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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

イカロスの飛行

古本屋で高いお金を払って手に入れた、レーモン・クノーの最後の長篇小説。読みたい気持ちが高まり過ぎて、とうとう読んでしまった。

イカロスの飛行 (ちくま文庫)

イカロスの飛行 (ちくま文庫)

 

レーモン・クノー(滝田文彦訳)『イカロスの飛行』ちくま文庫、1991年。


品切になってしまったちくま文庫の中でも、特に高額になっている一冊である。クノーの著作に関してはどれだけの金額を賭しても後悔することは有り得ないのだが、読むとなると未読のクノーが減ってしまうという悲しみがつきまとう。先日8000円という値段で購入した『青い花』を読むのはいつになるのだろうか。すぐにでも読みたい気持ちと、楽しみを残しておきたい気持ちが拮抗している。

さて『イカロスの飛行』である。ページを開いてすぐに、さすがクノーと息を飲まずにはいられない。ページをただ見るだけで、これが普通の小説ではないことがわかる。

「紙の上にはイカロスはいない、あいだにも。
 家具の下を探す、戸棚を開けてみる、便所を見に行く。イカロスの影もない。
 そこで彼はステッキと帽子を持って、表に飛び出し、辻馬車を呼び止める。
 「御者、ボシャール・ド・サロン街四七番地までやってくれ、それ行け!」
 馬は飛ぶように走り、あっという間にボシャール・ド・サロン街四七番地の前に着く。客は降り、「待っててくれ」と言うと、すっ飛んで五階まで駆け上り、呼び鈴を鳴らし、戸が開く。

 シュルジェ:やあ、きみか! こいつは思いがけなく!
 ユベール:そんなそらぞらしい挨拶はやめたまえ! あんなことをしたくせに!
 シュルジェ:ぼくが? なにを?
 ユベール:さあ、ちゃんとわけを聞こう。いっしょに来たまえ」(9ページ)

この小説はほとんどが対話から成り立っていて、描写は地の文、対話の部分は戯曲のように表されているのだ。ストーリーは人物同士の会話によってスイスイと進み、目まぐるしいまでの情景の変化は戯曲というよりも映画のシナリオを読んでいるかのようだ。小説と戯曲の融合である。

LN:じゃあ、なんて名なの?
 イカロス:もうはっきり覚えていません……もう飛んでるんじゃなくて、浮んでるみたいです…… で、そう言うあなたは、お嬢さん、エレーヌって言うんですか?
 LN:いいえ、二字でLNよ。わたしはクロスワード人間なの。
 イカロスクロスワード人間?
 LN:そうね、きっとあなたにはわからないわ」(32ページ)

ただ前衛的なだけでも試みとして十分面白い上に、ストーリーがまた抜群に面白い。書き途中の小説から主役のイカロスが脱走し、慌てた作家は探偵まで雇って彼を捕まえようとするのである。

「彼はリュベールの部屋の呼び鈴を鳴らす。

 ユベール:どなた?
 モルコル:探偵です。

 ユベールは戸を開く。

 ユベール:もう? 見つかりましたか?
 モルコル:まだです。まあまあ落ち着いて。
 ユベール:待ち切れなくて死にそうです。
 モルコル:死になさい、ただし神経過敏はやめにして。」(41~42ページ)

随所に現れるクノーのユーモアがこの作品に疾走感を与え、その前衛性を忘れさせてしまうほどの読みやすさを与えていることは間違いない。小説が孕む数々の問題に対するクノーなりの答えとして捉えることもできる作品だが、そんなことに全く関心のない読者すら夢中にさせてしまうに違いない。

「姦通! そんなのはあえて言えば典型的な古くさい主題だ。いずれにせよぼくら世紀末の小説家は、みんな姦通について語ってる。もうそろそろうんざりだ。ぼくなんかはそれしか書いてない! きみにはがっかりしたよ。それでもきみは後世のことを考えてるのかい? 別のもの、もっと世紀末的でないものを選ぶべきだね」(59ページ)

ちなみにここでいう「世紀末」とは、19世紀のことである。時速30キロで走る自動車がようやく登場し、作家たちは1903年に初めて授与されるゴンクール賞について語る。

イカロス:ですから一つ教えてください、ベルルリエさん、いつかは時速百キロ出せるようになるとお思いですか?
 ベルルリエ氏:そんなことは絶対に、きみ。絶対にないよ」(214ページ)

今更ながら、これは1968年に書かれた小説である。自動車の溢れる時代にあって、百キロは絶対に出ないと作中人物に言わせる楽しさ。解説にこんな一節があった。

「クノーは前作『青い花』(1965)で、数字的小説原理に忠実に、1264年、1439年、1614年、1789年、1964年という正確に175年の間隔をおいた時代を設定して自己流の“歴史”を描いた。そして今回イカロスを登場させるにあたって、それに入らなかった19世紀を選んだということも考えられる」(「解説」より、280ページ)

またしても『青い花』が読みたくなってしまう。いやいや、我慢我慢。

モルコル:(嬉しがって)こんな使命をおあたえくださってなんと御礼申上げてよいかわかりません。わたしはこれほどおもしろい使命はやったことがありません。ええ、今ではあなたの同業者をみんな個人的に存じてます! 社交界作家、自然主義者、象徴派、地方主義者、歴史派その他なんだろうと、あらゆる小説家に一人残らず当ってみました。叙事詩人までわたしの調査に入ってます、たしかに叙事詩人てのはまれですがね、でもどんな可能性も無視すべきではないですから。それにすごいでしょう、わたしの知力と発意のほどは、わたしは劇作家さえも訪ねたんです。
 ユベール:そいつはまったく無駄でしたね。
 モルコル:なぜですか。戯曲のうちにも作中人物は存在するんです。それのみしかないとさえ言えます。
 ユベール:ええ、でもおなじ人物じゃないですね。小説の作中人物は芝居の人物になることはできませんよ」(95~96ページ)

小説とは何か、新しい文学形式とはどのようなものか、「潜在文学工房」、通称「ウリポ」の旗手はシュルレアリスムに反旗を翻し、こんな小説を書いた。文学のための新しい古典であり、必読書である。古本屋にいくら取られても後悔しないことは間違いない。

イカロスの飛行 (ちくま文庫)

イカロスの飛行 (ちくま文庫)

 


<読みたくなった本>
クノー『青い花
→読みたい。読みたい。読みたい。

青い花 (1969年)

青い花 (1969年)