Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

スローターハウス5

以前ハインラインブラッドベリを揚げ、想像力の到達点がSFなのかもしれない、と思った。
今回、その時に感じたのとはまた違った形で、文学の新しい形態としてのSFと出会った。

カート・ヴォネガット・ジュニア(伊藤典夫訳)『スローターハウス5』ハヤカワSF文庫、1978年。


「予備知識を何も与えられずに読まされたら、こんなにめんくらう小説もないだろう。時間的経過にのっとった物語形式をわざと分断させた(読みづらくはないけれども)奇妙な構成、事実とファンタジーの渾融、空飛ぶ円盤、時間旅行といったSF的趣向、ほとんど無性格に描かれた登場人物たち――しかしヴォネガットには、このようなかたちでしか自分の体験を語る方法はなかったのだ」(解説、265ページ)

海外において、エンターテイメント小説と文学は明確に分けられる。冒険もの、ミステリー、ホラー、そしてSFは前者に入れられる。ヴォネガットはSF作家として知られる。だが、今回初めて手に取ったヴォネガットだったが、これはエンターテイメントを超えて、SFに似せられて書かれた新しい文学の試みのように感じた。

「遅かれ早かれ、わたしはベッドにはいる。妻が時間をきく。それが妻の癖なのだ。知らないときには、こう答える、「知らないね、なんなら探ってみろ」」(17ページ)

期待していた以上にユーモラスだった。一節を挙げるのが難しい。真面目なテーマを、ユーモラスに描き続けている。まるで、そうするのが当たり前であるかのように。

「彼女は愚鈍な女性であった。だが赤んぼうの製造器として、これほど魅力的な機種もなかった。彼女を見たとたん、男たちはたちまち彼女のなかに赤んぼうを仕込みたい衝動に駆られるのである。けれども彼女にはまだ赤んぼうはひとりもいなかった。避妊具を使っているのだった」(202~203ページ)

小説に対して抱いている固定観念が、何の役にも立たない。その感覚を、是非とも体感してほしい。