろうか葉を繁らせて(8ページ)
ぎしぎしと枝を揺らして鬱の樹がつぶやく「皮がこんなに堅い」(26ページ)
担架にて運ばれてゆく老人は樹木医であると呟いていた(48ページ)
ポプラの葉あそこもここも揺れはじめやがてみどりの海洋になる(52ページ)
裏庭にうねりやまない草の波 紋白蝶の帆船浮かぶ(52ページ)
街路樹の濡れて明るい冬の夜こんなに楽しくこんなにひとり(72ページ)
地下深く木々の根伸びてゆくさまを思えば突然さみしい地上(106ページ)
詩の解釈は嫌いだと何度も繰り返してきたわりに、それに近いことをしてしまったような気がする。しかも、つい先日入口の門をおどおど叩いたばかりの短歌というジャンルで(まだくぐってはいない)。そんな不作法な真似を許してくれたのも、きっとこの歌人の良い意味での敷居の低さ、親近感なのだろう。
植物園ときおりきみを見失いそのたび強く匂い立つ木々(183ページ)
第一歌集も読みたくなった。