Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

不実な美女か貞淑な醜女か

職場の先輩が薦めてくれた本。ほとんど本の話をしたことのない間柄であるにも関わらず、唐突に薦められたことが逆に印象的で、すぐさま手に取った。

不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か (新潮文庫)

不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か (新潮文庫)

 

米原万里『不実な美女か貞淑な醜女か』新潮文庫、1998年。

 

著名な通訳者によって語られる、「通訳」という仕事の本質。概念的なものから、経験的なものまで、素晴らしく広い視野でもって分析されている。

通訳に興味があったわけではなく、著者のファンというわけでもなかった。早い話が、ほとんど期待していなかったのだ。思えば薦めて下さった先輩に対しては、ひどく失礼な話だが。

エッセイにも色々あるが、これは読みやすく思索に富み、尚且つ面白いという稀有な例だった。文章の上手さが半端じゃない。流麗とはよく言ったもので、彼女の文章は確かに流れている。無闇に多い下ネタと、哄笑を誘うエピソード・小噺の数々が、読んでいるというより、聞いているというのに近い感覚を起こさせ、没頭させる。

「外交官がyesと言ったら、それはmaybeの意味である。外交官がmaybeと言ったら、それはnoの意味である。外交官がnoと言ったら、その人はすでに外交官としては失格である。
 女性がnoと言ったら、それはmaybeの意味である。女性がmaybeと言ったら、それはyesの意味である。女性がyesと言ったら、その人はすでに女性としては失格である。
 ところで、最近女性の外交官が増えてきたが、では、女性の外交官がyesと言ったら、あるいはnoと言ったら、それはどういう意味なのだろうか」(48~49ページ)

楽しみながら読み進める中で、著者の言語に対する学問的な姿勢に何度もハッとさせられる。

「子音よりもさらに深刻なのは母音。日本語は世界に稀なほど母音が貧しい言葉であるらしい。アイウエオの五母音しかない。ところがフランス語は十四~十六母音もある。あれをわれわれは言い分けられないし、聞き分けられない。アラビア語にはたった三母音しかないそうだ。アラビア語には「オ」と「エ」に相当する音がない。「オンチ 音痴」と発音されたものが、「ウンチ うんち」と聞こえてしまうし、「ヘンショク 偏食」と言うつもりで、「ヒンシュク 顰蹙」というふうに発音してしまう。「ブス 醜女」と「ボス 親分」、「コウフク 幸福」と「クウフク 空腹」が同じ音に聞こえてしまうし、この両者を言い分けることが出来ないということなのだ。おそらくわれわれのように五母音しか持たない母国語の人間が十四母音もある言語で表現しようとすると、似たような見当違いを演じているに違いないのである」(88~89ページ、一部省略)

フランスに留学している友人が、周りのフランス人たちの耳の良さを絶賛していたことを思い出した。実際に彼らはアニメや漫画を通じて学んだ日本語のフレーズを、恐ろしいほど正確な発音で身に付けていたのである。

「言葉は、民族性と文化の担い手なのである。その民族が、その民族であるところの、個性的基盤=アイデンティティの拠り所なのである。だからこそそれぞれの国民が等しく自分の母語で自由に発言をする機会を与えることが大切になってくるのだ。それを支えて可能にするのが通訳という仕事、通訳という職業の存在価値でもある」(293~294ページ)

通訳者を志す人には勿論、言語を学ぶことに少しでも興味を持つ人なら、大いに楽しめる。のみならず、そのどちらでもない人ですら、この本には夢中になってしまうだろう。読みやすく、面白く、感覚としては井上ひさしの文章に近い。事実、著者は文中で何度も井上ひさしの作品(例えば『吉里吉里人』)を取り上げており、井上ひさしはこの本を「言語そのものの本質にぐいぐい迫っていく研究」と呼んでいる。

読みやすく、面白く、興味深い。三拍子揃った素晴らしい本だった。

不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か (新潮文庫)

不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か (新潮文庫)